伊達宗恒
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享和3年10月22日(1803年12月5日) |
死没 | 文久元年3月18日(1861年4月27日) |
別名 | 兵力、藤五郎、安房、播磨 |
墓所 | 大雄寺(宮城県亘理郡亘理町) |
主君 | 伊達斉宗→斉義→斉邦→慶邦 |
藩 | 仙台藩 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 父:伊達宗賀 |
兄弟 | 宗恒、義隆 |
子 | 邦実、三沢邦為(三沢氏へ養子)、邦規 |
伊達 宗恒(だて むねつね)は、江戸時代後期の仙台藩一門第二席・亘理伊達家第12代当主。
生涯
[編集]享和3年(1803年)、亘理伊達家第11代当主・伊達宗賀の子として生まれる。幼名は兵力。文化12年2月1日、仙台城で元服し、藩主伊達斉宗の偏諱を受けて宗恒と名乗る。[1]
文政4年(1821年)4月11日、伊達宗秩の娘と婚礼。[1]文政7年(1824年)5月5日、父宗賀の隠居により家督を相続して亘理邑主となる。
文政10年(1827年)11月、病臥中の藩主斉義を見舞うために江戸に出府するも、斉義は27日に死去した。[1]
文政11年(1828年)1月28日、藩主斉邦の家督相続御礼言上の際に、江戸城で将軍徳川家斉に拝謁を賜る。[2]
天保2年(1831年)嫡男兵力(邦実)と前藩主斉義の息女佑姫が婚礼。天保7年(1836年)、亘理伊達家初代・成実の父実元の霊廟を菩提寺の大雄寺に建立する。
弘化3年(1847年)病のため嫡男兵力が番代(当主代行)することを藩に願い出て許された。[1]
弘化4年(1848年)12月、隠居して家督を邦実に譲る。文久元年(1861年)3月18日死去。享年59。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『仙台人名大辞書』
- 『宮城県姓氏家系大辞典』
- 『續徳川實紀』
- 『亘理町史』