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二階堂行貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

二階堂 行貞(にかいどう ゆきさだ)

  1. 鎌倉時代後期の武士・政所執事。二階堂行宗の子。本項以下にて詳述。
  2. 室町時代前期の武士(生年不明 - 応永18年(1411年))。二階堂直行の子。

 
二階堂行貞
時代 鎌倉時代後期
生誕 文永6年(1269年[注釈 1][2][3][4]
死没 嘉暦4年2月2日1329年3月3日
改名 行貞→行暁(法名)
官位 左衛門尉[2]山城守[2]信濃守[2]
幕府 鎌倉幕府 政所執事
氏族 藤原南家乙麻呂二階堂氏
父母 父:二階堂行宗[2][3][4]
貞衡行広
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二階堂 行貞(にかいどう ゆきさだ)は、鎌倉時代後期の武士。鎌倉幕府政所執事[2][3]

生涯

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文永6年(1269年)、二階堂行宗の子として誕生。

北条氏得宗家当主・9代執権北条貞時より偏諱を受けて行貞と名乗ったものとされる[注釈 2]。行貞の父・二階堂行宗は引付衆まで進んだが、その父・行忠に先立って弘安9年(1286年)に没しており、正応3年(1290年)の行忠の没後は孫の行貞が22歳で政所執事に就任した[2][3][4]。その人事は単に家を継いだだけに等しかったが、その頃は弘安8年(1285年)の霜月騒動によって得宗家被官・内管領平頼綱が実権を握っていた時期にあたる。

それから3年後の正応6年(1293年)に北条貞時が平頼綱を討ち(平禅門の乱)、頼綱時代の人事を否定し、霜月騒動以前の父・北条時宗の時代への回帰を計る。その煽りを食らったのか、行貞は同年10月に政所執事の職を罷免される[2][注釈 3]。そしてこれまでは政所執事を輩出しなかった隠岐流[注釈 4]から二階堂行藤(出羽備中家)が10月19日に政所執事となる。その後、二階堂行藤が乾元元年(1302年)8月に没すると、3ヶ月の空白期間をおいて行貞が再任される[2][3][4]が、この空白の3ヶ月は得宗・北条貞時の元での人事の迷走及び信濃流の行貞と隠岐流の貞藤の対立の激しさを物語っている[8]。尚、この前年の正安3年(1301年)に行貞は出家している(法名は行暁[4][2][3]

そして行貞が『吾妻鏡』の編纂者の一人と目されているのだが、行貞の祖父である行忠の誕生[9]を『吾妻鏡』に書き込んだのが行貞だとするならば、それは単なる自分の先祖の顕彰を越えて、二階堂行藤とその子・時藤の隠岐流に対して、二階堂行光行盛から行忠、そして自分へと繋がる政所執事の家系としての正当性を主張するものとして十分な動機が推測される[10]

嘉暦4年(1329年)2月2日、61歳で没する[2][3][4]まで政所執事を務め[3]、没後その職は嫡子・貞衡[2]が継いだ。

尚、もう一人の息子・行広の子が鎌倉時代後期に登場する二階堂行光であり、その子孫は六郷氏を称した。

脚注

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注釈

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  1. ^ 鎌倉年代記』(乾元元年の条)から嘉暦4年(1329年)に61歳で死去したことが窺えるため、逆算すると生誕年は文永6年(1269年)となる[1]
  2. ^ 『鎌倉年代記』の記述から算出した生誕年(文永6年(1269年))に基づくと、元服した年次はおおよそ1278年1283年の間と推定することができる[1]。しかしこれはあくまで元服の年齢を10歳~15歳と仮定したものであり、その前後に行う事例もあったので、1284年より執権となった貞時と烏帽子親子関係にあったと考えて差し支えはない[5]。貞時在任中は得宗家当主(貞時)から一般の御家人へ「貞」の字が下賜される図式が成立していたことが論文で指摘されており[6]、嫡男の貞衡と親子二代に亘って「貞」の字を受けた[1]ことが、貞時が就任してまもない頃に偏諱を授与されたことを裏付けていると言える。
  3. ^ その後まもない永仁元年に上野佐野荘内板倉郷を伊豆走湯山東明寺に寄進している[7]
  4. ^ 二階堂行村の系統。

出典

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  1. ^ a b c 紺戸 1979, p. 15.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 安田 1990, p. 453, 関口みさを「二階堂行貞」
  3. ^ a b c d e f g h 永井晋二階堂行貞」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E8%B2%9E-1136559 
  4. ^ a b c d e f 二階堂行貞(1)」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E8%B2%9E-1136559(1) 
  5. ^ 紺戸 1979, p. 19.
  6. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四合併号、再興中世前期勉強会、2004年、20-21頁。 
  7. ^ 安田 1990, p. 453, 関口みさを「二階堂行貞」(鎌倉時代)
  8. ^ 細川 1999。なお、行忠死去の直前である正応3年(1290年)正月には鎌倉において行貞に対する暗殺未遂事件が発生している(『鎌倉年代記裏書)が、細川はこの事件の背景に隠岐流の行藤・貞藤親子の関与を推測している。
  9. ^ 『吾妻鏡』1222年貞応元年)9月21日条に「籐民部大夫行盛の妻男子平産す」とある、行忠誕生の記事。
  10. ^ 五味 2000, p. 300.

参考文献

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  • 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法 事実と神話にみる中世吉川弘文館、2000年。ISBN 4-642-07771-5 
  • 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、2000年。ISBN 4-642-02786-6 
  • 細川重男 著「政所執事二階堂氏の家系」、鎌倉遺文研究会 編『鎌倉時代の社会と文化』東京堂出版〈鎌倉遺文研究2〉、1999年。ISBN 978-4-490-20375-2 
  • 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年。 
  • 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年。