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二階堂貞衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
二階堂貞衡
時代 鎌倉時代後期
生誕 正応4年(1291年[1][2]
死没 元弘2年/元徳4年1月7日1332年2月3日
改名 貞衡→行恵(法名)
官位 左衛門尉[1][3]美作守[1][3]検非違使[3]従五位下[3]
幕府 鎌倉幕府 政所執事[1][2]
氏族 藤原南家乙麻呂二階堂氏
父母 父:二階堂行貞[1][2][3]
兄弟 貞衡行広
安達時顕
高衡(行直)[注釈 1][3]高行[3]行元[注釈 2][3]
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二階堂 貞衡(にかいどう さだひら[1][2])は、鎌倉時代後期の御家人鎌倉幕府政所執事

略歴

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正応4年(1291年)、二階堂行貞の子として誕生。

北条氏得宗家当主・鎌倉幕府9代執権北条貞時より偏諱を受けて貞衡と名乗ったものとされる[注釈 3]

正中3年/嘉暦元年(1326年)3月に出家し、行恵と号した[1][2][3][6]。嘉暦4年/元徳元年(1329年5月19日には鎌倉幕府の政所執事となる[1][2][6]が、元徳4年/元弘2年(1332年1月7日に42歳で死去[1][2][6][7][3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 母は安達時顕娘。
  2. ^ 貞衡の弟・高貞(行広)の養子。
  3. ^ 没年からの逆算により算出された生誕年(正応4年(1291年))に基づくと、元服した年次はおおよそ1300年1305年の間と推定することができ、その当時の執権であった貞時と烏帽子親子関係にあったと考えられている[4]。貞時在任中は得宗家当主(貞時)から一般の御家人へ「貞」の字が下賜される図式が成立していたことが論文で指摘されており[5]、父・行貞と共にその対象者であったことが窺える。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 関口みさを 著「二階堂貞衡」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、451頁。 
  2. ^ a b c d e f g 二階堂貞衡」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%B2%9E%E8%A1%A1-1098752 
  3. ^ a b c d e f g h i j 『尊卑分脉』。
  4. ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年、15頁。 
  5. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四合併号、再興中世前期勉強会、2004年、20-21頁。 
  6. ^ a b c 鎌倉年代記』・『武家年代記』元徳元年条。
  7. ^ 『尊卑分脉』では元徳3年(1331年)1月7日に頓死したとする。

参考文献

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  • 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、2000年。ISBN 4-642-02786-6 
  • 細川重男 著「政所執事二階堂氏の家系」、鎌倉遺文研究会 編『鎌倉時代の社会と文化』東京堂出版〈鎌倉遺文研究2〉、1999年。ISBN 978-4-490-20375-2 
  • 黒板勝美; 国史大系編修会 編『尊卑分脈 第4篇』吉川弘文館新訂増補国史大系〉。