利用者:Kusamura N/sandbox/7
[1] 家庭で15才まで教育を受け、その後同じフランス南部のペリグーにあるコレージュで古典を学んだ。[2]
哲学
[編集] 1.【ビラン哲学の時代的背景】
[編集]-医学-
[編集]医学は19世紀に爆発的発展を遂げるが、その前夜ともいえる18世紀後半、すでに全ヨーロッパ的に医学は新しい学問としてのパラダイム変換に向け実績を重ねていた。18世紀後半の医師たちは、17世紀後半から18世紀初頭にかけて活躍したニュートンの影響のもとに発展した18世紀初頭生まれのベルヌーイ、オイラーたちの物理学や、18世紀前半生まれのプリーストリー(酸素の発見)、ラヴォワジェ(酸化過程の解明)たちが発展させた化学、といった自然科学の研究を積極的に取り入れていた。[3]
たとえば、生理学を確立したアルブレヒト・フォン・ハラー(1708-1777)[4]はスイスで生まれ、ドイツ-テュービンゲン大学で解剖学を学び、オランダ-ライデン大学で大家ブールハーヴェ (1668-1738)やアルビーヌスに師事し、19才で学位を取得するとロンドン、パリ、バーゼルを遍歴して優れた医師に学び、最後にはドイツ-ゲッティンゲン大学に腰を据えたが晩年はスイスの故郷に戻った、という風に当時のヨーロッパ横断的な医学を体現した医師で、彼の確立した生理学の新波はフランスにも波及し、モンペリエ大学医学部に集ったモンペリエ学派[5]が最新の医学知識と「生気論」的な哲学を結びつけていた。メーヌ・ド・ビランは哲学的な出発点で、モンペリエ学派の"生気論"者、バルテ-ズ[6]、モンペリエ学派ではないがパリの医師で観念学派のカバニスらの身体論と向き合っていた[7]。
-哲学的背景-
[編集]観念学(idèologie,イデオロジー)[8]の立場から認識に対する研究をはじめたが、唯心論者となる。晩年は神秘主義にも接近している。
内省的方法による感覚知覚を考察し、意識の本質を探究。「内奥感の根源的事実」「内的事実」「内的空間」「反省的諸概念」などの概念を提示している。
2.【ビラン哲学の概要】
[編集]メーヌ・ド・ビランの哲学は、多くの哲学者と同じく、初期・中期・後期の3つの分けられる。 特に中期哲学は「ビラニスム(biranisme)」と呼ばれる。宗教性の強くなった後期を脱ビラニスムとして区別する見方[9]や、ビラニスムの第3段階とする見方[10]などがある。
観念学(idèologie,イデオロジー)[11]の立場から認識に対する研究をはじめたが、唯心論者となる。晩年は神秘主義にも接近している。
内省的方法による感覚知覚を考察し、意識の本質を探究。「内奥感の根源的事実」「内的事実」「内的空間」「反省的諸概念」「精神的生」などの概念を提示している。
3.【哲学者としての出発(「習慣論」)】
[編集]【背景】
[編集]フランス革命後の恐怖政治時代に故郷に帰ったビランが、読書や旅行を重ねた頃から、地方行政と関わるようになり、故郷で読書や旅行をし、地方行政に関わるようになったビランは行政官となり、やがて五百人会議員にも選ばれたがやがて総裁政府の策謀によって当選を取り消され
- 1798年 懸賞課題(フランス学士院)「観念の形成に及ぼす記号の影響」応募草稿未完
- 1799年 同 「習慣が思惟機能に及ぼす影響を決定せよ」論文応募
- 1801年 同 「 (同一課題) 」 応募、受賞 (『習慣論』として出版)
- 1802年 同 「思惟機能はいかに分解されるべきか」 執筆中、妻の急死に遭い未完。[12]
- 1805年 同 「 (同一課題) 」 応募、受賞。(『思惟の分析』)
- 1807年 懸賞論文(ベルリン・アカデミー) 応募、次席受賞(『直接的統覚について』)
- 1811年 〃 (コペンハーゲン王立アカデミー) 応募、受賞(『人間の身体と精神の関係』)
- 以後、これまでの自分の考えの総合として後生『心理学の諸基礎についての試論』と呼ばれるようになる原稿の執筆に取り組むも未完に終わる。
(1805年『思惟の分析』から『心理学の諸基礎についての試論』までの時期の思想を"ビラニスム"という。
ビラニスム時代の原稿は生前には出版されていない。)
- 1812年 立法院議員としてパリに出てきたビランは、自宅で哲学のサークルを始める。
- 後期のビランは宗教的な傾向を深め、『人間学新論』で宗教的生も含めた総合的な人間学を目ざしたが未完に終わり、結局生前にビランの著作はほとんど出版されなかった。[13]
1798年 | (フランス学士院) | 懸賞課題*「観念の形成に及ぼす記号の影響」 | 草稿未完 |
1799年 | 同 | 〃 !!「習慣が思惟機能に及ぼす影響を決定せよ」 | 応募 |
1801年 | 同 | 〃 !!「 (同一課題) 」 | 応募、受賞 (『習慣論』として出版) |
1802年 | 同 | 〃 !! | |
1805年 | 同 | 〃 !! | |
1807年 | 同 | 〃 !! | |
1801年 | 同 | 〃 !! | |
1802年 | 同 | 〃 !! |
内容
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著作(邦訳)
[編集]関係図書
[編集]単独研究・評伝・評論
[編集]- 澤瀉久敬『メーヌ・ド・ビラン』((西哲叢書 21))弘文堂書房、1936年12月。 NCID BN08277240。
関連研究・評論
[編集]参考
[編集]- 松永澄夫(編集) 編『哲学の歴史〈第6巻〉知識・経験・啓蒙―18世紀 人間の科学に向かって』中央公論新社、2007年6月、599-660頁。(執筆:村松正隆)頁。ISBN 978-4124035230。
- 芝原隆「時間・空間・運動・触覚 -メーヌ・ド・ビランにおける思惟主観と行為主観」『哲学』第1987巻第37号、日本哲学会、1987年、doi:10.11439/philosophy1952.1987.175。
- 藤江泰男「ビラニスムの成立と変容をめぐって :メーヌ・ド・ビラン研究 (1)」『椙山女学園大学研究論集. 人文科学篇』第32巻32 [人文科学篇]、椙山女学園大学、2001年3月1日、57-67頁、NAID 120004145932。
- 藤江泰男「私が私であるための存在の二元性 : ビラニスム確立期のビランについて : メーヌ・ド・ビラン研究 (Ⅱ)」『椙山女学園大学研究論集 : 人文科学篇・社会科学篇・自然科学篇』第33巻33 [人文科学篇]、椙山女学園大学、2002年3月1日、1-12頁、NAID 120004145933。
- 藤江泰男「意識と魂の間 : 努力の心理学から原理の哲学へ : メーヌ・ド・ビラン研究 (III)」『椙山女学園大学研究論集 : 人文科学篇・社会科学篇・自然科学篇』第34巻34 [人文科学篇]、椙山女学園大学、2003年3月1日、93-106頁、NAID 120004145934。
- 村松正隆「(update:2009-12-18) 方法としての習慣」『跡見学園女子大学マネジメント学部紀要』第2巻、跡見学園女子大学、2004年3月、115- 131頁、NAID 110004677325。
脚注
[編集]- ^ fr:Maine_de_Biran
- ^ a b 『哲学の歴史6』602-604頁.
- ^ マイヤー・シュタイネック・ズートホフ『図説医学史』小川鼎三監訳,酒井シズ・三浦尤三共訳、朝倉書店、1982年。253頁. (以下/ズートホフ『図説医学史』)
- ^ ヘンリー.E.シゲリスト『偉大な医師たち:伝記による医学史』24.ハラー (aozora文庫)
- ^ ズートホフ『図説医学史』pp.269-271.他、[http://www.flc.kyushu-u.ac.jp/~ao/18seiki/document/terada091108.pdf 寺田元一 「モンペリエ学派の脈学と生気論」2009年11月8日].「http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009300521-00」など.
- ^ Hidetaka Yakura Site”モンペリエの生気論者ポール・ジョゼフ・バルテ、あるいは過去が漂う世界”(pdf)(医学のあゆみ(2012. 4.14)241 (2): 171-174)
- ^ わずか32才で夭逝したビランより10才年下のモンペリエ学派ビシャについてビランがどの程度知っていたかは判らないが、ビランの身体哲学とビシャとを比較する史家もいる.
- ^ 「フランス革命移行に学士院などを根城としながら諸学問の改革とその教育を目ざした人々の発想を一般に指している。」「経験論にのっとり、生得観念や宗教的観念を否定しつつ、啓蒙の理念を実地に推進しようとした。」代表的な思想家としてカバニス,デストュエット・ド・トラシーなどが挙げられ、広義の観念学派としてはスタンダールまで含まれ、分派的後継者としてオーギュスト・コントを挙げる論者もいる。(『哲学の歴史6』.575、595、613-615頁)
- ^ 「その後のビラン自身は、むしろビラニスムの立場から微妙に離れていくことになる。」『哲学の歴史6』村松正隆.636頁
- ^ 藤江泰男 (2001年3月1日). “ビラニスムの成立と変容をめぐって : メーヌ・ド・ビラン研究 (1)。32頁” (PDF). 椙山女学園大学 学術機関リポジトリ. 2015年8月2日閲覧。
- ^ 「フランス革命移行に学士院などを根城としながら諸学問の改革とその教育を目ざした人々の発想を一般に指している。」「経験論にのっとり、生得観念や宗教的観念を否定しつつ、啓蒙の理念を実地に推進しようとした。」代表的な思想家としてカバニス,デストュエット・ド・トラシーなどが挙げられ、広義の観念学派としてはスタンダールまで含まれ、分派的後継者としてオーギュスト・コントを挙げる論者もいる。(『哲学の歴史6』.575、595、613-615頁)
- ^ 「魂が粉々に打ち砕かれたとき、哲学は何の役にたとう」と1804年の書簡にビランは記している.(『哲学の歴史6』606頁および訳註3)
- ^ 『哲学の歴史6』605-608頁
<references>
で定義されている name "FOOTNOTE村松正隆2004(update.2009)" の <ref>
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