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利用者:Kangoshiyouichi/下書き

廃帝 司馬奕
東晋
7皇帝
王朝 東晋
在位期間 365年 - 371年
姓・諱 司馬奕
延齢
諡号
廟号
生年 342年
没年 386年
成帝(次子)
周貴人
陵墓 安平陵
年号 太和366年 - 371年

廃帝(はいてい)または海西公(かいせいこう)は、東晋の第7代皇帝。第6代皇帝哀帝の同母弟。

概要

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兄の死で即位するが、穆帝・哀帝時代から実権を牛耳っていた桓温の専横がなおも続いた。365年洛陽前燕によって奪われ、桓温の力に陰りが見え始めると、369年に桓温は洛陽奪回の北伐軍を興したが、前燕の名将・慕容垂の前に大敗してしまう。

これにより、桓温の東晋における勢力はますます弱体化するが、それを挽回するために桓温は簒奪を図るようになる。そして371年、腹心の郗超の献策を採った桓温によって廃され、海西公に降格されてしまった。

その後、彼は呉郡に移された。その後は、才を隠し飲酒に耽ることで朝廷の警戒をそらし、ともかくも無事天寿を全うしている。45歳で逝去した。一説では酒毒で亡くなったという。

障害

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諱は司馬奕、字は延齡。哀帝の同母弟にあたる。

咸康8年、東海王に封じられる。永和8年、散騎常侍に任命され、鎮軍将軍を加えられた。升平4年、車騎将軍に任命された。升平5年、琅邪王に改封された。隆和初年、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に昇進した。

興甯3年2月、哀帝が死去した。世継がいなかったため、皇太后が詔を出し、司馬奕が百官により迎えられて皇帝に即位した。大赦が実行された

3月、哀帝を安平陵に葬った。しばらくして、散騎常侍・河間王の司馬欽が死去した。やがて、慕容の将の慕容恪によって洛陽が失陥した。甯朔将軍の竺瑤は襄陽に逃れ、冠軍長史・揚武将軍の沈勁が戦死した。

夏6月、使持節・都督益甯二州諸軍事・鎮西将軍・益州刺史・建城公の周撫が死去した。

秋7月、匈奴]の左賢王衛辰右賢王曹谷が2万の軍勢を率いて苻堅の杏城を攻撃した。会稽王の司馬昱を琅邪王に改封した。庾氏を皇后とした。琅邪王の司馬昱の子の司馬昌明を会稽王に封じた。

冬10月、梁州刺史の司馬勳が反乱を起こし、成都王を自称した。

11月、剣閣で民衆が反乱を起こし、涪城を攻撃し、西夷校尉の毌丘は城を棄てて逃亡した。しばらくして、益州刺史の周楚成都で包囲されたため、桓温は江夏相の朱序を派遣し救援させた。

12月、会稽内史の王彪之を尚書僕射に任命した。

太和元年春2月、涼州刺史の張天錫を大将軍・都督隴右関中諸軍事・西平郡公に任命した。宣城内史の桓秘を持節、監梁益二州征討諸軍事に任命した。

3月、新蔡王の司馬邈が死去した。荊州刺史の桓豁は督護の桓羆を派遣し南鄭を攻撃し、魏興人の畢欽は應羆で挙兵した。

夏4月、旱が起きた。

5月、皇后の庾氏が死去した。朱序が司馬勳を成都で攻撃し、軍を潰走させ、司馬勳を捕らえて斬った。

秋7月、孝皇后を敬平陵に葬った。

9月、梁、益二州で曲赦を実行した。

冬10月、苻堅の将の王猛楊安が南鄉を攻撃し、荊州刺史の桓豁が救援し、軍が新野にまでたどり着いたところで王猛、楊安は退却した。会稽王の司馬昱が丞相に任命された。

12月、南陽人の趙弘、趙憶等が宛城で反乱を起こし、太守の桓澹は新野まで撤退した。慕容の将の慕容厲が魯郡、高平を陥落させた。

太和2年春正月、北中郎将の庾稀が罪を得て、海に逃れた。

夏4月、慕容の将の慕容塵が竟陵を攻撃したが、太守の羅崇が撃退した。苻堅の将の王猛が涼州を攻撃したが、張天錫が迎撃し、王猛の軍は敗北した。

5月、右将軍の桓豁が趙憶を攻撃し、敗走させ、慕容の将の趙槃を捕らえ、身柄を建康に送った。

秋9月、会稽内史の郗愔を都督徐兗青幽四州諸軍事・平北将軍・徐州刺史に任命した。

冬10月、彭城王の司馬玄が死去した。

太和3年春3月、日蝕が起きた。大赦が実行された。

夏4月、雨雹と大風が発生し、木が折れた。

秋8月、尚書令・衛将軍・藍田侯の王述が死去した。

太和4年夏4月、大司馬の桓温が軍を率いて慕容を征伐した。

秋7月、慕容の将の慕容垂が桓温を迎撃しようとしたが、桓温はこれを破った。

9月、桓温の裨将の鄧遐朱序は慕容の将の傅末波と林渚で遭遇し、大いに破った。まもなく、桓温は枋頭まで進出した。しばらくして兵糧が続かなくなり、舟を妬いて撤退した。慕容垂は桓温を追撃して襄邑まで進出した。

冬10月、大星西流,有聲如雷。しばらくして,桓温は敗残の軍をまとめて山陽に駐屯した。豫州刺史の袁真が壽陽で叛いた。

11月、桓温は山陽を出て会稽王の司馬昱と塗中で会談し、今後のことについて相談した。

12月、広陵に城を築いて居住した。

太和5年春正月、袁真の子の袁雙之、袁愛之が梁国内史の朱憲、汝南内史の朱斌を殺害した。

2月、袁真が死去し、陳郡太守の朱輔は袁真の子の袁瑾を後継者とし、慕容に救援を依頼した。

夏4月、桓温の部将の竺瑤が袁瑾を武丘で戦って破った。

秋7月、日蝕が起きた。

8月、桓温が袁瑾を壽陽で戦って破った。

9月、苻堅の将の王猛が慕容を攻撃し、上黨を陥落させた。広漢の妖賊の李弘が益州の妖賊の李金根と合流して反乱を起こし、李弘は聖王を自称し、万余人の軍勢を集めた。梓潼太守の周虓がこれを平定した。

冬10月、王猛は慕容の将の慕容評を潞川で大いに破った。

11月、王猛がを陥落させ、慕容を捕虜とした。

太和6年春正月、苻堅の将の王鑒が袁瑾を救援しに来たが、将軍の桓伊がこれを撃退し、大いに破った。まもなく、桓温は壽陽を陥落させ、袁瑾を斬った。

3月、監益甯二州諸軍事・冠軍将軍・益州刺史・建城公の周楚が死去した。

夏4月、大赦が実行され、貧窮した者に施しが与えられた。苻堅の将の苻雅仇池を攻撃し、仇池公の楊纂が降伏した。

6月、建康、丹陽、晋陵、呉郡、呉興、臨海で大水があった。

秋8月、前の甯州刺史の周仕孫を仮節・監益梁二州諸軍事・益州刺史に任命した。

冬10月、高密王の司馬俊が死去した。

11月、桓温は広陵から白石に移って駐屯した。まもなく、桓恩は崇徳太后を利用して皇帝を廃位し、東海王に降格させ、散騎侍郎の劉享に命じて璽綬を取り上げさせ、宮殿から追放した。   咸安2年正月、司馬奕は海西県公に降格された。

4月、呉県に身柄を移され、呉国内史の刁彝が護衛に、遣禦史の顧允が監察に付けられた。

11月、妖賊の盧悚が弟子の殿中監の許龍を司馬奕の元に送り、、太后の密詔があるとして、擁立しようとした。司馬奕はその話に乗ろうとしたが、納保母に諫められ取り止めた。 太元11年10月、呉において死去した。45歳であった。


宗室

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后妃

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  • 皇后 庾道憐 - 庾亮および庾文君(明穆皇后、明帝の皇后)の姪。父・成帝の従妹にあたる。

子女

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不詳