伊達宗賀
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 天明5年8月6日(1852年6月16日 |
死没 | 嘉永5年4月29日(1852年6月16日) |
改名 | 兵力(幼名)→実孝(初名)→宗賀 |
別名 | 藤五郎、安房(通称) |
戒名 | 龍徳院殿慈山泰雲大居士 |
墓所 | 大雄寺(宮城県亘理郡亘理町) |
主君 | 伊達周宗→斉宗→斉義 |
藩 | 仙台藩 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 父:伊達村氏、古内広光の娘[1] |
妻 | 正室:三沢村保の娘 |
子 | 子:宗恒、義隆、伊達邦賢室 |
伊達 宗賀(だて むねよし)は、江戸時代の仙台藩一門第二席・亘理伊達家第11代当主。
生涯
[編集]天明5年(1785年)、亘理伊達家第10代当主・伊達村氏の子として生まれる。幼名は兵力。寛政9年(1797年)に元服し、実孝と名乗った。
享和2年(1802年)に三沢村保の娘と結婚。享和3年(1803年)11月、父村氏の死去により家督を相続し亘理邑主となる。
文化9年(1812年)2月、家督相続して藩主となった斉宗と共に江戸城に登城し、将軍徳川家斉に拝謁する。
文化9年(1812年)3月、藩政を補佐した功績により500石の加増を受け、知行2万4300石となり、藩主斉宗の偏諱を受けて、宗賀と名乗る。[2]
文政5年(1822年)、病のため嫡男兵力の番代を申し出て許された。文政7年(1824年)、隠居して家督を嫡男宗恒に譲り、沼頭下屋敷で余生を過ごした。[2]
嘉永5年(1852年)4月29日死去。享年68。
人物
[編集]宗賀の治世に亘理に末家焼の窯が築かれ、陶器の生産が盛んになった。[2]
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『仙台人名大辞書』
- 『亘理町史』
- 伊達邦成『伊達家系図』