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サーサーン朝領アルメニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サーサーン朝領アルメニア
Պարսկահայաստան
252年–646年
首都 ドビン
言語
宗教
政府 君主政
歴史
 •  創設 252年
 •  ニシビスの和約英語版
ローマ帝国による征服)
299年
 •  アルメニア分割英語版 387年(384年)
 •  マルズバーン時代 428年
 •  正統カリフ時代のイスラム帝国による征服 646年

サーサーン朝領アルメニア(サーサーンちょうりょうアルメニア、アルメニア語:Պարսկահայաստան)はサーサーン朝アルメニアの宗主権を握っていた、またはサーサーン朝の直轄領となっていた時代のアルメニアを指す。具体的には、シャープール1世によるアルメニア征服から、ナルセ1世時代のアルメニア喪失までの期間と、387年のアルメニア王国アルメニア分割英語版以降、西アルメニアの属国化から、428年のアルメニア王廃止を経て、646年のムスリム教徒による征服までの期間を指す。

428年、アルメニアの貴族たちはサーサーン朝皇帝バハラーム5世に、アルメニア王アルタクシアス4世英語版(在位:422年~428年)を廃位するよう請願した[1]。バハラーム5世はアルメニア王国を廃止し、アルメニアをマルズバーン(辺境伯)のVeh Mihr Shapurに統治させた。これ以降を「マルズバーン時代」(Մարզպանական Հայաստան)と呼ぶ。サーサーン朝皇帝によって任命された「マルズバーン」が東アルメニアを統治していたのに対して、西アルメニアは東ローマ帝国の宗主権の下、諸侯や総督によって統治されていた。このマルズバーン時代はイスラーム教徒によって征服英語版され、アルメニア首長国英語版が設立されるまで続いた。マルズバーン時代にはおよそ300万人のアルメニア人がサーサーン朝の支配下にあったと推定されている[2]

アルメニアの「マルズバーン」には、アルメニアにおける最高権力が与えられ、その権威は死刑判決を下すことさえ可能であるほどだった。しかし、アルメニアの有力貴族ナハラル英語版の特権までは干渉することができなかった。アルメニアには相当の自治権が与えられ、サーサーン朝からある程度自立していた。内政的には、内務・公共事業・財務大臣に相当する「Hazarapet」の役職はほぼアルメニア人が就いた。また、徴税人も全員がアルメニア人で、裁判所と学校はアルメニアの聖職者による運営であった。軍事的に見ても、ナハラルはその領土の規模に応じて、各自の軍隊を持っていた。またアルメニア王国の「王国の騎兵隊」や「王立軍」は、アルメニア人がその地位を独占した「スパラペット英語版」(軍司令官、スパーフベドに相当)が統率している。そして数度、アルメニアのナハラルは、マルズバーンに任命されている。その代表例が485年に任命されたヴァハン・マミコニアン英語版である。彼はサーサーン朝に対して反乱を起こし、その結果マルズバーンに任命されている。

マルズバーン時代には、サーサーン朝によるキリスト教徒への迫害が三度起こっている。アルメニアと東ローマ帝国との乖離をもたらすと考えて、サーサーン朝はアルメニア文字の発明や学校の設立を容認していた。しかし、逆にこれらアルメニアで起こった、新たな文化的活動は東ローマ帝国とより親密な関係につながっている。

歴史

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サーサーン朝による統治 (252年〜299年)

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サーサーン朝は226年アルダシール1世によって建国された。それ以前にイランを統治していたアルサケス朝を滅ぼしたが、アルメニアでは依然としてアルサケス朝英語版による統治が残っていた。アルメニア王ティリダテス2世英語版は、226年から始まったアルダシール1世による侵攻に抵抗し、およそ12年にわたる戦闘の末撤退させた[3]。しかし、252年の段階でシャープール1世は軍事的にアルメニアを征服していり、息子のホルミズド・アルダシールをアルメニアの大王にした[4][5]。ホルミズドは270年までアルメニア王として君臨し、シャープール1世の後を継ぎサーサーン朝の皇帝(ホルミズド1世)となった[6][7]

ホルミズドの治世は1年で終わり、弟のギーラーン王バハラームとサカスターン王ナルセによる皇位継承の争いが起きた。ここでナルセはアルメニアの大王位へと昇格することを条件にバハラームに王位を明け渡した[8][9]。王位継承を制したバハラーム1世、彼の子供バハラーム2世の統治を経て、バハラーム3世が即位すると貴族たちの反発により、293年にナルセは国王に担ぎ上げられる[10][11]。ナルセの統治下の対ローマ戦役では戦いを優位に進めたものの、最終的に敗北した[12]。これらの戦役の和平条約であるニシビスの和約英語版により、サーサーン朝のアルメニア喪失が確定した。アルメニアはローマの庇護のもと、ティリダテス3世英語版によるアルサケス朝の支配が復活した(彼自身は287年頃に即位している[13])。なおこのティリダテス3世の時代に、啓蒙者グレゴリウス英語版より国王をはじめ、キリスト教徒の洗礼を受けて、さらにキリスト教をアルメニアの国教とした[14]。ローマによるキリスト教の国教化に先立つこと79年前、世界最初のキリスト教国の誕生であった[15]

サーサーン朝では、他の皇族王たちが「シャー(王に相当する)」を名乗っていたのに対して、アルメニア王は「ウズルグ・シャー(大王)」を名乗っていた[5]。シャープール1世の長男であったホルミズド1世と後に国王となるナルセ1世といった有力な皇族王が封じられていたことからも[12]、サーサーン朝におけるアルメニア王国の重要性が伺える[5]

東アルメニア王国時代

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アルメニア分割後のアルメニア

シャープール2世時代、サーサーン朝はローマ帝国に対して攻勢に出た(ローマ・サーサーン戦争英語版)。これらの戦役は、ローマ皇帝コンスタンティウス2世が、ユリアヌスの反乱を受けて、361年に停戦で合意した。和平条約でナルセ1世時代のアルメニアを含む失地を奪還した[16]。しかし、最後の統一ローマ皇帝テオドシウス1世によって、サーサーン朝が劣勢に立った。そこで、サーサーン朝皇帝シャープール3世とテオドシウスの間で、384年387年アキリセネの和約英語版が結ばれた[17]。ここでアルメニア王国は東西に分割された[18]

東西分割されたアルメニアのうち、西アルメニア王国はローマ帝国の庇護のもと、アルメニア王国を治めていたアルサケス3世英語版の治世が続いた[18]。彼の死後は、東ローマ帝国に併合される。対して、サーサーン朝の衛星国となった西アルメニア王国も、アルサケス朝英語版ホスロー4世英語版が即位した[18]。シャープール3世は、ホスロー4世との連携を盤石にするため、従妹のズルヴァーン・ドゥフト英語版を降嫁させた[18]。ホスロー4世は兄弟ヴラムシャプー英語版に王位簒奪され、亡命生活を送る。ヴラムシャプーの代では、聖人メスロプ・マシュトツによってアルメニア文字が作られた。ヴラムシャプーの死後、ホスローが復位するが、1年後に死亡する。

ホスローの死後、サーサーン朝皇帝ヤズデギルド1世の長男シャープールが「アルメニア大王」となった[19]。サーサーン朝の皇族がアルメニア大王となるのは2世紀ぶりである。ヤズデギルド1世が死ぬと、シャープールはサーサーン朝皇帝シャープール4世として即位するも、すぐに暗殺された[19]。再びアルサケス朝から国王が輩出された。そのアルタクシアス4世英語版が最後のアルメニア王となる。428年バハラーム5世によって廃位され、東アルメニア王国はサーサーン朝に吸収された[20] [21]。以降は辺境総督(マルズバーン)による間接統治体制へと移行する[21]

マルズバーン時代 (428年~646年)

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428年、アルメニアの貴族ナハラル英語版は、アルメニア国王アルタクシアス4世英語版の統治に不満を持ち、バハラーム5世に、アルタクシアスを廃位するよう請願した[1]。バハラームは、王国としてのアルメニアを廃止すると、フェー・ミフル・シャープール英語版をアルメニアのマルズバーン(「辺境伯」に相当)に任命した。

ヴァルダン・マミコニアンの反乱

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サーサーン朝の皇帝ヤズデギルド2世は、キリスト教を政治的な脅威であると見なした。とりわけ、帝国北部のアルメニア人がキリスト教へ改宗していることは、ヤズデギルド2世にとって懸念事項であった。対東ローマ帝国戦役が成功した後、ヤズデギルド2世はアルメニアの貴族たちをクテシフォンに集めると、ゾロアスター教(イラン人と同様にアルメニア人も、キリスト教以前に信仰していた)に改宗を強制させた[21]。改宗を渋ったアルメニア貴族はイラン平原東北部へ流刑となり、対エフタル戦役に従事した[21]。これにはアルメニア人も動揺し、ヴァルダン・マミコニアン英語版の指揮の下、6万6千のアルメニア軍がサーサーン朝に対して反乱を起こした。ヤズデギルドはアヴァライルの戦い英語版ですぐに反乱軍を鎮圧した。

ヴァハン・マミコニアンの反乱

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465年、アードゥル・ホルミズドに代わって、アードゥル・グシュナスプ英語版ペーローズ1世からマルズバーンに任命された[22]

後世のヴァハン・マミコニアン英語版の肖像。

グガルク英語版総督のヴァルスケン英語版は親サーサーン朝路線を取り、自身もゾロアスター教に改宗した。475年、ヴァルスケンは妻でありマミコニアン家英語版の王女シューシャニク英語版に改宗させようとしたが、拒否されたため彼女を殺した。その後、ヴァルスケンはイベリア王国の王ヴァフタング1世によって処刑された。ペーローズはヴァルスケンの敵討ちとして、シャープール・ミフラーン英語版をイベリア王国に派遣した。対して、ヴァフタング1世は、キリスト教徒間の結束をフン族とアルメニア貴族に訴えた。マミコニアン家の王子ヴァハン・マミコニアン英語版は慎重な検討を重ね、サーサーン朝に対する反乱に参加した[23]。アルメニアのマルズバーンであるアードゥル・グシュナスプ英語版は反乱から逃れてアードゥルバーダガーン英語版に向かい、そこで7,000人の騎兵隊を組織してアルメニアに戻ったが、アララト山の北斜面側に位置するアコリでヴァハンの兄弟のヴァサク・マミコニアンに敗れて戦死した。その後、ヴァハンはサハク2世・バグラトゥニ英語版をアルメニアの新しいマルズバーンに据えた[24][25]。これに対しペーローズ1世はカーレーン家英語版ザルミフル・ハザルウフト英語版が率いる軍隊をアルメニアへ派遣し、さらにミフラーン家のサーサーン朝の将軍であるミフラーン(家名と同名)が率いる別の軍隊をイベリアへ派遣した[26]。夏の間にミフラーンの息子であるシャープール・ミフラーン英語版の率いる軍隊がアケスガでアルメニアとイベリアの連合軍を打ち破り、この戦いでサハク2世バグラトゥニとヴァサク・マミコニアンが戦死した[27][28]。その一方でヴァフタング1世は東ローマ帝国の支配下にあったラジカ英語版へ逃れた[29]。また、シャープール・ミフラーンがイベリアで軍隊を指揮する役割を担っていたことから、ペーローズ1世はエフタルに対する戦争へ参加させるためにシャープールの父親のミフラーンを呼び戻していた可能性がある[30]

ヴァハンは残りの軍勢とともにタイク英語版の山中に撤退し、そこからゲリラ戦を展開した[31]。シャープール・ミフラーンはアルメニアに対するサーサーン朝の支配を回復したものの、その後クテシフォンの宮廷に召還された。その結果としてヴァハンはアルメニアの首都であるドヴィン英語版一帯の支配を取り戻し、そこに要塞を築いた[32]。483年にザルミフル・カーレーン英語版に率いられたサーサーン朝の増援部隊がアルメニアに到着し、ドヴィンを包囲した。兵力ではるかに劣っていたヴァハンの部隊は敵軍に奇襲を仕掛け、マークー英語版に近いネルセアパテにおける戦闘でサーサーン朝軍を破った[33]。そして再び東ローマ帝国との国境に近い山中に撤退した[27][34]。ヴァハンは東ローマ帝国と衝突する危険を避けるためにサーサーン朝軍が撤退先まで追撃してこないことを願ったものの、ザルミフルは夜間の行軍の末にアルメニア軍の野営地を襲撃し、何人かの公女を捕らえることに成功した。ヴァハンとその部下のほとんどはさらに山奥へ撤退した[35]

しかしながら、その後の予期せぬ情勢の変化が戦局を大きく変えた。484年にエフタルと戦争中であったペーローズ1世が戦死したことでサーサーン朝の軍隊はアルメニアから撤退した[27]。ペーローズ1世の兄弟で後継者となったバラーシュは、ザリルの反乱を鎮圧するために、アルメニア人の助けを必要としていた。軍事支援と引き換えに、ヴァハンと講和し、ンヴァルサク(Nvarsak)条約を結んだ。その講和条約ではナハラルの大幅な自治権を認められ、キリスト教徒に対する宗教の自由とアルメニアにおけるゾロアスター教の禁止が認められた。マミコニアン家とその同盟者の財産は返還され、ヴァハンにハザールベド英語版(大臣)の地位を与え、後にはアルメニアのマルズバーンに指名した[36]。イベリアでも同様に和平が成立し、ヴァフタング1世は自身の手による統治を回復することができた[37]

その後

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515年から516年にかけて、フン族がアルメニアに侵入し続けた。アルメニアの貴族Mjej1世・Gnuniはエフタルを撃退することに成功し、褒賞として、518年にカワード1世はMjej1世をアルメニアの「マルズバーン」に任命した。Mjej1世は宗教的に平和を維持した。527年にも、フン族の侵入を数度撃退している。548年、グシュナスプ・バハラムが彼の後を継いだ。

564年、スーレーン家英語版出身で[23]、ホスロー1世の親戚にあたる[23][38]Chihor-Vishnaspがマルズバーンに任命された[38]。この時期、アルメニアの貴族は2つの派閥に分裂していた。1つはマミコニアン家が率いるアルメニア民族派、もう1つはシウニア(Siunia)家が率いるササン朝支持派であった。

Chihor Vishnaspは、東ローマ帝国側に内通した疑いのあるキリスト教徒アルメニア人を厳しく処遇し、その他のキリスト教徒アルメニア人に対しても同様の扱いをした。キリスト教徒のアルメニア人を迫害し、アルメニアの首都ドヴィンに拝火神殿(ゾロアスター教の神殿)を建てさえした[23]。これらの行動は、571年後半または572年初頭にヴァルダン3世・マミコニアン率いる大反乱を引き起こした。572年2月23日、アルメニアの反乱軍は首都ドヴィンを占領し、Chihor Vishnaspを処刑した[23]

文化

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硬貨の生産

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サーサーン朝はアルメニアで金貨や銀貨、青銅貨など硬貨を鋳造していた。アルメニアの34の地域で、計813枚の硬貨が発見された[39]。そのうちの大半が、ドビン英語版ギュムリで見つかり、銀貨であった。

歴代君主

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アルメニア大王

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在位 大王 概説
252年3月~272年 ホルミズド 父王シャープール1世によってアルメニア大王に封じられる。後にサーサーン朝皇帝となる。
272年~293年 ナルセ シャープール1世の息子。兄王バハラーム1世の即位に伴いアルメニア大王へ昇格した。後にサーサーン朝皇帝となる。

東アルメニア王国

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在位 概説
384年~389年 ホスロー4世英語版 アルサケス朝の出身。
389年または401年~417年 ヴラムシャプー英語版 ホスロー4世の兄弟。
417年~418年 ホスロー5世 おそらくホスロー4世と同一人物(復位)
418年~422年 シャープール ヤズデギルド1世の息子。アルメニア大王として即位。
後にサーサーン朝皇帝シャープール4世となる。
422年~428年 アルタクシアス4世英語版 ヴラムシャプーの息子。

マルズバーン

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在位 マルズバーン 概要
428年-442年 フェー・ミフル・シャープール英語版 イランの貴族。バハラーム5世によって任命された。
442年-451年 ヴァサク・シュニク英語版 シュニク英語版の王子で、アルメニアの貴族。ヤズデギルド2世によって任命された。
451年-465年 アードゥル・ホルミズド (アルメニア史料ではAdrormizd) イランの貴族。ヤズデギルド2世によって任命された。
465年-481年 アードゥル・グシュナスプ英語版 (アルメニア史料では Arderveshnasp) イラン貴族。ペーローズ1世によって任命された。
481年-482年 サハク2世・バグラトゥニ英語版 アルメニア貴族。反乱を起こしたアルメニア貴族によって担ぎ上げられた。Akesgaの戦いで死んだ。
482年 シャープール・ミフラーン英語版 イランによる軍事占領期。
482年-483年 ヴァハン1世・マミコニアン英語版 アルメニア臨時政府の長。
483年 ザルミフル・カーレーン英語版 イランによる軍事占領期。
483年~484年 シャープール英語版 ペーローズ1世によって任命された。
キリル・トゥマノフは「Andigan」というマルズバーンが同時期に存在していたと主張している[40]
484年~505年または510年 ヴァハン1世・マミコニアン (復位) アルメニアの貴族。ペーローズ1世によって任命された。
505年~509年 または 510年~514年 ヴァード・マミコニアン英語版 ("Vard the Patrician") ヴァハン1世の兄弟。カワード1世によって任命された。
11年間 複数のイラン貴族 アニのサムエル英語版によると、「ヴァード1世の後に、11年間にわたってイランのマルズバーンがアルメニアを支配した。その後、Gnuni家のMjejがアルメニアを30年間統治した。」とある[41]
518年-548年 Mjej I Gnuni キリル・トゥマノフ[40]Gérard Dédéyan[42]はこの王の存在を言及しているが、René Groussetは言及していない。
548年-552年[40] または 552年-554年[43] グシュナスプ・バハラーム
552年-560年[40] または 554年-560年[43] タン・シャープール英語版
560年-564年 ヴァラスダテス英語版
564年-572年 Chihor-Vishnasp
572年-573年 ヴァルダン3世・マミコニアン イランに対する反乱の首領[43]
572年-574年 ゴーローン・ミフラーン英語版 ホスロー1世よりアルメニアの反乱の鎮圧を命じられた将軍[43]キリル・トゥマノフはゴーローンとヴァルダンではなく、ヴァルダン・グシュナスプが任命されたと主張している[40]
573年-577年 ヴァルダン3世・マミコニアン ビザンツ帝国の保護下となる[43]
同時期にKrikor Jacob Basmadjianとキリル・トゥマノフはシュニクの王子フィリップが任命されたと主張している。
577年-580年 タムホスロー英語版 イラン貴族。ホスロー1世によって任命された。
580年-581年 Varaz Vzur イラン貴族。ホルミズド4世によって任命された。
581年-582年または588年 パフラブ 同上。
582年-588年または588年-589年 Frahat 同上。
588年または589年-590年 Hrartin (Fravardin) 同上。
590年-591年 ムッシェグ2世・マミコニアン英語版 東ローマ帝国が擁立。
592年-605年 Vindatakan この5人のマルズバーンはキリル・トゥマノフが言及している。
Nakhvefaghan
Merakbout
Yazden
Boutmah
604年-611年または616年 スムバト4世・バグラトゥニ英語版 Christian Settipaniは599年から607年までマルズバーンであったと主張している[44]。トゥマノフは彼に言及しておらず、René Groussetは、ホスロー2世が、604年にヒュルカニア英語版での勝利を受け、マルズバーンの称号を与え、ホスロー2世が616年か617年に死ぬまで、マルズバーンの地位に居た可能性を示唆している[45]。しかし、Renéは

同時代に他の3人のマルズバーンがいたとも主張している(下述)[46]

611年-613年 Shahrayeanpet 東アルメニアのドヴィンのマルズバーン。Shahin Vahmanzadeganとともに西アルメニア(旧東ローマ領)の pahghospanとなった。
613年 Parshenazdat イラン貴族。ホスロー2世によって任命された。
616年-619年 Namdar-Gushnasp 同上。
619年-624年 Shahraplakan (Sarablagas) 同上。
624年-627年 Rotshvehan 同上。
627年-628年 (空位) アルメニアの大半を東ローマ帝国に奪還された。
628年 Varaztirots2世・バグラトゥニ アルメニアの貴族でスムバト4世の息子。カワード2世がサーサーン朝支配下に残っていたアルメニアのマルズバーンに任命した。イスラーム教徒のペルシア征服が始まると、東ローマ帝国と同盟を結んだ。
630年-635年 Mjej2世・Gnuni アルメニア貴族。東ローマ皇帝ヘラクレイオスによって任命された。
635年-638年 David Saharuni アルメニアの貴族。Mjej2世を殺害し、マルズバーンを名乗った。ヘラクレイオスはこの簒奪を認め、クロパラテス英語版とアルメニアのIshkhanに任命した。
638年-643年 空位
643年-645年 Theodore Rshtuni
645年または646年 Varaztirots2世・バグラトゥニ サーサーン朝が崩壊すると、東ローマ帝国からアルメニア王に任命されたが、正式に叙任される前に亡くなった。

脚注

[編集]
  1. ^ a b Introduction to Christian Caucasian History:II: States and Dynasties of the Formative Period, Cyril Toumanoff, Traditio, Vol. 17, 1961, Fordham University, 6.
  2. ^ Yeremyan, Suren. «Մարզպանական Հայաստան» (Marzpan Armenia). Soviet Armenian Encyclopedia. vol. vii. Yerevan: Armenian Academy of Sciences, 1981, pp. 313-315.
  3. ^ Chahin, The Kingdom of Armenia: A History, p.217
  4. ^ Shayegan 2004, pp. 462–464.
  5. ^ a b c 青木 2020 p,144,145
  6. ^ Al-Tabari 1985–2007, v. 5: pp. 39, 43.
  7. ^ Shahbazi 2005.
  8. ^ Daryaee 2009, p. 11.
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  10. ^ Henning p. 403
  11. ^ Neusner p. 3
  12. ^ a b 青木 2020 p,163
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  16. ^ 青木 2020 p,169,170
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  18. ^ a b c d 青木 2020 p,185
  19. ^ a b 青木 2020 p,194,195
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  24. ^ Grousset 1947, pp. 216–219.
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  26. ^ Pourshariati 2008, p. 73.
  27. ^ a b c Dédéyan 2007, p. 193.
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  30. ^ Pourshariati 2008, p. 75.
  31. ^ Grousset 1947, pp. 221–223.
  32. ^ Grousset 1947, pp. 219, 221–223.
  33. ^ Grousset 1947, p. 220.
  34. ^ Grousset 1947, p. 223.
  35. ^ Grousset 1947, p. 223-224.
  36. ^ Chaumont & Schippmann 1988, pp. 574–580.
  37. ^ Suny 1994, pp. 23–25.
  38. ^ a b Greatrex & Lieu 2002, p. 138.
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  45. ^ (Grousset 1947, p. 264).
  46. ^ (Grousset 1947, p. 272).

参考文献

[編集]

関連文献

[編集]
  • Plontke-Lüning, Annegret (2006). "Persarmenia". In Salazar, Christine F.; Landfester, Manfred; Gentry, Francis G. (eds.). Brill's New Pauly. Brill Online.