コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

井原喜代太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久3年6月21日[1][2][3])- 1920年大正9年)8月6日[4][5])は、明治から大正期の実業家政治家衆議院議員、佐賀県会議長、佐賀県藤津郡南鹿島村長。俳号・黄渓[6][7][8]

経歴

[編集]

肥前国藤津郡高津原村(佐賀県[4]藤津郡南鹿島村[2]鹿島町[5]、現鹿島市横田[6][7])で、鹿島藩士・井原五兵衛[6](陶一[3]、為助[8])の長男(長子[6][8])として生まれる。谷口藍田(中秋[2])から漢学を学び[6][8][9]、鹿島変則中学で普通学を修めた[2][8]。その後上京し、専修学校(現専修大学)で学び[2][6]慶應義塾を卒業した[6][7][8]。1882年(明治15年)12月、家督を相続した[3]

1886年(明治19年)鹿島銀行の創立に参画し、佐世保支店長、取締役、頭取を歴任[2][3][4][6][7][8][9]。1897年(明治30年)鹿城会の設立に参画して理事に就任し[2][4][5][6][7][8]、学生への学費貸与事業を実施し[2][6]、また東京に藤津学舎を設置して郷土出身学生の育成に尽力した[8]。1902年(昭和35年)[6]祐徳軌道取締役社長に就任[3][4][5][7][8][9]。1910年(明治43年)から興教大師覚鑁の誕生地の誕生院の復興に尽力した[6][8]

1893年(明治26年)5月、南鹿島村長に就任し、1895年(明治28年)2月、病のため退任した[2][4][6][8]。1909年(明治42年)3月、佐賀県会議員に選出され、同議長も務めた[2][4][5][6][8][9]。1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙に佐賀県郡部から立憲同志会所属で出馬して初当選[10]。その後、第14回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[4][5][6][7][8][9]。1920年8月、議員在任中に死去した[11]

国政選挙歴

[編集]

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附1録〉、1915年、28頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『現代日本の政治家』同志会32-33頁。
  3. ^ a b c d e f 『人事興信録 第4版』い1頁。
  4. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』589頁。
  5. ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』28頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『鹿島の人物誌』10-11頁。
  7. ^ a b c d e f g 『佐賀 幕末・明治500人』第2版、102頁。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『佐賀県大百科事典』45頁。
  9. ^ a b c d e 『佐賀県歴史人名事典』117頁。
  10. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』76頁。
  11. ^ 『官報』第2406号、大正9年8月9日。
  12. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』98頁。
  13. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第14回』29頁。

参考文献

[編集]
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 『佐賀県大百科事典』佐賀新聞社、1983年。
  • 鹿島市史執筆委員会編『鹿島の人物誌』鹿島市、1987年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 旧肥前史談会編『佐賀県歴史人名事典』洋学堂書店、1993年。
  • 福岡博編『佐賀 幕末・明治500人』第2版、佐賀新聞社、1998年。