中込百貨店
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 | 山梨県甲府市丸の内1丁目8番5号[1] |
設立 | 1948年(昭和23年)12月27日[2] [3] |
業種 | 小売業 |
事業内容 | 百貨店[4][1] |
資本金 | 5000万円[2] |
従業員数 | 165[5] |
決算期 | 8月期[4][6] |
主要子会社 | (株)中込[1]・中込信用販売(株)[1]・(株)中込百貨店不動産部[1]・山一配送センター[7] |
中込百貨店[1] NAKAZGZOMI | |
---|---|
店舗概要 | |
所在地 | 山梨県甲府市丸の内1丁目8番5号[1] |
延床面積 | 2,442 m²[1] |
商業施設面積 | 1,925m2 m²[1] |
営業時間 | 9:40-18:00[1] |
最寄駅 | 甲府駅 |
中込百貨店(英文:NAKAZGZOMI) は、山梨県甲府市丸の内にあった日本の百貨店[1]。
山梨県内初のディスカウントストアや[8]山梨県内初のスーパーマーケットを出店し[9]、1970年(昭和45年)頃には山梨県内の主要都市の他に郡部までスーパーの店舗を出店して同県内のスーパーとして圧倒的な首位となっていた[10]。
歴史・概要
[編集]「中込良」が1918年(大正7年)に呉服店を創業したのが始まりである[6]。
1920年(大正9年)に店舗を新築し[11]、1923年(大正12年)10月15日に[12]のちの本店の向かい側の場所で「有限会社 中込」を設立した[13]。
第2次世界大戦後は、1947年(昭和22年)に店舗を再開したが[11]、当店前が山梨県庁前や春日町映画観前通りと並んで露天商が集まる闇市となっていた[14]。 そして、激しい物価高騰に対抗するために行われた「物価引下げ運動」で設置された「山梨県標準店選定委員会」によって1948年(昭和22年)7月22日に岡島や松林軒百貨店ともに当店「中込呉服店」も選定され、物価の安定に貢献することになった[15]。
1948年(昭和23年)12月27日に[2][3]資本金100万円で「株式会社 中込百貨店」を設立し[6]、1951年(昭和26年)に建設した[16]木造モルタル3階建ての建物で営業した[1]。
1953年(昭和28年)1月2日に[6]「味の店」として山梨県庁前に山梨県内初のディスカウントストアを出店した[8]。
「なかごみセルフサービス」として[17]甲府市北部の甲府城の堀跡を埋め立てて誕生した新市街地で第2次世界大戦後の住宅街の拡大によって急速に商店街として発展していた朝日町に[18]、1955年(昭和30年)8月3日に[19]山梨県内初のスーパーマーケットとなった朝日町店を開店した[9]。 この朝日町店の成功により、甲府市内でのスーパーマーケットの展開の契機となったとされている[18]。
そして、1956年(昭和31年)11月1日に[20]資本金500万円で「株式会社 中込」を設立して[11]味の店分店と朝日町分店を分離・継承し[21]、1970年(昭和45年)頃には山梨県内の主要都市の他に郡部までスーパーの店舗を出店して同県内のスーパーとして圧倒的な首位となった[10]。
この当社のスーパーの出店により、近隣の食料品店や菓子店などの売上が約30%から約50%減少するなど大きな影響を受けたとされている[17]。
1960年(昭和35年)11月9日に[3]資本金1000万円で「中込信用販売株式会社」を設立した[21]。
しかし、中込百貨店の建物の老朽化が進んで防火・防災上の問題もあったことから増床を兼ねて建て替え工事を行い[16]、1973年(昭和48年)3月に[22]「アーバン中込」として新装開店した[16]。 その後、引き続いて第2期の増床工事を進めて1974年(昭和49年)に竣工したものの、オイルショックによる建設費高騰などの影響で資金繰りに行き詰まってしまった[16]。 そこで同年9月に[23]当社が20%・西友が80%を出資した「中込西友」を[16]設立することで合意した[23]。 ところが、1975年(昭和50年)3月7日に会社更生法の適用を申請した[24]、負債総額約55億円を抱えて事実上倒産した[25]。 その後、同年4月5日にスーパーの「中込西友」として新装開店した[26]。
その後、1979年(昭和54年)3月に西友が運営する百貨店型店舗の「甲府西武」として新装開店した[27]。 しかし、1988年(昭和63年)の売上高約88億円をピークとして売上が減少した[28]。 そのため、1998年(平成10年)2月15日に閉店した[29]。 同年9月18日に店舗跡の土地建物を山梨県が買い取ることを決定し[30]、1999年(平成11年)6月24日に「山梨県民情報プラザ」が開館した[31]。「アーバン中込」以来の建物は暫く使用されていたが甲府市中心市街地活性化基本計画の一環により取り壊され、跡地は2013年(平成25年)に「山梨県庁防災新館」が建てられている。
年表
[編集]- 1918年(大正7年) - 「中込良」が呉服店を創業[6]。
- 1920年(大正9年) - 店舗を新築[11]。
- 1923年(大正12年)10月15日[12] - 「有限会社 中込」を設立[13]。
- 1945年(昭和20年) - 戦災で店舗が焼失[11]。
- 1947年(昭和22年) - 店舗を再開[11]。
- 1948年(昭和22年)
- 1951年(昭和26年)[16] - 「中込百貨店」の木造モルタル3階建ての建物が[1]完成[16]。
- 1953年(昭和28年)1月2日[6] - 「味の店」として山梨県庁前に山梨県内初のディスカウントストアを出店[8]。
- 1955年(昭和30年)8月3日[19] - 甲府市朝日町に山梨県内初スーパーマーケットの朝日町店を開店[9]。
- 1956年(昭和31年)11月1日[20] - 資本金500万円で「株式会社 中込」を設立[11]。同社に味の店分店と朝日町分店を分離・継承[21]。
- 1960年(昭和35年)11月9日[3] - 資本金1000万円で「中込信用販売株式会社」を設立[21]。
- 1963年(昭和38年)
- 1973年(昭和48年)3月[22] - 「アーバン中込」として新装開店[16]。
- 1974年(昭和49年)
- 1975年(昭和50年)
- 1979年(昭和54年)3月 - 西友が運営する百貨店型店舗の「甲府西武」として新装開店[27]。
- 1998年(平成10年)
- 1999年(平成11年)6月24日 - 店舗跡に「山梨県民情報プラザ」が開館[31]。
かつて存在した店舗
[編集]本店
[編集]- 第1期増床工事が完成し、新装開店[16]。
甲府市
[編集]中央
[編集]- 売場面積248m2[39]
- 食料品・衣料品・雑貨・食堂[39]
- 山梨県庁前に山梨県内初のディスカウントストアとして出店した[8]。
- 1階が食品売り場で2階が食堂だった[6]。
- 1956年(昭和31年)11月1日の「株式会社 中込」設立[20]と同時に同社に分離・継承された[21]。
- 売場面積132m2(開業時)[43]
- 食料品に加えて雑貨や衣料品も扱う総合スーパーとして開店した[43]山梨県内初のスーパーマーケットであった[9]。
- 1956年(昭和31年)11月1日の「株式会社 中込」設立[20]と同時に同社に分離・継承された[21]。
- 延べ床面積521m2[45]、売場面積約382m2[44][45]
- 食料品・衣料品・雑貨・食堂[39]
- 移転新築する形で開店した店舗で[21]、1階が食品売り場で2階が衣料品売り場だった[13]。
- 住宅街に近い朝日通商店街の中の北寄りの地区に出店しており、近隣の店舗も最寄り品を扱う店が多めの立地であった[46]。
- 朝日通商店街初のスーパーであったものの、商店街の各店舗となるほどの集客力がなかったことから売上が伸び悩むようになり、1970年(昭和45年)頃に衣料品売り場を廃止して食品スーパーとなった[47]。
- 1969年(昭和44年)5月に当店に近く朝日通商店街で最も客の多い地区に「浅川スーパー」が出店し、同年12月8日に朝日通商店街の北端に近い場所に「オギノ・ショッピングプラザ」が出店するなど競合するスーパーの出店が相次いだ[48]。
- 朝日通商店街の南端近くに出店した小規模な店舗で、商店街に影響を与えるほどの集客力がなかった[47]。
- 延べ床面積739m2[49]、売場面積630m2[49]
- 食料品・衣料品・雑貨[49]
- 1階がセルフサービス式の売り場で2階がクレジット販売の売り場だった[13]。
- 1963年(昭和38年)7月19日に貨物用エレベーターが墜落し、従業員1名が死亡する事故が発生した[32]。
南西部
[編集]北部
[編集]峡東地域
[編集]- 延べ床面積1,701m2[49]、売場面積724m2[49][50]
- 食料品・衣料品・雑貨[49]
- 根津橋の袂付近に出店し、山梨市商工会が共同仕入れや青年部の結成などを行って当店の出店に対応した[51]。
- 売場面積1,200m2[52]
峡南地域
[編集]峡北地域
[編集]- 売場面積795m2[41]
郡内地方
[編集]過去に存在した関連会社
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『デパート・ニューズ調査年鑑 1968年度版』 デパート・ニューズ社、1968年5月15日。pp265
- ^ a b c d 『デパート・ニューズ調査年鑑 1966年度版』 デパート・ニューズ社、1966年4月5日。pp29
- ^ a b c d e f 『山梨時事年鑑 1962年 改訂版』 山梨時事新聞社、1962年7月1日。pp408
- ^ a b 『日本職員録 第5版 昭和29年版』 人事興信所、1954年。pp会社842
- ^ a b c d e f g 『日本職員録 第14版 中』 人事興信所、1972年。ppな25
- ^ a b c d e f g h i 『全国百貨店専門店会商店会取引業者総覧 昭和32年版』 デパート新聞社、1957年3月15日。pp188-189
- ^ 『日本スーパーマーケット名鑑 1967年版』 商業界、1967年。pp36
- ^ a b c d 甲府市市史編さん委員会 『甲府市史 通史編 第4巻 現代』 甲府市、1993年3月10日。 pp172
- ^ a b c d 甲府市市史編さん委員会 『甲府市史 史料編 第8巻 現代 2』 甲府市、1992年1月10日。 pp231
- ^ a b 『日本セルフ・サービス年鑑 1970年版』 日本セルフ・サービス協会、1970年3月20日。pp24
- ^ a b c d e f g h 『日本纖維商社銘鑑 昭和34年版』 東京信用交換所、1958年9月15日。pp1169
- ^ a b 『デパート・ニューズ調査年鑑 1967年度版』 デパート・ニューズ社、1967年4月30日。pp279
- ^ a b c d 『大型販売店調査年鑑 1964年版』 富士経済、1964年5月15日。ppD-77
- ^ 甲府市市史編さん委員会 『甲府市史 通史編 第4巻 現代』 甲府市、1993年3月10日。 pp163
- ^ a b 『山梨県商工会議所五十年史』 甲府商工会議所、1960年11月20日。 pp457-458
- ^ a b c d e f g h i j k 甲府市市史編さん委員会 『甲府市史 通史編 第4巻 現代』 甲府市、1993年3月10日。 pp415
- ^ a b 『山梨県商工会議所五十年史』 甲府商工会議所、1960年11月20日。 pp484
- ^ a b 甲府市市史編さん委員会 『甲府市史 史料編 第8巻 現代 2』 甲府市、1992年1月10日。 pp266
- ^ a b c d e f g h i 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp305
- ^ a b c d e 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp668
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本繊維商社銘鑑 昭和36年版』 東京信用交換所、1961年9月15日。pp1479
- ^ a b c 山梨県議会事務局 『山梨県民主議会史 第7巻』 山梨県議会、1976年3月31日。 pp790
- ^ a b c 建野堅誠 『日本スーパー発達史年表-4-』 長崎県立国際経済大学論集 20号(3/4) (長崎県立国際経済大学学術研究会) (1987年3月)。pp64
- ^ a b “緊急レポート 存立基盤さえ揺らぐ百貨店 暗く険しい“蘇生”への道”. 週刊ダイヤモンド 1975年4月5日特大号 (ダイヤモンド社) (1975年4月5日).pp16-19
- ^ a b 小林武彦 “企業倒産の現状と今後の見通し”. 信用金庫 1976年2月号 (全国信用金庫協会) (1976年2月10日).pp33
- ^ a b c “成長に限界がきた百貨店”. 商業界 1975年7月号 (商業界) (1975年7月).pp45-53
- ^ a b 建野堅誠 『日本スーパー発達史年表-5-』 長崎県立国際経済大学論集 21号(4) (長崎県立国際経済大学学術研究会) (1988年3月)。pp36
- ^ “県内経済トピックス(10月を中心として)”. 山梨中央銀行調査月報 1997年12月 No.239 (山梨中央銀行) (1997年12月).pp10
- ^ a b c 山梨県議会事務局 『山梨県民主議会史 第13巻』 山梨県議会、2000年3月23日。 pp775
- ^ a b 山梨県議会事務局 『山梨県民主議会史 第13巻』 山梨県議会、2000年3月23日。 pp777
- ^ a b “丸の内八番街商店街”. いっとじゅっけん 1999年11月号 (経済産業調査会) (1999年11月).pp18-19
- ^ a b c 『山日年鑑 1964年版』 山梨日日新聞社、1964年8月25日。pp29
- ^ 『山梨県警察年鑑 昭和49年版』 山梨県警察本部、1975年。pp7
- ^ “流通最前線からの報告”. 中央公論経営問題 1975年6月号 (中央公論社) (1975年6月).pp188-200
- ^ a b c 『食品工業総合名鑑』 光琳書院、1964年。pp15-7
- ^ “銀行異動状況・12月”. 金融財政事情 1976年4月号 (金融財政事情研究会) (1976年4月1日).pp55
- ^ a b c “街のルポ・甲府”. ショッピングセンター 1975年3月号 (日本ショッピングセンター協会) (1975年3月1日).pp22
- ^ 『食品工業総合名鑑 1964年版』 光琳書院、1964年4月28日。pp15-7
- ^ a b c d e 『日本セルフ・サービス年鑑 1966年版』 日本セルフ・サービス協会、1965年11月10日。pp551
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp403
- ^ a b c 『日本セルフ・サービス年鑑 1970年版』 日本セルフ・サービス協会、1970年3月20日。pp237
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp306
- ^ a b c 建野堅誠 『日本スーパー発達史年表-1-』 長崎県立国際経済大学論集 16号(2) (長崎県立国際経済大学学術研究会) (1982年11月)。pp53
- ^ a b c d e f g h 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp402
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp307
- ^ 佐藤武夫 『甲府市朝日通り商店街の経営立地的研究(地域経済部会共同研究)』 東洋大学経済経営研究所研究報告 1966年版 No.3 (東洋大学経済研究所) (1970年3月31日)。pp53
- ^ a b 佐藤武夫 『甲府市朝日通り商店街の経営立地的研究(地域経済部会共同研究)』 東洋大学経済経営研究所研究報告 1966年版 No.3 (東洋大学経済研究所) (1970年3月31日)。pp72
- ^ 佐藤武夫 『甲府市朝日通り商店街の経営立地的研究(地域経済部会共同研究)』 東洋大学経済経営研究所研究報告 1966年版 No.3 (東洋大学経済研究所) (1970年3月31日)。pp73
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp308
- ^ a b c d e f g h 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp405
- ^ 『山日年鑑 1964年版』 山梨日日新聞社、1964年8月25日。pp297
- ^ a b “開店ニュース”. 販売革新 1969年3月号 (アール・アイ・シー) (1969年3月).pp158
- ^ a b 『日本セルフ・サービス年鑑 1968年版』 日本セルフ・サービス協会、1967年9月15日。pp260
- ^ 『山梨時事年鑑 1962年 改訂版』 山梨時事新聞社、1962年7月1日。pp343
- ^ 増穂町誌編集委員会 『増穂町誌 上巻』 増穂町、1977年1月20日。pp1007
- ^ a b c d e f g h i 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp404
- ^ “SC情報”. ショッピングセンター 1974年7月号 (日本ショッピングセンター協会) (1974年7月1日).pp62