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乃美景興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
乃美景興
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正11年7月8日1583年8月25日
改名 小早川景興→乃美景興
別名 通称:又十郎、掃部
戒名 椿渓永寿
官位 弾正忠
主君 小早川隆景毛利輝元
氏族 桓武平氏良文流小早川氏庶流乃美氏
父母 父:乃美隆興、母:宍戸元源の娘
兄弟 景興、女(福原元俊室)、景直
女(児玉景栄室)、宗珪
吉原元親の娘
元興興次
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乃美 景興(のみ かげおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将小早川氏毛利氏の家臣。安芸茶臼山城主。父は乃美隆興。子に乃美元興乃美興次

生涯

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小早川氏家臣ながら毛利氏との関係も強い乃美隆興の嫡男として生まれる。

天正8年(1580年8月14日、父・隆興から所領を譲られ、家督を相続する[1]

天正10年(1582年)、織田氏との戦いにおいて、いわゆる「境目七城」と称された毛利方の7つの拠点の内の1つである備中宮路山城に在番し守りにつく[注釈 1]。同年4月16日以前に織田勢は宮路山城の攻撃を開始し、城の四方から仕寄を作って肉薄して水の手を絶った[3]ことで、景興は竹井惣左衛門羽柴秀吉のもとに派遣し、5月13日には開城した[2]

同年6月17日付けで、毛利輝元が景興の子の乃美千熊丸(後の乃美元興)に対して所領宛行を行っている[4]ことから、宮路山城開城の責任を追及されて景興が隠居することとなった可能性が指摘されている[5]

天正11年(1583年7月8日、居城である安芸茶臼山城において死去。嫡男の元興が後を継いだ。

脚注

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注釈

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  1. ^ 軍記物類では宮路山城に在番した人物を乃美宗勝の子とされる乃美元信(実際には弟)としているが、同年4月24日吉川元長吉川経安に宛てた書状によると、宮路山城に「乃美弾正忠」が在番したと記しており、実際には景興が在番していることが分かる[2]

出典

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  1. ^ 『閥閲録』巻14「乃美仁左衛門」第23号、天正8年8月14日付、弾正忠(乃美景興)宛て(乃美)安芸守隆興譲状
  2. ^ a b 光成 2019, p. 116-117.
  3. ^ 三卿伝編纂所 1982, p. 246.
  4. ^ 『閥閲録』巻14「乃美仁左衛門」第8号、天正10年6月17日付、乃美千熊丸宛て右馬頭(毛利輝元)知行宛行状。
  5. ^ 光成 2019, p. 117.

参考文献

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  • 萩藩閥閲録』巻14「乃美仁左衛門」
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』(マツノ書店、1982年)
  • 光成準治『小早川隆景・秀秋』(ミネルヴァ書房、2019年)