仙台東照宮
仙台東照宮 | |
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唐門と透塀(国の重要文化財) | |
所在地 | 宮城県仙台市青葉区東照宮一丁目6-1 |
位置 | 北緯38度16分48.7秒 東経140度53分6.3秒 / 北緯38.280194度 東経140.885083度座標: 北緯38度16分48.7秒 東経140度53分6.3秒 / 北緯38.280194度 東経140.885083度 |
主祭神 | 東照大権現(徳川家康) |
社格等 | 県社 |
創建 | 承応3年(1654年) |
本殿の様式 | 入母屋造 |
例祭 |
例祭(4月17日) 神楽奉納(4月第3土日) 神輿渡御(5年ごと) ほか |
地図 |
仙台東照宮(せんだいとうしょうぐう)は、宮城県仙台市青葉区東照宮にある徳川家康をまつる神社。承応3年(1654年)に仙台藩2代藩主伊達忠宗が創建。正式名称は東照宮。唐門、本殿など4棟と鳥居1基が国の重要文化財に指定されている。
歴史
[編集]承応3年(1654年)に、仙台藩2代藩主・伊達忠宗により創建。
東照宮境内地の選定は、天正19年(1591年)に徳川家康が葛西大崎一揆鎮圧の視察を終えた帰途で、玉手崎の丘(現・境内地)に立ち寄り、当寺の天神社(現・榴岡天満宮)の境内で、藩祖・伊達政宗と休息した故事によるとされる。また、政宗没後、領内で大火、大洪水など災害が続き、藩財政が重大な危機に陥ったなどの背景があり、仙台城の正確な北東に位置するため鬼門鎮守も由縁の1つである。2代藩主・忠宗は、東照大権現を守護神として祀るため、慶安2年(1649年)5月に3代将軍・徳川家光に東照宮造営を願い出て、勧請がゆるされ、慶安2年(1649)8月に普請が始まり、本殿、唐門、透塀、幣拝殿、本地堂、御供所、御厩、鐘楼、随身門、石鳥居、別当寺・仙岳院、御旅宮などを造営し、5年後の承応3年(1654)3月に竣工した[1][2]。仙台藩総力をあげての大事業であり、造営に携った総人数は834835人、総工費小判22443両を要した[1]。大工棟梁は、大崎八幡宮本殿(国宝)、瑞巌寺本堂(国宝)などを建築した梅村家の梅村彦作之三が行っている[2]。御神体は、東北最大ともいわれる御神輿に乗せて、江戸から仙台まで7日架けて渡御し、のちの東照宮御祭礼(仙台祭)の起源となっている[3]。
また社殿の造営だけでなく、神社を維持管理するための御宮町の制定し、家臣の住む御譜代町を中心に大町・肴町・立町・南町・柳町・北目町・染師町・田町の8町を氏子町に指定し、氏子町は、東照宮御祭礼の時に神輿を担ぎ、山車を出すことなど祭の運営をすることなど、東照宮を仙台藩の守護神とするための様々な取り決めが行われている[2][1]。伊達家の守護神として歴代藩主に崇敬され、明暦元年(1655年)から9月17日を祭礼日と定め、藩主が在国の年に、城下の町々に命じ、神輿渡御、山車をくりだした領内最大の祭りの仙台祭が、江戸時代末期まで盛大に行われた[1]。
明治維新後、東照宮は藩の管理下を離れたため、一時、境内は荒廃するが、氏子の尽力により整備され、1879年(明治12年)に郷社に列し、祭典日は、4月17日になり、1925年(大正14年)には県社に昇格。1935年(昭和10年)8月に火災で、幣拝殿、神饌所が焼失したが、1964年(昭和39年)に原形に再建される。1953年(昭和28年)3月、本殿、唐門、透塀、石鳥居が国の重要文化財に指定(随身門は1980年3月追加指定)。1977年(昭和52年)3月に唐門、透塀、1979年(昭和54年)に本殿の大修理工事が行われた。1984年(昭和59年)、御遷座330年奉祝大祭が行われ、30年ぶりの神輿渡御が行われた[1]。
地理
[編集]仙台市都心部から見て北に横たわる七北田丘陵の南部は、広瀬川の侵食により河岸段丘を形成しているが[4]、同丘陵から仙台平野に突き出した樹枝状丘陵の1つがその地理的に凸な形状から玉手崎と呼ばれている[5]。この標高五十数メートルの玉手崎に仙台東照宮はあり、台原段丘面に社殿が造営され、段丘崖を参道としている[4]。参道前の鳥居周辺は、台原段丘面から約10メートル低い仙台上町および中町の両段丘面であり、ここには別当寺の仙岳院などがある[4]。
門前から南に宮町通り・東六番丁・清水小路が直線的に通じ、広瀬川を超えて大年寺山(愛宕山)と相対する。
門前町「御宮町」
[編集]御宮町は東照宮造営にあたり、忠宗自ら玉手崎に立って見通しのもとに宮町を門前町を地割りしたと伝わる。御宮町は東照宮社領ではなく、他の町人地と同じく町奉行の管轄地であった[6]。住民は、「東照宮御用」として東照宮に奉仕することが義務とされ、「境内掃除役」や東照宮祭礼時においては「神輿飾方」などがあったが、東照宮御用の代償として、諸役負担が免除され、軽微な年貢負担のみが課される耕地を持っていた。また、東照宮祭礼時には禁止されていた操り芝居、相撲などの興行を特権的に許可され、経済的恩恵を受けていた。
東照宮造営の背景
[編集]- 東北諸藩の動き
- 徳川氏と伊達氏の姻戚関係
- 仙台藩財政難における幕府の支援
境内
[編集]東日本大震災の余震により随神門後方の重要文化財の石灯籠の背後の石垣に緩みが生じ、崩落の恐れがあり国、県、市の補助により、2012年(平成24年)9月から2か年事業として、石垣の解体、組立工事が実施され、2013年(平成25年)12月に完成している[8]。
※以下、(重文):国の重要文化財、(県文):県指定有形文化財、(市文)仙台市登録有形文化財
- 鳥居 (重文)
- 御神橋
- 石段 (市文)
- 石灯籠(重文)
- 伊達家一族家臣より38基奉納されていたが寛文事件(伊達騒動)後、事件に関係した家臣の石灯籠は取り除かれ、現在は、その後奉献されたものをあわせ38基が境内に建ち並ぶ。承応3年(1654年)刻銘が31基、延宝8年(1680年)刻銘が2基、天和2年(1682年)刻銘が4基ある。拝殿前の1対は伊達忠宗奉納の灯籠で、石鳥居と同じ岡山県犬島の花崗岩が使われ、その他は、仙台産の石で造られている。唐門前に4基、拝殿前に2基、随身門後方石垣下に4基、表参道石段脇に28基が並ぶ[11][14]。
- 承応3年(1654年)刻銘30基、延宝8年(1680年)刻銘2基、天和2年(1682年)刻銘2基の計34基が重要文化財に指定されている。1978年(昭和53年)の宮城県沖地震により被害を受けたが、修復されている[15]。
- 神楽堂
- 神輿堂
- 随心門向かって右後方にあり、神輿4基が収納されている。承応3年(1654年)創建時に江戸から御神体を運んだ東照宮神輿は東北一の大きさとされ、藩主・在仙の年に行われた東照宮御祭礼(仙台祭)において仙台の城下町を一周したと伝わる。神輿は正月、春祭期間に公開されている。
- 社務所・参集殿
- 境内社:古峯神社
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石鳥居(重要文化財)
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石段脇に石灯籠と奥に随神門(雨の中撮影)
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石燈籠
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随神門前から見た参道入口方面
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神楽堂
以下、本殿まで、承応3年(1654年)仙台藩2代藩主・伊達忠宗の創建によるものだが、幣殿・拝殿・神饌所が1935年(昭和10年)8月に焼失、1964年(昭和39年)に再建されている[15]。建築形態は、本殿、唐門、拝殿・幣殿がそれぞれ別棟として建てられ、拝殿背後に幣殿が接続し突出した形状である。唐門と透塀により本殿が囲われている[10]。昭和52年 - 53年(1977年 - 1978年)に唐門と透塀の、昭和54年(1979年)に本殿の修理が行われている。建物は錺(かざり)金具で飾られていたが、明治初年の戊辰戦争で官軍に剥ぎ取られている[17][18]。
- 随身門(重文)
- 手水舎(県文)
- 切妻造で本瓦葺。花崗岩の水盤が設置されている[20]。
- 拝殿・幣殿・神饌所
- 昭和10年(1935年)放火により炎上し、黒焦げになるが原形を残し、1964年(昭和39年)に原形に再建されている。桁行6.77 メートル、梁行4.31 メートル。三方に縁が付く。屋根は入母屋造、銅瓦葺。内部は畳敷、誕生は折上格天井。拝殿の背面に幣殿が突き出るように接続する[21]。
- 唐門(重文)
- 透塀(重文)
- 本殿(重文)
- 非公開。棟札には「造営承応三天甲午三月十七日」と記されている[15]。屋根は入母屋造、銅瓦葺。桁行き3間、梁間2間、一間の向拝、三方に廻縁が付く。棟の両端に千木・鰹木が付く。漆塗、金箔、で装飾され、正面と両側面の桟唐戸[注 2]に、麻の葉繋ぎの地紋に天女や唐獅子の彫刻があり、その銅板の辻金具に七宝技法による装飾が施されている。内部は内陣・外陣とに別れ、外陣は畳敷、内陣は折上小組格天井、内陣には朱漆塗の須弥壇上に、入母屋造、こけら葺の絢爛な彫刻、蒔絵、飾金具、彩色が施された家形厨子が置かれ、内部に徳川家康像を安置する[10][15][22]。
- 1979年(昭和54年) - 1980年(昭和55年) にかけ本殿の半解体保存修理が行われ、錺(かざり)金具修理の墨書銘と承応3年(1654年)正月と文化12年 (1816年)3月の日付の入った畳床の頭板[注 3]の墨書銘が発見されている[18]。
- 随身門など他の建物の錺金具は、戊辰戦争の際に官軍により剥ぎ取られているが、本殿の錺金具は銅板の厚さが薄い物と厚い物の2種類あるため、本殿の錺金具も他の建物同様に剥ぎ取られ、明治以降に取付けられたと考えられていた。今回発見された錺金具修理の墨書銘は、本殿東側面の内法長押の中央の錺金具裏面から発見され、 「明和元年閏12月から翌2年3月にかけて東照宮大権現 (徳川家康)百五拾年の法会に当り錺金具の修理を行なった」と記されていた[18]。このことから、本殿の錺金具は建立時から今回の修理までの間の江戸中期・明和2年(1765年)に修理が行われていることが判明し、「御修覆」と記されていることから、修理の際に全ての金具を新規に入れ替えたのではなく、建立当初の使用可能な錺金具は再利用されたと考えられる。そのため厚さの違う錺金具には、建立当初の承応3年の物と明和2年の修理で取り替えた物があると考えられている[18]。
- 畳床頭板の墨書銘は、本殿内・外陣の畳替のため内陣5畳、外陣7畳の計12畳の、畳裏の頭板[注 3]より発見され、創建当初の承応3年(1654年)正月の銘と、文化12年(1815年)3月の銘が発見された。東照宮の創建は本殿棟札から承応3年(1654年)3月17日に竣工と判明しているが、本殿の畳は同年正月にすでに造られ、文化12年3月に畳替えが行なわれていたと判明。 本殿の畳の縁に用いられている絹地には二種類あり、その一方は、破損状況などから明らかに一方より古く、このことから、文化12年(1815年)以外の時期に部分的な畳替えが行なわれた可能性があるが、その古い絹地の縁の文様と同じ文様の絹地が本殿内陣の垂れに使用されているため、創建当初の畳がそのまま残っている可能性が考えられている[23]。
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随神門(拝殿付近から撮影)
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随神門後方の石垣に造られた石段と上部に拝殿
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手水舎(県指定有形文化財)
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拝殿
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唐門、透塀、石燈籠(全て重要文化財)
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透塀に囲まれた本殿(非公開)
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本殿屋根の千木・鰹木
祭礼行事
[編集]- 4月17日 - 例祭:徳川家康の命日に行なわれる。
- 神輿渡御:仙台祭ともよばれる。
- 1654(承応3)3月6日に、東北一の大きさといわれる神輿に御神体を乗せ、江戸を出発し、神輿、騎馬、僧侶などの行列が、7日後の3月13日に仙台に到着し、藩主を始め、伊達家一門総出で出迎えたと伝わる[3]。1年後の1655年より始まった東照宮御祭礼において、御神体を運んだ神輿が、仙台の住民により城下町を担がれ、江戸時代を通じ行われた。江戸時代までは9月17日を例祭日としており、仙台祭とよばれ賑わっていた[3]。神輿渡御は明治時代に一旦途切れたが、大正時代に再開し、昭和59年(1984年)から5年に1度実施されている。
- 御神体を運んだ神輿は修復を繰り返し、現存している[3]。
- 4月第3土・日曜日 - 春祭
- 仙台市登録有形文化財の東照宮神楽や、子ども神輿が奉納される。
- 6月30日 - 夏越の大祓
関連寺社
[編集]- 天神社
- 仙岳院
文化財
[編集]国の重要文化財
[編集]- 承応3年(1654年)仙台藩2代藩主・伊達忠宗により建立。
- 本殿 1棟 附:逗子 1基、石灯籠34基、棟札1枚
- 唐門 1棟
- 透塀 1棟
- 随身門 1棟 附:左右袖塀 2棟
- 1980年(昭和55年)1月26日に追加指定された。
- 鳥居 1基
宮城県指定
[編集]- 有形文化財
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- 東照宮手水舎 1棟 附:花崗岩造水盤 - 1964年(昭和39年)9月4日指定[31]。
- 他の社殿と同じ承応3年(1654)建立。
仙台市指定
[編集]- 有形文化財
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- 東照宮石段 2基 - 平成7年9月5日指定[32]。
- 随身門前の表参道石段と東参道の石段の2基
- 無形民俗文化財
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- 東照宮神楽 - 平成8年3月5日[32]。
アクセス
[編集]近隣施設
[編集]脚注
[編集]- 注釈
- 脚注
- ^ a b c d e “東照宮(とうしょうぐう)”. 宮城県神社庁. 2022年7月22日閲覧。
- ^ a b c “東照宮について”. 仙台東照宮. 2022年7月22日閲覧。
- ^ a b c d “東照宮御祭礼 仙台祭の歩み”. 仙台東照宮公式. 2022年7月23日閲覧。
- ^ a b c 広瀬川沿いの地形・地質と人々との関わり(仙台市「広瀬川ホームページ」)
- ^ 昔の仙台を見てみよう Archived 2013年7月25日, at the Wayback Machine.(仙台市)… 「玉田崎」は仙台七崎の1つ。「玉田ヶ崎」「玉手崎」とも呼ばれる。
- ^ a b 重要文化財東照宮修理委員会 (1980). 重要文化財東照宮本殿唐門透塀修理工事報告書. 重要文化財東照宮修理委員会
- ^ a b 仙台市史 通史編3 近世1. 仙台市. (2001年9月1日)
- ^ 仙台市 2014, p. 4.
- ^ a b “鳥居 / 東照宮 / 国宝・重要文化財(建造物)”. 国指定文化財等データベース. 2022年7月22日閲覧。
- ^ a b c d e “指定文化財〈重要文化財〉東照宮”. 宮城県文化財課保存活用班. 2022年7月22日閲覧。
- ^ a b c d e f “境内案内”. 仙台東照宮公式. 2022年7月22日閲覧。
- ^ “仙台東照宮の鳥居 / 石の嫁ぎ先”. 犬島の石嫁ぎ先発見の会 / 岡山シティミュージアム / 岡山市. 2022年7月22日閲覧。
- ^ “東照宮石段”. 仙台市教育委員会 文化財課. 2022年7月22日閲覧。
- ^ a b 仙台教育委員会設置、現地案内板による。
- ^ a b c d e f g “東照宮”. 仙台市教育委員会 文化財課. 2022年7月22日閲覧。
- ^ “仙台東照宮神楽”. 仙台市教育委員会 文化財課. 2022年7月22日閲覧。
- ^ 宮城県 1968, p. 27.
- ^ a b c d e 結城 1981, p. 19.
- ^ a b 参拝者配布の案内パンフレットによる。
- ^ “東照宮手水舎”. 仙台市教育委員会文化財課. 2022年7月22日閲覧。
- ^ 宮城県 1968, pp. 24–25.
- ^ 宮城県 1968, p. 26.
- ^ 結城 1981, pp. 19–20.
- ^ “榴岡天満宮由緒 / 榴岡天満宮について”. 榴岡天満宮公式. 2022年7月23日閲覧。
- ^ 渡辺 1983, p. 11.
- ^ “仙台東照宮 / 徳川家康公の足跡をたどる”. 社寺観光地域連携協議会 / 一般社団法人 全日本社寺観光連盟. 2022年7月23日閲覧。
- ^ “本殿 / 東照宮 / 国宝・重要文化財(建造物)”. 国指定文化財等データベース. 2022年7月22日閲覧。
- ^ “唐門 / 東照宮 / 国宝・重要文化財(建造物)”. 国指定文化財等データベース. 2022年7月22日閲覧。
- ^ “透塀 / 東照宮 / 国宝・重要文化財(建造物)”. 国指定文化財等データベース. 2022年7月22日閲覧。
- ^ “随神門 / 東照宮 / 国宝・重要文化財(建造物)”. 国指定文化財等データベース. 2022年7月22日閲覧。
- ^ “仙台市の文化財” (PDF). 仙台市役所教育局文化財課. p. 2. 2022年7月22日閲覧。
- ^ a b “仙台市の文化財” (PDF). 仙台市役所教育局文化財課. p. 10. 2022年7月22日閲覧。
参考文献・資料
[編集]- 『仙台市史 通史編3 近世1』2001年
- 文化財建造物保存技術研究会『重要文化財 東照宮(仙台)本殿唐門透塀保存修理工事並びに災害復旧工事報告書』東照宮 1980年
- 結城, 慎一、渡辺, 洋一『年報2』 28巻、仙台市教育委員会〈仙台市文化財調査報告書〉、1981年。doi:10.24484/sitereports.10201。 NCID BN02259938 。
- 渡辺, 洋一、山口, 宏『仙台市文化財分布調査報告I』 49巻、仙台市教育委員会〈仙台市文化財調査報告書〉、1983年3月。doi:10.24484/sitereports.9786。 NCID BN02854829 。
- 仙台市教育委員会『文化財年報35』 432巻、仙台市教育委員会〈仙台市文化財調査報告書〉、2014年9月。doi:10.24484/sitereports.21291。 NCID AA12702521 。
- 宮城県『宮城県の古建築』宮城県文化財保護協会、1968年。NDLJP:2526120。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 仙台東照宮 - 公式サイト
- 仙台東照宮・徳川家康公の足跡をたどる - 非公開の本殿画像が見られる。 / 社寺観光地域連携協議会