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常陸伊佐氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊佐氏 (常陸国)から転送)
伊佐氏
1111年 - )
家紋
幕紋二引両[1]
本姓 藤原北家山蔭流
家祖 藤原実宗
種別 武家
出身地 伊佐荘
主な根拠地 常陸国伊佐城
支流、分家 中村氏伊達氏、伊佐岡氏
凡例 / Category:日本の氏族

伊佐氏(いさし・いさうじ)は、平安時代から南北朝時代まで常陸国伊佐郡(現・茨城県筑西市)に住した伊達氏の祖とされる一族。同族に中村氏中村城主)がある。

出自

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天永2年(1111年)、藤原定任長男実宗常陸介に任じられ、常陸国伊佐郡に住し伊佐氏を称したことから始まる。従来は藤原氏藤原北家山蔭流とされてきたが、下毛野朝臣とする説も提唱されている。また、桓武平氏繁盛流常陸大掾氏族多気氏の一族とする説もあるが、これは刀伊の入寇で活躍し肥前国を賜った伊佐為賢を始祖とする肥前伊佐氏鎮西平氏)であり、別系統である。

歴史

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文治5年(1189年常陸入道念西[2]の4人の息子・常陸冠者為宗(伊佐為宗)、同次郎為重同三郎資綱同四郎為家源頼朝による奥州合戦に従軍している。4兄弟は石那坂の戦い(現・福島市飯坂)で藤原泰衡の兵と戦い、長子為宗の活躍により、信夫佐藤庄司(佐藤基治)及び宗徒の兵18人の首を得る戦功をあげた。この戦功により念西は伊達郡信夫郡を賜わり、同地に住して伊達氏を称したが、為宗は本領の常陸国伊佐郡にとどまり、伊佐氏を称した。

後鳥羽上皇鎌倉幕府が争った承久3年(1221年)の承久の乱では、為宗(伊佐大進太郎[3])が北条泰時に従い上皇側と戦うが、宇治川で戦い戦死(溺死)したと伝わる。

為宗の跡は念西四男為家が相続したと伊達氏の系図にみられる。為綱以降は宗行 - 行方 - 時方と続く。

また、『吾妻鏡』には文治3年(1189年)から承久5年(1221年)条に伊佐三郎行政の名前も見え、北条氏の系図(『系図纂要』)では北条有時の母に伊佐二郎朝政女とある。

南北朝の対立が始まると伊佐太郎(行資)は南朝方に属し、実父の伊達行朝、同族の中村経長等と共に北畠顕家に従って、北朝方の高師冬等と戦った。伊佐城[4]に籠り、小田城関城大宝城と連携しつつ善戦したが、興国4年(1343年11月落城。伊佐氏は没落し、伊達氏もまた常陸国における勢力を失った。

戦国時代には下総結城氏家臣の中に伊佐姓の家臣が見受けられる。

略系図

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実宗
 
 
季孝
 
 
家周
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光隆頼保
斎宮寮頭
慶祐
延暦寺僧)
智源
(僧)
伊佐重宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝宗1業盛宗村[5]朝政行政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊佐為宗2宗村
(伊達氏)
資綱伊佐為家
駿河伊達氏
大進局
源頼朝室)
朝定
(中村氏)
女子
北条義時室)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為綱3女子
北条時盛室)
 
 
宗行4
 
 
行方5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
時方6伊達行朝女子
中村義元室)
 
 
 
 
女子
 
 
 
行資7
 
 
 
 
行員

脚注

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  1. ^ 奥州藤原氏討伐の際に源頼朝より拝領。
  2. ^ 伊達朝宗または伊達宗村に比定されている。
  3. ^ 為宗の子とみられているが、伊達氏側の史料では為宗本人とされている
  4. ^ 天慶3年(940年)、下野押領使藤原秀郷(俵藤太)が平将門追討の際に上館(元館)・中館・下館の三館築いたという伝説があり、伊佐城はこの三館のうちの中館を伊佐氏が改修したものといわれる。三館のうち下館は、室町時代から明治維新まで、下館城として水谷正村(蟠竜斎)など歴代下館城主が住した。
  5. ^ 会津史伊達の項、藤氏飯田系譜、当午山満勝寺此丘知恩文の古代三家系譜では宗村を光隆弟の重宗の嫡子として挙げ、朝宗の養子になったとしている。

参考文献

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  • 伊達氏誕生 松浦丹次郎(土龍舎、1982年)
  • 伊達一族とその起源 宝賀寿男(古樹紀之房間、古代及び中世氏族の系譜関係、2002年)

参考史料

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外部リンク

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