久々野町立久々野小学校有道分校
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久々野町立久々野小学校有道分校 | |
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国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 久々野町 |
設立年月日 | 1898年 |
閉校年月日 | 1963年 |
共学・別学 | 男女共学 |
所在地 | 〒509-3218 |
岐阜県高山市久々野町有道[注釈 1] | |
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久々野町立久々野小学校有道分校(くぐのちょうりつ くぐのしょうがっこう うとうぶんこう)は、かつて岐阜県大野郡久々野町(現・高山市久々野町)に存在した公立小学校の分校。
概要
[編集]- 久々野小学校の分校であり、久々野町有道(現・高山市久々野町有道)が校区であった。
- 有道地区は中俣峠を挟んで口有道と奥有道の地区に分かれてあり、有道分校の校舎は、それぞれの地区に設置され(口有道校舎、奥有道校舎)、ひとつの分校に二つの校舎があるというのが特徴である。元々は校舎は口有道のみであったが、太平洋戦争時、奥有道に製炭のための集落(製炭集落)が営林署により作られ、その伐採夫の児童のために奥有道にも校舎が作られた。戦後、奥有道の製炭集落が解散したため住民が減少したため、2つの校舎を交互に使用することとなった。尚、校舎は2箇所だが学校の備品は共用であり、校舎がかわるたびに児童、先生、地域住民によって運ばれた。
- 有道地区は1967年に全住民が集団離村し、無人となった。2015年現在、住民登録しているのは1名である。
沿革
[編集]有道分校の前身の有道出張所の開設は1898年である。ここではそれ以前についても記述する。
- 1873年(明治6年) - 有道村の児童は、渚村の渚学校に通学する。
- 1875年(明治8年) - 宮村、阿多粕村、渚村、長淀村、木賊洞村、引下村、小坊村、有道村、無数河村、山梨村、久々野村、山之口村が合併し、位村となる。
- 1879年(明治12年)9月 - 有道地区は御母衣学校に委託される。
- 1883年(明治16年)10月 - 位村が分立し、宮村、久々野村[注釈 2]、山之口村、河内村[注釈 3]になる。
- 1898年(明治31年)3月 - 渚尋常小学校校区の引下、小坊、有道地区が、久々野尋常小学校の校区に正式に変更。有道地区に久々野尋常小学校有道出張所を設置。常光寺[注釈 4]を仮校舎とする。
- 1901年(明治34年) - 久々野尋常小学校有道分教場に改称する。
- 1915年(大正4年) - 口有道に新築移転。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 久々野国民学校有道分教場に改称する。
- 1942年(昭和17年) - 営林署が設置した製炭集落の伐採夫の児童のために、奥有道に校舎が完成する。有道分教場は口有道校舎と奥有道校舎の2つの校舎となる。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 久々野村立久々野小学校有道分校に改称する。児童減少のため、2~7月は口有道の校舎で、8~1月は奥有道の校舎で授業を行う。
- 1951年(昭和26年)4月1日 - 久々野村が町制施行し、久々野町となる。同時に久々野町立久々野小学校有道分校に改称する。
- 1952年(昭和27年)11月13日 - 口有道校舎を新築する。
- 1955年(昭和30年) - 奥有道校舎を新築する。
- 1957年(昭和32年) - 1学期は口有道校舎、2学期は奥有道校舎での授業となり、3学期は最寄の校舎での授業となる。
- 1958年(昭和33年) - 冬季は口有道校舎で1~6年が授業を受け、それ以外の時期は口有校舎が低学年、奥有道校舎で高学年の授業となる。
- 1963年(昭和38年) - 廃校。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 久々野町史 全 (大野郡久々野町史編纂委員会 1957年) P.825 - 826
- 久々野町史 第二巻 (久々野町史編纂委員会 1985年) P.389 - 391
関連項目
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