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伊藤よし子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊藤 よし子
いとう よしこ
生年月日 1905年12月30日
出生地 愛知県西加茂郡挙母町
没年月日 (1991-03-24) 1991年3月24日(85歳没)
出身校 椙山第一高等女学校
所属政党 日本社会党
配偶者 伊藤好道
親族 本多鋼治(義兄)

選挙区 旧愛知4区
当選回数 2回
在任期間 1958年5月22日 - 1960年10月24日
1963年11月21日 - 1966年12月27日
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伊藤 よし子(いとう よしこ、1905年12月30日 - 1991年3月24日)は、日本政治家日本社会党衆議院議員(2期)。

急逝した夫の伊藤好道の地盤を継いで政治家の道を歩んだ。衆議院議員、愛知県会議員を務めた本多鋼治は義兄[1][2]

経歴

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愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市昭和町4丁目)に雑貨商の成瀬保吉の三女として生まれる[3]。旧姓は成瀬。挙母第一尋常小学校(現・豊田市立挙母小学校)から、「山の学校」と呼ばれた挙母尋常高等小学校(現・豊田市立童子山小学校)に進んだ。『改造』『解放』など大正デモクラシーを支えた雑誌に親しむ。当時、挙母町には書店は一軒しかなく、そこから西加茂郡全域に毎月配本される4冊の『改造』のうち1冊を伊藤がとっていたという[4]。3年生の時、椙山第一高等女学校(現・椙山女学園高等学校)の編入試験を受け入学。1922年(大正11年)3月に同校卒業後、佃与次郎が設立した佃速記塾で速記を学ぶ。また、東京外国語学校に一年間通った[3]

1923年(大正12年)、挙母尋常高等小学校で開かれた同窓会で当時東京帝国大学の学生だった伊藤好道が講演を行った。好道は、1921年から1922年にかけてロシアを襲った飢饉の救済募金を涙をこぼしながら訴え、「知っていて助けないのは見殺しにするのと同じだ」という探検家フリチョフ・ナンセンの言葉で最後を結んだ[5]。感激したよし子はそのとき財布に入っていたお金をすべて募金に投じたという。帰宅後、母にもらった小遣いを「『解放』誌上で救済募金を知った」といって無記名で好道に送金するも、送り主は好道の知るところとなり、それが機縁となって二人の文通が始まった。好道に教えられ、アウグスト・ベーベルの『婦人論』(翻訳は山川菊栄)、山川菊栄の『女性の反逆』、フリードリヒ・エンゲルスの『フォイエルバッハ論』などをむさぼるように読む[4]

東京帝国大学の新人会のメンバーとして、好道は黒田寿男志賀義雄らとともに全国の高等学校を講演して回る。その途中で郷里の挙母町に寄り、よし子の姉の友人の家で二人は初めて会った[注 1]

資産家の一人息子など、親の決めた縁談をいくたびも断り[注 2]1925年(大正14年)3月18日、上京。好道の高円寺の下宿で結婚生活を始める[6][4]

1927年(昭和2年)、労農婦人雑誌編集者らが集う社会科研究会に所属。山川菊栄に師事し、小説家の平林たい子、社会運動家の近藤真柄らと交流を結んだ。戦前は農村更生協会、満州移住協会の嘱託として農村問題に関わった。1952年(昭和27年)に伊藤好道が衆院選に初当選してからは夫の秘書を務めた。

衆議院議員へ

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1956年(昭和31年)12月10日、伊藤好道が55歳の若さで急逝[7]。よし子は平林たい子から後を継ぐことを勧められる。好道と平林の夫、小堀甚二人民戦線事件でともに検挙された同志であった。平林の助言は親友として自然のものであったが、よし子は悩み、社会党委員長鈴木茂三郎に相談をもちかけた。鈴木は「藤原道子君にでも地元へ行かせ、空気を盛り上げてもらおう」と答え、よし子に出馬を促した。社会党は鈴木の考えとは別に、トヨタ労組から後任を出すとことを社長の石田退三に求めた。しかし石田は「よし子でよい」と譲らず、党は名古屋鉄道労組書記長の太田一夫の擁立に動いた[8][注 3]。1957年(昭和32年)7月、トヨタ労働組合協議会はよし子の推薦を決定[5]

1958年(昭和33年)5月22日に行われた第28回衆議院議員総選挙旧愛知4区で社会党は結局、よし子と太田の二人に公認を出した。よし子の選挙事務長は広島原爆被爆者で、本多鋼治の息子の本多秀治が務めた[9]。トヨタ労組と国鉄労組の支援を受けて初当選[10]。社会保障問題に情熱を傾けた。

1960年(昭和35年)の総選挙でトヨタ労組は伊藤と、民社党が擁立した全繊同盟の森明の二人に推薦を出したが、共に落選[8]。鈴木茂三郎、平林たい子深尾須磨子らが応援にかけつけるも[11]、伊藤は次点で敗れた。

1963年(昭和37年)の総選挙で返り咲く。くらしの会全国連合会副会長、社会党婦人対策部長などを歴任した。

1967年(昭和42年)の総選挙は、トヨタ票の伊藤の支持率が高まりつつあったため、保守側から「このままでは地元の豊田で地盤が重なり合う浦野幸男が危ない」という声が上がり、伊藤票の切り崩しが行われた[12]。また、社会党豊田市支部長の元市議の矢頭銈太郎が太田一夫支持に回ってしまった[13]。その結果、4位当選の中野四郎と356票の小差で落選。

1969年(昭和44年)12月の総選挙は不出馬。前トヨタ自動車労組委員長の渡辺武三民社党公認で出馬することに伴い、社会党が名古屋鉄道労組を支持母体とする太田一夫を党の統一候補としたためである[注 4]

1971年(昭和46年)4月に行われた愛知県議会議員選挙に豊田市選挙区(定数3)から立候補するも次点で落選。

1991年(平成3年)3月24日、急性肺炎のため豊田市の三九朗病院で死去[15]。85歳没。

衆議院議員総選挙の結果

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執行日 選挙 所属党派 当落
1958年5月22日 第28回 日本社会党
1960年11月20日 第29回 日本社会党
1963年11月21日 第30回 日本社会党
1967年1月29日 第31回 日本社会党

脚注

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注釈

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  1. ^ 初めて会った時のことをよし子は次のように回想する。「その日、伊藤は『われわれは、歴史の歯車の一つになって、この世の中を、真面目に働く人のために、プロレタリアートのために、住みよい社会にしなければならぬ。それには、社会主義社会を建設することだ。そのためわれわれは捨石になるのだ』と、熱情をこめて説いた。私はそれを正しいことだと思った。正しいと思ったことをやらないのは卑怯だ。たといどのような弾圧や困難があろうとも、と考えた。私は単純だった。しかし、いまでもその単純さが間違っていたとは思わない」[4]
  2. ^ 当初は親の考えに従うものだと考え、一度は岐阜県多治見町に嫁ぐ予定であった。以下はよし子の回想。「私も一面社会主義運動などという大それた考えをもっていたくせに、結婚という問題には単純で、子供っぽい考えしかしていなくって、その多治見方面の縁談も、相手がどういう人かということも考えずに、ただ仲人口通り、陶器の窯屋をやっていて、ちょっとしたその地方の資産家の一人息子だという話で、結婚したら小遣いをためて、運動のための資金を送ることができれば、それも一つの生き方ではないか位に考えていたのだから、恐れ入った無知さだ」[4]
  3. ^ 伊藤好道の死に際し、トヨタ自動車工業社長の石田退三は多額の香典をよし子に渡した。そのお礼によし子が出向くと石田は「自民党は悪いことばかりしている。西尾(注・西尾末広)は自民党の左と同じだ。将来は、好道さんのような人に日本の政治をしてもらいたかったのに残念だ。後継ぎは、あなたなら職業的にやれる」と言ったという[8]
  4. ^ 1969年の総選挙において党の統一候補となった太田一夫であるが、岡崎市、安城市、西尾市、額田町幸田町などの地区で票が伸び悩み[14]、次点で落選した。

出典

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  1. ^ 福岡寿一『権勢に付属せず』東海タイムズ社、1983年10月1日、36頁。 
  2. ^ 福岡寿一編『最後の人―本多鋼治回想―』東海タイムズ社、1965年12月5日、99頁。 
  3. ^ a b 『全岡崎知名人士録』, p. 12.
  4. ^ a b c d e 『三河現代史』, pp. 57–67.
  5. ^ a b 東海新聞』1957年7月13日、1面、「亡夫好道氏の遺志継いで衆院選出馬を決意した伊藤よし子さん」。
  6. ^ 『東海新聞』1958年4月30日。
  7. ^ 衆議院会議録情報 第025回国会 本会議 第17号
  8. ^ a b c 中日新聞社会部編『あいちの政治史』中日新聞本社、1981年10月29日、151-153頁、293-294頁頁。 
  9. ^ 中部日本新聞』1958年5月24日付朝刊、三河版、4面、「三河で初の婦人代議士 伊藤さんを囲んで」。
  10. ^ 『東海新聞』1958年5月10日、1面、「総選挙戦陣めぐり 気負いたつ好道直参の猛者 第四区 伊藤よし子候補(新社)」。
  11. ^ 『中部日本新聞』1960年11月3日付朝刊、三河版、「選挙事務所めぐり 伊藤よし子候補 四区・社会前」。
  12. ^ 東海タイムズ』1967年2月1日、2面。
  13. ^ 『東海タイムズ』1967年2月11日、2面、「トヨタ労組への頼りすぎ? 落選した伊藤さんの〝自己批判〟から」。
  14. ^ 太田一夫「敗軍の将兵を語る」 『東海タイムズ』1970年2月21日。
  15. ^ 中日新聞』1991年3月25日付夕刊、13面。

参考文献

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  • 宮川倫山編『全岡崎知名人士録』東海新聞社、1962年6月1日。 
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年10月27日。ISBN 4-8169-1805-1 
  • 林茂、伊藤よし子ほか11名『三河現代史』東海タイムズ社、1959年11月5日。 
  • 平林たい子『砂漠の花』光文社、1957年。 

関連項目

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