円融寺 (目黒区)
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(碑文谷法華寺から転送)
円融寺 | |
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釈迦堂 | |
所在地 | 東京都目黒区碑文谷1-22-22 |
位置 | 北緯35度37分10.6秒 東経139度41分22.8秒 / 北緯35.619611度 東経139.689667度 |
山号 | 経王山 |
院号 | 文殊院 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 伝・853年(仁寿3年) |
開基 | 伝・円仁[1] |
正式名 |
経王山文殊院円融寺 經王山文殊院圓融寺 |
札所等 | 関東百八地蔵尊霊場98番 |
文化財 | 釈迦堂(重要文化財)ほか |
法人番号 | 2013205000068 |
円融寺(えんゆうじ)は、東京都目黒区碑文谷にある天台宗の寺院。圓融寺とも表記される。山号は経王山。
歴史
[編集]かつては、妙光山法服寺と称し、天台宗の寺院であった。寺伝では853年(仁寿3年)円仁(慈覚大師)が法服寺を建立したという。1283年(弘安6年)日蓮の弟子・日源により、日蓮宗に改宗し、妙光山法華寺と改称した。中世から近世にかけては吉良氏や徳川氏の外護を受け、坊舎18、末寺75箇寺を数えた。1630年(寛永7年)身池対論には法華寺から日進が臨んでいる。法華寺は不受不施派の寺院として江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なくされ、1698年(元禄11年)再び天台宗の寺院となった。1834年(天保5年)経王山円融寺と改称する[2]。
不受不施派とは、法華経信者以外からは施しを受けず、与えずという一派で、日蓮宗本山の久遠寺と対立し、江戸幕府からも弾圧された。日源の法脈は、当寺の改宗をもって完全に途絶えていった。当寺の尊像など、祖師像は妙法寺、三宝尊像は立源寺、釈迦如来涅槃之図は常円寺、法華門は妙法寺、摩耶夫人像は摩耶寺など、所縁寺院に引取られていった。
文化財
[編集]重要文化財(国指定)
[編集]- 本堂(釈迦堂) - 室町時代中期(1393年-1466年)の建立。桁行三間、梁間四間、一重、入母屋造、銅板葺。明治44年(1911年)04月17日指定。
重要美術品
[編集]- 梵鐘 - 寛永20年(1643年)鋳造
東京都指定有形文化財
[編集]- 木造金剛力士(仁王)像 - 永禄2年(1559年)の作
目黒区指定文化財
[編集]- 仁王門
- 日源上人五重石塔
墓所
[編集]- 足守藩木下家と、後の田原本藩平野家の女性の五輪塔
- 西城秀樹 - 歌手、俳優
- 渡哲也 - 俳優、歌手
- 王貞治・張本勲 - 両名とも存命だが、妻に先立たれたため墓所を建立。なお王家の墓所から妻の遺骨が盗難される事件が発生している。
交通アクセス
[編集]- 東急電鉄目黒線西小山駅から徒歩15分。
- 東急電鉄東横線学芸大学駅から徒歩20分。
- 東急バス黒01系統(目黒駅前発大岡山小学校前行き)「碑文谷二丁目」停留所下車徒歩3分。
- 東急バス渋71系統(洗足駅発渋谷駅東口行き)「円融寺前」停留所下車徒歩3分。
脚注
[編集]関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 山本和夫 著『目黒区史跡散歩 (東京史跡ガイド10)』学生社、1992年
- 斎藤長秋 編「巻之三 天璣之部 碑文谷法華寺」『江戸名所図会』 2巻、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、124-126頁。NDLJP:1174144/67。