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今井信夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今井 信夫
生誕 1879年10月26日
日本の旗 日本 福岡県
死没 (1957-12-03) 1957年12月3日(78歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1900年 - 1930年
最終階級 陸軍少将
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今井 信夫(いまい のぶお、1879年明治12年〉10月26日 - 1957年昭和32年〉12月3日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将功四級[2]

経歴・人物

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福岡県出身[1][注釈 1]静岡県静岡尋常中学校に学んだ[3][注釈 2]。中学では野球部に所属した。[注釈 3]

1899年(明治32年)12月1日、陸軍士官学校入校。1900年(明治33年)、陸軍士官学校第12期卒業[1][注釈 4]1901年(明治34年)6月25日、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となった[4][5]

1924年大正13年)12月に陸軍歩兵大佐浜松連隊区司令官、1925年(大正14年)5月に静岡連隊区司令官、1928年(昭和3年)3月に歩兵第36連隊長を経て、1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月29日に予備役に編入した[1][2]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

栄典

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位階
勲章等

脚注

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注釈

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  1. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』では出身地は静岡県とあるが、本項では『日本陸軍将官辞典』の記述に従った。
  2. ^ 静岡中学15回。同期に鈴木與平鳥居信平原栄作ら。
  3. ^ 同校野球部史上、明治時代最強と言われた1898年(明治31年)に、センターを守った。ピッチャー置塩章、ショート加藤周蔵。鈴木與平は野球部でもチームメイト。翌、1899年(明治32年)、マウンドに上がったのが、のちの陸軍中将松田巻平。ー『静中静高野球部史』51,52頁。 昭和39年発行
  4. ^ 同期に、元帥杉山元畑俊六、のちの内閣総理大臣小磯国昭 ら。

出典

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  1. ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』100頁。
  2. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』174頁。
  3. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 45頁。
  4. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』165、174頁。
  5. ^ 『官報』第5393号、明治34年6月26日。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」37頁。
  7. ^ 『官報』第5484号「叙任及辞令」1901年10月11日。
  8. ^ 『官報』第1138号「叙任及辞令」1930年10月13日。
  9. ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
  10. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

外部リンク

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