利用者:上野ネズミ/sandbox
1851式ライフルマスケット
[編集]1851年式ライフルマスケット | |
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種類 | 前装式ライフル銃 |
製造国 | イギリス |
設計・製造 | エンフィールド造兵廠 |
年代 | 1850~1860年代 |
仕様 | |
種別 | ライフルマスケット |
口径 | .702口径 |
銃身長 | 39インチ |
ライフリング | 4条 |
使用弾薬 | .690口径ミニエー弾二種、.685口径ミニエー弾、.675口径木製プラグ弾 |
装弾数 | 1発 |
作動方式 | パーカッションロック式 |
全長 | 1.4m |
重量 | 4.78キログラム |
発射速度 | 2、3発/分 |
銃口初速 | 秒速315.38m |
有効射程 | 900メートル |
歴史 | |
設計年 | 1850~1851年 |
関連戦争・紛争 | コーサ戦争、クリミア戦争、南北戦争 |
1851年式ライフルマスケット(1851ねんしきらいふるますけっと、Pattern 1851 Rifle Musket)とは、イギリスで開発されたパーカッションロック式の前装式施条銃である。1850年代前半に登場した初期のライフルマスケットの一種であり、ミニエー弾を使用したミニエー銃である。イギリス軍で制式採用され、クリミア戦争で大きな活躍を成し遂げた。
歴史
[編集]開発
[編集]1840年代、フランスではライフルの改良が盛んにおこなわれており、デルヴィーニュライフルや、ステム・ライフルが開発された。特に、モデル1846カービン銃(ステム・ライフルの一種)はとても良いライフルで、フランスの軽歩兵部隊に採用され、北アフリカでの戦闘で戦果を挙げていた。1847年に、フランスの砲兵将校であるイルデフォンス・ファヴェ(仏:Ildéphonse FAVÉ)がモデル1846の開発と採用、および北アフリカでの活躍を纏めた「新しいライフルとその使用(仏:Des nouvelles Carabines et de leur emploi)」を出版すると、これがイギリスでセンセーションを巻き起こした。
フランスでのライフル技術の進歩と、同時期にあったロンドン塔での火災による多くの銃器の損失の懸念とが重なった結果、1848年には小火器委員会が設立された。委員会は、すでに採用されていたライフルであるブランズウィック銃に提案されていた改良を検討するためだけに設立された。1849年に兵器総監(Master-General of the Ordnance)が、小火器の検査官をフランスとプロイセン王国に派遣し、当時最新のライフルであったステム・ライフルと、プロイセンのドライゼ銃をできる限り学ばせた[1]。
1849年の11月までに、検査官がステム・ライフルとドライゼ銃の詳細を持ってイギリスに戻ると、エンフィールド造兵廠は、1850年1月にテスト目的でそれらのコピーの作成を開始した。射撃試験は1850年の7月にウーリッジコモンにて始まった。試験ではドライゼ銃は完璧には程遠いことが示された[2]。一方、ステム・ライフルの射撃性能は良かった。
しかし、同時期に、クロード=エティエンヌ・ミニエーが開発したミニエー弾の存在とそれの高い射撃性能が知られると、兵器総監はこのミニエー弾をテストすることを決定した。小火器検査官はフランスに戻るように命じられ、フランスの英国大使はフランスの戦争大臣にミニエー銃を要求した。フランスはイギリスへ、ミニエー銃と、ベルギーの精鋭連隊のためにリエージュで生産された型を提供した[3]。
1851年の春頃には、試験が再開された。試験では、.69口径のミニエー銃とそれのエンフィールド製コピーを、.75口径のマスケット銃、ブランズウィック銃、ドライゼ銃、そしてステム・ライフルと比較した。ウーリッジコモンでの多くの射撃の後、小火器委員会は1851年4月30日に報告を終了した。委員会の報告では、ミニエー弾が他の全ての銃の弾丸より優れていることが証明された。400ヤードでの射撃では、ミニエー弾は6フィート四方の標的に何度も命中したのに対し、ステム・ライフルは散発的に命中し、ブランズウィック銃とドライゼ銃はほとんど命中しなかった[4]。
この委員会の熱烈な報告の後、ミニエー銃は、ライフル旅団のような特殊部隊だけでなく、イギリス歩兵全体の標準的な兵器として採用されることが望まれた。1851年5月頃、陸軍総司令官であったアーサー・ウェルズリーは、試験の印象的な結果に納得していたが、彼は、試験で使用されたミニエー銃の口径である.69口径が小さすぎることを懸念し、銃の小口径化[注釈 1]に反対した[5]。ミニエー銃は、縦に長い椎の実型弾を使用するため、もし当時のイギリス軍の歩兵銃であった.75口径マスケット銃と同じ口径にすると、弾丸の重さは球形弾の重さ(約28.35グラム)の二倍となる(約56.7グラム)。イギリスの戦列歩兵は60個の弾薬を保有することが期待されていたため、.75口径のミニエー銃を採用しなければならない場合、60発の弾薬の重量で兵士に過負荷をかけるか、兵士の所持弾数を減らす以外に選択肢はなかった[6]。
そのため、小火器の検査官は、妥協案として、イギリスのミニエー銃の口径を0.702インチに調整し、緊急時に.69口径のマスケット球形弾を発砲できるようにした[注釈 2]。これはアーサーを満足させ、彼はイギリスのミニエー弾の理想的な形状を決定し、イギリスの軍事要件に適したミニエー弾の最適な形状と構造を決定することを指示した[7]。1851年10月までには、イギリスのミニエー銃は「1851年式制式ミニエー銃(英:Regulation Minie Pattern 1851 Rifle Musket)」として承認され(以降「P1851」と呼称する)、エンフィールド造兵廠で最初の500丁の製造が開始された[注釈 3]。 1851年10月13日に、小火器委員会は、P1851の主な特徴の詳細を報告した。委員会は、エンフィールド造兵廠で製造中であった500丁のP1851の使用を以下のように記録した。
項目 | 内容 | 備考 |
---|---|---|
口径 | 0.702インチ(17.8mm) | |
ライフリング | 四条 | ライフリングの深さは一定 |
鉄製のキャップを含めたミニエー弾の重量 | 680グレイン(44グラム) | |
火薬量 | 2.5ドラム(4.5グラム) | |
50発の弾薬の総重量 | 5ポンド10オンス(2.55キログラム) | |
銃全体は8オンス(226.8グラム)で動作した。 |
アーサーは、イギリス軍全体が、当時のイギリス陸軍のライフル旅団の兵装である緑色の軍服を着ることを要求しないように、P1851がライフルではなくマスケットと呼ばれることを望んだ。P1851は、アーサーの命令により、意図的にマスケット銃と定義づけられたが[9]、それでもP1851はライフルであった。
最初に採用されたミニエー弾は、直径0.690インチ(17.53mm)、弾長1.03インチ(26.16mm)で、弾丸空洞内には、半球形の鉄製キャップが内蔵されていた。弾丸は、円筒円錐形ではなく、単に円錐形の形状をしており、これは、恐らく弾丸重量を減らすためにこの様な形状になったと言われる。実際、円錐形の弾丸は弾丸の全面を円筒形に挟めることで軽量になり、円筒形弾よりも重量が小さかった。重量は1オンス(28.35グラム)をはるかに超えていたが、60発の弾薬を運搬しなくてはならない兵士への負担は僅かに少なかった。60個の弾薬と銃剣を備えたP1851の総重量は合計17ポンド10オンス(7.99キログラム)であり、同じ条件のブランズウィック銃の重量(7.71キログラム)とほぼ同じであった。
他にも、イギリスのミニエー弾には注目すべき特徴があり、それはタミシエ・グルーヴを備えない滑らかな側面を有することであった。ガンスミスのジョン・ディーン(英:John Dean)は、委員会がフランスのミニエー弾などに付属しているタミシエ・グルーヴを破棄し、滑らかな側面を持つミニエー弾を採用した理由を「外国の製品をそのままコピーするのを嫌い、威厳のある独立の精神を表現するため」と述べている[10]。
早速、23,000丁のP1851が注文されたが、様々な請負業者の間での多くの遅延が起こり、納品に通常よりもさらに時間がかかったため、銃身の製造には一年かかり、完成したP1851は1853年7月まで最終的に納品されなかった[11]。
試験配備と戦闘での使用
[編集]最初に製造された500丁のP1851は、アーサーの指示に従い、新型のライフルの可能性を最大限に探求できる連隊にのみ配布された。連隊には、それぞれ50丁のP1851が試験配備された。そして一中隊ごとに6丁ずつ射撃において腕の優れる兵士に配備された。配備された連隊は以下の通りである[12]。
- チチェスター近衛隊大隊(英:THe Battalion of Guards at Chichester)
- 第1大隊ロイヤルズ(英:The 1st Battarion the Royals)
- 第38連隊
- 第30連隊
- 第88連隊
- 第19連隊
- 第77連隊
- 第7連隊
- 第48連隊
- 第95連隊
こうして配備されたP1851は、早くに戦闘で使用されるようになる。1850年に、ケープ植民地総督のハリースミスが、南アフリカのイギリス植民地に隣接する地域に侵入し、併合しようとしたことから、第八次コーサ戦争(英:Eighth Xhosa War)が勃発する。イギリス軍は南アフリカに派遣された。敵であったコーサ人は多くの場合、長距離から撃たれ、彼らはどこからともなく降りかかってくるように見えるミニエー弾に困惑した。第74歩兵連隊(英:74th (Highland) Regiment of Foot)のウィリアム・キング(英:William King)大尉は、P1851の効果的な発砲によってコーサ人の突撃を撃退した様子を、「Campaigning in Kaffirland; Or, Scenes and Adventures in the Kaffir War of 1851-2」にて以下の様に述べている[13]。
私の兵士を呼び集め、我々は彼ら(コーサ人)に方向性のある安定した発砲をし、彼らは一時的に食い止められた。そして、彼らのうち2人は「ミニエライフルマン」によって射殺され、数人が負傷した。彼らは再び引き返した。
この試験配備では、遊動式照準器の不正確さとラムロッドに苦情があったものの[14]、P1851の性能は広く称賛された。
射撃学校の設立
[編集]新たに兵器総監となったイギリスの軍人であるヘンリー・ハーディング (初代ハーディング子爵)は、すべての兵士がライフルを効果的に使用するように訓練されることを主張した。完成したP1851の受け渡しが、1853年初頭にようやく行われるようになると、ヘンリーは、ライフル射撃のインストラクターを訓練するための正式な射撃学校の設立を強く主張した。ヘンリーは設立のために1,000ポンドを確保し[15]、イギリスのケント州ハイスにある長さ1マイルほどのビーチに、マスケトリー学校(英:Small Arms School Corps)が設立された。ライフル射撃愛好家のチャールズ・クローフォード・ヘイ大佐(以降、「ヘイ大佐」と呼ぶ)が、学校の校長として任命された[16]。1854年の春には、初めて生徒が受け入れられた。この学校は、1853年に設立されて現代にいたるまで、イギリス軍兵士たちに小火器の射撃についてアドバイスと指導を提供している。
1852年のエンフィールドでの実験
[編集]P1851が採用されてからわずか1年後の1852年初頭、P1851はヨーロッパの基準ではすでに時代遅れになっており[17]、大口径に比べて小口径[注釈 4]の方がより速い初速や、低伸な弾道などを出すことが判明していた。そのため、ヘンリーは、より軽量で効果的な軍用銃器の開発の為、イギリス内の著名なガンメーカーを招待してトライアルを行った[18]。この実験では、.577口径のライフルマスケットである1853年式エンフィールド銃のプロトタイプが開発されるが、既に旧式であったP1851は、新型のライフルと弾丸の有効性を比較するためのベースラインとして実験でテストされた[19]。
この実験の過程で、初期の円錐形弾の欠点が明確に報告された。円錐形弾は、弾頭から弾底部までの全長にわたって円錐形であることから、偶然的に銃が完全に直立している場合を除いて、銃身内で本来あるべきように横たわることができなかった[20]。つまり、円錐形弾は片側に傾いてしまい、発射されると、傾いた弾丸は、そのままの状態で銃口を離れようとする。そうすると、弾丸底部の片側が、もう片方よりも先に銃口から離れる。これにより、もう片方がまだ銃口を離れていない間に、火薬の燃焼ガスが銃口から離れた弾底部片側から逃げ出した。その結果、弾丸が横に打ち倒され、弾道を最悪にした[21]。
この欠点に対する解決策は非常に簡単であり、弾丸の形状を円筒円錐形(英:Cylindro-Conical)に変更しただけだった。これにより、円錐形弾にあった欠点が取り除かれた。この弾丸は実験で広く使われ、円錐形弾よりもとても優れており、射撃は正確であった[22]。新型の円筒円錐形弾は、直径0.690インチ(17.53mm)、弾長1.02インチ(英:25.91mm)であり、弾丸上半分はゆっくりと放物線を形成し、鈍い先のとがった丸い弾頭を持った[23]。
P1851の弾丸には、半球形の鉄製キャップが埋められていた。これらのキャップは、ウーリッジにある王立研究所ではなく、請負業者によって作られる事がよくあった。P1851の鉄製キャップは、その役割や、機能、形状などの点において論争があった。鉄製キャップは、P1851の弾丸を複雑にし、製造の際の費用をかなり増加させた。しかし、鉄製キャップは、それよりも深刻な問題があった。
多くの鉄製キャップは、空洞内にしっかりと圧入しなかっただけでなく、片側に傾いたり、弾丸空洞の収縮によって抜け落ちたりした[24]。さらに悪いことに、鉄製キャップはしばしば弾丸から抜け落ち、時には発射された後も銃身に残った[25]。この傾向はフランスで最初に確認されたが、1850年にウーリッジで行われたトライアルでも全く同じことが発生した。これを改善するためにキャップは深くされたが、誤ってキャップは再び浅くなったため、1852年、エンフィールドで、水上で実践してみたところ、キャップは弾丸から抜け落ち、水に落ちた[26]。鉄製キャップは、しばしば弾丸から脱落し、弾丸空洞の奥深くに押し込まれて弾丸を拡張するようには見えなかったため、小火器委員会はそれを完全に放棄することを検討した。実際、鉄製キャップがなくとも、ミニエー弾は拡張してライフリングに食い込むという証拠もあった。
しかし、1852年の実験で、キャップを有するミニエー弾と、有さないミニエー弾をテストしたところ、キャップを有するミニエー弾の射撃の方が有さないミニエー弾よりも三分の一優れていたことが判明した[27]。つまり、抜け落ちや不正確な食い込みがあったにもかかわらず、鉄製キャップは何とも奇妙なことに、弾丸を遥かに正確にした。結局、鉄製キャップは、1852年の春から1854年3月まで半球形のまま、形状が変更されることはなかった[28]。
弾丸の製造方法について
[編集]これまで、ミニエー弾はすべて鋳造されていた。鋳造される弾丸には、目に見えない程度の大きさの真空の泡が発生し、この泡の大きさや発生する位置によって弾丸の重心は変わってしまう。
注釈
[編集]出典
[編集]- ^ Brett Gibbons,「The English Cartridge: Pattern 1853 Rifle-Musket Ammunition」,47ページ
- ^ C.H.Roads,「The British Soldier's Firearm, 1850-1864 From Smooth-bore to Small-bore」,30ページ
- ^ John Deane,「Deanes' Manual of the History and Science of Fire-arms」,254ページ
- ^ Brett,48~49ページ
- ^ Sir Howard Douglas,「A Treatise on Naval Gunnery」,514ページ
- ^ Douglas,515ページ
- ^ Roads,32ページ
- ^ Roads,33ページ
- ^ Brett,50ページ
- ^ Dean,255ページ
- ^ Brett,51~52ページ
- ^ Roads,36~37ページ
- ^ William Ross King ,「Campaigning in Kaffirland; Or, Scenes and Adventures in the Kaffir War of 1851-2」,246ページ
- ^ Roads,38ページ
- ^ Brett,54~55ページ
- ^ Brett,55ページ
- ^ Roads,47ページ
- ^ 「Report on Experiments with Small Arms, Carried on at the Royal Manufactory at Enfield in 1852」,3ページ
- ^ Brett,57ページ
- ^ Reports,18ページ
- ^ Brett,58ページ
- ^ Reports,19ページ
- ^ Brett,59ページ
- ^ 「The Journal of the United Service Institution Volume 2」,157ページ
- ^ Brett,66ページ
- ^ Journal,468ページ
- ^ Reports,20ページ
- ^ Brett,67ページ