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伊佐為宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊佐為宗
時代 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 承久3年6月14日1221年7月5日
別名 常陸冠者、伊佐大進
官位 皇后宮大進
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝
氏族 藤原北家山蔭流常陸伊佐氏
父母 常陸入道念西伊達朝宗?)
兄弟 為宗伊達宗村中村資綱伊達為家
為行、田手実綱、延厳、朝基、寺本為保大進局
為綱北条時盛
特記
事項
中村朝定の養父
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伊佐 為宗(いさ ためむね)は、鎌倉時代初期の御家人。常陸冠者為宗。皇后宮大進。伊佐大進。

生涯

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藤原北家山蔭流で伊達氏の祖とされる常陸入道念西[1]の子。常陸国伊佐郡(現在の茨城県筑西市)を本領とした。

妹の大進局源頼朝の妾となり、頼朝との間に男子(貞暁)を生んでいる。

文治5年(1189年)、源頼朝が藤原泰衡追討のために行った奥州合戦(奥州征伐)に、弟の殖野為重(次郎為重)三郎資綱四郎為家と共に従軍する。8月8日、奥州方の最前線基地である信夫郡の石那坂(現在の福島市飯坂)の城砦を攻略し、佐藤基治など敵18人の首を取り、阿津賀志山の経ヶ岡にその首を梟したという[2]

この奥州合戦の戦功により、伊佐為宗の一族は頼朝から伊達郡を賜った。為宗は伊佐郡に留ったが、念西と為宗の弟などが伊達郡に下って「伊達」を称し、伊達氏の祖となった。

承久3年(1221年)、承久の乱に従軍した為宗は、宇治川の戦いで戦死した[3]

系譜

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脚注

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  1. ^ 伊達氏初代の常陸入道念西を伊達朝宗とするか、宗村とするか説が分かれる。また、伊達氏の出自については、藤原氏とする以外にも諸説がある。
  2. ^ 吾妻鏡』には、佐藤基治が阿津賀志山で討ち取られたとも、生け捕りになって後に許され所領へ戻ったともある。
  3. ^ 吾妻鏡』に伊佐大進太郎戦死の記述があり、この大進太郎を為宗とする説と、その子息であるとする説がある。
  4. ^ 源義経の子という伝承がある。

関連項目

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