ポータルについて
ウィキポータル 王朝 へようこそ。このウィキポータルは王朝 と君主のポータル です。
関連ポータル: 歴史 - 第三帝国 - 世界遺産 - 戦争 - 古代ローマ - 人物伝 - 歴史学
特集記事
モンゴル帝国の版図の変遷 テムジンがチンギス・カンを名乗った1206年から1294年のモンゴル帝国(赤)の領域に続き、4つの領域国家のゆるやかな連邦体制に移行した帝国の版図を示した(1294年時点)。ジョチ・ウルス (黄)、チャガタイ・ウルス (濃緑)、イルハン朝 (緑)、大元ウルス (紫)である。モンゴル帝国 (モンゴルていこく)は、モンゴル高原 の遊牧民 を統合したチンギス・カン が1206年 に創設した遊牧国家 。中世モンゴル語 ではイェケ・モンゴル・ウルス (ᠶᠡᠭᠡ ᠮᠤᠨᠭᠭᠤᠯ ᠣᠯᠣᠰ Yeke Mongγol Ulus )すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。
モンゴル帝国の創始者チンギス・カン と『四駿四狗 』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ 、アナトリア (現在のトルコ )、シリア 、南はアフガニスタン 、チベット 、ミャンマー 、東は中国 、朝鮮半島 まで、ユーラシア大陸 を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋 全てに面していた。
モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン )を中心に、各地に分封されたチンギス・カン の子孫の王族たちが支配する国(ウルス )が集まって形成された連合国家の構造をなした。
中国とモンゴル高原 を中心とする、現在の区分でいう東アジア 部分を統治した第5代皇帝のクビライ は1271年 に、大都 (現在の北京 )に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国 と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀 にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年 の北元 滅亡まで存続した。また、チンギス・カン の末裔 を称する王家たちは実に20世紀 に至るまで、中央ユーラシア の各地に君臨し続けることになる。
今日の1年
1206年
誕生
死去
今日の君主
アヤソフィア のモザイク画:聖母子にコンスタンティノポリス の街を捧げるコンスタンティヌス1世(顔の部分を拡大)
コンスタンティヌス1世 (ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス 古典ラテン語 :Gaius Flavius Valerius Constantinus ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス 、270年 代前半の2月27日 -337年 5月22日 )は、ローマ帝国 の皇帝 (在位:306年 -337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院 からマクシムス(Maximus 、偉大な/大帝)の称号を与えられた。
ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教 を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の1人であり、ローマカトリック 、正教会 、東方諸教会 、東方典礼カトリック教会 など、主要な宗派において聖人 とされている。また、コンスタンティヌス1世が自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープル (現:イスタンブル )は、その後東ローマ帝国 (ビザンツ帝国)の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした。