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中都の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中都の戦い
モンゴル帝国の金朝征服
戦争第一次対金戦争
年月日太祖9年/貞祐2年3月26日 - 太祖10年/貞祐3年5月2日1214年5月7日 - 1215年5月31日
場所:中都大興府(現在の北京市
結果モンゴル帝国の勝利、金朝の南遷
交戦勢力
モンゴル帝国 金朝
指導者・指揮官
チンギス・カン
トルイ
ムカリ
ケフテイ
石抹明安
宣宗
胡沙虎
朮虎高琪
完顔承暉 
抹撚尽忠
戦力
数万 6千人以上
損害
不詳 不詳

中都の戦い(ちゅうとのたたかい)は、1214年から1215年にかけて行われたモンゴル帝国による金朝の首都の中都(燕京大興府)の包囲戦。

当初、モンゴル帝国の指導者チンギス・カンは中都を陥落させるつもりはなかった(金朝を軍事征服する予定はなかった)とする説が有力であり、一度は両国の間に和議が結ばれてモンゴル軍は包囲を解いている。しかし、モンゴル軍を過度に恐れた金朝は開封への遷都を断行し(貞祐の南遷)、これを和約違反であると反発したモンゴル軍によって中都は再度包囲を受け、既に金朝皇帝の去っていた中都は1215年5月に陥落した。

背景

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野狐嶺の戦いを描いた細密画(ミニアチュール)

1206年泰和6年/丙寅)にモンゴル帝国を建国したチンギス・カンは積極的な対外進出を志向し、西夏国に出兵し、天山ウイグル王国の投降を受けると、1211年大安3年/辛未)には遂に金朝への全面侵攻に踏み切った。ゴビ砂漠を渡ったモンゴル軍はまずシリンゴル草原の金朝国営牧場とこの地に住まう契丹人集団を征服し、金朝側の機動力を奪った。

これに対し、金朝側が派遣した切り札たる精鋭部隊の宣徳行省軍は野狐嶺の戦いでモンゴル軍に惨敗し、国営牧場の失陥と主力部隊の壊滅によって金朝はモンゴル軍の機動部隊に対抗する術を失った。しかし、野狐嶺の戦いでモンゴル軍側が負った損害も甚大であり、金朝側が守りを固めたこともあって戦況は膠着し、1212年崇慶元年/壬申)中にはモンゴル軍が内蒙草原から出る事がなかった。

ところが、1213年至寧/貞祐元年/癸酉)に入ると十分な休息を取ったモンゴル軍は遂に全軍で南下を始め、金朝側による強固な防衛網が構築された居庸関を避けて、紫荊関を攻略して華北平原に降り立った。モンゴル軍は金朝の征服よりも略奪と金朝の弱体化を目的としており、全軍を分散させて華北各地を侵略するが軍事占領は行わないという方針を取り、この作戦によって金朝朝廷は中都で孤立した。一方、これと並行してモンゴル軍の別動隊が中都に迫っており、このモンゴル軍全体から見れば僅かな別動隊によって中都包囲戦が始まることになった。

包囲戦

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包囲戦に至るまで

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居庸関の全景。

1213年、全軍を挙げて南下したモンゴル軍はまず高琪の軍団を破って長城に迫ったが、中都を守る最大の要衝の居庸関の守りが堅いのを見ると、ケフテイ(怯台)とブチャ(薄察)を居庸関の北方に抑えとして残して8月上中旬頃に残りの全軍を率い紫荊関に向かった[原史料 1][注釈 1]。紫荊関で奥屯襄率いる全軍を打倒し、また定興で烏古孫兀屯率いる部隊を破ったモンゴル軍はもはや遮る者なく華北平原に展開した[原史料 2]。モンゴル軍は全軍を右翼・中央・左翼の3軍に分けると同時に、居庸関の北方で駐屯するケフテイらと連動して中都を威嚇するため、ジェベを中心とする別動隊が北方に派遣された。

一方、金朝側では対モンゴル戦争で活躍しながら冷遇されていたことに不満を抱いた胡沙虎(漢名は紇石烈執中)がクーデターを起こし、衛紹王を弑逆して宣宗を擁立することで実権を握っていた[2]。胡沙虎は涿州易州にモンゴル軍を引き込んで包囲殲滅せんとする計画を練っていたが[原史料 3]、先に派遣された高琪は涿州の手前の良郷でモンゴル軍に進軍を阻まれ[原史料 4]、胡沙虎の戦略は早い段階で瓦解した[3]。モンゴル側の第一の目標はケフテイ軍と連動して居庸関を落とすことにあり、中都の攻撃にはなかったが、胡沙虎は自ら軍を率いてモンゴル軍を撃退せんと出撃した。両軍は中都の北方で衝突したとみられ、病でありながら車に乗って督戦した胡沙虎の奮戦もあり、初日は金軍の勝利に終わった。しかし、翌日の戦闘では中都南方にいた高琪が合流を命じられていたにもかかわらず戦闘に間に合わなかったこともあり、単独でモンゴル軍と戦った胡沙虎は敗北を喫した[原史料 5]

戦後、中都城内に戻った胡沙虎は高琪を叱責して処刑しようとしたが、宣宗のとりなしにより助命された。しかし高琪はその代わりに単独で出撃してモンゴル軍を撃退せよという無謀な命令を受け、やむなく出撃した高琪は予想通り惨敗を喫した[4]。もはや処刑は免れないと覚悟した高琪はクーデターを敢行し、胡沙虎を打ち取って朝廷の実権を掌握した[5]。一方、金朝朝廷が内紛を続けている間にモンゴル軍は居庸関を陥落させており、遂に中都は包囲されるに至った[6]

第一次包囲

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ジェベによる居庸関の陥落後、本隊と合流したケフテイら率いる別動隊は5千の軍勢を新たに与えられ、中都包囲を命じられた[6][原史料 6]。なお、南宋側の記録である『両朝綱目備要』はこの時中都(燕京)を包囲したのはサムカ(撒没曷)であるとしており[原史料 7]、5千の兵を率いてケフテイ軍と合流し、中都包囲の指揮を執ったのはサルジウト部出身のサムカ・バアトルであったようである[7]。中都を包囲したモンゴル軍は少数かつ騎兵が主力であったために最初から城攻めを予定しておらず、あくまで中都と周辺地域の連絡を絶ち金朝朝廷を孤立させることが目的であったとみられる[8]

一方、金朝朝廷の側でも相次ぐ敗戦によって士気が下がっており、「将帥はみな戦闘に消極的だった[原史料 8]」「兵の指揮権を握る者は萎縮して敢えて戦おうとしなかった[原史料 9]」といった記録が残っている[9]。このように、最初の包囲戦では両軍ともに積極的に戦う意志がなく、実戦らしい実戦を行わないままに包囲が続いたとみられる[注釈 2]

和議

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耶律突欲の描いた契丹人絵画。

後代の史料ではチンギス・カンは最初から金朝を征服しようとしていたと記されることもあるが、現在ではチンギス・カンに定住民地域を恒常的に支配しようという意図はなく、あくまで略奪と金朝側からの攻撃を受けないよう徹底的に打撃を与えることが第一次金朝侵攻の目的であったと考えられている[11]。このような考えのもと、早くも1213年10月にチンギス・カンは和議の使者を金朝朝廷に派遣しており[原史料 10]、1214年(貞祐2年/甲戌)2月には2度続けて使者(ジャバル・ホージャ)が中都を訪れた[12][原史料 11]。華北全土を劫掠したモンゴル軍が同年3月に中都城下に全軍集結すると、城内には戒厳が宣布された。金朝側では疲労したモンゴル軍に決戦を挑むべしと主張する高琪の意見もあったが、和平論を主張する完顔承暉(福興)の意見が採用され、モンゴル軍の威圧の下両国の間に和議が結ばれた[原史料 12]。承暉自らがモンゴルの陣営を訪れて和約を協議した結果、金朝側からは岐国公主がモンゴル側に差し出され[原史料 13]、チンギス・カンはこれを受け容れて包囲を解き北方に帰還することになった。

ところが、モンゴル軍の脅威を身に染みて知った金朝朝廷はモンゴル高原にほど近い中都に朝廷を置くことを恐れるようになり、1214年5月に遥か南方の開封に遷都することを宣言した(貞祐の南遷)[原史料 14][注釈 3]。さらに、南下する金朝朝廷には契丹人を中心とする「乣軍(外人傭兵部隊)」が従っていたが、乣軍の忠誠心を疑った金朝朝廷が彼等の武具(鎧馬)を奪おうとした所、かえって乣軍の離反を招いてしまった[14]。乣軍は斫答比渉児・札剌児を指導者に戴いて中都に戻り、盧溝橋で金朝の守備軍を撃破して多量の軍需物資を奪った。また、使者をチンギス・カンの軍営に派遣し、モンゴルに来援を乞うた[原史料 15]

チンギス・カンは当初これにどう対応すべきか迷ったようであるが、石抹明安に代表されるこの遠征でモンゴルに降った契丹人将軍が中心になって金朝の和議違反を名目に再出兵すべしと主張したことにより、再度の金朝侵攻を決意したとされる[原史料 16]。内蒙古・華北一帯に住まう契丹人からすれば、今後金朝が反撃に転じることが不可能になるほどに弱体化するのが望ましく、また契丹人自身が華北の支配を主導したいという欲求があったために金朝への再侵攻を望んだのだと考えられている[15]

第二次包囲

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『集史』チンギス・カン紀所載の中都の戦いを描いた細密画(ミニアチュール)。

宣宗の南遷を受けて中都の留守は右丞相に任じられた承暉が守ることになったが、もはや敗北は必至の状態であり、承暉自らによる必死の請願によってようやく抹撚尽忠が副官(左副元帥)の任命を受ける有様であった[16][原史料 17]。一方、モンゴルの側では中都包囲を支持した契丹人部隊を主力として、サムカ・バアトルを主将に、石抹明安を副将として再度中都を包囲した[原史料 18]。また、この中都包囲軍には王檝をはじめとする「漢軍数万」 も加わったとの記録があり[原史料 19]、この頃からモンゴル軍内部で従来のモンゴル兵・契丹兵に加え漢人兵の活躍も始まったようである[17]

1215年(貞祐3年/乙亥)2月、金朝朝廷は元帥左監軍の完顔永錫には中山・真定の兵を、元帥左都監の烏古論慶寿は大名軍1万8千・西南路歩騎1万1千・河北兵1万をそれぞれ率いて中都に向かい、御史中丞の李英は糧食を運び、参知政事・大名行省の孛朮魯徳裕もこれに続いて進発するように命じ、これらの諸軍によって中都を救援せんとした。 これに対し、承暉を「城中には固い意志で抵抗しようという者はおらず、臣が死守しようとしても持ちこたえられるとは思いません。ひとたび中都を失えば遼東・河朔は皆失われます。諸軍にはできるだけ急いで来援に来てもらわなければ間に合いません」と上奏したため、宣宗も改めて抗戦を中都に指示している[原史料 20]。しかし同年3月、中都への糧食運搬を担っていた李英は飲酒によって油断していたところを覇州でモンゴル軍に敗れ、同様に烏古論慶寿も涿州で敗れたことによって、中都の兵站は尽きて食糧不足に陥ることになった[原史料 21][原史料 22]

また、朝廷の実権を握る高琪が承暉を疎んでこれを排除しようとしたため、各地からの援軍は中都にたどり着かなくなってしまった。籠城戦の先行きを悲観した承暉は抹撚尽忠と協議して社稷に命運を共にすることを約したが、抹撚尽忠は密かに中都からの脱出を図っていたため、承暉からの怒りを買った。抹撚尽忠の部下の完顔師姑が弁明のために現れたが、更に怒りを深めた承暉はこれを斬首とした。事ここに至り情勢を悲観した承暉は自らの死を以て国に報いることを決意し、宣宗あてに自らの潔白と高琪の謀略を非難する文章を残し、自らの家財を家人に分配した上で、自ら毒を仰いで自殺した[原史料 23]

抹撚尽忠はこれを聞いて中都から逃げ出したため、これによって事実上中都の留守司令部は崩壊した[原史料 24]。これをきっかけに貞祐3年5月2日(1215年5月31日)に中都は開城し、石抹明安が城内に入って戦勝をチンギス・カンに報告した。なお、この時中都城内にいた著名な人物として耶律楚材がおり、この中都陥落を契機としてモンゴル帝国に仕えるようになる[18]

中都の開城を知ったチンギス・カンは中都の財産管理のためにシギ・クトクオングル・バウルチアルカイ・カサルという3名の千人隊長を派遣したが、オングル・バウルチとアルカイ・カサルは金朝留守のカダ(粘合合達、哈答)[注釈 4]から金幣を受け取ったが、シギ・クトクは受け取らなかった。後にこの一件を知ったチンギス・カンはシギ・クトクを褒め称え、オングルとアルカイ・カサルらを叱責したという[20][原史料 25]。この逸話は広く知られていたようで、漢文史料のみならずモンゴル語を漢字転写した『元朝秘史』、ペルシア語史料の『集史』といった諸史料にも詳細に言及されている[注釈 5]

影響

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中都の陥落は本来チンギス・カンの予定にはなかったと考えられているが、大国の金朝の中心地であった中都を手中に収めたことはモンゴル帝国の華北支配に大きな影響を与えた。この後、モンゴル帝国の華北支配は中都改め燕京を中心に行われるようになり、この「ヒタイ総督府(ヒタイはモンゴル側からの華北の呼称)」 は「燕京行台尚書省」・「燕京行尚書省」・「燕京行省」・「燕京行台」と様々に呼ばれた。また、チンギス・カンより東方の経略を委ねられたムカリ率いる軍団(後に漢文史料上で「五投下」と呼ばれる)は燕京の周辺一帯を遊牧地として定めたため、燕京一帯はモンゴル帝国にとって政戦双方において重要な拠点に成長した。

このような経緯を踏まえて燕京一帯を自らの拠点に定めたのが第5代皇帝クビライであり、クビライが燕京の近郊に大都を建設したことにより、この地は現代の北京に繋がる世界有数の大都市に成長するに至った[22]

脚注

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注釈

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  1. ^ 8月25日に胡沙虎が居庸関で虚報を出したとの記録があり(『金史』巻132列伝70逆臣紇石烈執中伝,「八月二十五日未五更、分其軍為三軍、由章義門入、自将一軍由通玄門入。執中恐城中出兵来拒、乃遣一騎先馳抵東華門大呼曰『大軍至北関、已接戦矣』。既而再遣一騎亦如之」)、この事件はモンゴル軍が接近した時の事ではありえないので、モンゴル軍が居庸関に接近したのは8月15日以前と考えられる[1]
  2. ^ 唯一、『金史』巻108列伝46侯摯にはこの時の包囲戦で「籠城戦に功績があった(貞祐初、大兵囲燕都、時摯為中都曲使、請出募軍、已而嬰城有功)」との記述があるが、実際に防御戦闘があったかは定かではない[10]
  3. ^ 金朝において将来を嘱望されていた徒単鎰は、中都に踏みとどまるのが上策、満洲の故地に退くのが中策、開封に逃れるのは下策であると論じて、宣宗の開封遷都を諫めたが、受け入れられず、彼は開封への遷都宣言の出される3日前に没している[13]
  4. ^ カダは、後にチンギス・カンに仕えるチュンシャン(粘合重山)の祖父にあたる[19]
  5. ^ なお、『集史』ではこの事件を「アルタン・カン(=金朝皇帝)の副官の合達(=カダ)が財宝の中から賄賂を与えた……」と表現している[21]

原史料

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  1. ^ 『聖武親征録』,「癸酉秋、上復破之、遂進軍至懐来、金帥高琪将兵挙戦。我軍勝、追至北口、大敗之、死者不可勝計。時金人塹山築塞、悉力為備。上留怯台・薄察等頓兵拒守、遂別衆西行、由紫荊口出。為金主聞之、遣大将奥屯襄将兵拒隘、忽使及平地」
  2. ^ 『金史』巻121列伝59忠義1烏古孫兀屯伝,「貞祐元年閏月、以兵入衛中都、詔以兵万六千人守定興、軍敗、兀屯戦没」
  3. ^ 『両朝綱目備要』巻13,「韃兵至紫荊関、距燕京二百里、執中欲誘其兵南至涿・易、乃聚兵撃之。韃靼破涿・易、至皁河之西」
  4. ^ 『金史』巻106列伝44朮虎高琪伝,「[貞祐元年閏月]是月、被詔自鎮州移軍守禦中都迤南、次良郷不得前、乃還中都」
  5. ^ 『両朝綱目備要』巻13,「欲渡橋、執中方病足、乗車督戦、韃靼大敗。翌日再戦、執中瘡甚不能出、遣左監軍高琪以乣軍五千拒之、失期不至、執中欲斬之、珣以其有功、諭令免死」。
  6. ^ 『聖武親征録』,「比其至、我衆度関矣、乃命哲別率衆攻居庸南口、出其不備、破之。進兵至北口、与怯台・薄察軍合。既而又還諸部精兵五千騎、令怯台・哈台二将固守中都。上自率衆攻涿州、命二日抜之」
  7. ^ 『両朝綱目備要』巻13,「珣以高琪掌兵権、不敢加罪、尽收従執中弑逆之人殺。於是韃靼主忒没真留其大酋撒没曷囲燕京」
  8. ^ 『金史』巻101列伝39耿端義伝,「貞祐二年、中都被囲、将帥皆不肯戦。端義奏曰『今日之患、衛王啓之。士卒縦不可使、城中軍官自都統至謀克不啻万餘、遣此輩一出、或可以得志』。議竟不行」
  9. ^ 『金史』巻107列伝45張行信伝,「時中都受兵、方遣使請和、握兵者畏縮不敢戦、曰『恐壊和事』」
  10. ^ 『金史』巻14宣宗本紀上,「[貞祐元年冬十月]辛丑、大元乙里只来」
  11. ^ 『金史』巻14宣宗本紀上,「[貞祐二年二月]壬子、大元乙里只札八来。丙辰、罷按察司。壬戌、大元乙里只復来」
  12. ^ 『聖武親征録』,「上至中都、亦来合。甲戌、上駐営于中都北壬甸。金丞相高琪与其主謀曰『聞彼人馬疲病、乗此決戦、可乎』。丞相完顔福興曰『不可。我軍身在都城、家属多居諸路、其心向背未可知、戦敗必散。苟勝、亦思妻子而去。祖宗社稷安危在此挙矣、当熟思之。今莫若姑遣使議和、待彼還軍、更為之計、如何』。金主然之、遣使求和、因献衛紹王公主、令福興来送。上至野麻池而還」
  13. ^ 『金史』巻14宣宗本紀上,「[貞祐二年]三月辛未、遣承暉詣大元請和。……甲申、大元乙里只札八来。詔百官議於尚書省。……庚寅、奉衛紹王公主帰於大元太祖皇帝、是為公主皇后。辛卯、詔許諸人納粟買官。京師戒嚴」
  14. ^ 『金史』巻14宣宗本紀上,「[貞祐二年五月]乙亥、輟朝。上決意南遷、詔告国内」
  15. ^ 『聖武親征録』,「夏四月、金主南遷汴梁、留其太子守中都、以丞相完顔福興・左相秦忠為輔。金主行拒涿、契丹軍在後。至良郷、金主疑之、欲奪其元給鎧馬還宮。契丹衆驚、遂殺主帥襄昆而叛、共推斫答比渉児・札剌児為帥、而還中都。福興聞変、軍阻盧溝、使勿得度。斫答遣其裨将塔塔児帥軽騎千人潜渡水、復背撃守橋衆、大破之、尽奪衣甲・器械・牧馬之相迎者、由是契丹軍勢漸振」
  16. ^ 『元史』巻150列伝37石抹明安伝,『既而帝欲休兵於北、明安諫曰『金有天下一十七路、今我所得、惟雲中東西両路而已、若置不問、待彼成謀、併力而来、則難敵矣。且山前民庶、久不知兵、今以重兵臨之、伝檄可定、兵貴神速、豈宜猶豫』。帝従之」
  17. ^ 『金史』巻101列伝39承暉伝,「中都被囲、承暉出議和事。宣宗遷汴、進拝右丞相、兼都元帥、徙封定国公、与皇太子留守中都。承暉以尚書左丞抹撚尽忠久在軍旅、知兵事、遂以赤心委尽忠、悉以兵事付之、己乃総持大綱、期於保完都城。頃之、荘献太子去之、右副元帥蒲察七斤以其軍出降、中都危急。詔以抹撚尽忠為平章政事、兼左副元帥」
  18. ^ 『聖武親征録』,「五月、金太子留福興・秦忠守中都、亦走汴梁。上以契丹衆将来帰、遂命散只兀児三木合抜都領契丹先鋒将明安太保兄弟等為嚮導、引我軍合之、至則与斫答等併力囲中都」
  19. ^ 『元史』巻153列伝40王檝伝,「甲戌、授宣撫使、兼行尚書六部事。従三合抜都・太傅猛安率兵南征、下古北口、攻薊・雲・順等州、所過迎降、得漢軍数万、遂囲中都。乙亥、中都降。檝進言曰『国家以仁義取天下、不可失信於民、宜禁虜掠、以慰民望』。時城中絶粒、人相食、乃許軍士給糧、入城転糶、故士得金帛、而民獲粒食」
  20. ^ 『金史』巻101列伝39承暉伝,「三年二月、詔元帥左監軍永錫将中山・真定兵、元帥左都監烏古論慶寿将大名軍万八千人・西南路歩騎万一千・河北兵一万、御史中丞李英運糧、参知政事・大名行省孛朮魯徳裕調遣継発、救中都。承暉間遣人以礬寫奏曰『七斤既降、城中無有固志、臣雖以死守之、豈能持久。伏念一失中都、遼東・河朔皆非我有、諸軍倍道来援、猶冀有済』。詔曰『中都重地、廟社在焉、朕豈一日忘也。已趣諸路兵与糧倶往、卿会知之』。及詔中都官吏軍民曰『朕欲紓民力、遂幸陪都、天未悔禍、時尚多虞、道路久梗、音問難通。汝等朝暮矢石、暴露風霜、思惟報国、靡有貳心、俟兵事之稍息、当不愆地旌賞。今已会合諸路兵馬救援、故茲奨諭、想宜知悉』。永錫・慶寿等軍至覇州北」
  21. ^ >『聖武親征録』,「金主以検点慶寿・元帥李英運糧分道、還救中都、人賞糧三斗。英自負以励衆。慶寿至涿州旋風寨、李英至覇州青戈、皆為我軍所獲。既絶其糧、中都人自相食、福興自毒死、秦忠亦委城走。明安太保入拠之、遣使献捷」
  22. ^ 『金史』巻101列伝39承暉伝,「三月乙亥、李英被酒、軍無紀律、大元兵攻之、英軍大敗。是時、高琪居中用事、忌承暉成功、諸将皆顧望。既而以刑部侍郎阿典宋阿為左監軍、行元帥府于清州、同知真定府事女奚烈胡論出為右都監、行元帥府于保州、戸部侍郎侯摯行尚書六部、往来応給、終無一兵至中都者。慶寿軍聞之亦潰」
  23. ^ 『金史』巻101列伝39承暉伝,「承暉与抹撚尽忠会議於尚書省。承暉約尽忠同死社稷。尽忠謀南奔、承暉怒、即起還第、亦無如尽忠何。召尽忠腹心元帥府経歴官完顔師姑至、謂曰『始我謂平章知兵、故推心以権畀平章、嘗許与我倶死。今忽異議、行期且在何日、汝必知之』。師姑曰『今日向暮且行』。曰『汝行李辦未』。曰『辦矣』。承暉変色曰『社稷若何』。師姑不能対。叱下斬之。承暉起、辞謁家廟、召左右司郎中趙思文与之飲酒、謂之曰『事勢至此、惟有一死以報国家』。作遺表付尚書省令史師安石。其表皆論国家大計、辨君子小人治乱之本、厲指当時邪正者数人、曰『平章政事高琪、賦性陰険、報復私憾、窃弄威柄、包蔵禍心、終害国家』。因引咎以不能終保都城為謝。復謂妻子死于滄州、為書以従兄子永懐為後。従容若平日、尽出財物、召家人、随年労多寡而分之、皆与従良書。挙家号泣、承暉神色泰然、方与安石挙白引満、謂之曰『承暉於『五経』皆経師授、謹守而力行之、不為虚文』。既被酒、取筆与安石訣、最後倒写二字、投筆歎曰『遽爾謬誤、得非神志乱邪』。謂安石曰『子行矣』。安石出門、聞哭声、復還問之、則已仰薬薨矣。家人匆匆瘞庭中」
  24. ^ 『金史』巻101列伝39承暉伝,「是日暮、尽忠出奔、中都不守。貞祐三年五月二日也。師安石奉遺表奔赴行在奏之。宣宗設奠于相国寺、哭之尽哀」
  25. ^ 『聖武親征録』「上時駐桓州、遂命忽都忽那顔与甕古児宝児赤・阿児海哈撒児三人検視中都帑蔵。時金留守哈答国和奉金幣為拝見之礼、甕古児・哈撒児受之、独忽都忽拒不受、将哈答等萃其物北来……上甚佳之、以為知大礼、而重責甕古児・阿児海哈撒児等之不珍也」

出典

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  2. ^ 杉山1996,183-184頁
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参考文献

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  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 杉山正明『耶律楚材とその時代』白帝社、1996年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 杉山正明「第1部 はるかなる大モンゴル帝国」『世界の歴史9 大モンゴルの時代』中央公論新社中公文庫〉、2008年8月。ISBN 978-4-12-205044-0 
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』講談社現代新書、講談社、2014年(初版1996年)
  • 藤野彪牧野修二 編『元朝史論集』汲古書院、2012年10月。ISBN 978-4762995538 
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年