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二宮哲三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

二宮 哲三(にのみや てつぞう、1870年5月7日明治3年4月7日[1][2][3]〉 - 1937年昭和12年〉9月27日[2])は、明治から昭和時代戦前の政治家福島県福島市長。

経歴

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二宮直躬の長男として[1][4]、のちの福島市柳町に生まれる[2]福島小学校に入学し、途中教育改革を経て、1884年(明治17年)福島高等小学校高等科を卒業[3]。上京し、私立大学予備学校に入り、1887年(明治20年)5月、獨逸学協会学校に入学した[3]。同普通科を卒業し、1890年(明治23年)9月、専修科に入学し、政治経済学を学び、1893年(明治26年)7月に卒業した[5]。同年12月、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊第7中隊に入り、1894年(明治27年)日清戦争が勃発すると同年12月に臨時召集を受け、翌年8月に陸軍歩兵少尉に進み、12月に召集解除となった[6]。1896年(明治29年)5月、内務省に奉職するも翌年8月に依願退職する[6]。ついで第五高等学校嘱託となりドイツ語を教え、1901年(明治34年)11月には同校教授となった[6]

1904年(明治37年)日露戦争が勃発すると陸軍歩兵中尉に任ぜられ、充員奥州後備歩兵第29連隊第1大隊に編入され、10月13日、連華山の戦いで手榴弾に被弾し頭部に怪我を負った[6]。しかし、同月末には第7中隊長として再度従軍している[6]。1905年(明治38年)9月、ポーツマス条約締結直後に陸軍歩兵大尉に進み、翌月に召集解除となった[6]。日露戦争後は再度第五高等学校に戻りドイツ語教授として研究、本も出版した[6]。その後、1907年(明治40年)福島中学校長に転じ、福島市の市制施行と同時に初代市長に就任した[2]。市長在任中は、第四小学校の新築、奥羽6県共進会の開催、公会堂建設、競馬場の設置、市営住宅建設、上水道敷設、松齢橋の架橋などに尽力した[2]。福島市新浜町にて死去した[2]

親族

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  • 父 二宮直躬(医師、福島町長)[7]

脚注

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  1. ^ a b 福島県友会出版部 1923, 16頁.
  2. ^ a b c d e f 福島県 1972, 376頁.
  3. ^ a b c 守谷 2020, 27頁.
  4. ^ 人事興信所 1925, に2頁.
  5. ^ 守谷 2020, 26-27頁.
  6. ^ a b c d e f g 守谷 2020, 28頁.
  7. ^ 守谷 2020, 26頁.

参考文献

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