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伴資定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伴与七郎から転送)
 
伴 資定
時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期
生誕 天文元年(1532年[1]
死没 慶長19年(1614年[2]
別名 与七郎、帯刀[1]
氏族 伴氏[3]
資順[4]
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伴 資定(ばん すけさだ)は、戦国時代近江国甲賀郡武士

略歴

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子孫の由緒書によれば伴氏は元々三河国の住人だったが、鎌倉時代になって近江国甲賀郡に転居した一族がおり、資定はその末裔だという。資定もまた甲賀郡下山に住んだ[1]

永禄5年(1562年)西三河の戦国大名松平元康上ノ郷城を攻めた際、元康家臣の酒井正親松井忠次伴資家盛陰・資定ら伴氏党類80余人を助勢として招き入れた[注釈 1]。城攻めは伴氏一党による火計が功を奏し、落城に大きく貢献したという[6][7][8]。資定は城を落ち延びようとしていた城主の鵜殿長照を城北方の護摩堂で討ち取った。当初資定は長照と知らずにこれを討ったが、首実検で長照が焚いていたらしき伽羅の香りが確かめられたという。この功により資定は松平元康より兜・長刀と感状を賜っている[注釈 2][9]。また長照の子の氏長を捕らえたともいい[注釈 3]、この氏長・氏次兄弟は、今川氏によって抑留されていた元康の嫡男・信康との人質交換に用いられたが、伴一族は石川数正に従って鵜殿兄弟護送のために駿府へ赴いている。その後、元康より仕官の誘いがあったが固辞して帰郷した[6][8][10]

資定は慶長19年(1614年)に83歳で病没した。嫡男の資順長束正家に仕えた後に森氏に仕えたが、孫の資祥の代に小浜藩士に転じている。なお資祥は高木重貞の外甥にあたったため、高木氏に改姓している[4]

登場作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 松井忠次の家臣・石原三郎左衛門が甲賀の有力者である多羅尾光俊に要請したために派遣されたとも、また資定と松井忠次は朋友の間柄にあったともいう[5][1]
  2. ^
    今度鵜殿藤太郎其方被討取、近比御高名無比類候。我等別而彼者年来無沙汰候。散心霧弥祝着申候。委細左近雅楽助可申候。恐々謹言
     二月六日 松蔵元康(花押)
       伴与七郎 参 — 「鵜殿系図」伝巻之九[9]
  3. ^ 鵜殿氏長・氏次兄弟を捕らえたのは同族の伴資綱とする史料もある[1]

出典

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  1. ^ a b c d e 『小浜市史』, p. 97.
  2. ^ 『小浜市史』, p. 98.
  3. ^ 『小浜市史』, pp. 290–291.
  4. ^ a b 『小浜市史』, p. 291.
  5. ^ 『岡崎市史』, p. 358.
  6. ^ a b 『蒲郡市誌』, p. 206.
  7. ^ 『岡崎市史』, pp. 358–359.
  8. ^ a b 『小浜市史』, pp. 97–98.
  9. ^ a b 『蒲郡市誌』資料編, p. 41.
  10. ^ 『断家譜』, § 十六.
  11. ^ TV『大河ドラマ「どうする家康」第6回』”. JAPAN ACTION ENTERPRISE. 2023年7月4日閲覧。

参考文献

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  • 小浜市史編纂員会 編『小浜市史』 藩政史料編2、小浜市、1985年。 
  • 蒲郡市誌編纂委員会; 蒲郡市教育委員会 編『蒲郡市誌』 本編、蒲郡市、1976年。 
  • 蒲郡市誌編纂委員会; 蒲郡市教育委員会 編『蒲郡市誌』 資料編、蒲郡市、1976年。 
  • 岡崎市役所 編『岡崎市史 別巻』 上、名著出版、1972年。 
  • 断家譜』 2巻、斎木一馬; 岩沢愿彦(校訂)、続群書類従完成会、1968年。ISBN 978-4-7971-0267-3 
  • 岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会 編『烈祖成績』 序・一・二・三、岡崎市立中央図書館、2016年。 

関連項目

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