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利用者:桂鷺淵/藩の一覧/01

蝦夷地

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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:2藩
    • 福山(松前藩) - 館
  • 『藩史大辞典』目次:2藩
    • 松前藩 - 館藩
  • 『藩と城下町の事典』
    • 松前藩(福山藩)

松前藩

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松前藩(福山藩・館藩)
※北海道にある松前氏の藩というくくり
松前藩』 - コトバンク
△『藩史大事典』目次には「松前藩」と「館藩」の2つの藩が挙げられる。
△『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」は「福山藩(通称:松前藩)」と「館藩」の2藩として扱う[1]
△『藩名・旧国名がわかる事典』は「福山藩〈北海道〉」・「館藩」を「松前藩」に誘導
△『日本史広辞典』は「松前(福山)」とし、1593年を起点とする。
  • 関ヶ原時 - 蠣崎慶広:石高無し[1]
    • 文禄2年(1593年) - 蠣崎慶広、豊臣秀吉より蝦夷地交易独占権承認[2]
    • 慶長5年(1600年) - 福山館の建設開始[2]。旧居館・徳山館(大館)の近傍
  • 慶長11年(1606年) - 福山館が完成、移転[2]
  • 慶長9年(1604年) - 徳川家康より蝦夷地交易独占権承認[2]
  • 享保4年(1719年) - 松前矩広:1万石格(それまでは無高)[2][1][3]
  • 文化4年(1807年) - 幕府、蝦夷地全土を直轄化。松前章広移封(陸奥梁川へ)[2][1]
  • 文政4年(1821年) - 松前章広復封[2][1]
  • 嘉永2年(1849年) - 幕府より築城命令[2]
  • 安政元年(1854年) - 松前福山城完成[2]
  • 安政2年(1855年) - 箱館開港にともない蝦夷地大部分が幕領編入[2]。陸奥梁川・出羽東根に替地3万石[3]:3万石格[3]
  • 慶応4年(1868年) - 厚沢部の館城に移転(館藩[2][1]:3万石[1]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

陸奥国(1) 青森県+岩手県(南部領以北)

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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:6藩
    • 弘前(津軽藩) - 黒石 - 斗南 - 八戸 - 七戸 - 盛岡(南部藩)
  • 『藩史大辞典』目次:6藩
    • 弘前(津軽)藩 - 黒石藩 - 斗南藩 - 盛岡(南部)藩 - 七戸藩 - [白石藩] - 八戸藩
  • 『藩と城下町の事典』:5藩
    • 弘前藩(津軽藩) - 七戸藩 - 八戸藩 - 黒石藩 - [水沢藩〔伊達村和〕] - [一関藩] - 盛岡藩

弘前藩とその支藩

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弘前藩
弘前藩』 - コトバンク
  • 関ヶ原時 - 津軽為信:4万5000石
    • 天正18年(1590年) - 津軽為信、堀越に居住[1]:4万5000石[1][3]
  • 慶長6年(1601年) - 上野で2000石加増→4万7000石[1]
  • 慶長16年(1611年) - 津軽信枚、堀越から弘前城に移転[1]
  • 明暦2年(1656年) - 津軽信政、津軽信英に5000石分与(のちの黒石藩)[1]:→4万2000石
  • 元禄2年(1689年) - 「黒石藩主」津軽信俗除封により4000石返還[1]:→4万6000石
  • 元禄11年(1698年) - 津軽政兕に4000石分与(のちの黒石藩)[1]:→4万2000石
  • 文化2年(1805年) - 津軽寧親のとき高直し:→7万石[1]
  • 文化5年(1808年) - 高直し[注釈 1]:→10万石[1]
  • 文化6年(1809年) - 津軽親足に蔵米6000俵分与、黒石藩成立[1]:弘前藩の表高は10万石のまま[1]
    • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」の津軽藩の項目では6000石分与、黒石藩の項目では蔵米6000石と表記[1]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
黒石藩
黒石藩』 - コトバンク
△『角川新版日本史辞典』は「黒石藩」の叙述を交代寄合時代から説き起こす。
△『日本史広辞典』は1809年から記載。
  • 明暦2年(1656年) - 津軽信英、弘前藩(津軽信政)より5000石を分知される[1]
  • 寛文2年(1662年) - 津軽信敏、津軽信純に1000石を分与[1]→4000石
  • 元禄2年(1689年) - 津軽信俗、無嗣のため4000石を本藩に返還[1]
  • 元禄11年(1698年) - 津軽政兕、改めて4000石を与えられる[1]
  • 文化6年(1809年) - 津軽親足、本藩より蔵米6000俵を分与→1万石【弘前藩支藩】[1][3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

斗南藩

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斗南藩
斗南藩』 - コトバンク
  • 明治2年(1869年) - 松平容大入封(会津より):3万石[1]
  • 明治4年(1871年) - 藩庁を五戸(三戸郡)から田名部(北郡)に移転[1][3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

盛岡藩とその支藩・重臣領

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盛岡藩
盛岡藩』 - コトバンク
  • 関ヶ原時 - 南部利直:10万石[1]
    • 天正18年(1590年) - 南部信直[3]
    • 天正19年(1591年) - 10万石[3]
    • 慶長3年(1598年) - 盛岡城築城開始
  • 寛永12年(1635年) - 三戸から盛岡に移る[3]
  • 寛文4年(1664年) - 南部重信南部直房に2万石を分与(八戸藩)[1]:→8万石
  • 天和3年(1683年) - 10万石格[1]
  • 元禄7年(1694年) - 南部行信南部政信に新田5000石(のちの七戸藩)、南部勝信に新田3000石を分与[1]
  • 文化5年(1808年) - 南部信敬のとき高直し:→20万石[1]
  • 文政2年(1819年) - 南部信隣に6000俵[注釈 2]を分与(七戸藩)[1]
  • 明治元年(1868年) - 南部利恭除封、白石に13万石で再封[3][注釈 3]
  • 明治2年(1869年) - 復封(白石より)[1]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
八戸藩
八戸藩』 - コトバンク
  • 寛文4年(1664年) - 南部直房、盛岡藩より2万石を分与【盛岡藩支藩】[1][3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
七戸藩
七戸藩』 - コトバンク
  • 元禄7年(1694年) - 南部政信、盛岡藩より新田5000石を分与[1]
  • 文政2年(1819年) - 南部信隣[1]南部信鄰[3]、本藩より蔵米6000俵を分与:計1万1000石【盛岡藩支藩】[1]
  • 明治元年(1868年) - 南部信民減封。1万石[3]または1万300石[1](表高と実高の差異?)
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
□ 遠野領
南部氏重臣・遠野南部氏(旧・八戸(根城)南部氏。維新後に男爵)の万石以上の領分。「遠野藩」「南部遠野藩」と呼称されることがある。

陸奥国(2) 岩手県(伊達領以南)+宮城県

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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:5藩
    • 一関 - 岩沼 - 仙台 - 伊達村和領 … 白石
  • 『藩史大辞典』目次:5藩
    • 白石藩 … 仙台藩 - 一関(田村)藩 - 伊達村和領 - 岩沼藩
  • 『藩と城下町の事典』:5藩
    • 水沢藩〔伊達村和〕 - 一関藩 - [盛岡藩] - 仙台藩 - 岩沼藩 - 白石藩

仙台藩とその支藩

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仙台藩
仙台藩』 - コトバンク
※仙台城の築城は1601年、伊達政宗が仙台に移転するのは1603年で、それ以前を「岩出山藩」と解することもある。
  • 関ヶ原時:伊達政宗
    • 天正19年(1591年) - 伊達政宗、出羽米沢から入封、58万石[3]。玉造郡岩出山に居城[1]
  • 慶長8年(1603年) - 岩出山から仙台に移る[1][3]
  • 明治元年(1868年) - 除封、伊達宗基再封28万石[3]
    • 『角川新版日本史辞典』では減封として扱う
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
一関藩
一関藩』 - コトバンク
  • 万治3年(1660年) - 伊達宗勝、仙台藩(伊達綱村)から3万石を分与される【仙台藩支藩】[1][3]
  • 寛文11年(1671年) - 全領を本藩に返還[1][3]
  • 天和2年(1682年) - 田村建顕、岩沼から3万石から入封[1][3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
岩沼藩
  • 万治3年(1660年) - 田村宗良、仙台藩(伊達綱村)から3万石を分与される【仙台藩支藩】[1]
  • 寛文2年(1662年) - 岩沼に居住[1]
  • 天和2年(1682年) - 田村建顕、一関に移る。廃藩[1]
中津山藩
△『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」では「伊達村和」で掲載[4]。wikipedia内情報によれば、『桃生町史』では「寺崎藩」と記載する。wikipedia内情報によれば「水沢藩」と呼称されることもあるが、これは伊達村和が「水沢伊達家」であったことによる誤りという。
  • 元禄8年(1695年) - 伊達村和、仙台藩(伊達綱村)から3万石を分与される【仙台藩支藩】[4]
  • 元禄12年(1699年) - 伊達村和除封[4]。領地は本藩に返還[4]

仙台藩の重臣領

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□ 水沢領(水沢藩
仙台藩重臣水沢伊達家の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 4]
□ 岩出山領(岩出山藩
仙台藩重臣岩出山伊達家(維新後に男爵)の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 5]
伊達政宗は1591年から岩出山城を本拠とし、1603年に仙台城に移転した。
□ 登米領(登米藩)
仙台藩重臣登米伊達家の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 6]
□ 涌谷領(涌谷藩)
仙台藩重臣涌谷伊達家の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 7]
□ 角田領(角田藩)
仙台藩重臣角田石川家の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 8]
□ 亘理領(亘理藩)
仙台藩重臣亘理伊達家(維新後に男爵)の万石以上の領分。藩と呼称されることがある[注釈 9]
□ 白石領(白石藩)
仙台藩重臣片倉氏(維新後に男爵)の万石以上の領分。この白石城主片倉家について「白石藩」と呼称されることがある。

白石藩(旧盛岡藩)

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白石藩
白石藩』 - コトバンク(言及ページ)
  • 明治元年(1868年) - 南部利恭入封(盛岡より)[4]
  • 明治2年(1869年) - 南部利恭移封(盛岡へ)、廃藩[4]

陸奥国(3) 福島県

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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:20藩
    • 白河 - 白河新田 - 棚倉 - 浅川 - 石川 - 三春 - 守山 - 泉 - 菊多(窪田藩) - 磐城平 - 湯長谷 - 中村 - [白石] - 二本松 - 桑折 - 下手渡 - 梁川 - 下村 - 福島 - 岩瀬 - 会津
  • 『藩史大辞典』目次:20藩
    • 中村(相馬)藩 - 三春藩 - 守山藩 - 平(磐城)藩 - 湯長谷藩 - 泉藩 - 窪田(菊田)藩 - 白河藩 - 白河新田藩 - 石川藩 - 浅川藩 - 棚倉藩 - 梁川藩 - 下村藩 - 桑折藩 - 下手渡藩 - 福島藩 - 二本松藩 - 会津藩 - 大久保(岩瀬)藩
  • 『藩と城下町の事典』:20藩
    • 会津藩 - 中村藩(相馬藩) - 磐城平藩(平藩・磐城藩) - 白河藩 - 福島藩 - 二本松藩 - 三春藩 - 泉藩 - 湯長谷藩 - 菊多藩(窪田藩) - 石川藩 - 浅川藩 - 守山藩 - 棚倉藩 - 白河新田藩 - 桑折藩 - 梁川藩 - 下手渡藩 - 下村藩 - 岩瀬藩(大久保藩)

宇多郡

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相馬中村藩(相馬藩・中村藩)
中村藩』 - コトバンク
相馬藩』 - コトバンク
  • 関ヶ原時 - 相馬義胤:6万石[4]。小高に居城[4]
  • 慶長7年(1602年) - 相馬利胤再封:4万8700石[3]
  • 慶長8年(1603年) - 牛越から小高に移る[3]
  • 慶長16年(1611年) - 相馬利胤、小高から中村に移転[4][3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

伊達郡

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梁川藩
  • 天和3年(1683年) - 松平義昌新封[12][3]
  • 享保14年(1729年) - 松平義真除封松平通春再封[3]
  • 享保15年(1730年) - 松平通春(のちの徳川宗春)、尾張藩を継ぎ廃藩[12]
  • 文化4年(1807年) - 松前章広入封(松前福山より)[12]。9000石での減転封[3]
  • 文政4年(1821年) - 松前章広転出(福山へ)[12]。加転封[3]
桑折藩
  • 元禄13年(1700年) - 松平忠尚、白河新田より入封[12][3]
  • 延享4年(1747年) - 上野篠塚に移封・廃藩[12][3]
下手渡藩
下手渡藩』 - コトバンク
  • 文化3年(1806年) - 立花種善入封(筑後三池より)[12][3]
  • 明治元年(1868年) - 立花種恭、陣屋を筑後三池に移す[12][3]

信夫郡

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福島藩
福島藩』 - コトバンク
福島藩(近世)』 - 角川地名大辞典(旧地名)
  • 延宝7年(1679年) - 本多忠国入封[12][3]
  • 天和2年(1682年) - 本多忠国転出(姫路へ)[12][3]
  • 貞享3年(1686年) - 堀田正仲入封[12][3]
  • 元禄13年(1700年) - 堀田正虎転出[12][3]
  • 元禄15年(1702年) - 板倉重寛入封[12][3]
  • 明治2年(1869年) - 板倉勝達転出(三河重原へ)[12][3]
陸奥下村藩
下村藩(近世)』 - 角川地名大辞典(旧地名)
  • 天明7年(1787年) - 田沼意明入封[12]
  • 文政6年(1823年) - 田沼意正移封[12]

安達郡・田村郡・岩瀬郡

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二本松藩
二本松藩』 - コトバンク
  • 寛永4年(1627年) - 松下重綱入封[4][3]
  • 明治元年(1868年) - 丹羽長国除封丹羽長裕再封:5万石[3]
    • 『角川新版日本史辞典』では減封として扱う
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
三春藩
三春藩』 - コトバンク
守山藩
守山藩』 - コトバンク
岩瀬藩(大久保藩)
岩瀬藩』 - コトバンク
  • 天和2年(1682年) - 本多政利入封[12]
  • 元禄6年(1693年) - 本多政利除封[12]
□ 長沼藩
長沼藩(近世) - 角川地名大辞典
常陸府中藩

白河藩とその支藩

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白河藩
白河藩』 - コトバンク
『日本史広辞典』は1866年廃藩[13]、『角川新版日本史辞典』は1869年廃藩[4]
  • 寛永4年(1627年) - 丹羽長重入封[4][13]
  • 寛永20年(1643年) - 丹羽光重転出榊原忠次入封[13]
  • 慶安2年(1649年) - 榊原忠次転出本多忠義入封[13]
  • 天和元年(1681年) - 本多忠平転出松平忠弘入封[13]
  • 元禄5年(1692年) - 松平忠弘転出松平直矩入封[13]
  • 享保12年(1727年) - 松平明矩転出久松松平定賢入封[13]
  • 文政6年(1823年) - 松平定永転出阿部正権入封[13]
  • 慶応2年(1866年) - 阿部正静移封(棚倉へ)[4][13]。幕領となる[4]
  • 慶応4年(1868年) - 白河城落城(※戊辰戦争・白河口の戦い
  • 明治2年(1869年) - 白河県設置

-要検証

  • 慶応2年から明治2年までの動きは書籍により違いがある。『日本大百科全書(ニッポニカ)』では「1867年(慶応3)棚倉移封」「翌年また白河に復帰」とある。
浅川藩
  • 寛文2年(1662年) - 本多忠以、白河藩(本多忠平)から1万石を分与される【白河藩本多家支藩】[4]
  • 天和元年(1681年) - 移封(三河伊保へ)[4]
石川藩
  • 寛文2年(1662年) - 本多忠利、白河藩(本多忠平)から1万石を分与される【白河藩本多家支藩】[4]
  • 天和元年(1681年) - 移封(三河挙母へ)[4]
白河新田藩
  • 元禄元年(1688年) - 松平忠尚:2万石【白河藩奥平松平家支藩】[4]
  • 元禄13年(1700年) - 移封(桑折へ)[4]

棚倉藩

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棚倉藩
棚倉藩』 - コトバンク
赤館城』 - コトバンク
棚倉城』 - コトバンク
  • 慶長8年(1603年) - 立花宗茂入封[4][13]。居城は中世以来の山城である赤館城[14][15]
  • 元和6年(1620年) - 立花宗茂転出(筑後柳川へ)[4][13]
  • 元和8年(1622年) - 丹羽長重入封(常陸江戸崎から)[4][13]
  • 寛永2年(1625年) - 棚倉城築城[14]。『角川日本史辞典』は、この年に藩庁が赤館城から棚倉城に移るという[4]
  • 寛永4年(1627年)
    • - 棚倉城完成[14]。『日本の城がわかる事典』は、棚倉城の完成後に藩庁移転とする[15]
    • - 丹羽長重転出内藤信照入封[13]
  • 宝永2年(1705年) - 内藤*信転出太田資晴入封[13]
  • 享保13年(1728年) - 太田資晴転出越智松平武元入封[13]
  • 延享3年(1746年) - 松平武元転出小笠原長恭入封[13]
  • 文化14年(1817年) - 小笠原長昌転出井上正甫入封[13]
  • 天保7年(1836年) - 井上正春転出松井松平康爵入封[13]
  • 慶応2年(1866年) - 松平康英転出阿部正静入封(白河より)[13]
  • 明治元年(1868年) - 阿部正静除封阿部正功再封:6万石[13]
    • |『角川新版日本史辞典』では減封として扱う
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

菊多郡・磐前郡

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磐城平藩
磐城平藩』 - コトバンク
平藩』 - コトバンク
  • 関ヶ原時 - 岩城貞隆:12万石[4][3]
  • 1600年 - 岩城貞隆除封[3]
  • 1602年 - 鳥居忠政入封(下総矢作より)[3]
  • 1622年 - 鳥居忠政転出内藤政長入封[3]
  • 1747年 - 内藤政樹転出井上正経入封[3]
  • 1756年 - 井上正経移封(大坂城代就任により摂津等4か国内へ)/安藤信成入封[3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
湯長谷藩
湯長谷藩』 - コトバンク
  • 寛文10年(1670年) - 遠山政亮(内藤頼直)、磐城平藩より1万石分封[4][3]。湯本に住す[4][3]
  • 延宝4年(1676年) - 湯本から湯長谷に移る[4][3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
泉藩
泉藩』 - コトバンク
△『日本史広辞典』は1634年を起点とする
  • 元和8年(1622年) - 内藤忠興新封[4]
  • 寛永11年(1634年) - 内藤政晴、磐城平藩から分与され2万石[3](内藤忠興の磐城平藩襲封前の領地[3]
  • 寛文8年(1668年) - 内藤政親、高月から泉に移る[3]
  • 元禄15年(1702年) - 内藤政森転出(上野安中へ)/板倉重同入封(上野安中から)[3]
  • 延享3年(1746年) - 板倉勝清転出(遠江相良へ)/本多忠如入封(遠江相良から)[3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
窪田藩(菊多藩・菊田藩)
菊多藩』 - コトバンク
菊田藩』 - コトバンク
窪田藩』 - コトバンク(参照見出し)
△『角川新版日本史辞典』は「菊多」を藩名とし「別称:窪田藩」を挙げる。
△『日本史広辞典』は藩名「菊多(窪田)」[13]

会津郡

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会津藩
会津藩』 - コトバンク
  • 関ヶ原時 - 上杉景勝:120万石
    • 慶長3年(1598年) - 上杉景勝入封(越後春日山より)[3]
  • 慶長6年(1601年) - 上杉景勝転出蒲生秀行入封[3]
  • 寛永4年(1627年) - 蒲生忠郷除封加藤嘉明入封[3]
  • 寛永20年(1643年) - 加藤明成除封保科正之入封[3]
  • 明治2年(1869年) - 松平容大移封(斗南へ)、廃藩[12][3]

出羽国(1) 秋田県

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久保田
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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:9藩
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  • 『藩史大辞典』目次:9藩
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久保田藩(秋田藩)とその支藩・重臣領

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久保田藩(秋田藩)
  • 関ヶ原時 - 秋田実季:5万2000石[12]
  • 慶長7年(1602年) - 佐竹義宣入封[13]
  • 慶長9年(1604年) - 土崎湊から久保田に移る[13]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
久保田新田藩
  • 元禄14年(1701年) - 佐竹義都、久保田藩(佐竹義処)から分知される【久保田藩支藩】[12](廩米1万石分与[13])。
  • 享保17年(1732年) - 佐竹義堅のとき、本藩に併合[12][13]
岩崎藩(久保田新田藩)
岩崎藩』 - コトバンク
  • 元禄14年(1701年) - 佐竹義長、久保田藩(佐竹義処)から新田分知【久保田藩支藩】[12](廩米2万石分与[13])。独立の領地は持たない[16]
  • 明治元年(1868年) - 河辺郡椿台に居地を構える[16]
  • 明治2年(1869年) - 雄勝郡岩崎に移る[16](『日本史広辞典』は岩崎への移転と岩崎藩への改称を1870年とする[13]
  • 明治3年(1870年) - 岩崎村など35か村を領地とする[16]佐竹義諶が岩崎藩知事となる[16](岩崎藩に改称[12]。)。
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
□ 角館領
久保田藩重臣蘆名氏の万石以上の知行地。「城下町角館」と認識される町並みは蘆名氏時代に形成されたもの[17]
芦名氏に代わって入った佐竹北家は万石以下であるが、「藩」と呼称されることがあり、明治維新後に男爵となる。
  • 慶長8年(1603年) - 蘆名義広、角館城主1万5000石[17]
  • 元和6年(1620年) - 一国一城令により角館城破却[17]
  • 承応2年(1653年) - 蘆名千鶴丸死去、蘆名家断絶
  • 明暦2年(1656年) - 佐竹北家の佐竹義隣が角館所預となる[17]。3600石

仙北郡・平鹿郡

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角館藩
  • 関ヶ原時:戸沢政盛
    • 天正18年(1590年) - 戸沢政盛は4万4000石余(4万石[12]、4万4300石[13])を安堵[17]
  • 慶長7年(1602年) - 戸沢政盛移封(常陸松岡へ)[12][13]
六郷藩
六郷政乗』 - コトバンク
※関ヶ原以前は4500石、関ヶ原後に常陸府中1万石の大名となる。加増と移封が同時であるならば「六郷藩」は不成立。
△『藩と城下町の事典』は加増と移封に時間差があったとみなし、「六郷藩」を載せる。
  • 関ヶ原時 - 六郷政乗
  • 天正18年(1590年) - 六郷政乗は4500石余を知行、居城は六郷城(仙北郡六郷町)[18]
  • 慶長5年(1600年) - 『藩と城下町の事典』は、この年に加増を受け1万石となり立藩とする[18]
  • 慶長7年(1602年) - 移封(常陸府中へ)[18]
横手藩
  • 関ヶ原時 - 小野寺義道:4万石[12]
  • 慶長5年(1600年) - 小野寺義道改易[12]

由利郡

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亀田藩
  • 元和9年(1623年) - 磐城吉隆(佐竹義龍)入封[12][13]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
本荘藩
  • 元和9年(1623年) - 六郷政乗入封[12][13]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
仁賀保藩
  • 元和9年(1623年) - 仁賀保挙誠:1万石[12]
  • 寛永2年(1625年) - 仁賀保挙誠の死後、遺領を3人が分割相続、廃藩[12]
矢島藩
  • 元和9年(1623年) - 生駒高俊入封:1万石[12]
  • 万治2年(1659年) - 分知を行い8000石[12]
  • 明治元年(1868年) - 生駒親敬、大名となる:1万5200石[12]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

出羽国(2) 山形県

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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:14藩
    • 松山 … 左沢 - 上山 - 天童 - 長瀞 - 村山 - 山形 - 新庄 - 高畠 - 米沢 - 米沢新田 - 鶴岡(庄内藩・大泉藩) - 大山 - 丸岡
  • 『藩史大辞典』目次:14藩
    • 新庄藩 - 庄内(鶴岡・大泉)藩 - 大山藩 - 左沢藩 - 松山(松嶺)藩 - 丸岡藩 - 村山藩 - 長瀞藩 - 天童藩 - 山形藩 - 上山藩 - 高畠藩 - 米沢藩 - 米沢新田藩 
  • 『藩と城下町の事典』:13藩
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田川郡・飽海郡

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庄内藩(鶴岡藩・大泉藩)
  • 元和8年(1622年) - 酒井忠勝入封[19][13]
  • 明治元年(1868年) - 酒井忠篤除封:16万7000石(17万石格)[13]
  • 明治2年(1869年) - 酒井忠宝再封:12万石[13]。大泉藩に改称[19][13]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
大山藩
  • 正保4年(1647年) - 酒井忠解、鶴岡藩(酒井忠当)より分知【庄内藩支藩】[19]
  • 寛文8年(1668年) - 酒井忠解除封[19]
出羽松山藩(松嶺藩)
  • 正保4年(1647年) - 酒井忠恒、鶴岡藩(酒井忠当)より分知【庄内藩支藩】[12][13]
  • 明治2年(1869年) - 松嶺藩に改称[12][13]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
出羽丸岡藩
  • 寛永9年(1632年) - 加藤忠広入封[19]
  • 承応2年(1653年) - 加藤忠広除封[19]

最上郡

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新庄藩
  • 元和8年(1622年) - 戸沢政盛入封[19][13]。真室に居城[19]
  • 寛永2年(1625年) - 新庄に移転[19]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

村山郡

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長瀞藩
長瀞藩(近世)』 - 角川地名大辞典(旧地名)
  • 寛政10年(1798年) - 米津通政入封[12][13]
  • 明治2年(1869年) - 米津政敏転出(上総大網へ)[12][13]
左沢藩
左沢藩(近世)』 - 角川地名大辞典(旧地名)
  • 元和8年(1622年) - 酒井直次新封[12]
  • 寛永7年(1630年) - 酒井直次除封[12]
村山藩
村山藩(近世)』 - 角川地名大辞典(旧地名)
  • 天和2年(1682年) - 本多利長入封[12]
  • 元禄12年(1699年) - 本多助芳転出[12]
天童藩
天童藩(近世)』 - 角川地名大辞典(旧地名)
  • 天保元年(1830年) - 織田信美移転(高畠より)[12][13]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
山形藩
山形藩(近世)』 - 角川地名大辞典(旧地名)
  • 関ヶ原時 - 最上義光:24万石[12][13](1602年に57万石[13]
  • 元和8年(1622年) - 最上義俊除封鳥居忠政入封[12][13]
  • 寛永13年(1636年) - 鳥居忠恒除封保科正之入封[13]
  • 寛永20年(1643年) - 保科正之転封(会津へ)[19][13]
  • 正保元年(1644年) - 松平直基入封[19][13]
  • 慶安元年(1648年) - 松平直基転出(姫路へ)/奥平松平忠弘転入(姫路から)[13]
  • 寛文8年(1668年) - 松平忠弘転出奥平昌能入封[13]
  • 貞享2年(1685年) - 奥平昌能転出堀田正仲入封[13]
  • 貞享3年(1686年) - 堀田正仲転出松平直矩入封[13]
  • 元禄5年(1692年) - 松平直矩転出松平忠弘再封[13]
  • 元禄13年(1700年) - 松平忠雅転出堀田正虎入封[13]
  • 延享3年(1746年) - 堀田正亮転出大給松平乗佑入封[13]
  • 明和元年(1764年) - 松平乗佑転出[19][13]
  • 明和4年(1767年) - 秋元凉朝入封[19][13]
  • 弘化2年(1845年) - 秋元志朝転出水野忠晴入封[13]
  • 明治3年(1870年) - 水野忠弘移封(近江朝日山へ)[19][13]
上山藩
  • 元和8年(1622年) - 能見松平重忠入封[12][13]
  • 寛永3年(1626年) - 松平重直転出蒲生忠知新封[13]
  • 寛永4年(1627年) - 蒲生忠知加転封(伊予松山へ)[13]
  • 寛永5年(1628年) - 土岐頼行入封[13]
  • 元禄5年(1692年) - 土岐頼殷転封(大坂城代に就任、摂津など3か国内へ)/金森頼旹減入封(飛騨高山より)[13]
  • 元禄10年(1697年) - 金森頼旹加転封(美濃郡上へ)/藤井松平信通入封[13]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

置賜郡

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高畠藩
  • 明和4年(1767年) - 織田信浮入封[19]
  • 天保元年(1830年) - 織田信美移転(天童へ)[19]
米沢藩
  • 慶長6年(1601年) - 上杉景勝、減入封(会津より)[19][13]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
米沢新田藩
  • 享保4年(1719年) - 上杉勝周、米沢藩(上杉吉憲)より新田分与【米沢藩支藩】[19][13]
  • 明治2年(1869年) - 上杉勝道のとき本藩に併合[19][13]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」では「津軽高則のとき」
  2. ^ 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」の盛岡藩の項では6000石分与、七戸藩の項では蔵米6000俵分与。
  3. ^ 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」は単に減転封とする[1]
  4. ^ 高野長英に関する記述で、父を「水沢藩士」「水沢藩の医師」とする事典がある[5]
  5. ^ 地方史において「岩出山伊達家の政治、制度や郡村の様子が記述された資料」を収録した資料集のタイトルが「岩出山沿革誌・岩出山藩制」[6]。北海道開拓関係で「岩出山藩」[7]
  6. ^ 地方史において「登米藩史稿」と題した書籍がある[8]
  7. ^ 地方史において「涌谷藩」が用いられた論文がある[9]
  8. ^ 北海道開拓関係で「角田藩」[10]
  9. ^ 地方史において「亘理藩」が用いられた論文がある[11]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au 『角川新版日本史辞典』, p. 1293.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本大百科全書(ニッポニカ)』「松前藩」
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj 『日本史広辞典』, p. 巻末79.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 『角川新版日本史辞典』, p. 1294.
  5. ^ 高野長英”. コトバンク. 2022年12月10日閲覧。
  6. ^ 岩出山町史”. 大崎市. 2022年12月10日閲覧。
  7. ^ 開拓初期:石狩川右岸流域-暮らし・社会【札幌開発建設部】治水100年”. 国土交通省北海道開発局札幌開発建設部. 2022年12月10日閲覧。
  8. ^ 登米町史編纂資料集. 其の1 (登米藩史稿)”. 2022年12月10日閲覧。
  9. ^ 涌谷藩家中の剣客鈴木直之進伝”. 2022年12月10日閲覧。
  10. ^ 開拓初期:夕張川流域-土地利用2(農業・市街地)【札幌開発建設部】治水100年”. 国土交通省北海道開発局札幌開発建設部. 2022年12月10日閲覧。
  11. ^ 亘理藩(伊達氏)世臣着坐列表”. 2022年12月10日閲覧。
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au 『角川新版日本史辞典』, p. 1295.
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq 『日本史広辞典』, p. 巻末80.
  14. ^ a b c 『日本の城がわかる事典』「棚倉城」
  15. ^ a b 『日本の城がわかる事典』「赤館城」
  16. ^ a b c d e 岩崎藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2022年12月25日閲覧。
  17. ^ a b c d e 『藩と城下町の事典』, p. 60.
  18. ^ a b c 『藩と城下町の事典』, p. 61.
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『角川新版日本史辞典』, p. 1296.

参考文献

[編集]
  • 二木謙一監修、工藤寛正編『藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年。 
  • 『角川新版日本史辞典』角川学芸出版、1996年。 
  • 『日本史広辞典』山川出版社、1997年。 

外部リンク

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