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中村資綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
中村資綱
時代 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 不明
別名 資経[1]、藤原資綱、伊達三郎、常陸三郎
官位 兵衛尉蔵人[2]
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝
氏族 藤原北家山蔭流伊達氏中村氏
父母 常陸入道念西伊達朝宗?)
兄弟 伊佐為宗伊達宗村資綱伊達為家
為行、田手実綱、延厳、朝基、寺本為保大進局
資光
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中村 資綱(なかむら すけつな)は、鎌倉時代御家人。別称は資経、藤原資綱。伊達三郎、常陸三郎。官位兵衛尉蔵人

経歴

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常陸入道念西[3]の三男。

文治5年(1189年)、藤原泰衡追討のため奥州合戦(奥州征伐)に従軍する。初め7月に鎌倉を出発した源頼朝に兄・為重と資綱が名を連ねている。8月に入り父念西と4人の息子(常陸冠者為宗次郎為重、三郎資綱、四郎為家)は共に前衛として出陣、敵方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕った。この功により、陸奥国伊達郡を賜り、伊達姓を称したという。伊達に移るにあたり、下野国中村(中村城)を資綱が相続しているが間もなく、念西の養子とされる中村朝定[4]が成人すると念西の仕置きに従い朝定が中村城を継いだため、資綱は陸奥国伊達郡梁川に移り住んだ[5]

建久元年(1190年)、頼朝の上京に従い、鶴岡八幡宮参詣や東大寺供養の上京へも従っている。承久3年(1221年)の承久の乱、「摩免戸の戦い」で上皇軍の山田次郎重忠を破り兵衛尉に任ぜられる。安貞2年(1228年)7月、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣北条義村の屋敷に出掛ける際に従っている[6]

系譜

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出典

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脚注

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  1. ^ 『吾妻鏡』文治5年8月8日の戦いの条項に三郎資経とあり。
  2. ^ 寛政重修諸家譜
  3. ^ 伊達氏初代・伊達朝宗に比定されている。
  4. ^ a b 源義経の子という伝承がある。
  5. ^ 「真岡市事典」平野辰三著、栃木県立図書館所蔵。
  6. ^ 「真岡の歴史」栃木県真岡市教育委員会発行、栃木県立図書館所蔵