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特集項目 - 政治[編集 ]
フォルム・ロマヌム のクリア・ユリア
元老院 (げんろういん、ラテン語: senātus、セナートゥス)は、古代ローマの政治機関。ローマ を指す言葉にSPQR があるが、これは"Senatus Populusque Romanus" (ローマの元老院と市民)の略である。
共和政 では、元老院は建前上執政官 の諮問機関であったが、執政官やプラエトル といった高位政務官 の経験者を議員 とし、また高位政務官に選出されるパトリキ (貴族)は多数のクリエンテス を抱えることにより、選挙機関であり立法機関でもある民会 に多大な影響を与えていたため、その実体は外交・内政などの決定において無視できない存在であった。特に立法においては、提出された法案や、民会において可決された法に対して、元老院による承認(アウクトリタス・パトルム)が必要とされるなど、影響力が大きかった。また元老院決議によって、市民に対してある程度の拘束力を発揮することができ、中でもセナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム (元老院最終勧告)は両執政官に対して治安維持を命じる強力なものだった。
その影響力のため、大規模な商業に携わることを禁止されるなど、元老院議員には高い道徳性が求められ、ケンソル (監察官)による選別(レクティオ・セナトゥス)を経てその名簿が改訂され、その資格なしとされたものは除籍された。時代が下るにつれその定員数は拡張し、クァエストル や護民官 を経験したプレブス (平民)にも、議員になる資格が与えられた。
元老院議員は戦時においては部隊の指揮官として戦場に赴くことが多く、戦死することも少なくなかった。特にカンナエの戦い では多数の議員が戦死し、ハンニバル はその指輪を集めてカルタゴ 本国へと送ったという。軍の指揮権であるインペリウム は通常執政官やプラエトル、プロコンスル に与えられたが、議員もコンシリウム(作戦会議)において発言することが出来た……続きを読む
特集項目 - 軍事[編集 ]
ロリカ・セグメンタタ を身に纏うローマ兵
ローマ軍団 (古典ラテン語 :legio 、レギオー)は、古代ローマ における軍隊 (excercitus )のうち陸軍 の基本的な編成単位のことである。軍団はローマ市民権 を有する者だけで構成されていた。
王政ローマ 時代の「レギオー 」は、古代ギリシア 伝来の重装歩兵 であった。6代目ローマ王セルウィウス・トゥッリウス はケンスス (国勢調査)を行い、市民を資産ごとに階級分けし、エクィテス (騎兵)などのケントゥリア (百人隊)に登録し、兵役義務を課すように改革を行った。ケントゥリアは軍事単位であると同時に、ケントゥリア民会 における行政単位でもあり、資産のない無産階級は兵役を免除された。
共和政ローマ にもそれは受け継がれたが、三列の陣形が採用されるにつれ、階級よりも年齢によって振り分けられるようになり、マニプルス (中隊)単位で動くようになった。兵士の主力は資産家から中産階級へ移っていき、彼らの力でローマはイタリアを統一し、更に海外へとその支配権を広げていく。
しかし、共和政後期には海外の属州 が増え、市民兵のシステムは限界を迎えていた。社会状況の変化を受け、紀元前2世紀 後半にマリウスの軍制改革 と呼ばれる刷新がなされ、これまで活用されていなかった無産階級が取り込まれた。軍団はマニプルスからコホルス (大隊)単位で動くようになり、より柔軟性が増したことでその強さを取り戻すと同時に、これまでとは全く別の組織に変質していった。軍団兵はプロ化し、軍団に依存するようになり、国家よりも指揮官に忠誠を誓う者が増えることで、後の帝政ローマ につながったと考えられている……続きを読む
特集項目 - 文化[編集 ]
コロッセウム で発掘されたラテン語 の石版
ラテン語 (ラテンご、ラテン語 : Lingua Latina 、リングワ・ラティーナ)とは、インド・ヨーロッパ語族 のイタリック語派 の言語 の一つ。ラテン・ファリスク語群 。ローマ帝国 の公用語 として広く普及し、帝国滅亡後も西ヨーロッパを中心に広く使われた。現在、日常で使われることはほとんどなくなっているが、今なお専門用語 ・学術用語 ・祭祀宗教用語 の分野では用いられ続けている。
もともと、 イタリア半島 中部のラティウム 地方(ローマ を中心とした地域、現イタリア ・ラツィオ州 )においてラテン人 により用いられていた言語であったが、ローマ帝国 の公用語 となったことにより、広大な版図に伝播した。ギリシア語 から多くの語彙を取り入れ、学問 ・思想 などの活動にも使用されるようになった。東ローマ帝国 においてはやがてギリシア語が優勢になったが、今日の西ヨーロッパに相当する地域においてはローマ帝国滅亡後もローマ・カトリック教会 の公用語となり、長らく文語 の地位を保った。現在でもバチカン市国 の公用語はラテン語である。たとえば典礼 は第2バチカン公会議 まで、ラテン語で行われていた。今日に至るまで数多くの作曲家が典礼文に曲をつけており、クラシック音楽 の中では主要な歌唱言語の1つである。ただし、実際の使用は公文書やミサ などに限られ、日常的に話されているわけではない。また、バチカンで使われるラテン語は、古典式とは異なる変則的なラテン語である。なお、多民族・多言語国家であるスイス ではラテン語の名称のアクロニム を自国名称の略 (CH) としている。
中世 においては公式文書や学術関係の書物の多くはラテン語(中世ラテン語 、教会ラテン語)で記され、この慣習は現在でも残っている。例えば、生物 の学名 はラテン語を使用する規則になっているほか、元素 の名前もラテン語がほとんどである。また法学 においても、多くのローマ法 の格言や法用語 が残っている。19世紀 までヨーロッパ各国の大学 では学位論文をラテン語で書くことに定められていた。
今日のロマンス諸語 (東ロマンス語 : イタリア語 ・ルーマニア語 、西ロマンス語 : スペイン語 ・フランス語 ・ポルトガル語 など)は、俗ラテン語 から派生した言語である。また、ドイツ語 ・オランダ語 ・英語 などのゲルマン諸語 にも文法 や語彙の面で多大な影響を与え……続きを読む
特集項目 - 人物[編集 ]
鼻の欠けたスッラの頭像
ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス (ラテン語 : Lucius Cornelius Sulla Felix 、 紀元前138年 - 紀元前78年 )は、共和政ローマ 期の軍人・政治家。マリウス・キンナ派との内乱に勝利した後、終身独裁官 (ディクタトル)に就任した。反対派に対しては激しい粛正を行ったものの、伝統的なローマの支配体制を立て直すことに尽力しており、「最後の共和主義者」と呼ぶ学者もいるなど、その評価の分かれる人物である。
キケロ が『カエリウス弁護』で述べているが、古代ローマ においては、若者の放蕩はある程度は許容されるものとみなされており、スッラもその例に漏れず、若い頃は自堕落な生活を送っている。著名なコルネリウス氏族 の出自ではあったが、スッラ家は傍系であり資産もなく、政界進出は遅れた。頭角を現し始めたのはユグルタ戦争 の頃である。ガイウス・マリウス 配下のクァエストル として騎兵を率いたスッラは、ボックス1世 の信頼を勝ち取り、ユグルタ を捕らえることに成功した。更にキンブリ・テウトニ戦争 でもその力量を発揮し、尊大なスッラはマリウスから疎まれ、ライバル視されるようになった。
44才でプラエトル に当選すると、翌年にはプロプラエトルとしてキリキア を担当し、パルティア とも交渉している。これ以外にも出過ぎた行為がありマリウスらとの決裂が決定的なものとなるが、続いて勃発した同盟市戦争 ではマリウスと互角の戦功を挙げ、その地保を固める。50才にして執政官 に当選すると、マリウスを抑えてミトリダテス戦争 のインペリウム を得るが、マリウス側がこのインペリウムを奪う法を通したため、ローマ へと兵を向け、マリウス派を追放した。
ミトリダテス戦争では本国からの支援が期待出来ない中、敵の大軍をカイロネイアの戦い などで幾度も破り、ついにポントゥス 王ミトリダテス6世 を屈服させる。しかしその頃ローマでは、スッラが執政官就任を許可したルキウス・コルネリウス・キンナ がその実権を握り、スッラ派を粛正していた。スッラは再度ローマへと侵攻することになる……続きを読む
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特集項目 - 王政ローマ
カステル・ガンドルフォ から見たアルバーノ湖 。アルバ・ロンガ はこの付近に存在したと言われている。
アルバ・ロンガ (Alba Longa) は、ラティウム にある古代ローマ の母市となったラテン人 の都市国家 。ローマの南東アルバーノ山地に位置したと考えられている。
その名はラテン語 で「長く白い都市」を意味する。
ローマの建国伝説 ではトロイア の英雄アエネアス はイタリア半島 に到着後、ラティウムの王ラティヌス の娘ラウィニア を娶り新市ラウィニウム を創建したとされる。その子アスカニウス (ユルス)がラウィニウムを義母ラウィニアに譲ったあと建設した都市がアルバ・ロンガである。
アスカニウスのあとアルバの王位はアエネアスとラウィニアの息子のシルウィウス が継ぎ、以降アルバの王家は「シルウィウス」を名乗った。アスカニウスから数えて12代目の王プロカ の死後、その息子ヌミトル とアムリウス の間で王位継承の争いが起こり弟のアムリウスが王位を簒奪する。しかしヌミトルの娘レア・シルウィア の産んだ双子の兄弟ロームルス とレムス は祖父の復位に協力し、アムリウスは倒されヌミトルがアルバ王となる。双子の兄弟はアルバの住人の一部を率い新たな都市を作るためアルバを去り、紀元前753年 にロームルスによってローマ市が創建された。
ローマの3代目の王トゥッルス・ホスティリウス は戦争を好む人物でアルバ・ロンガに戦争を仕掛けた。このときのアルバの王はガイウス・クルウィリウス であった。クルウィリウスはローマの近郊にまで進軍し陣を構えたがここで急死し、そのあとはメッティウス・フフェティウス が指揮を担当した。その後有名なホラティウス三兄弟 とクリアティウス三兄弟による決闘が行なわれローマ側が勝利し、アルバはローマに従った。しかしメッティウスはやがて裏切りを画策した末処刑され、ホスティリウスによってアルバは破壊されその住民はすべてローマのカエリウス丘 に移され……続きを読む
特集項目 - 共和政ローマ
キンブリ・テウトニ戦争 の勝者ガイウス・マリウス (1863年 )
紀元前509年 、ローマ王タルクィニウス・スペルブス の追放によって共和政ローマ が成立し、王の権能 はケントゥリア民会 によって選出される一年任期の2人の執政官 に受け継がれることになった。しかしこの執政官職や、国政のほぼ全てに関わる鳥卜権 をパトリキ (貴族)が独占していたため、プレプス (平民)と度々衝突することになる。
プレプスは護民官 の設置、十二表法 の成立、プレプスのみで開催されるプレブス民会 や、執政官の代わりに平民でも就任可能なトリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテ (執政武官)職の設置などを長い闘争を経てを勝ち取り、紀元前367年 のリキニウス・セクスティウス法 によって執政官職、紀元前300年 のオグルニウス法 によって神官職への就任を認められるようになった。
こうして法的にパトリキ と同様の地位を勝ち取ったプレプスからは、マニウス・クリウス・デンタトゥス のような英雄も現れ、第二次ポエニ戦争 期にはガイウス・フラミニウス やガイウス・テレンティウス・ウァロ のような敗将も生まれたが、力をつけていった氏族 は、徐々に体制に取り込まれていき、プレプスの権利を守るために創設された護民官の性格も変わっていく。執政官を出した氏族は、パトリキとプレプスを合わせて「名を知られたものたち」という意味のノビレス と呼ばれるようになり、共和政の後期にはノビレス同士に加え、主に地方出身のノウス・ホモ (新人)との生き残りをかけた熾烈な選挙戦を展開するようになる……続きを読む
特集項目 - 帝政ローマ
帝政時にローマ皇帝が治めた属州一覧
ローマ皇帝一覧 では、古代ローマ帝国 で正当と見なされたローマ皇帝 を年代順に列挙する。
ローマ皇帝 という名称は幾分、現代的な用法であって必ずしも当時の人間がその様に呼称したものではないし、時代毎に制度上の位置付けも変動している。しかしどうあれ、アウグストゥス 以降にローマという国家で定着した「個人に専制的な権限を与える習慣」を端的に表現する上で、的確な用語であると多くの場合で見なされている。古代にヨーロッパとその近隣で強大な勢力圏を作り上げたローマは、共和制 から君主制 へと大きく政治制度の改革を行い、議会政治 (「元老院及びローマ市民 」)から個人による独裁 への転換を事実上容認するようになった。
しかし、こうした体制を確立したアウグストゥス は元老院 (議会 )への配慮から共和制を建前上には維持する道を選び、「共和制における独裁」を模索した。従ってアウグストゥスはかつて存在した「ローマ王」や、それに比類する如何なる爵位や君主号を拒否した。その一方で共和制に存在した様々な役職や特権を自らや一族の独占とし、更に元老院 を監督する立場にあるプリンケプス・セナートゥス を終身の称号として受け取った。アウグストゥスと共に初期のローマ皇帝とされる人々も一様にこうした方策で独裁体制を築き上げたため、独裁的で血統主義的な要素(アウグストゥスも最後まで親類での権力継承を望んだ)を持ちつつも、議会が一定の力を維持していた。歴史学者達はこれを元首政 と呼び、単なる「専制的な君主制」とは異なるものであると評価し…続きを読む
特集項目 - 西ローマ
中世時代に描かれたカタラウヌムの戦い
カタラウヌムの戦い (カタラウヌムのたたかい, フランス語読みでシャロンの戦い とも、英:Battle of Chalons)は、ゲルマン民族の大移動 の時代にフン族 と西欧諸民族連合軍の間で行われた会戦 である。両軍合せ約5万名が参戦し、うち1万名が戦死するという大激戦となった。
451年 、アッティラ の率いるフン族はライン川 を渡り、ガリア に侵攻し、オルレアン を包囲した。西ローマ帝国 の将軍アエティウス はゲルマン 諸族の軍と共にこれを討ちカタラウヌムの野(今の北フランス 、シャロン=アン=シャンパーニュ 付近)で決戦した。激戦の末、アッティラは大打撃を受けて本拠のハンガリー平原 に退き、西欧はフン族の征服を免れることができたが、フン族の勢力は維持された。
ローマ軍側も追撃不可能なほどの被害を受けたことで、西ローマの勢力は弱まり、ガリアへのフランク族 の侵入が始まることとなった。この決戦は世界史上の東西両民族の大衝突の一つとしても……続きを読む
特集項目 - 東ローマ
1265年 のバルカン半島及び小アジアを表した地図
トレビゾンド帝国 (トレビゾンドていこく、Trebizond, 1204年 - 1461年 )は1204年に東ローマ帝国 の首都コンスタンティノポリス が第4回十字軍 によって陥落させられた際に、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権 の一つ。トレビゾンド(ギリシア名トラペズス、現在のトルコ 共和国トラブゾン )を首都とした。
東ローマ皇帝アンドロニコス1世コムネノス (在位:1183年 - 1185年 )の孫アレクシオス・コムネノス が1204年 4月、トレビゾンドを占領して建国。コムネノス王朝 (1081年 - 1185年 )の本流を継ぐものとして、「メガス・コムネノス(大コムネノス家)」と称した。しかし実際は、建国に尽力したグルジア王国の傀儡にすぎなかった。
当初は東ローマ帝国の亡命政権の中では最初にコンスタンティノポリスを奪還する勢いであったが、他の亡命諸侯との連携を欠いたため、同じ亡命政権のニカイア帝国 やトルコ人のルーム・セルジューク朝 に敗北し、小アジア北東部・ポントス 地方の地方政権に転落してしまった。しかし、東ローマ帝国 滅亡後の1461年 にオスマン帝国 によって滅ぼされるまで約250年間存続し、史上最後の東ローマ系国家となった。国家としてはあまり強大ではなかったが、東西交易路の途上に位置するその地理的状況はこの国に多くの富をもたらし、また周辺のグルジア 、アルメニア などのキリスト教文化圏との交流も盛んであった。外交上は東方のイスラーム諸勢力、特に白羊朝 ペルシア と婚姻関係を基にした同盟関係を結ぶなどして独立維持を図っている……続きを読む