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不受不施日蓮講門宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
不受不施派講門派から転送)

不受不施日蓮講門宗(ふじゅふせにちれんこうもんしゅう)は、日蓮を宗祖とし、日奥を派祖とする、日蓮門下の一派である。

宗祖

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派祖

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本山

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末寺

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概要

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日蓮不受不施義を遵守しようとする不受不施派寺院は、幕府の不受不施派寺請禁止令により信徒を寺請することが出来なくなり、教団自体が非合法化されるなど厳しい弾圧を受けた。このような状況において教団は、法中(僧侶)、法立(不受不施信者)、内信(外見上他宗他派を装う信者)という地下組織化の道をとり、教団の存続を図った。しかしそんな中、天和2年(1682年)に岡山で法立が内信の導師を務めたことをきっかけとして、教団を二分する対立が起きる。[1]その一つ、日指派は、内信となっているのは本心からではなく、幕府による統制が厳しいのでやむを得ずやっているとし、そのような現状を悔いているから法立に内信の導師を務めてもらうと主張した。[1]この系統が後に妙覚寺を本山とする「日蓮宗不受不施派」となった。他方、そうした姿勢を、妻子家財が惜しくて実際は心からも仏法を捨てているものとみなし、法立(清者)が内信(濁法)の導師を務め、一緒に読経するのは、清濁を混ぜ合わせる謗法行為として批判したのが津寺派である。[1]この系統が後に本覚寺を本山とする「不受不施日蓮講門宗」となった。貞享2年(1685年)、強硬派として知られ、日向に配流中の日講は、日指派に間違いを認めて津寺派と和睦するよう勧告したが受け入れられず、元禄2年(1689年)には完全に分裂した。[2]

歴史

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脚注

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  1. ^ a b c 宮崎英修「不受不施派における清濁の問題」『印度學佛教學研究』5巻1号、日本印度学仏教学会、1957年、280頁、doi:10.4259/ibk.5.278 
  2. ^ 高田恵忍ほか『日蓮宗概論』東方書院、1931年、159頁
  3. ^ a b c 宮崎英修 (1958). “不受不施者の潜伏”. 第九回日蓮宗教学研究大会紀要: 125. 
  4. ^ 「宗教制度調査資料 第十六輯 江戸時代宗教法令集」、文部省宗教局、1924年。 
  5. ^ 東京市史稿 市街篇第八. 東京市役所. (1930). p. 766-767. 
  6. ^ 岡山大学教育学部社会科教室内地域研究会「在町の近代化 : 不受不施派の岡山県御津町」『地域研究』第11巻、1968年、125-126頁。 

関連項目

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外部リンク

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  • 大安寺
  • 田中清章, 「徳川幕府の仏教政策 : 日蓮宗不受不施派について」『ふびと』 7巻 1957年 p.8-14, hdl:10076/7272, 三重大学学芸学部歴史研究会
  • 宮崎英修, 「不受不施派流僧の祈りと行法」『印度學佛教學研究』 29巻 2号 1980-1981年 p.520-527, doi:10.4259/ibk.29.520, 日本印度学仏教学会
  • 田中久美子, 信徒が教えを担う条件 : 日蓮宗不受不施派と入道(第六部会,<特集>第六十八回学術大会紀要)」『宗教研究』 83巻 4号 2009年 p.1405-1406, doi:10.20716/rsjars.83.4_1405