コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:舎利弗/アンコール・ワット

en:Angkor Wat(oldid=616054678)から和訳された。 (日本語は自分の母国語ではありません。もしあなたは日本語が母国語でこの記事を校正する気があれば、遠慮せずご連絡ください。ご協力感謝いたします。)


アンコール・ワット
អង្គរវត្ត
中央祠堂
舎利弗/アンコール・ワットの位置(カンボジア内)
舎利弗/アンコール・ワット
カンボジアにおける位置
基本情報
所在地
アンコール・ワットの位置(カンボジア内)
アンコール・ワット
アンコール・ワット
アンコール・ワット (カンボジア)
座標 北緯13度24分45秒 東経103度52分0秒 / 北緯13.41250度 東経103.86667度 / 13.41250; 103.86667
宗教 仏教
アンコール
カンボジア
シェムリアップ州
現況 遺跡
建設
形式 寺院
様式 クメール建築
着工 12世紀前半
完成 12世紀後半
建築物
正面 西
資材 砂岩ラテライト
テンプレートを表示

アンコール・ワットクメール語: អង្គរវត្ត)は、カンボジアにあるヒンドゥー教および仏教寺院群で、世界最大の宗教施設である。12世紀前半、クメールスーリヤヴァルマン2世によって、クメール王朝首都のヤショダラプラ(クメール語: យសោធរបុរៈ、現代のアンコール)に、国立寺院かつ彼自身の霊廟として建立された。前王までのシヴァ派の伝統を破り、アンコール・ワットにはヴィシュヌが祀られた。アンコール遺跡において最も保存状態のよい寺院であり、また建立以来現在に至るまで重要な宗教施設としての機能を残す唯一の施設である。建築様式の上では、クメール建築における古典盛期様式の最高傑作とされる。カンボジアの象徴として国旗にも描かれ[1]、観光客誘致の最重要資源でもある。

アンコール・ワットの伽藍にはクメールの寺院建築の主要要素が2つ組み合わされている。1つは山形の祠堂(テンプル・マウンテン)であり、もう1つは初期ドラヴィダ建築の影響を受けて後に加えられた、ジャガティ等の特徴のある構造物を持つ回廊式寺院である。全体としては、インド神話においてデーヴァが住む須弥山を表現するように設計されており、堀と全長3.6kmの外壁の中に、三重の長方形の回廊が中心に近づくほど高くなるように建てられ、寺院の中心には五点形の塔がある。他のアンコールの寺院の多くとは異なり、アンコール・ワットは西を向いているが、その意味についての専門家の見解は分かれている。アンコール・ワットは、建物の雄大さと調和性、膨大な量のレリーフや、壁面を飾る多くの神像が高く評価されている。

現代語名のアンコール・ワットとは、クメール語で「寺院の都市」を意味する。「アンコール」は「都市」または「首都」を意味し、サンスクリット語の「ナガラ」(サンスクリット: नगर)に由来する「ノコル」(クメール語: នគរ)と言う単語の俗形で[2]、「ワット」は「境内」の意味で、やはり「囲い」を意味するサンスクリット語の「ヴァータ」(梵: वाट)に由来する[3]

歴史

[編集]
アンコール・ワットを建立したスーリヤヴァルマン2世

アンコール・ワットは現代のシェムリアップ市の北方5.5km、旧都バプーオンのやや東南に位置する。この一帯には重要な古代建造物群が広がっており、アンコール・ワットはアンコール遺跡の最南端に位置する。

ある伝説によると、アンコール・ワットの建設はインドラの命によるもので、その息子プレチャ・ケト・メアレアの宮殿として建てられたという[4]。13世紀に中国から訪れた[[周達観]によると、神によって一夜に建立されたと信じる者もあったという[5]

アンコール・ワットの第1期の設計と建設は、12世紀前半、スーリヤヴァルマン2世の治世(1113年~50年頃)に行なわれた。王の国立寺院と首都として構想され、神殿にはヴィシュヌが祀られた。建立時の碑銘や、寺院に言及する同時代史料が発見されていないため、元の名は不明であるが、祭神に由来して「ヴァラ・ヴィシュヌ・ロク」と呼ばれた可能性が指摘されている。王の死後すぐに工事は中断したようで、レリーフの一部は未完成のまま残された[6]。スーリヤヴァルマン2世の死後約四半世紀が過ぎた1177年、アンコールはクメール人の宿敵チャンパ王国によって略奪された。その後、新王ジャヤーヴァルマン7世クメール王朝を復興し、数キロメートル北に新しい都(アンコール・トム)と国立寺院(バイヨン)を置いた。

13世紀後半、アンコール・ワットは次第にヒンドゥー教から上座部仏教へと宗旨を変え、現在まで続く仏教寺院となった。アンコール寺院の多くは廃絶したが、アンコール・ワットは例外的に、16世紀以降重要性が低下しつつも、完全に打ち捨てられることはなかった。それは堀がジャングルの侵食から建造物を保護したおかげでもあった[7]

ポルトガルの修道士アントニオ・ダ・マダレナは、1586年にアンコール・ワットを訪れ、「あまりに並外れた建造物で、とてもペンで描写できない。特に世界に類を見ないものであればなおさらである。いくつもの塔があり飾りがあり、人間の才能が想像し得る限りの洗練がある」と述べている[8]。そして、19世紀中頃に訪れたフランスの自然主義者・探検家アンリ・ムオーの紀行文により、アンコール・ワットは西欧に広く知られることとなった。そこには、次のように記されていた。

これらの寺院のうちの一つは、ソロモン神殿に匹敵し、無名の古代のミケランジェロが建てたものであり、我々の最も美しい建物らと並ぶ称賛を受けるであろう。ギリシアローマが我々に残したものよりも壮大であり、この国が今沈みこんでいる野蛮状態と悲しい対照をなしている。[9]

他の欧米からの初期の訪問者と同様、ムオーはクメール人がアンコール・ワットを建立したとは信じられず、ローマと同時代の遺跡であろうと考えた。しかし、アンコール遺跡全域の発掘と修復が進むにつれ、建造物や装飾の様式や金石文が蓄積され、次第にアンコール・ワットの真の歴史が解き明かされていった。アンコール遺跡には、古代遺跡で通常発見されるような住居や家屋もなければ、調理用具、兵器、衣料品といった人間の居住していた痕跡も発見されなかった。その代わりに、建造物そのものが歴史の証拠なのである[10]

アンコール・ワットの正面、ムオー筆
1870年のアンコール・ワット、エミール・グセル撮影
アンコール遺跡を描いた1911年のフランスの葉書

20世紀には、アンコール・ワットは積もった土壌と植生の除去を中心とした相当の修復が必要な状態になっていた[11]。修復作業は1970年~80年代の内乱とクメール・ルージュ政権下で一時中断したが、この時代に遺跡が受けた被害は、主にアンコール時代より後の彫像の盗難や破壊以外は比較的少なかった[12]

アンコール・ワットはカンボジアの象徴であり、国家の誇りであり、フランスや米国、隣国タイとの外交関係の重要な要素ともなっている。アンコール・ワットはカンボジアの国旗が1863年頃にはじめて定められて以来、一貫して国旗に描かれてきた[13]


しかし、もっと大きな観点からも文化間の観点からも、アンコール・ワット寺院は独特には国家的威信の象徴とならなくて、1889年から1973年までのパリマルセイユにおけるフランスの植民地・万国博覧会で元の寺院を提示したフランスの植民地の遺産生産のもっと大きな政治・文化的過程に刻まれた。[14]1880年頃かれ1920年代中期までパリのシャイヨ宮に存在し、インドシナ博物館(フランス語: musée Indo-chinois)と言うルイ・ドラポルトの石膏の模型の博物館にもアンコール・ワットの美学が展示されていた。[15]

アンコール域にあるアンコール・ワットと他の記念碑の華麗な芸術的伝来は、フランスが1863年8月11日にカンボジアを保護国にして、遺跡の支配権を握るようにシャム(タイ)を侵攻することに直接繋がっていた。1351年から、[16]また一説には1431年から、[17]その結果、カンボジアはシャムの支配下にあった、国の北西隅にある土地をすぐに取り戻した。1953年11月9日、カンボジアはフランスから独立し、それからアンコール・ワットを制御した。

建築

[編集]

敷地と計画

[編集]
アンコール・ワットの一般方略と、その真中にある中心構造
中心構造の詳細な計画

北緯13度24分45秒 東経103度52分0秒 / 北緯13.41250度 東経103.86667度 / 13.41250; 103.86667にあり、アンコール・ワットは、テンプル・マウンテン(英語: temple-mountain、直訳:寺院山岳)と言う、クメール王朝の国立寺院の標準仕様と、同心円歩廊のその後の計画の一意の組み合わせ。寺院は須弥山、中心の五点形の塔はその五つの山頂、壁と堀は周りの山脈と大洋の表現である。[18]寺院の上部への昇殿は次第に排他的で、俗人は最下部のみへ許されていた。[19]

ほとんどのアンコールの寺院とは違い、アンコール・ワットは東よりは西に向かう。これによると、スーリヤヴァルマンの葬式の寺院とするつもりだったと判断した(モーリス・グレーズジョージ・セデス等の)学者は多く、テムル皇帝が1295年にアンコールに派遣した外交使節周達観は元首が死後に塔に葬られたと報告し、それよりアンコール・ワットを霊廟と呼んだ。左の方へ回る浅浮彫は追加証拠を提出。ヒンドゥー教用語では「プラサヴイア」と言い、正常な順序を逆にすることで、ブラフマンの葬儀中には儀式が逆順で行われる。[11]考古学者チャールズ・ヒグハムも、中央塔から回収された納骨壷だったかも知れない器を述べた。[20]アンコール・ワットは遺体を置く最大の努力であると説く人もいる。[21] しかしながら、フリーマンとジャック(1999)によれば、典型的な東向きを曲げるアンコールの他の寺院はたくさんで、整列は西に関連しているヴィシュヌを祭るためである可能性もある。[22]

エレオノール・マンニッカはさらに説いており、寺院の整列や寸法と浅浮彫の内容や整理を生かして、構造はスーリヤヴァルマン統治下の疑わしい太平の新時代を表現することを論じており、「太陽と月の周期の測定はアンコール・ワットの神籬に建立されたため、王権を不朽にしたり天国に存在する神々を祭り宥めたりするつもりがある神聖な部屋と回廊にこの帝王神権は定着した」と言った。[6][23]マンニッカの説は学会において興味と懐疑論の混在を受けているが、[20]アンコール・ワットはりゅう座の表現の一部であると言うグラハム・ハンコック等の他者の思索からはマンニッカが遠ざかっていることは注意する価値がある。[24]

様式

[編集]
歩廊の一本
タ・リアク

アンコール・ワットはクメール建築の古典的な様式の代表例で、この様式は「アンコール・ワット式」と言うようになった。12世紀、クメールの建築家は砂岩を(煉瓦またはラテライトよりは)主な建材として用いることにうまくなって自信を持つことができた。[25] 見える領域はほとんどが砂岩製煉瓦であるが、外壁や見えない構造部品はラテライト製。[26]煉瓦を繋ぐために使用された結合剤はまだ知られていないが、天然樹脂[27]とか消石灰とかは申し出ている。[28]

何よりも模様の調和のため、 称賛を受けており、20世紀中期の後見役モーリス・グレーズによれば、アンコール・ワットは「細かい調和の取れた要素の節度がある記録的さと規模の精密な配置により、古典的な完璧に達している。力、統一性と様式の作品である。」[29]

建築学的には、様式の特性の要素は、ハスのような形と鋸のような形をした塔であるオジャーブ、通路を広げる半歩廊、囲いを繋ぐ軸流歩廊、寺院の主軸に沿って出ている十字形テラスを含む。典型的な装飾要素はデヴァタ(もしくはアプサラス)、浅浮彫、ペディメントにおいては広大な花輪と物語の背景等。アンコール・ワットの彫刻は以前の作品より静的で粗末なので、地味であると見なされている。[30]塔のめっき化粧しっくい、浅浮彫の他の像のめっき、木製天井パネルや戸等の模様の他の要素は略奪や時の経過によって壊された。[31]

特徴

[編集]
空中観覧

外郭

[編集]

面積1024m✕802m・高さ4.5mの外壁はエプロン30mの開けた地面、広さ190mの堀に囲まれた。昇殿は東方の土砂堤防、西方の砂岩製土手道。後者は正門で、後に加われて多分木造橋を置き換えた。[32]各方位主点にはゴプラムがあり、西の方は塔三本が荒廃して何よりも最大。グレーズは、ゴプラムは寺院本体の形状を隠しも反響もすることに留意している。[33]南方の東の下には「タ・リアク」(クメール語: តារាជ、日本語: 王族の祖先)[34]と言うヴィシュヌ立像があるが、元々寺院の中央祠堂にいたかも。[32]象を入らせるくらい大きいので「象の門」とよく呼ばれるゴプラムの両側にある二口の入口まで塔と塔の間に、歩廊は通っており、外側(西)には四角柱があり、内側(東)には閉鎖壁。柱と柱の間の天井にはハスの花、壁の西方面には踊り姿、そして壁の東方面には手摺のある窓、踊り男子の姿や跳ね動物と、(入口の南にある)寺院の中でたった一体の歯を剥き出すものを含むデヴァタを飾った。

外壁は面積82万㎡を取り囲んでおり、寺院本体の他には元々都市と、寺院の東方には、王宮があった。アンコールの非宗教的な建物と同様、石製ではなくて腐りやすい構造材で建立されたから、いくつかの道の輪郭以外、何も残っていなく、[35]敷地はほとんどが今森に占められている。350mの土手道は寺院本体に西方のゴプラムを繋ぎ、両側はナーガ型の手摺と、都市に通じている六つの階段を持つ。どちら側も入口からの三つ目の階段の前において各方位主点にある入口を有す図書館も、図書館と寺院本体の間の池も特徴とする。池は、中心構造に土手道を繋いで獅子に守られている十字形テラス同様、後に加われた。[35]

中心構造

[編集]
中心構造の小型模型。前景には中心構造の前にある十字形テラス

寺院は都市より高いテラスにあり、中央塔に収束する長方形の歩廊三本でできている。マンニッカは、該歩廊は王、ブラフマ―、月とヴィシュヌを祭ると説明。[6]各歩廊は各主点にゴプラムがあり、内部の二本の歩廊はそれぞれの隅に塔があり、中央塔と共に五点形を形成している。寺院は西に向かうから、特徴は全部が東へ引っ込んでおり、西方における囲いや歩廊の中に間隔をもっと広くする。同じ理由で、他方にある階段より西向きの方が浅い。

外部の歩廊は187✕215mで、隅に塔よりはむしろ神殿がある。寺院の外部に開放されており、構造を増築し補強する柱つき半歩廊を持つ。外部の歩廊は「プレア・ポアン」(クメール語: ព្រះពាន់、日: 千仏)と言う十字形回廊によって二つ目の囲いに繋がれている。何世紀にも渡って参詣者は仏像を数体残したが、現在ほとんどは取り除かれた。この辺りは参詣者の功徳を語る碑銘があり、ほとんどはクメール文でもビルマ文とか日本文もある。回廊が画定する四面の小さな中庭は元々満水になったかも。[36]回廊の南北は図書館。

向こうは二つ目と内部の歩廊は他の十字形テラス(また、後に加われた)によって互いにも二室の側面図書館にも繋がっている。二階以上、デヴァタは一体または五体ずつ組で壁にいっぱいがある。二階の囲い本体は100✕115mで、須弥山の周りの大洋を表現するため元々満水になったかも。[37]両側の階段は三つが隅の塔と外部の歩廊のゴプラムに至り、非常に急な階段は神の国への昇りがたさを表現する。[38]この内部の歩廊は「バカン」(クメール語: បាកាន)と言い、中央祠堂にも各の塔の下にある摂末社にも各ゴプラムを繋ぐ軸流歩廊のある60mの広場。歩廊の屋根は蛇の体と、獅子またはガルダの頭を持つ姿で飾られている。彫りまぐさ石とペディメントは歩廊と祠堂への入口の飾となっている。

中央祠堂の上の塔は地上43~65m。以前のテンプル・マウンテンとは違い、周りの四本の塔より中央の方が高い。[39]祠堂本体は元々ヴィシュヌの立像があり、両側が開けていた。しかし、上座部仏教に転用された後、釈迦の立像を持つ壁で囲まれた。1934年、後見役ジョージ・トルーヴェは中央祠堂の下にある溝を掘った。砂と水で埋まり、もう盗掘されたが、地上2mの金箔の鉱脈は発見した。[40]

装飾

[編集]
アンコール・ワット式が特徴とするデヴァタ
柱の飾

建物の建築と統合されており、主に浅浮彫のあるフリーズを具体化するアンコール・ワットの広大な飾は有名の一因。外部の歩廊の内壁は、主にインド叙事詩ラーマーヤナマハーバーラタを題材にした大規模な場面の連続を有す。「石の浅浮彫の最大の既知の直線的配置」とヒグハムはこれを呼んでいる。[41]北西から左回り、西方の歩廊は(ラーマーヤナから、ラーマラーヴァナを破った)ランカー戦と(マハーバーラタから、カウラヴァパーンダヴァの相互破壊を語る)クルクシェトラ戦争を示している。南方の歩廊は、スーリヤヴァルマン道中と言う唯一の歴史物語と、インド神話の32地獄や37天国

東方の歩廊には最も有名な場面があり、これは、アスラ91~92[42]人とデーヴァ88人がヴァースキを用いてヴィシュヌの指示下に海を掻き回す乳海攪拌。(マンニッカはアスラを91人だけ数え、非対称的な数は冬至から春分までの日数を表現すると説明。)[43]16世紀に加われ、ヴィシュヌがアスラを被った場面が続く。北方の歩廊はバーナースラに対するクリシュナの勝利と、(グレーズによれば、「細工がどん底である」)[42]ヒンドゥー教の神とアスラの戦いを示している。北西と南西隅の神殿は両堂がもっと小規模な場面を特徴とし、未知のところもあるが、ラーマーヤナまたはクリシュナの人生からのところが多い。

真中ではヴィシュヌ、下では彼の亀アヴァターラクールマ、左右ではアスラやデーヴァ、上ではアプサラスやインドラを示している乳海攪拌の浅浮彫。
裏から見られるアンコール・ワット

アンコール・ワットはアプサラスやデヴァタのデヴァタの像で装飾されており、2013年5月30日現在のデヴァタ像の在庫は1786枚以上がある。[44]アンコール・ワット建築家は柱と壁のモティーフとして小さなアプサラス像(30~40cm)を利用し、寺院の各階で入口の神殿から高い塔の頂上まで大きなデヴァタ像(全部は約95~110cmの全身肖像画)をもっと顕著に織り込んだ。1927年、アンコール・ワットの浅浮彫で見える種々様々な髪型、頭飾、衣類、立ち方、宝石、花飾を目録に載せる研究はサッポー・マルシャルによって出版され、これらはアンコール時代の実際の習慣に基づくとマルシャルは判断した。[45]

2014年、肉眼で見えない壁画200面以上はディジタル写真と逆相関拡張を利用して発見された。浅浮彫と同様に、船、神々、建物、動物等の色々な姿を含む。アンコール・ワットがヒンドゥー教用から上座部仏教用へ移った時の16世紀の復旧事業に溯る。[46]

建築技術

[編集]

石は磨かれた大理石のように滑らかで、時折見つけがたい非常に詰まった継ぎ目でしっくいを用いれず積まれた。煉瓦はほぞとほぞ穴によって接合されたものがあるが、ありつぎによって接合されたものもある。象、コイヤ縄、滑車や竹製足場を組み合わせて配置に置いたと推定される。ムオーは、煉瓦はほとんどが直径2.5cm・深さ3cmの穴を持ち、もっと大きい煉瓦は穴がもっとたくさんであることに留意した。鉄棒と繋ぎ合わせるように用いた可能性が指摘されているが、仮の釘を固定して配置へ導くのを手伝うように用いた説もある。

アンコール・ワットは計り知れないほど大量の砂岩でできており、エジプトにあるカフラー王のピラミッドに匹敵する。(つまり、500万トン以上。)砂岩は北東へ約40kmのクレン山の採石場から回漕されなければならない。道筋はトンレサップ湖へ運河を沿って35km、この湖の向こうへ運んでまた35㎞、ついにシェムリアップ川の上流まで流れに逆らって15m、合わせて90kmに及んだと推定されるが、早稲田大学日本東京都)の内田悦生、下田一太は衛星画像を用いてクレン山とアンコール・ワットを繋ぐもっと短い34㎞の運河を2012年に発見し、クメール人はこの道筋を代わりに使用したと信じている。[47]

事実上全ての平面、柱とまぐさ石は天井までも彫られた。インド文学からの物語を表わす浅浮彫は数キロメートルに達し、ユニコーングリフォン、翼を持って戦車を引いているばかりでなく、像に跨っている隊長に付いて行っている兵士とか、精巧な髪型を持って踊れている天女等を含む。歩廊の壁ばかりでは、ほぼ1000㎡の浅浮彫で飾った。いくつかの壁の穴とは、元々青銅板で飾っていたかも知れない。古は高値の付いていたから、泥棒には第一の目標。カジュラーホーインド)を出土中、石工・彫刻師アレックス・エヴァンズは古代の技術に似ているかも知れない仕方で高さ4m以下の石造彫刻を再現し、60日懸かった。[48]エジプトにおいて同様の実験で、考古学者ロジャー・ホプキンズとマーク・レーナーは採石夫12人に400トンの石灰岩を切り出してもらい、22日懸かった。[49]そのような事情から、アンコール・ワットの場合は、大量の砂岩を切り出して、運んで、彫って、据えつけた労働力は非常に熟練した職人を含んだ労働者数千人に達したはず。 この彫刻を彫るための能力は、クメール王朝が権力の座に着いた前に7世紀の日付のいくつかの遺物が示すように、数百年前に発展された。[20][10]

現代のアンコール・ワット

[編集]

復旧・保存作業

[編集]
アンコール・ワットの保存についてのワールド・モニュメント財団動画(英語)

1986年から1992年まで、インド考古調査局は寺院で復旧作業を行った。[50]1990年代以来、アンコール・ワットは復旧作業が続いており、観光が大幅に増加した。1992年12月、アンコール・ワットが一部であるアンコール遺跡は世界遺産委員会によって世界遺産として指定されると、ノロドム・シハヌーク王はAPSARAを1995年2月19日に設立し、この機構にアンコール管理の責任を割り当てた。[51]資金提供や保守は大分国際協力の結果で、2013年11月現在、1993年から四ヶ国が活躍している。1993年、フランス国立地理学院(仏: Institut géographique national)は中央敷地で地形測量装置を据えつけた。1997年以来、ケルン応用科学大学ドイツ)を本証とするドイツ・アプサラ保存事業(英: German Apsara Conservation Project、略:GACP)は今まで作業し続けており、西南の神殿がひどい状態を発見した。特に、以前の復旧作業者が利用したポルトランドセメントアクリル樹脂は砂岩製煉瓦を損なっており、速く除去されなければならなかった。[52]1999年、日本国政府アンコール遺跡救済チームは北方の図書館で復旧作業を始め、2005年に成業。2000年から2007まで、上智大学フランス極東学院が開基した西方の土手道を終えた。2008年、GACPの技術的助言を用いると、[53]ワールド・モニュメント財団は7年間の科学的考察後に乳海攪拌の浅浮彫の作業をついに開始した。事業は元々の天井を復旧することに集中し、2012年1月に終わった。[54]その他には、1997年に落ち込んだ60mの部位においてイタリアの土質構造工学院(イタリア語: Ingegneria geotecnica e strutturale)がユネスコとAPSARAの資金提供を利用して2002年から復旧作業中。[55]

2012年に公開された研究はアンコール・ワットで変色バイオフィルムを発見。大分耐脱水・耐放射線糸状藍藻で、砂岩を劣化する有機酸を発生し、その後の保存策に影響するはず。[56]

観光

[編集]
アンコール・ワットの観光客

アンコール・ワットは大人気な観光地。カンボジア政府観光省によれば、2014年1月から5月までの期間においてのみ、外国人観光客を111万人以上(カンボジアへの全観光客の半分以上、前年同期比約12%上昇)誘致した。[57](1993年、あるいはアンコール遺跡世界遺産指定一年後、の一年間7650人総計とは全く違う。)[58]新華社によれば、2013年上半期の外国人観光客の割合は韓国人20.3万人、中国人13.8万人、ベトナム人7.9万人、日本人6.9万人、タイ人5.4万人(それぞれ、前年同期比4%、76%、-38%、6%、-12%上昇)で、2012年一年間は206万人。入場券販売額のみから2012年に約3千万米ドル(当時26億円)を得、[59]APSARAに勤めている某取締役によれば、2000年に復旧・保存作業に約28%充てた。[60]

主要な収入源なのに、保全に取って大きな脅威になっている。[58]早くも2000年、観光客による破壊行為は問題になっている。[60]その上、近隣地域も観光客の過大上昇に対処するための急速な発展の悪影響を受けた。例えば、近年に梅雨時の大変な洪水を悪化させている目詰まり川とか、自然分水嶺破壊等。なお、アンコール・ワットの美学と調和がしないと言われる新しい建物もある。ついに、近くの主要道路工事は地下水面と寺院の構造上安定性に直接影響を及ばすと思わっている。[61]カンボジア政府は大体において対策立案をしなかったことを非難されている。2012年現在、専門家はまだ長期解決について合意していないけれども、上階の閉鎖とか、足踏みに浸食しやすい砂岩製煉瓦の上に木製階段を置くこと等の対策をしている。[62]

1999年以来、大企業SOKIMEXは入場券販売管理担当。政府管理下の数年の赤字の後で成された合意の条件下で、SOKIMEXは100万ドル(当時12億円)の固定料金を政府に支払い、利益の全額を受け取る。しかし、来年の再交渉中、SOKIMEXは、販売額が300万ドル(当時32億円)以下ならば収入の50%、または以上ならば70%を渡すことに同意。SOKIMEXは名目上APSARAの厳重な支配下にあるが、[60]立場が論争を招かないものではない。最初からも、政府はカンボジア人民党に関係しているSOKIMEXを支持してカンボジアの国民的遺産を民営化すると告訴されている。[63]該合意は秘密主義、不規則と呼ばれているが、[64]社長オクナ・ソク・コンは疑惑を否定している。[65]近世までも、汚職とか[66][67]過小に報告すること[68]の噂は浮かんでいる。

2012年、某インドネシア官吏によると、カンボジアと本国の両観光省はアンコール・ワットが姉妹観光地になることに合意し、スリウィジャヤ航空バタビア航空ジョグジャカルタ市からシェムリアップまでの直行便を開設しようと考えていた。[69]

参考文献

[編集]
  1. ^ Cambodia” (英語). CIA World Factbook. 2014年8月20日閲覧。
  2. ^ (英語) Chuon Nath Khmer Dictionary. カンボジア、プノンペン: Buddhist Institute. (1966) 
  3. ^ Headley, Robert K.; Chhor, Kylin; Lim, Lam Kheng; Kheang, Lim Hak; Chun, Chen (1997) (英語). Cambodian–English Dictionary. 米国、ワシントンD.C.: 米国カトリック大学出版局. ISBN 0-8132-0509-3 
  4. ^ Marchal, Charles-Henri (1932). “The Mythology of Indo-China and Java”. In Hacklin, J. (英語). Asiatic Mythology: A Detailed Description and Explanation of the Mythologies of All the Great Nations of Asia. インド、ニューデリー: Asian Educational Services. 1994. p. 194. ISBN 978-8-12-060920-4 
  5. ^ 周達観 (2007) (英語). 真臘風土記 [A Record of Cambodia: The Land and Its People]. Peter Harris訳14世紀刊行漢文原文. タイ、テーサバーンナコーン・チエンマイ: Silkworm Books. ISBN 978-9-74-951124-4 
  6. ^ a b c エレオノール・マンニッカ. “Angkor Wat, 1113–1150” (英語). The Huntington Archive. オハイオ州立大学. 2008年4月27日閲覧。
  7. ^ モーリス・グレーズ (2003) (英語). Les Monuments du Groupe d'Angkor [The Monuments of the Angkor Group]. Nils Tremmel訳1993年刊行フランス語第4版. p. 59 
  8. ^ チャールズ・ヒグハム (2001) (英語). The Civilization of Angkor. 米国、カリフォルニア州、オークランド: カリフォルニア大学出版局. pp. 1–2. ISBN 978-1-84-212584-7 
  9. ^ Seng, Vodano Sophan (2005年5月28日) (英語). Brief Presentation to a Volunteer Group of Glenbow Museum in the Asian Gallery who visited the centre in May 28, 2005. http://www.cambodianview.com/documents/articles/Brief_Presentation.pdf 
  10. ^ a b Brown, Dale, ed (1995) (英語). Southeast Asia: A Past Regained (Lost Civilizations). 米国、バージニア州、アレクサンドリア: Time Life Books. pp. 67–99. ISBN 978-0-80-949112-4 
  11. ^ a b グレーズ 2003年、p. 59
  12. ^ The Modern Period: The war” (英語). ANGKOR History. APSARA Authority. 2014年7月25日閲覧。
  13. ^ Flag of Cambodia” (英語). Encyclopædia Britannica (2014年). 2014年7月25日閲覧。
  14. ^ Falser, Michael (2011). “Krishna and the Plaster Cast. Translating the Cambodian Temple of Angkor Wat in the French Colonial Period” (英語). Transcultural Studies (2). doi:10.11588/ts.2011.2.9083. ISSN 2191-6411. http://journals.ub.uni-heidelberg.de/index.php/transcultural/article/download/9083/3111. 
  15. ^ Falser, Michael (2013). Bader, Lena. ed. “From Gaillon to Sanchi, from Vézelay to Angkor Wat. The Musée Indo-Chinois in Paris: A Transcultural Perspective on Architectural Museums” (英語). RIHA Journal (71). ISSN 2190-3328. http://www.riha-journal.org/articles/2013/2013-apr-jun/falser-musee-indo-chinois. 
  16. ^ Jumsai, Manich (2001) (英語). History of Thailand and Cambodia. タイ、バンコク: Chalermnit. ISBN 978-9-74-739029-2 
  17. ^ Edwards, Penny (2007) (英語). Cambodge: The Cultivation of a Nation, 1860–1945. 米国、ハワイ州、ホノルル: ハワイ大学出版局. ISBN 978-0-82-483346-6 
  18. ^ Freeman, Michael; Jacques, Claude (1999) (英語). Ancient Angkor (図録改訂版 ed.). 米国、マサチューセッツ州、ボストン: Weatherhill. p. 48. ISBN 978-0-83-480426-5 
  19. ^ グレーズ 2003年、p. 62。
  20. ^ a b c ヒグハム 2001年、p. 118。
  21. ^ Scarre, Chris, ed (1999) (英語). The Seventy Wonders of the Ancient World: The Great Monuments and How They Were Built. 英国、ロンドン: テームズ・アンド・ハドソン. pp. 81–5. ISBN 978-0-50-005096-5 
  22. ^ FreemanとJacques 1999年、p. 48。
  23. ^ Stencel, Robert; Gifford, Fred; エレオノール・モロン (1976). “Astronomy and Cosmology at Angkor Wat” (英語). Science (193): 281–7. doi:10.1126/science.193.4250.281. ISSN 0036-8075. (マンニッカ、旧姓モロン)
  24. ^ グラハム・ハンコック (4 November 1999). (Interview) (英語). Interviewed by Dilly Barlow [  [http://www.grahamhancock.com/archive/horizon/horizon_script_2.htm  ]]. 2014年7月26日閲覧 {{cite interview}}: |title=は必須です。 (説明); |url=の値が不正です。 (説明); 不明な引数|callsign=は無視されます。 (説明); 不明な引数|program=は無視されます。 (説明)
  25. ^ Bean, Rachel; Lam, Mariam Beevi; Cullen, Ann; Duemer, Joseph; Elders, Chris; Felton, Michelle; Haendel, Alexandra; Hall, Kenneth et al. (2007) (英語). World and Its Peoples: Cambodia, Laos, and Vietnam. 中国: Marshall Cavendish. p. 767. ISBN 978-0-76-147639-9 
  26. ^ 千原大五郎 (1996) (英語). Hindu–Buddhist Architecture in Southeast Asia. オランダ、ライデン: Brill. p. 54. ISBN 978-9-00-410512-6. ISSN 1380-782X 
  27. ^ Bean他2007年、p. 770。
  28. ^ ICC–Angkor (5 December 2012). Angkor Charter: Recommendations for the Conservation and Restoration of Angkor Monuments (PDF) (Report) (英語) (第15 ed.). p. 82.
  29. ^ グレーズ 2003年、p. 25。
  30. ^ Angkor Vat Style (1100–1175)” (英語). ANGKOR History. APSARA Authority. 2014年7月25日閲覧。
  31. ^ FreemanとJacques 1999年、p. 29。
  32. ^ a b FreemanとJacques 1999年、p. 49。
  33. ^ Glaize 2003年、p. 61。
  34. ^ Angkor Vat” (英語). ANGKOR History. APSARA Authority. 2014年7月29日閲覧。
  35. ^ a b FreemanとJacques 1999年、p. 50。
  36. ^ グレーズ 2003年、p. 63。
  37. ^ Ray, Nick (2005) (英語). Lonely Planet Cambodia (Country Guide) (第5 ed.). オーストラリア、メルボルン: Lonely Planet. p. 195. ISBN 978-1-74-059525-4 
  38. ^ Ray 2005年、p. 199。
  39. ^ Briggs, Lawrence Palmer (1951) (英語). The Ancient Khmer Empire. 41 (再版 ed.). 米国、ペンシルバニア州、ユニバーシティ・パーク: ペンシルバニア州立大学 (1952発行). p. 199 
  40. ^ グレーズ 2003年、p. 65。
  41. ^ チャールズ・ヒグハム (2003) (英語). Early Cultures of Mainland Southeast Asia. 米国、イリノイ州、シカゴ: Art Media Resources. p. 318. ISBN 978-1-58-886028-6 
  42. ^ a b グレーズ 2003年、p. 69。
  43. ^ Buckley, Michael (1998) (英語). The Churning of the Ocean of Milk (第2、図録 ed.). Moon Publications. ISBN 978-1-56-691131-3. http://www.veloasia.com/library/buckley/churning_milk.html 
  44. ^ Angkor Wat Devata Inventory – Ver. 05-30-2013” (英語). Apsara & Devata of Angkor Wat. 2014年7月30日閲覧。
  45. ^ Marchal, Sappho (2006) (英語). Khmer Costumes & Ornaments: After the Devata of Angkor Wat. タイ、バンコク: Orchid Press. ISBN 978-9-74-524057-5 
  46. ^ Tan, Noel Hidalgo; Sokrithy, Im; Than, Heng; Chan, Khieu (2014). “The hidden paintings of Angkor Wat” (英語). Antiquity 88 (340): 549–65. 
  47. ^ 内田悦生; 下田一太 (2013). “Quarries and transportation routes of Angkor monument sandstone blocks” (英語). Journal of Archaeological Science 40 (2): 1158–64. doi:10.1016/j.jas.2012.09.036. ISSN 0305-4403. 
  48. ^ [[ロスト・ワールズ]]:Kama Sutra (英語). ザ・ヒストリー・チャンネル. 8 August 2007. 該当時間: 25:49. {{cite AV media}}: URL引数で内部リンクを指定しないでください。 (説明)
  49. ^ マーク・レーナー (1997) (英語). The Complete Pyramids (図録、再版 ed.). 英国、ロンドン: テームズ・アンド・ハドソン. pp. 202–25. ISBN 978-0-50-005084-2 
  50. ^ Restoration of Temples by the Archaeological Survey of India (ASI)” (英語). カンボジア・ノムペンのインド大使館. 2014年7月31日閲覧。
  51. ^ Thoraxy, Hing (2001年3月3日). “Achievement of "APSARA": Problems and Resolutions in Managwement of the Angkor Area [sic]” (英語). 2013年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年8月31日閲覧。
  52. ^ Leisen, Hans; Nary, Long; Warrack, Simon; von Plehwe-Leisen, Esther (August 2009). GACP Activity Report 2008 (PDF). 15th Plenary Session Activity Reports for distribution and discussion during the ICC–Angkor (Report) (英語). カンボジア、ノムペン. p. 27.
  53. ^ Tigges, Elke (August 2009). APSARA Stone Conservation Unit, SCU (PDF). 15th Plenary Session Activity Reports for distribution and discussion during the ICC–Angkor (Report) (英語). カンボジア、ノムペン. p. 26.
  54. ^ Churning of the Sea of Milk Gallery Conservation Project” (英語). ワールド・モニュメント財団. 2014年8月31日閲覧。
  55. ^ CIC–Angkor (2013) (フランス語). 20 Ans de coopération internationale pour la conservation et le de déloppement durable. カンボジア、ノムペン. pp. 30–1. http://unesdoc.unesco.org/images/0022/002272/227277f.pdf 
  56. ^ Gaylarde, Christine C.; Rodríguez, César Hernández; Navarro-Noya, Yendi E.; Ortega-Morales, B. Otto (2012). “Microbial biofilms on the sandstone monuments of the Angkor Wat Complex, Cambodia” (英語). Current Microbiology 64 (2): 85–92. doi:10.1007/s00284-011-0034-y. ISSN 0343-8651. 
  57. ^ Tourism Statistics Report May 2014 (PDF) (Report) (英語). カンボジア、ノムペン: カンボジア王国政府観光省. May 2014. p. 3.
  58. ^ a b Smith, Justine (2007年2月25日). “Tourist invasion threatens to ruin glories of Angkor Wat” (英語). The Observer. http://www.theguardian.com/world/2007/feb/25/travel.travelnews 
  59. ^ “Cambodian Angkor Wat temples attracts 1.12 mln foreign tourists in first half” (英語). 環球時報. (2013年7月16日). http://www.globaltimes.cn/content/796462.shtml 
  60. ^ a b c Choulean, Ang (13 October 2000). "Preserving Angkor: Interview with Ang Choulean" (Interview) (英語). カンボジア、ノムペン: Tales of Asia.
  61. ^ Winter, Tim (2007年1月). “Rethinking tourism in Asia” (英語). Annals of Tourism Research 34 (1): 27–44. doi:10.1016/j.annals.2006.06.004. ISSN 0160-7383. 
  62. ^ De Launey, Guy (2012年6月9日). “Are there too many tourists at Angkor's temples?” (英語). BBC News. http://www.bbc.com/news/world-asia-18363636 
  63. ^ Sokheng, Vong; Marcher, Anette (2000年8月18日). “Sokimex and Government revisit Angkor deal” (英語). The Phnom Penh Post. http://www.phnompenhpost.com/national/sokimex-and-government-revisit-angkor-deal 
  64. ^ Cain, Geoffrey (2009年2月6). “Sokimex in line for black rewards” (英語). Asia Times. http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/KB06Ae01.html 
  65. ^ "The Double Mystery of Angkor" (Interview) (英語). Interviewed by Eric Campbel author = オクナ・ソク・コン. 13 May 2008. {{cite interview}}: |interviewer=でパイプ(|)が欠落しています。 (説明); |interviewer=に無意味な名前が入力されています。 (説明)
  66. ^ Sokchea, Meas; Di Certo, Bridget (2012年3月12日). “Angkor corruption alleged” (英語). The Phnom Penh Post. http://www.phnompenhpost.com/national/angkor-corruption-alleged 
  67. ^ “Deputy PM to Clear Air Over Angkor Wat’s Accusation” (英語). Khmer Times (カンボジア、ノムペン). (2014年5月12年). http://www.khmertimeskh.com/news/1425/deputy-pm-to-clear-air-over----angkor-wat---s-accusation/ 
  68. ^ "Cambodia's Top Ten Tycoons" (Document) (英語). カンボジア、ノムペン: ウィキリークス. 9 August 2007. WikiLeaks cable: 07PHNOMPENH1034_a。
  69. ^ Dewi, Sita W. (2012年1月12日). “Angkor Wat, Borobudur temple to become sister sites, says official” (英語). The Jakarta Post (インドネシア、マナド). http://www.thejakartapost.com/news/2012/01/12/angkor-wat-borobudur-temple-become-sister-sites-says-official.html 

外部リンク

[編集]