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利用者‐会話:城武顕/sandbox

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肥前国風土記」「延喜式[1]によると、漢部(あやべ)、千栗(ちりく)、物部(もののべ)、米多(めた)、財部(たからべ)、葛木(かつらぎ)の6郷で、

  • 漢部郷…みやき町原古賀の綾部神社一帯に比定。
  • 千栗郷…みやき町千栗の千栗八幡宮一帯に比定。
  • 物部郷…みやき町板部の物部神社一帯に比定。
  • 米多郷[2]…上峰町前牟田の米多一帯に比定。
  • 財部郷[3]付近に比定。
  • 葛木郷…みやき町天建寺の葛木神社一帯に比定。葛城部(葛城氏)が[1]移住した可能性が高い。

「肥前国風土記」によれば、[1]推古天皇の時代に来目皇子が新羅に向かうときに、筑紫までに来て、物部の若宮部に社を建てて物部郷と名付けた。また、来目皇子は[1]渡来した忍海漢人に兵器を作らせた所が漢部郷だと伝わる。なお米多郷の領域は、かつては筑志米多国造都紀女加の後裔)が治めていた。

駅は1ヵ所「和名抄」によると、切山駅[4]である。

延喜式神名帳に記される郡内の式内社

Template:肥前国三根郡の式内社一覧
神名帳 比定社 集成
社名 読み 付記 社名 所在地 備考
凡例を表示

中世

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荘園と公領

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『河上神社文書』の正応5年(1292年)の河上宮造営用途支配惣田数注文[1][5]によると、

安楽寺御領(安楽寺天満宮

  • 米多荘…57丁3反

荘園分

  • 矢俣保[6]…330丁
  • 米多荘…34丁
  • 中津隈荘…160丁
  • 綾部荘…70丁

公田分

  • 三根東郷…266丁2反1丈
  • 三根西郷…393丁9反
  • 寄人[7]…68丁1反

とある。

鎌倉時代の主な在地領主は、綾部氏、板部氏、安徳氏などがある。

室町時代の主な勢力は、九州探題渋川氏少弐氏の一族の馬場氏横岳氏がある。主な城は、

戦国時代の元亀3年(1572年)に、龍造寺隆信[8]が東肥前の経略のために姉川姉川信安を米田に移した。姉川氏は横岳氏の知行の米田村100町を与えられて、三根・養父郡の守りにつけた。

近世

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江戸時代に全域が佐賀藩領になり、郡内の16村のうち蓑原村、原古賀村、白壁村、東尾村、中津隈村の5村を東方の養父郡に編入[9]した。

そのため、「旧高旧領取調帳」の記載によると、佐賀藩領の同郡は、坂口村、天建寺村、西島村、江迎村、堤村、坊所村、前牟田村、市武村、東津村、寄人村、江口村が存在している。(11村)

参考文献

  1. ^ a b c d e f 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 41 佐賀県』角川書店、1982年、p.674~675。
  2. ^ 『角川日本地名大辞典 41 佐賀県』p.675によると、景行天皇の九州九州巡幸のときに、井の底に「め」(海藻)を発見して、「海藻生ふる井」と名づけ、のち米多井となったことから。
  3. ^ 『角川日本地名大辞典 41 佐賀県』によると、近世の西尾村には別称に財部村があるといわれる。
  4. ^ 『角川日本地名大辞典 41 佐賀県』p.674~675によると、上峰町切通か、さらに東方の東寒水付近であると推定。
  5. ^ 佐賀市史編さん委員会『佐賀市史 第一巻』佐賀市、1977年、p.417~424
  6. ^ 「角川日本地名辞典 41 佐賀県」p.714~715によると、矢俣保は中世では矢俣郷、西嶋郷を含む地域と比定される地域。近世の矢俣郷の地域である現在のみやき町天建寺、坂口と比定される地域を指す。
  7. ^ 「角川日本地名辞典 41 佐賀県」p.739によると、神崎荘の荘民が当地に耕作に行って移住したことから。
  8. ^ 『角川日本地名大辞典 41 佐賀県』p.690の米多荘
  9. ^ 養父郡は元々は11村あったが、そのうち北部の5村が対馬藩領になった。佐賀藩は養父郡の南部の6村に三根郡の5村を足して11村に再編している。