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利用者:Iso10970/下書き6

田本研造
出身地 紀伊国南牟婁郡神川村(現在の和歌山県熊野市神川町)
生年月日 (1832-05-08) 1832年5月8日
没年月日 (1912-10-22) 1912年10月22日(80歳没)
活動時期 幕末、明治
作品 榎本武揚肖像ほか
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田本研造(たもとけんぞう、 - 1912年<大正元年>10月22日)、別名音無榕山(おとなしようざん)は、紀伊国出身で、幕末から明治にかけて北海道で活躍した写真家。裕福な農家に生まれ、医者を志し長崎で修行する。蝦夷地箱館に渡るが、壊疽により足を切断。その際治療にあたったロシア領事館付医師ゼレンスキーから写真術を学ぶ。



生い立ち

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紀伊国南牟婁郡神川村(現在の和歌山県熊野市神川町)で、父・茂兵衛、母・具栄の長男として生まれる。 生家は「田本屋敷」と呼ばれ、10反歩の田畑を持ち多くの小作人を持つ豪農であった[1]


長崎に行き、蘭方医・吉雄圭斎[注釈 1]


1859年(安政2年)に長崎から箱館に転勤した通詞・松村喜四郎に伴い、箱館に移住した。

写真家時代

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明治に入ると、開拓使長官・東久世通禧の面識を得て、しばしば東久世の前で写真術を披露した。1871年に開拓使は田本に札幌の撮影を命じた。


墓は函館市の住吉町共同墓地にある。また、故郷・

死後

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1968年(昭和43年)、日本写真家協会が「写真百年 日本人による写真表現の歴史」展を開催し、開拓使時代の田本の写真も展示した[3]

主要写真

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登場する作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ よしおけいさい、1822-1894。蘭方医の家に生まれ、オランダ商館出入り医師となる。牛痘接種法を学び、種痘の普及に努めた。初代熊本病院院長[2]

出典

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  1. ^ 岡本実 1983, p. 48.
  2. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「吉雄圭斎https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E9%9B%84%E5%9C%AD%E6%96%8Eコトバンクより2021年6月16日閲覧 
  3. ^ 佐藤清一 1999, p. 42.

参考文献

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  • 飯沢耕太郎『日本写真史概説』岩波書店〈日本の写真家 別巻〉、1999年。ISBN 4-00-008381-3 
  • 岡本実『幕末の北海道写真師 田本研造』熊野市青年商友会出版事務局、1983年。ISBN 4-87601-033-1 
  • 木下直之『田本研造と明治の写真家たち』岩波書店〈日本の写真家 2〉、1999年。ISBN 4-00-008342-2 
  • 佐藤清一『箱館写真のはじまり』五稜郭タワー〈函館文化発見企画 1〉、1999年。 
  • 村井雄二郎『箱館戦争銘々伝』 上、新人物往来社、1999年、213-220頁。ISBN 4-00-008381-3 
  • 幕末明治の写真師列伝 第一回 田本研造” (pdf). 日本カメラ財団. 2021年6月16日閲覧。