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司馬欽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

司馬 欽(しば きん、? - 興寧3年3月30日[1]365年5月6日))は、中国東晋宗室。河間武王。本貫河内郡温県

経歴

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後漢末、京兆尹を務めた舞陽成侯司馬芳の6世の孫であり、彭城王司馬釈の子として生まれた。

建興年間、司馬睿により息子なしで亡くなった楽成王司馬融の養子となり爵位を継いだ[2]

咸和5年(330年)9月、河間王に改封された[3]

永和9年(353年)8月、北伐に伴い司馬欽は太尉を兼ねて洛陽に派遣され、西晋皇帝の五陵[注釈 1]を修理した[4]

興寧3年3月癸酉(365年5月6日)、薨去。車騎大将軍儀同三司を追贈され、された[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 宣帝の高原陵・景帝の峻平陵・文帝の崇陽陵・武帝の峻陽陵・恵帝の太陽陵を指す。

出典

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  1. ^ 『晋書』巻8, 海西公紀 興寧三年三月癸酉条による。
  2. ^ 『晋書』巻59, 河間王顒伝「詔以彭城元王植子融為顒嗣、改封樂成縣王。薨、無子。建興中、元帝又以彭城康王釋子欽為融嗣」
  3. ^ 『晋書』巻7, 成帝紀 咸和五年九月甲辰条「徒樂成王欽為河間王」
  4. ^ 『晋書』巻8, 穆帝紀 永和九年八月条「遣兼太尉、河間王欽修復五陵」
  5. ^ 『司馬元興墓誌銘』による。

参考文献

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