中條精一郎
表示
(中条精一郎から転送)
中條精一郎 | |
---|---|
生誕 |
1868年5月10日 (旧暦慶応4年4月18日) 出羽国置賜郡米沢館山口町 |
死没 |
1936年1月30日(67歳没) 東京府東京市四谷区 |
国籍 | 日本 |
出身校 |
東京帝国大学 ケンブリッジ大学 |
職業 | 建築家 |
受賞 | レジオンドヌール勲章シュヴァリエ(1928年) |
所属 |
文部省 曽禰中條建築事務所 |
建築物 |
慶應義塾大学図書館 岩崎家熱海別邸 |
中條 精一郎(ちゅうじょう せいいちろう、旧字体:中條 精󠄀一郞、慶応4年4月18日(1868年5月10日) - 昭和11年(1936年)1月30日)は、日本の建築家。曽禰達蔵とともに曽禰中條建築事務所を主宰し、オフィスビルを中心にして多くの建築作品を手がけた。
人物
[編集]米沢(現・山形県米沢市)生まれ。幕末の米沢藩士中條政恒の長男。東京帝国大学建築学科を卒業後、文部省の建築技師となり、建築課札幌出張所長として札幌農学校などの建設に当たった。同校土木工学科の建築学講師の嘱託も務めた[1]。1902年に東京に戻り千駄木に一家を構えたが、翌年旧米沢藩主家の上杉憲章とともにイギリスに留学(1904-1907年)、ケンブリッジ大学で建築を学んだ。
帰国後文部省を退官し、1908年に曽禰達蔵とともに東京丸の内に設計事務所を開設[1]。慶應義塾の記念図書館が最初期の代表作である。曽禰中條建築事務所はオフィスビルの佳作を多く生み出した。1928年5月、フランス政府からレジオンドヌール勲章シュヴァリエを贈られた[2]。
晩年には「建築士法」の成立に尽力し、また国民美術協会の会頭も15年間務めた。墓所は青山霊園(1ロ8-33)。
家族
[編集]- 父・中條政恒 ‐ 米沢藩士
- 妹・てい ‐ 三越会長・倉知誠夫の妻。明治女学校出身。[3][4]
- 妻・中條葭江 ‐ 西村茂樹の次女。華族女学校を首席で卒業し昭憲皇后から『言海』を賜わったという才媛であり、『葭の影』の著書もある[1]
- 長女・宮本百合子 ‐作家。夫に荒木茂 (言語学者)、宮本顕治。 17歳で小説『貧しき人々の群』を著し天才少女と呼ばれた。父親について自伝的作品のほか「わが父」、「父の手紙」、「父の手帳」などで触れている[1]。
- 長男・中條国男 ‐ 建築家。東京美術学校建築科卒。妻の咲枝は父方いとこ(倉知誠夫・ていの二女)
- 二男・中條英男 ‐ 大学受験前に自殺
作品
[編集]- 札幌農学校昆虫及養蚕学教室、動植物学教室、図書館(現北海道大学)登録有形文化財
- リデル・ライト両女史記念館(1918年、熊本)登録有形文化財
- 上杉伯爵邸(1925年、米沢市、現米沢市上杉記念館)登録有形文化財
- 顧問
- 旧山形県庁舎及び県会議事堂(1916年、山形)設計:田原新之助(中條は顧問として参画)重要文化財
- 以下、「曽禰達蔵・中條精一郎建築事務所作品集」(国立国会図書館所蔵)より
(主なもの)
- 慶應義塾図書館旧館(1912年、東京都)重要文化財
- 東京海上ビル(1918年、現存しない)
- 旧日本郵船神戸支店ビル(1918年、神戸市)
- 郵船ビル(1923年、東京都。現存しない)
- 旧鹿児島県庁舎(1925年、鹿児島市。玄関部のみ現存)
- 慶應義塾塾監局(1926年、東京都)
- 小笠原伯爵邸(1927年)
- 旧三井銀行小樽支店(1927年、小樽市)重要文化財
- 慶應義塾大学病院予防医学教室(1929年、東京都)
- 明治屋ビル(1933年、東京都)
- 講談社ビル(1933年、東京都)
- 慶應義塾大学日吉第一・第二校舎(1934-36年、横浜市)
- 岩崎家熱海別邸(1935年、熱海市)
- 三井住友銀行大阪中央支店(1936年、大阪市)
脚注
[編集]- ^ a b c d 宮本百合子 自己形成への軌跡−デビュー作『貧しき人々の群』が書かれるまで正本君子、日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.6, 427-438 (2005)
- ^ 中條精一郎年譜 8頁(荒城季夫 『中條精一郎』 国民美術協会、1937年)
- ^ 倉知誠夫『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 倉知 誠夫(読み)クラチ マサオコトパンク
参考文献
[編集]- 荒城季夫 『中條精一郎』 国民美術協会、1937年
- 中條建築事務所 『曽禰達蔵・中條精一郎建築事務所作品集』 1939年