伊平屋村
いへやそん 伊平屋村 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 九州地方 | ||||
都道府県 | 沖縄県 | ||||
郡 | 島尻郡 | ||||
市町村コード | 47359-6 | ||||
法人番号 | 9000020473596 | ||||
面積 |
21.84km2 | ||||
総人口 |
1,100人 [編集] (推計人口、2024年12月1日) | ||||
人口密度 | 50.4人/km2 | ||||
隣接自治体 | なし | ||||
村の木 | クバ | ||||
村の花 | ツツジ | ||||
村の魚 | ハタ | ||||
伊平屋村役場 | |||||
村長 | 名嘉律夫 | ||||
所在地 |
〒905-0703 沖縄県島尻郡伊平屋村字我喜屋251番地 北緯27度02分21秒 東経127度58分07秒 / 北緯27.03917度 東経127.96867度座標: 北緯27度02分21秒 東経127度58分07秒 / 北緯27.03917度 東経127.96867度 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
伊平屋村(いへやそん)は、沖縄県の北部、沖縄本島の北方約49kmに位置する伊平屋島とその南西にある野甫島の二島で構成される村[1]。島尻郡に属す。
地理
[編集]伊平屋島と野甫島の2島からなり、2つの島は新野甫大橋によってつながっている。土地の大部分を山林原野が占め、一部は農業振興地域に指定されている[2]。
伊平屋村には5つの集落があり、伊平屋島に田名、前泊、我喜屋、島尻の各集落、野甫島に野甫の集落がある[1]。伊平屋島の田名は三方を山に囲まれているが、前泊、我喜屋、島尻は海岸の沖積低地にある集落である[1]。
伊平屋村の総面積は2,172haで、2006年(平成18年)の土地利用状況は山林(針葉樹林・天然林・広葉樹林)が1,146ha(52.8%)、畑285ha(13.1%)、原野206ha(9.5%)、田123ha(5.7%)、宅地37ha(1.7%)、保安林25ha(1.2%)である[2]。
気候は温暖な亜熱帯気候である[2]。年間最多風向は南南西であるが、秋から冬にかけて北北西の季節風が強く吹くことがある[2]。年間降雨量は2,000mm内外と比較的多いが季節による偏りが大きく、夏から秋には台風あるいは干ばつにより農作物等に被害が出ることがある[2]。
2018年6月14日から16日の48時間で480ミリ以上という、50年に一度とされる記録的降雨が観測されている。
伊平屋島の名を持つ生物にイヘヤヒゲクサ、イヘヤヤマタカマイマイ、イヘヤトカゲモドキなどがいる。
歴史
[編集]村内には先史時代の貝塚が分布し、特に久里原貝塚の発掘では縄文時代前期から中期の土器が発見されている[2]。
第一尚氏王朝をひらいた尚巴志の祖父・佐銘川大主(または鮫川大主とも)の出身地であるとされる。琉球王国期には、伊平屋島、伊是名島は琉球王統発祥の地として王府直轄領とされ、そのため行政区としては王府の聖域が多く存在する本島南部の島尻郡に属すことになった。これが現在も続いている。
古くは伊平屋島・野甫島の伊平屋地方二島と伊是名島・具志川島・屋那覇島・屋の下島・降神島の伊是名地方五島、両地方合せて、「恵平屋の七離れ」と7島合わせて「ゑひや(恵平屋)」呼ばれていました。[3]
「おもろさうし」[4]巻一七の四二に「ゑひや」、「海東諸国紀」所載の琉球国之図に恵平也山とみえ、「去琉球二十里」とある。古琉球の間切・シマ制度下で「ゑひや」、近世の間切・村制度下で島と称された行政単位を構成する島の一つとされている。
18世紀後半、琉球国惣絵図にて測量に基づいた伊平屋の地図が描かれる。首里王府が、18世紀頃、新しく開墾された農地等を把握するため、沖縄本島とその周辺離島を細かく測量する乾隆大御支配(検地)を実施した琉球国惣絵図。現在確認されているのは伊平屋島含めて7枚のみ。[5]
第二次世界大戦末期の沖縄戦の伊平屋村は1945年(昭和20年)6月3日午前に伊平屋島南東沖から米軍の艦砲射撃を受けた。数時間に及ぶ射撃があり、島の中央付近から米軍が上陸。同上陸作戦時に艦砲射撃と機銃掃射で40人余の住民が命を落とした。[6]
米軍の上陸に対し住民は抵抗せず、戦闘は即日終結、2日後の6月5日には島の北部の田名地区に全島民が収容。米軍の駐留は11月まで続き島内の最北端部にレーダー基地、中央部には飛行場を設置され、村民はその間に捕虜生活となった。[6]
2005年7月に伊是名村との新設合併による「新伊平屋村」発足を目指したが、伊是名村で合併の是非を問う住民投票の結果、反対多数となり合併を断念した[7]。
2020年12月、村内で新型コロナウイルスの感染が拡大。同月24日までに人口約1200人のうち30人が本島の施設へ搬送されたことから、離島のクラスター問題への対処として注目を集めることとなった[8]。
2021年(令和3年)10月から11月にかけて、福徳岡の場の噴火で生じた軽石が沿岸部に漂着。フェリーが断続的に欠航したほか行き先の変更が行われた[9]。
年表
[編集]- 1264年(英祖王統)久米・慶良間・伊平屋(ゑへや)、中山に加わる。
- 1471年「海東諸国記」に、恵比也山が初出
- 1478年 田名地頭が配置任命される。
- 1816年 バシル・ホール来琉、著書『朝鮮・琉球航海記』にて伊平屋伊是名諸島をモンゴメリーグループと呼ぶ。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 沖繩縣ノ郡編制ニ關スル件(明治29年勅令第13号)により島尻郡に編入。
- 1908年(明治41年)4月1日の島嶼町村制施行により、田名村・我喜屋村・島尻村・野甫村・伊是名村・仲田村・諸見村・勢理客村が合併し島尻郡伊平屋村が成立。ただし、村政の中心である村役場は伊是名島に置かれた[10][11]。
- 1909年(明治42年) - 前泊が田名から分離して5村落となる[1]。
- 1939年(昭和14年)7月1日 - 分村許可指令により、伊平屋村の一部(伊是名・仲田・諸見・勢理客)が分立し伊是名村が分立[7]。
変遷表
[編集]伊平屋村村域の変遷表 | ||||
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間切制・郡制 | 明治41年4月1日 | 昭和14年7月1日 | 現在 | |
伊平屋間切・
島尻郡 |
田名村 | 伊平屋村 | 伊平屋村 | 伊平屋村 |
我喜屋村 | ||||
島尻村 | ||||
野甫村 | ||||
伊是名村 | 昭和14年7月1日
伊是名村として分立 |
伊是名村 | ||
仲田村 | ||||
諸見村 | ||||
勢理客村 |
人口
[編集]伊是名村と同じく1955年(昭和30年)に人口総数は最高となり、伊平屋村では人口が4,008人を記録したが、その後は急激な人口減少が続いた[1]。
伊平屋村と全国の年齢別人口分布(2005年) | 伊平屋村の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 伊平屋村
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
伊平屋村(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
地域
[編集]元は村制前の4村を引き継いだ4字を置いていたが、のちに1字新設され、現在は5字を数える。野甫島は野甫1字であり、他4字は伊平屋島。
行政
[編集]- 村長:名嘉律夫(2021年9月14日就任、1期目)
経済
[編集]日本郵政グループ
[編集]村内の郵便番号は「905-07xx」である。集配業務は今帰仁郵便局が行っている。
- 日本郵便 伊平屋郵便局(我喜屋)
名所・旧跡
[編集]- クマヤー洞窟(田名)
- 江戸時代の考証的国学者藤井貞幹(藤貞幹)が『衝口発』(1781年)の中で日本神話の天の岩戸をクマヤー洞窟、神武天皇の出生地が伊平屋島との説を唱え、本居宣長と論争となった。現在では藤井説は偽書に基づく虚構とするのが通説。ただし、「クマヤー」には琉球方言で「隠れる」という意味があり、昭和期になっても本土からこの説に関心を持つ民俗学者や神道関係者が訪れている。洞窟自体は県の天然記念物に指定され、毎年12月に岩戸開きの祭りが行われる。広さは約2000m2で2室に分かれ正面に小さな社殿が鎮座しているが、この社は本土から訪れた神道関係者が作ったとされる日本神道式のもので、現地住民の手によるものではない(琉球神道では社を尊崇しない)。
- 屋蔵墓(我喜屋)
- 念頭平松(田名)
- 田名のクバ山(田名)
年間行事・イベント
[編集]- 豊年祭(田名・前泊・我喜屋・島尻・野甫)
- 村慰霊祭
- 敬老会
- 成人式
- 伊平屋ムーンライトマラソン[12]
- いへやまつり
- 国頭郡駅伝大会
- ツール・ド・おきなわ(伊平屋サイクリング隔年開催)
- 大綱引き(我喜屋)
ウンジャミ(田名)
[編集]田名のウンジャミ祭(海神祭)は、琉球王朝時代より続く、喜界島のノロ(神職)の航海の無事を祈念する、旧7月15日の晩から旧7月16日(本祭)、旧7月17日(2日目)行われていた祭事であった[13]。現在は略式ながら、旧7月17日に執り行われている。当時の祭事では田名地区各地、お宮(ジンジャガー)、神事に関わる各門家、ダナヤーそれぞれを巡り、最後ハナシチ(田名集落の端)、から準備された馬に乗り、ヰナントゥンチビ(田名川の河口)に向かう。ヰナントゥンチビでは拝所に拝礼し、アガシと言われる岩の上から「オー」と言われる木を投げ入れ「ダンジュカリユシ」を唄い踊っていた。このあとノロは村のアサギに戻り、田名地区の行政職の者がティルクグチ(テルコ口)唄った。祭事には古くから、昭和の初めごろまで田名の米を使った口噛み酒が捧げられていた。[14]
集まる神職は、田名ノロと海神4名(オーシドゥ神、ユートゥイ神、ユムイ神、イシドゥ神)、さらに男神ダナンサーおよびユヌシンサーである。
交通
[編集]船舶
[編集]港湾
[編集]道路
[編集]伊平屋村営バス
[編集]- 伊平屋村コミュニティバス - 前泊港を起終点とし、伊平屋島の各地区と野甫島をまわる。
文化・おもろ・唄
[編集]伊平屋にまつわる、おもろ・琉歌・唄
・あおりやへ節[15]
1、伊是名親のろよ
押笠に しられゝ
やへり庭
雲子 積で みおやせ
又、伊平屋親のろよ
又、離れ親のろよ
医療
[編集]- ランデブーポイント[16] 2箇所
※民間救急ヘリコプターMESHのヘリポートとして使用
脚注
[編集]- ^ a b c d e 堂前亮平「伊平屋・伊是名 : その地理的概況」『地域研究シリーズ』第5巻、沖縄国際大学南島文化研究所、1984年3月、3-13頁。
- ^ a b c d e f “沖縄県伊平屋村公共施設用地等土地利用計画”. 伊平屋村. 2024年9月4日閲覧。
- ^ “歴史”. 一般社団法人 伊平屋島観光協会. 2024年10月1日閲覧。
- ^ “おもろさうし [4 | 琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ]”. shimuchi.lib.u-ryukyu.ac.jp. 2024年10月1日閲覧。
- ^ “琉球国惣絵図(間切集成図)”. 沖縄県立博物館・美術館. 2024年10月1日閲覧。
- ^ a b “伊平屋村における戦災の状況(沖縄県)”. 総務省. 2024年10月2日閲覧。
- ^ a b 堀本雅章「沖縄県野甫島民の架橋および空路に対する島民意識」『沖縄地理』第15号、沖縄地理学会、2018年11月16日、77-84頁。
- ^ “新型コロナ:「島全体」クラスター、九州沖縄の離島で相次ぐ”. 産経新聞 (2020年12月24日). 2021年1月24日閲覧。
- ^ “離島の船がまた欠航 前日に再開したばかり 軽石が港に再漂着「生活に大きな影響」と村長”. 沖縄タイムスプラス (2021年11月11日). 2021年11月10日閲覧。
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 47 沖縄県』、角川書店、1986年 ISBN 4040014707より
- ^ 日本加除出版株式会社編集部『全国市町村名変遷総覧』、日本加除出版、2006年、ISBN 4817813180より
- ^ “伊平屋ムーンライトマラソン大会公式HP”. 伊平屋ムーンライトマラソン実行委員会(伊平屋村観光交通課内). 2024年10月1日閲覧。
- ^ 『やんばるの祭りと神歌』名護市教育員会、1997年3月31日、203-215頁。
- ^ “口噛酒を造った~新垣カナさん(90歳)~(昭和55年2月26日)”. 泡盛新聞. 2024年10月1日閲覧。
- ^ “おもろさうし/第十三 - Wikisource” (英語). wikisource.org. 2024年10月2日閲覧。
- ^ 離島MESHランデブーポイント NPO法人MESHサポート2011年9月27日現在
外部リンク
[編集]- 公式ウェブサイト
- 伊平屋村に関連する地理データ - オープンストリートマップ
- 伊平屋村教育委員会『伊平屋村の遺跡』 3巻〈伊平屋村文化財調査報告書〉、2000年3月31日(原著2000年3月31日)。 NCID BA56482384 。
- 地図 - Google マップ