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乃美元信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
乃美元信
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 元和6年12月15日1621年1月7日
改名 乃美万寿(幼名)→乃美元信
別名 通称:新四郎→四郎兵衛尉
号:入道膳了
主君 毛利元就隆元輝元秀就
長州藩
氏族 桓武平氏良文流小早川氏庶流乃美氏
父母 父:乃美賢勝
兄弟 宗勝、女(白井賢胤正室)、
女(村上吉充正室)、女(岡右京室)、
少輔五郎三津口三郎右衛門元信
就茂
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乃美 元信(のみ もとのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣で萩藩(長州藩)士。父は乃美賢勝。兄に小早川隆景の重臣である乃美宗勝がいる。

生涯

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元服前

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竹原小早川氏の重臣で独立領主的な性格も有する乃美氏当主・乃美賢勝の子として生まれる。

まだ幼名の「万寿(萬壽)」を名乗っていた天文20年(1551年2月28日毛利元就から知行地として安芸国佐東郡矢賀の内の20貫の地を与えられる[1]。同年5月23日児玉就忠が元信の兄・宗勝へ宛てた返書において、元信に「合力の地」を打ち渡した旨を伝えている[2]

弘治3年(1557年2月19日周防国須々万沼城攻めを行う小早川隆景から鉄砲に使用するを送るよう命じられる。なお、この時の隆景の書状が史料上で確認できる毛利氏による鉄砲の実戦使用を窺わせる初例となっている[3][4]

元服後の活躍

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永禄2年(1559年4月27日、元就の加冠を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて「乃美新四郎元信」と名乗る[5]

永禄3年(1560年2月6日、元就が児玉就忠を通して乃美宗勝に書状を送り、元信の愁訴を受けて一所を与える旨を伝えており[6]、同年9月24日、元信は元就から周防国都濃郡富田の内の河上[注釈 1]を与えられる[7]

永禄4年(1561年)の門司城の戦いにも参加し、同年10月10日、大友軍の一斉攻撃においては、兄・宗勝と共に奮戦し武功を挙げる。毛利隆元は元信の戦功を「高名比類無し」と賞賛し、庄原就親を使者として元信に金覆輪の太刀一腰を与えた[8]。さらに同年12月13日には毛利元就と隆元に感状を与えられる[9]

永禄5年(1562年)、兄・宗勝と共に大友氏と対陣する陣中から、元就へ年始の挨拶を行い、青銅100疋等を送った。元就は同年2月21日に元信へ返礼の書状を送っている[10]

永禄13年(1570年3月15日、敵船に乗り込んで戦って負傷した元信に対し、隆景から負傷を心配する書状を送られる[11]。同年5月21日には大多和就重から元信の負傷の事を聞いた児玉就方が宗勝に元信の負傷を気に掛ける書状を送っている[12]

織田氏との戦いとそれ以後

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天正2年(1574年12月10日、元信から折箱1つの進上を受けた毛利輝元児玉元良を通じて元信へ返礼を述べ、この時病に罹っていた元信に治療が肝要であると伝えている[13]

天正4年(1576年)、石山本願寺から兵糧補給要請を受けた毛利輝元は、乃美宗勝と児玉就英を主将とし[14]、その他に福間元明井上春忠村上元吉村上吉充ら安芸・備後・伊予の水軍に700~800艘の警固船を率いて出陣させ、同年7月13日に木津川口において織田氏配下の水軍と激突[15]焙烙を多用した毛利水軍の攻撃により織田水軍は壊滅し、無事に石山本願寺に兵糧を運び込むことに成功した(第一次木津川口の戦い)。この時の作戦行動に元信も参加している[16]

天正20年(1592年)から始まる文禄の役で隆景に従って朝鮮へ渡海した兄・宗勝が病に罹り、同年9月23日に死去する。

元和6年(1620年12月15日に死去。乃美就茂が後を継いだ。

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の山口県周南市川上。

出典

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  1. ^ 閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第4号、天文20年2月28日付、乃美萬壽殿宛て毛利元就宛行状。
  2. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第16号、天文20年比定5月23日付、乃美兵部丞(宗勝)殿宛て児玉就忠書状。
  3. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第8号、弘治3年比定2月19日付、万壽殿宛て小早川隆景書状。
  4. ^ 山本 2007, p. 92.
  5. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第11号、永禄2年4月27日付、乃美新四郎(元信)殿宛て毛利元就加冠状。
  6. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第18号、永禄3年比定2月6日付、乃美兵部丞(宗勝)殿宛て毛利元就書状。
  7. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第5号、永禄3年9月24日付、乃美新四郎(元信)殿宛て毛利元就宛行状。
  8. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第2号、永禄4年比定10月29日付、乃美新四郎(元信)殿宛て毛利隆元連署状。
  9. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第1号、永禄4年12月13日付、乃美新四郎(元信)殿宛て毛利元就・隆元連署状。
  10. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第3号、永禄5年比定2月21日付、乃美新四郎(元信)殿宛て毛利元就書状。
  11. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第7号、永禄13年比定3月25日付、乃美新四郎(元信)殿宛て小早川隆景書状。
  12. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第17号、元亀元年比定5月21日付、(乃美)宗勝宛て児玉就方書状。
  13. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第6号、天正2年比定12月10日付、乃美新四郎(元信)殿宛て毛利輝元書状。
  14. ^ 三卿伝編纂所 1982, p. 136.
  15. ^ 三卿伝編纂所 1982, p. 85.
  16. ^ 『閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」第19号、天正4年比定8月6日付、乃美新四郎(元信)殿宛て毛利輝元書状。

参考文献

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  • 閥閲録』巻134「浦四郎兵衛」
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』(マツノ書店、1982年)
  • 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』(吉川弘文館、2007年)