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端平入洛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

端平入洛(たんぺいじゅらく)は、南宋端平元年(1234年)、金朝を挟撃して滅ぼしたモンゴル帝国と南宋が河南地方の領有をめぐって起こした紛争。北宋の旧都の開封洛陽南京を指す「三京」の回復を名分に掲げた南宋が河南への出兵を強行したが、モンゴルの反撃の前に惨敗し失敗に終わった。この紛争によりモンゴルと南宋は敵対関係に一変し、全面戦争に飛び火する切っ掛けとなった。

概要

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モンゴル帝国と南宋は嘉定7年(1214年)に初めて接触した以来[1]、使節の往来があったが、概ね小康状態に留まった。西方遠征を終えたチンギス・カンが金朝と西夏に対する攻略を再開し、モンゴル軍の一部が南宋の国境を侵犯すると、両国関係は新たな局面に入った。宝慶3年(1227年)春、南宋の西北辺境に侵入したモンゴル軍は、四川一帯を略奪して武力示威を展開してから、チンギス・カンの死亡により撤退した[2]。西夏を滅ぼしたモンゴルは、陝西から金の首都開封を脅かすことが可能となったが、金軍の精兵が雲集していた潼関はこれを遮る最大の障害物であった。そのため、チンギス・カンは臨終直前に「潼関を避けて宋に道を借りるように求めよ。宋は金と代々敵なので必ず要請を快く承諾するだろう」という遺詔を残した[3]

紹定3年(1230年)より第二次対金戦争に臨んだモンゴルの新皇帝オゴデイは、征伐軍を3軍に分けて中軍は自ら率いて、左翼軍は山東方面で、右翼軍は陝西の漢中でそれぞれ金の後方を攻略させた。右翼軍を執ったトルイは進軍を開始する際、先帝の遺詔どおりに南宋に使者を送り、境内の通過を要請した。紹定4年(1231年)7月、モンゴルの使者が沔州で南宋の官員に殺害される事件が発生し、南宋の四川制置使はモンゴルの不満を静めようと、モンゴル軍に対して軍糧の提供や道案内までするなどの便宜を計らってやった[4][5]。南宋の境内を貫いて漢水を渡ったモンゴル軍は鄧州に迫っており、翌年には三峰山の戦いで金の主力軍を壊滅させ、開封を包囲するのに成功した[6]

紹定6年(1233年)6月、モンゴルは王檝襄陽に派遣し、京湖制置使の史嵩之と金を挟撃する盟約を締結すること、そしてモンゴル軍に金幣を提供するように論議させた[7]。史嵩之の報告を受けた南宋朝廷では、海上の盟を反面教師とする内部の異見にもかかわらず、仇敵である金への復讐という意味でモンゴルと盟約を結ぶことにした[8][9]。同年8月、金は南宋に使者を急派して「唇亡びて歯寒し」の論理を挙げて、モンゴルに対抗する同盟の結成を哀願したが、既に方針を決めた南宋は金の提案を一蹴している[10]。10月、江陵の副都統であり武将の孟珙が率いる2万人の南宋軍が北上し、金の哀宗が最後に避難していた蔡州をモンゴル軍と共に包囲した[11]

端平元年(1234年)正月、蔡州が陥落され、哀宗も自殺することにより金は滅亡した。孟珙が持って来た哀宗の遺骨は臨安にある宋朝の太廟に捧げられ、国恥を雪辱する用途に使われた[12]。金が滅亡すると、南宋では北宋時代の根拠地だった河南の領有権をめぐる問題が争点として浮上した。3月、理宗太常寺の官員を洛陽へ送って北宋の皇陵を参拝させた。折しもモンゴル軍が河南と陝西に集結して待ち伏せしたという諜報が入り、参拝を躊躇う動きがあったが、孟珙の護衛のおかげで10日ぶりに迅速に任務を終えて帰還できた[13][14]

この頃、史弥遠の死後に親政を始めた理宗と左丞相鄭清之は政局を一新し、北伐に成功して権力基盤を強化しようとする意図から河南への出兵を企てた。逆に、史嵩之と喬行簡などの大臣中では、飢饉により民力が疲弊するだけでなく、河南を占有しても防御や普及の難点のために守りが難いという理由で懐疑的な気流が強かった[15]。それでも、理宗は黄河を守りながら潼関に頼れば、三京を奪還できると主張した淮東制置使の趙葵の支持に支えられ、出兵を決行する。6月12日廬州知州の全子才の引率のもとに淮西の兵力1万人は北伐軍の先鋒隊として合肥を出発したのに引き続いて、これを補助するために趙葵が率いる淮東の兵力5万人も泗州宿州を経て河南に進入した。淮水を渡って北上した全子才の先鋒隊は何の戦闘も遭遇しないまま、7月5日に開封に入城した。それまで開封にはモンゴルに投降した旧金朝の西面元帥である崔立が駐屯していたが、南宋軍が接近して来るとの知らせを聞いた城内の住民らが崔立を殺し降伏した。

しかし、彼らが見たものは清明上河図に描かれた繁華な都市ではなく、かつて百万を超えた人口は守備軍600人余り、居住民1千人しかいないありさまであり、ただ大相国寺と北宋宮殿の跡だけがほとんど変わっていなかった。さらに、モンゴルの侵寇が重なり、兵禍に晒された河南一帯の荒廃は予想を超えた状態だった[16]7月20日には趙葵の軍が開封に到着し、麾下の兵士に5日分の食糧だけを持参させ、洛陽の奪還に乗り出した。洛陽は7月28日に無抵抗で占領されたが、翌日よりすべての食糧が底をついてヨモギ小麦粉で生き延びたり、軍馬を取って食う羽目になった。結局、モンゴル軍の伏兵が洛陽を急襲すると、孤立無援の状況に追い込まれた南宋軍は壊走し、途中に黄河の堤防まで崩れて全体死傷者が8~9割にも及ぶ惨憺たる被害を受けた末、江南へ帰還した[17][18]

北伐軍が所得なしに帰還した後、趙葵と全子才を始めとする将校らは問責の措置で官位が降格または罷免されている[19]。12月、モンゴルの王檝が臨安を訪れ、盟約に違反したことを詰責した。南宋は答礼使をモンゴルに派遣し、三京回復戦に関する経緯を解明する一方、新しい和議の成立を模索したが、南宋の投拝(降伏)を望んだモンゴルの態度に交渉は決裂した[20][21]

端平2年(1235年)6月、モンゴル軍が四川・京湖・江淮の3方面を通じて南宋に侵攻することで、両国は40年にわたる戦争に突入した[22]

脚注

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  1. ^ 『建炎以来朝野雑記』乙集 巻19, 辺防二 韃靼款塞:「嘉定七年正月九日甲戌、夜三鼓、濠州鍾離縣北岸呉團鋪、有三騎渡淮而南、水陸巡檢梁實問所由、三人者出文書一嚢、絹畫地圖一冊、云是韃靼王子成吉思遣來納地請兵……因戒邊吏、後有似此者、即驅逐去之、違者從軍法、且上其事於朝」
  2. ^ 『可斎雑稿』巻25, 丁亥紀蜀百韻による。
  3. ^ 『元史』巻1, 太祖紀 二十二年七月己丑条:「崩于薩里川哈老徒之行宮。臨崩謂左右曰:『金精兵在潼關、南據連山、北限大河、難以遽破。若假道于宋、宋・金世讎、必能許我、則下兵唐・鄧、直擣大梁。金急、必徴兵潼關。然以數萬之衆、千里赴援、人馬疲弊、雖至弗能戰、破之必矣』」
  4. ^ 『宋史紀事本末』巻90, 蒙古取汴 紹定四年七月条:「速不罕至沔州青野原、統制張宣殺之」
  5. ^ 『元史』巻115, 睿宗伝:「遣搠不罕詣宋假道、且約合兵。宋殺使者、拖雷大怒曰:『彼昔遣苟夢玉來通好、遽自食言背盟乎!』乃分兵攻宋諸城堡、長驅入漢中、進襲四川、陷閬州、過南部而還」
  6. ^ 『元史』巻121, 按竺邇伝:「宋制置使桂如淵守興元。按竺邇假道於如淵曰:『宋讎金久矣、何不從我兵鋒、一洗國恥。今欲假道南鄭,由金・洋達唐・鄧、會大兵以滅金、豈獨為吾之利? 亦宋之利也』。如淵度我軍壓境、勢不徒還、遂遣人導我師由武休關東抵鄧州、西破小關、金人大駭、謂我軍自天而下……我師不與戰、直趣鈞州、與親王按赤台等兵合、陣三峰山下……按竺邇先率所部精兵、迎撃於前、諸軍乗之、金師敗績」
  7. ^ 『四庫全書総目提要』巻52, 使北日録一巻:「理宗紹定六年癸巳、史嵩之為京湖制置使、與蒙古會兵攻金。會蒙古遣王檝來通好、因假伸之朝奉大夫、京湖制置使参議官往使。以是歳六月、偕王檝自襄陽啓行」
  8. ^ 『続資治通鑑』巻167, 紹定六年十一月丙寅条:「權工部侍郎趙范入見……帝問蒙古議和事、范曰:『為羈縻之策則可。宣和海上之盟、其初堅如金石、緣倚之太重、備之不至、迄以取禍、此近事之可鑒者』」
  9. ^ 『続資治通鑑』巻167, 紹定六年十一月己巳条:「趙葵入見、帝問曰:『金與蒙古交爭、和議如何?』 葵對曰:『今邊事未強、軍政未備、且與之和。一年無警、當作兩年預備、若根本既壯、彼或背盟、足可禦敵……』 帝曰:『卿規模甚遠、其殫意為朕展布』」
  10. ^ 『金史』巻18, 哀宗紀下 天興二年八月条:「假蔡州都軍致仕内族阿虎帶同僉大睦親府事、使宋借糧、入辭、上諭之曰:『……大元滅國四十、以及西夏、夏亡必及於我。我亡必乃于宋。脣亡歯寒、自然之理。若與我連和、所以為我者亦為彼也。卿其以此曉之』。至宋、宋不許」
  11. ^ 『宋史紀事本末』巻91, 會蒙古兵滅金 紹定六年十月条:「史嵩之命孟珙、江海帥師二萬、運米三十萬石、赴蒙古之約」
  12. ^ 『宋史』巻41, 理宗紀一 端平元年四月丙戌条:「以滅金獲其主完顔守緒遺骨告太廟、其玉寶・法物、並俘囚張天綱・完顔好海等、命有司審實以聞」
  13. ^ 『宋史』巻41, 理宗紀一 端平元年三月辛酉条:「詔遣太常寺主簿朱揚祖・閤門祗候林拓詣洛陽省謁八陵」
  14. ^ 『続資治通鑑』巻167, 端平元年八月甲戌条:「朱揚祖・林拓以『八陵圖』上進。帝問諸陵相去幾何及陵前澗水新復、揚祖悉以對。帝忍涕太息久之。初、揚祖等行至襄陽、會諜報蒙古哨騎已及孟津、陝府・潼關・河南皆增屯戍、設伏兵、又聞淮閫刻日進師、衆畏不前。孟珙曰:『淮東之師、由淮西溯汴、非旬餘不達。吾選精騎疾馳、不十日可竣事。逮師至東京、吾已歸矣』。於是珙與二使晝夜兼行、至陵下、奉宣御表、成禮而還」
  15. ^ 『宋史紀事本末』巻92, 三京之復 端平元年六月条による。
  16. ^ 『斉東野語』巻5, 端平入洛:「[端平元年甲午]……六月十二日、離合肥。十八日、渡寿州。二十一日、抵蒙城縣、縣有二城相連背、渦爲固、城中空無所有、僅存傷殘之民數十而已、沿途茂草長林、白骨相望、蝱蠅撲面、杳無人踪……七月二日、抵東京二十里箚寨、猶有居人遺跡及桑棗園。初五日、整兵入城、行省李伯淵先期以文書來降、願與谷用安・范用吉等結約、至是乃殺所立大王崔立、率父老出迎、見兵六七百人、荊棘遺骸、交午道路、止存民居千餘家、故宮及相國寺佛閣不動而已」
  17. ^ 『宋史紀事本末』巻92, 三京之復 端平元年八月条:「蒙古兵至洛陽城下立寨、徐敏子與戰、勝負相當。士卒乏糧、因殺馬而食、敏子等不能留、乃班師。趙葵・全子才在汴京、以史嵩之不致饋、糧用不継。所復州縣、率皆空城、無兵食可因。蒙古兵又決黄河寸金澱之水以灌官軍、官軍多溺死、遂皆引師南還」
  18. ^ 『斉東野語』巻5, 端平入洛:「……[七月]二十日、趙文仲以淮東之師五萬、由泗宿至汴、與子才之軍會焉……於是敏子領軍、以二十一日啓行、且令諸軍以五日糧爲七日食、蓋懼餉饋或稽故也……二十八日、遂入洛城。二十九日、軍食已盡、乃採蒿和麵作餅而食之……八月一日、北軍已有近城下寨者、且士卒飢甚、遂殺馬而食……初二日、黎明、北軍以團牌擁進、接戰……北軍既知我遁、縦兵尾撃、死傷者十八九」
  19. ^ 『宋史紀事本末』巻92, 三京之復 端平元年九月壬寅条:「趙范以入洛之師敗績、上表劾趙葵・全子才輕遣偏師復西京、趙楷・劉子澄参贊失計、師退無律、致後陣喪敗。詔:趙葵削一秩、措置河南、京東營田邊備。全子才削一秩、措置唐・鄧・息州營田邊備。劉子澄・趙楷並削秩放罷」
  20. ^ 『続資治通鑑』巻167, 端平元年十二月条:「己卯、蒙古遣王檝來責敗盟。辛卯、遣鄒伸之、李復禮・喬仕安・劉溥報謝」
  21. ^ 『西山文集』巻14, 乙未(端平二年)十一月二十四日:「窃聞韃之取西夏、取金國也、皆先之以議和之使、而隨之以侵伐之師、未有不墮其術中者……先之以議和之使、隨之以攻伐之兵、彼嘗施之二國矣、又安知不欲施於我耶? 是猶不可以不備也」
  22. ^ 『宋史紀事本末』巻93, 蒙古連兵 端平二年六月条:「蒙古主命子闊端將塔海等侵蜀、特穆徳克・張柔等侵漢、口温不花及察罕等侵江淮」

参考文献

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関連項目

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