利用者:桂鷺淵/藩の一覧/01
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蝦夷地
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[編集]- 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:2藩
- 福山(松前藩) - 館
- 『藩史大辞典』目次:2藩
- 松前藩 - 館藩
- 『藩と城下町の事典』
- 松前藩(福山藩)
松前藩
[編集]- ■ 松前藩(福山藩・館藩)
- ※北海道にある松前氏の藩というくくり
- 『松前藩』 - コトバンク
- △『藩史大事典』目次には「松前藩」と「館藩」の2つの藩が挙げられる。
- △『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」は「福山藩(通称:松前藩)」と「館藩」の2藩として扱う[1]。
- △『藩名・旧国名がわかる事典』は「福山藩〈北海道〉」・「館藩」を「松前藩」に誘導
- △『日本史広辞典』は「松前(福山)」とし、1593年を起点とする。
- 関ヶ原時 - 蠣崎慶広:石高無し[1]
- 慶長11年(1606年) - 福山館が完成、移転[2]
- 慶長9年(1604年) - 徳川家康より蝦夷地交易独占権承認[2]
- 享保4年(1719年) - 松前矩広:1万石格(それまでは無高)[2][1][3]
- 文化4年(1807年) - 幕府、蝦夷地全土を直轄化。松前章広移封(陸奥梁川へ)[2][1]
- 文政4年(1821年) - 松前章広復封[2][1]
- 嘉永2年(1849年) - 幕府より築城命令[2]
- 安政元年(1854年) - 松前福山城完成[2]
- 安政2年(1855年) - 箱館開港にともない蝦夷地大部分が幕領編入[2]。陸奥梁川・出羽東根に替地3万石[3]:3万石格[3]
- 慶応4年(1868年) - 厚沢部の館城に移転(館藩)[2][1]:3万石[1]
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
陸奥国(1) 青森県+岩手県(南部領以北)
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[編集]- 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:6藩
- 弘前(津軽藩) - 黒石 - 斗南 - 八戸 - 七戸 - 盛岡(南部藩)
- 『藩史大辞典』目次:6藩
- 弘前(津軽)藩 - 黒石藩 - 斗南藩 - 盛岡(南部)藩 - 七戸藩 - [白石藩] - 八戸藩
- 『藩と城下町の事典』:5藩
- 弘前藩(津軽藩) - 七戸藩 - 八戸藩 - 黒石藩 - [水沢藩〔伊達村和〕] - [一関藩] - 盛岡藩
弘前藩とその支藩
[編集]- 関ヶ原時 - 津軽為信:4万5000石
- 慶長6年(1601年) - 上野で2000石加増→4万7000石[1]
- 慶長16年(1611年) - 津軽信枚、堀越から弘前城に移転[1]
- 明暦2年(1656年) - 津軽信政、津軽信英に5000石分与(のちの黒石藩)[1]:→4万2000石
- 元禄2年(1689年) - 「黒石藩主」津軽信俗除封により4000石返還[1]:→4万6000石
- 元禄11年(1698年) - 津軽政兕に4000石分与(のちの黒石藩)[1]:→4万2000石
- 文化2年(1805年) - 津軽寧親のとき高直し:→7万石[1]
- 文化5年(1808年) - 高直し[注釈 1]:→10万石[1]
- 文化6年(1809年) - 津軽親足に蔵米6000俵分与、黒石藩成立[1]:弘前藩の表高は10万石のまま[1]
- 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」の津軽藩の項目では6000石分与、黒石藩の項目では蔵米6000石と表記[1]。
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
- 明暦2年(1656年) - 津軽信英、弘前藩(津軽信政)より5000石を分知される[1]
- 寛文2年(1662年) - 津軽信敏、津軽信純に1000石を分与[1]→4000石
- 元禄2年(1689年) - 津軽信俗、無嗣のため4000石を本藩に返還[1]
- 元禄11年(1698年) - 津軽政兕、改めて4000石を与えられる[1]
- 文化6年(1809年) - 津軽親足、本藩より蔵米6000俵を分与→1万石【弘前藩支藩】[1][3]
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
斗南藩
[編集]盛岡藩とその支藩・重臣領
[編集]- 関ヶ原時 - 南部利直:10万石[1]
- 寛永12年(1635年) - 三戸から盛岡に移る[3]
- 寛文4年(1664年) - 南部重信、南部直房に2万石を分与(八戸藩)[1]:→8万石
- 天和3年(1683年) - 10万石格[1]
- 元禄7年(1694年) - 南部行信、南部政信に新田5000石(のちの七戸藩)、南部勝信に新田3000石を分与[1]
- 文化5年(1808年) - 南部信敬のとき高直し:→20万石[1]
- 文政2年(1819年) - 南部信隣に6000俵[注釈 2]を分与(七戸藩)[1]
- 明治元年(1868年) - 南部利恭除封、白石に13万石で再封[3][注釈 3]
- 明治2年(1869年) - 復封(白石より)[1]
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
- 元禄7年(1694年) - 南部政信、盛岡藩より新田5000石を分与[1]
- 文政2年(1819年) - 南部信隣[1](南部信鄰)[3]、本藩より蔵米6000俵を分与:計1万1000石【盛岡藩支藩】[1]
- 明治元年(1868年) - 南部信民減封。1万石[3]または1万300石[1](表高と実高の差異?)
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
- □ 遠野領
- 南部氏重臣・遠野南部氏(旧・八戸(根城)南部氏。維新後に男爵)の万石以上の領分。「遠野藩」「南部遠野藩」と呼称されることがある。
陸奥国(2) 岩手県(伊達領以南)+宮城県
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[編集]- 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:5藩
- 一関 - 岩沼 - 仙台 - 伊達村和領 … 白石
- 『藩史大辞典』目次:5藩
- 白石藩 … 仙台藩 - 一関(田村)藩 - 伊達村和領 - 岩沼藩
- 『藩と城下町の事典』:5藩
- 水沢藩〔伊達村和〕 - 一関藩 - [盛岡藩] - 仙台藩 - 岩沼藩 - 白石藩
仙台藩とその支藩
[編集]- 関ヶ原時:伊達政宗
- 慶長8年(1603年) - 岩出山から仙台に移る[1][3]
- 明治元年(1868年) - 除封、伊達宗基再封28万石[3]
- 『角川新版日本史辞典』では減封として扱う
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
- 万治3年(1660年) - 伊達宗勝、仙台藩(伊達綱村)から3万石を分与される【仙台藩支藩】[1][3]
- 寛文11年(1671年) - 全領を本藩に返還[1][3]
- 天和2年(1682年) - 田村建顕、岩沼から3万石から入封[1][3]
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
- ■ 岩沼藩
- 万治3年(1660年) - 田村宗良、仙台藩(伊達綱村)から3万石を分与される【仙台藩支藩】[1]
- 寛文2年(1662年) - 岩沼に居住[1]
- 天和2年(1682年) - 田村建顕、一関に移る。廃藩[1]
- ■ 中津山藩
- △『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」では「伊達村和領」で掲載[4]。wikipedia内情報によれば、『桃生町史』では「寺崎藩」と記載する。wikipedia内情報によれば「水沢藩」と呼称されることもあるが、これは伊達村和が「水沢伊達家」であったことによる誤りという。
仙台藩の重臣領
[編集]- □ 水沢領(水沢藩)
- 仙台藩重臣・水沢伊達家の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 4]。
- □ 岩出山領(岩出山藩)
- 仙台藩重臣・岩出山伊達家(維新後に男爵)の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 5]。
- 伊達政宗は1591年から岩出山城を本拠とし、1603年に仙台城に移転した。
- □ 登米領(登米藩)
- 仙台藩重臣・登米伊達家の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 6]。
- □ 涌谷領(涌谷藩)
- 仙台藩重臣・涌谷伊達家の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 7]。
- □ 角田領(角田藩)
- 仙台藩重臣・角田石川家の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 8]。
- □ 亘理領(亘理藩)
- 仙台藩重臣・亘理伊達家(維新後に男爵)の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 9]。
- □ 白石領(白石藩)
- 仙台藩重臣・片倉氏(維新後に男爵)の万石以上の領分。この白石城主片倉家について「白石藩」と呼称されることがある。
白石藩(旧盛岡藩)
[編集]陸奥国(3) 福島県
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[編集]- 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:20藩
- 白河 - 白河新田 - 棚倉 - 浅川 - 石川 - 三春 - 守山 - 泉 - 菊多(窪田藩) - 磐城平 - 湯長谷 - 中村 - [白石] - 二本松 - 桑折 - 下手渡 - 梁川 - 下村 - 福島 - 岩瀬 - 会津
- 『藩史大辞典』目次:20藩
- 中村(相馬)藩 - 三春藩 - 守山藩 - 平(磐城)藩 - 湯長谷藩 - 泉藩 - 窪田(菊田)藩 - 白河藩 - 白河新田藩 - 石川藩 - 浅川藩 - 棚倉藩 - 梁川藩 - 下村藩 - 桑折藩 - 下手渡藩 - 福島藩 - 二本松藩 - 会津藩 - 大久保(岩瀬)藩
- 『藩と城下町の事典』:20藩
- 会津藩 - 中村藩(相馬藩) - 磐城平藩(平藩・磐城藩) - 白河藩 - 福島藩 - 二本松藩 - 三春藩 - 泉藩 - 湯長谷藩 - 菊多藩(窪田藩) - 石川藩 - 浅川藩 - 守山藩 - 棚倉藩 - 白河新田藩 - 桑折藩 - 梁川藩 - 下手渡藩 - 下村藩 - 岩瀬藩(大久保藩)
宇多郡
[編集]- 関ヶ原時 - 相馬義胤:6万石[4]。小高に居城[4]。
- 慶長7年(1602年) - 相馬利胤再封:4万8700石[3]
- 慶長8年(1603年) - 牛越から小高に移る[3]
- 慶長16年(1611年) - 相馬利胤、小高から中村に移転[4][3]。
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
伊達郡
[編集]- ■ 梁川藩
- 天和3年(1683年) - 松平義昌新封[12][3]。
- 享保14年(1729年) - 松平義真除封/松平通春再封[3]
- 享保15年(1730年) - 松平通春(のちの徳川宗春)、尾張藩を継ぎ廃藩[12]。
- 文化4年(1807年) - 松前章広入封(松前福山より)[12]。9000石での減転封[3]。
- 文政4年(1821年) - 松前章広転出(福山へ)[12]。加転封[3]。
- ■ 桑折藩
信夫郡
[編集]- 延宝7年(1679年) - 本多忠国入封[12][3]。
- 天和2年(1682年) - 本多忠国転出(姫路へ)[12][3]。
- 貞享3年(1686年) - 堀田正仲入封[12][3]。
- 元禄13年(1700年) - 堀田正虎転出[12][3]。
- 元禄15年(1702年) - 板倉重寛入封[12][3]。
- 明治2年(1869年) - 板倉勝達転出(三河重原へ)[12][3]。
安達郡・田村郡・岩瀬郡
[編集]- 寛永4年(1627年) - 松下重綱入封[4][3]。
- 明治元年(1868年) - 丹羽長国除封、丹羽長裕再封:5万石[3]
- 『角川新版日本史辞典』では減封として扱う
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
- 寛永4年(1627年) - 加藤明利入封[4][3]。
- 正保元年(1644年) - 松下長綱除封[4][3]。
- 正保2年(1645年) - 秋田俊季入封[4][3]。
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
白河藩とその支藩
[編集]- 寛永4年(1627年) - 丹羽長重入封[4][13]
- 寛永20年(1643年) - 丹羽光重転出/榊原忠次入封[13]
- 慶安2年(1649年) - 榊原忠次転出/本多忠義入封[13]
- 天和元年(1681年) - 本多忠平転出/松平忠弘入封[13]
- 元禄5年(1692年) - 松平忠弘転出/松平直矩入封[13]
- 享保12年(1727年) - 松平明矩転出/久松松平定賢入封[13]
- 文政6年(1823年) - 松平定永転出/阿部正権入封[13]
- 慶応2年(1866年) - 阿部正静移封(棚倉へ)[4][13]。幕領となる[4]。
- 慶応4年(1868年) - 白河城落城(※戊辰戦争・白河口の戦い)
- 明治2年(1869年) - 白河県設置
-要検証
- 慶応2年から明治2年までの動きは書籍により違いがある。『日本大百科全書(ニッポニカ)』では「1867年(慶応3)棚倉移封」「翌年また白河に復帰」とある。
- ■ 浅川藩
- ■ 石川藩
- ■ 白河新田藩
棚倉藩
[編集]- 慶長8年(1603年) - 立花宗茂入封[4][13]。居城は中世以来の山城である赤館城[14][15]。
- 元和6年(1620年) - 立花宗茂転出(筑後柳川へ)[4][13]
- 元和8年(1622年) - 丹羽長重入封(常陸江戸崎から)[4][13]
- 寛永2年(1625年) - 棚倉城築城[14]。『角川日本史辞典』は、この年に藩庁が赤館城から棚倉城に移るという[4]。
- 寛永4年(1627年)
- 宝永2年(1705年) - 内藤*信転出/太田資晴入封[13]
- 享保13年(1728年) - 太田資晴転出/越智松平武元入封[13]
- 延享3年(1746年) - 松平武元転出/小笠原長恭入封[13]
- 文化14年(1817年) - 小笠原長昌転出/井上正甫入封[13]
- 天保7年(1836年) - 井上正春転出/松井松平康爵入封[13]
- 慶応2年(1866年) - 松平康英転出/阿部正静入封(白河より)[13]
- 明治元年(1868年) - 阿部正静除封、阿部正功再封:6万石[13]
- |『角川新版日本史辞典』では減封として扱う
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
菊多郡・磐前郡
[編集]- 関ヶ原時 - 岩城貞隆:12万石[4][3]。
- 1600年 - 岩城貞隆除封[3]
- 1602年 - 鳥居忠政入封(下総矢作より)[3]
- 1622年 - 鳥居忠政転出/内藤政長入封[3]
- 1747年 - 内藤政樹転出/井上正経入封[3]
- 1756年 - 井上正経移封(大坂城代就任により摂津等4か国内へ)/安藤信成入封[3]
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
- 寛文10年(1670年) - 遠山政亮(内藤頼直)、磐城平藩より1万石分封[4][3]。湯本に住す[4][3]。
- 延宝4年(1676年) - 湯本から湯長谷に移る[4][3]。
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
- 元和8年(1622年) - 内藤忠興新封[4]。
- 寛永11年(1634年) - 内藤政晴、磐城平藩から分与され2万石[3](内藤忠興の磐城平藩襲封前の領地[3])
- 寛文8年(1668年) - 内藤政親、高月から泉に移る[3]
- 元禄15年(1702年) - 内藤政森転出(上野安中へ)/板倉重同入封(上野安中から)[3]
- 延享3年(1746年) - 板倉勝清転出(遠江相良へ)/本多忠如入封(遠江相良から)[3]
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
- ■ 窪田藩(菊多藩・菊田藩)
- 『菊多藩』 - コトバンク
- 『菊田藩』 - コトバンク
- 『窪田藩』 - コトバンク(参照見出し)
- △『角川新版日本史辞典』は「菊多」を藩名とし「別称:窪田藩」を挙げる。
- △『日本史広辞典』は藩名「菊多(窪田)」[13]
会津郡
[編集]- 関ヶ原時 - 上杉景勝:120万石
- 慶長3年(1598年) - 上杉景勝入封(越後春日山より)[3]。
- 慶長6年(1601年) - 上杉景勝転出/蒲生秀行入封[3]
- 寛永4年(1627年) - 蒲生忠郷除封/加藤嘉明入封[3]
- 寛永20年(1643年) - 加藤明成除封/保科正之入封[3]
- 明治2年(1869年) - 松平容大移封(斗南へ)、廃藩[12][3]。
出羽国(1) 秋田県
[編集]※
[編集]- 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:9藩
- 久保田(秋田藩) - 久保田新田 - 亀田 - 仁賀保 - 本荘 - 矢島 - 角館 - 岩崎 - 横手
- 『藩史大辞典』目次:9藩
- 秋田(久保田・佐竹)藩 - 秋田新田藩 - 秋田新田(岩崎)藩 - 角館藩 - 横手藩 - 亀田藩 - 本荘藩 - 仁賀保藩 - 矢島藩
- 『藩と城下町の事典』:10藩
- 角館藩 - 六郷藩 - 横手藩 - 仁賀保藩 - 久保田藩(秋田藩) - 久保田新田藩(秋田新田藩) - 本荘藩 - 岩崎藩 - 亀田藩 - 矢島藩
久保田藩(秋田藩)とその支藩・重臣領
[編集]- ■ 久保田藩(秋田藩)
- ■ 久保田新田藩
- 元禄14年(1701年) - 佐竹義都、久保田藩(佐竹義処)から分知される【久保田藩支藩】[12](廩米1万石分与[13])。
- 享保17年(1732年) - 佐竹義堅のとき、本藩に併合[12][13]。
- 元禄14年(1701年) - 佐竹義長、久保田藩(佐竹義処)から新田分知【久保田藩支藩】[12](廩米2万石分与[13])。独立の領地は持たない[16]。
- 明治元年(1868年) - 河辺郡椿台に居地を構える[16]
- 明治2年(1869年) - 雄勝郡岩崎に移る[16](『日本史広辞典』は岩崎への移転と岩崎藩への改称を1870年とする[13])
- 明治3年(1870年) - 岩崎村など35か村を領地とする[16]。佐竹義諶が岩崎藩知事となる[16](岩崎藩に改称[12]。)。
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
- □ 角館領
- 久保田藩重臣蘆名氏の万石以上の知行地。「城下町角館」と認識される町並みは蘆名氏時代に形成されたもの[17]
- 芦名氏に代わって入った佐竹北家は万石以下であるが、「藩」と呼称されることがあり、明治維新後に男爵となる。
- 慶長8年(1603年) - 蘆名義広、角館城主1万5000石[17]
- 元和6年(1620年) - 一国一城令により角館城破却[17]
- 承応2年(1653年) - 蘆名千鶴丸死去、蘆名家断絶
- 明暦2年(1656年) - 佐竹北家の佐竹義隣が角館所預となる[17]。3600石
仙北郡・平鹿郡
[編集]- □ 角館藩
- □ 六郷藩
- 『六郷政乗』 - コトバンク
- ※関ヶ原以前は4500石、関ヶ原後に常陸府中1万石の大名となる。加増と移封が同時であるならば「六郷藩」は不成立。
- △『藩と城下町の事典』は加増と移封に時間差があったとみなし、「六郷藩」を載せる。
- 関ヶ原時 - 六郷政乗
- 天正18年(1590年) - 六郷政乗は4500石余を知行、居城は六郷城(仙北郡六郷町)[18]。
- 慶長5年(1600年) - 『藩と城下町の事典』は、この年に加増を受け1万石となり立藩とする[18]。
- 慶長7年(1602年) - 移封(常陸府中へ)[18]。
- □ 横手藩
由利郡
[編集]- ■ 亀田藩
- ■ 本荘藩
- ■ 仁賀保藩
- ■ 矢島藩
- 元和9年(1623年) - 生駒高俊入封:1万石[12]。
- 万治2年(1659年) - 分知を行い8000石[12]。
- 明治元年(1868年) - 生駒親敬、大名となる:1万5200石[12]。
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
出羽国(2) 山形県
[編集]※
[編集]- 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:14藩
- 松山 … 左沢 - 上山 - 天童 - 長瀞 - 村山 - 山形 - 新庄 - 高畠 - 米沢 - 米沢新田 - 鶴岡(庄内藩・大泉藩) - 大山 - 丸岡
- 『藩史大辞典』目次:14藩
- 新庄藩 - 庄内(鶴岡・大泉)藩 - 大山藩 - 左沢藩 - 松山(松嶺)藩 - 丸岡藩 - 村山藩 - 長瀞藩 - 天童藩 - 山形藩 - 上山藩 - 高畠藩 - 米沢藩 - 米沢新田藩
- 『藩と城下町の事典』:13藩
- 山形藩 - 庄内藩(鶴岡藩・大泉藩) - 米沢藩 - 米沢新田藩 - 新庄藩 - 松山藩(松嶺藩) - 長瀞藩 - 大山藩 - 天童藩 - 左沢藩 - 上山藩 - 村山藩 - 高畠藩
田川郡・飽海郡
[編集]- ■ 庄内藩(鶴岡藩・大泉藩)
- 元和8年(1622年) - 酒井忠勝入封[19][13]。
- 明治元年(1868年) - 酒井忠篤除封:16万7000石(17万石格)[13]
- 明治2年(1869年) - 酒井忠宝再封:12万石[13]。大泉藩に改称[19][13]。
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
- ■ 大山藩
- ■ 出羽松山藩(松嶺藩)
- ■ 出羽丸岡藩
最上郡
[編集]- ■ 新庄藩
村山郡
[編集]- 関ヶ原時 - 最上義光:24万石[12][13](1602年に57万石[13])
- 元和8年(1622年) - 最上義俊除封/鳥居忠政入封[12][13]。
- 寛永13年(1636年) - 鳥居忠恒除封/保科正之入封[13]
- 寛永20年(1643年) - 保科正之転封(会津へ)[19][13]。
- 正保元年(1644年) - 松平直基入封[19][13]。
- 慶安元年(1648年) - 松平直基転出(姫路へ)/奥平松平忠弘転入(姫路から)[13]
- 寛文8年(1668年) - 松平忠弘転出/奥平昌能入封[13]
- 貞享2年(1685年) - 奥平昌能転出/堀田正仲入封[13]
- 貞享3年(1686年) - 堀田正仲転出/松平直矩入封[13]
- 元禄5年(1692年) - 松平直矩転出/松平忠弘再封[13]
- 元禄13年(1700年) - 松平忠雅転出/堀田正虎入封[13]
- 延享3年(1746年) - 堀田正亮転出/大給松平乗佑入封[13]
- 明和元年(1764年) - 松平乗佑転出[19][13]。
- 明和4年(1767年) - 秋元凉朝入封[19][13]。
- 弘化2年(1845年) - 秋元志朝転出/水野忠晴入封[13]
- 明治3年(1870年) - 水野忠弘移封(近江朝日山へ)[19][13]。
- ■ 上山藩
- 元和8年(1622年) - 能見松平重忠入封[12][13]。
- 寛永3年(1626年) - 松平重直転出/蒲生忠知新封[13]
- 寛永4年(1627年) - 蒲生忠知加転封(伊予松山へ)[13]
- 寛永5年(1628年) - 土岐頼行入封[13]
- 元禄5年(1692年) - 土岐頼殷転封(大坂城代に就任、摂津など3か国内へ)/金森頼旹減入封(飛騨高山より)[13]
- 元禄10年(1697年) - 金森頼旹加転封(美濃郡上へ)/藤井松平信通入封[13]
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県
置賜郡
[編集]- ■ 高畠藩
- ■ 米沢藩
- ■ 米沢新田藩
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」では「津軽高則のとき」
- ^ 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」の盛岡藩の項では6000石分与、七戸藩の項では蔵米6000俵分与。
- ^ 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」は単に減転封とする[1]。
- ^ 高野長英に関する記述で、父を「水沢藩士」「水沢藩の医師」とする事典がある[5]
- ^ 地方史において「岩出山伊達家の政治、制度や郡村の様子が記述された資料」を収録した資料集のタイトルが「岩出山沿革誌・岩出山藩制」[6]。北海道開拓関係で「岩出山藩」[7]。
- ^ 地方史において「登米藩史稿」と題した書籍がある[8]。
- ^ 地方史において「涌谷藩」が用いられた論文がある[9]。
- ^ 北海道開拓関係で「角田藩」[10]。
- ^ 地方史において「亘理藩」が用いられた論文がある[11]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au 『角川新版日本史辞典』, p. 1293.
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本大百科全書(ニッポニカ)』「松前藩」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj 『日本史広辞典』, p. 巻末79.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 『角川新版日本史辞典』, p. 1294.
- ^ “高野長英”. コトバンク. 2022年12月10日閲覧。
- ^ “岩出山町史”. 大崎市. 2022年12月10日閲覧。
- ^ “開拓初期:石狩川右岸流域-暮らし・社会【札幌開発建設部】治水100年”. 国土交通省北海道開発局札幌開発建設部. 2022年12月10日閲覧。
- ^ “登米町史編纂資料集. 其の1 (登米藩史稿)”. 2022年12月10日閲覧。
- ^ “涌谷藩家中の剣客鈴木直之進伝”. 2022年12月10日閲覧。
- ^ “開拓初期:夕張川流域-土地利用2(農業・市街地)【札幌開発建設部】治水100年”. 国土交通省北海道開発局札幌開発建設部. 2022年12月10日閲覧。
- ^ “亘理藩(伊達氏)世臣着坐列表”. 2022年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au 『角川新版日本史辞典』, p. 1295.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq 『日本史広辞典』, p. 巻末80.
- ^ a b c 『日本の城がわかる事典』「棚倉城」
- ^ a b 『日本の城がわかる事典』「赤館城」
- ^ a b c d e “岩崎藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2022年12月25日閲覧。
- ^ a b c d e 『藩と城下町の事典』, p. 60.
- ^ a b c 『藩と城下町の事典』, p. 61.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『角川新版日本史辞典』, p. 1296.
参考文献
[編集]外部リンク
[編集]- 和暦西暦対照表(近世) - 静岡県立中央図書館
- 大名家一覧|武鑑全集
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