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下山口新田

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下山口新田
浦和くらしの博物館民家園
浦和くらしの博物館民家園
■下山口新田の位置(埼玉県内)
■下山口新田
下山口新田
下山口新田の位置
北緯35度52分40.34秒 東経139度42分38.94秒 / 北緯35.8778722度 東経139.7108167度 / 35.8778722; 139.7108167
日本の旗 日本
都道府県 埼玉県
市町村 さいたま市
緑区
地域 浦和地区
人口
2017年(平成29年)9月1日現在)[1]
 • 合計 336人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
336-0925[2]
市外局番 048[3]
ナンバープレート 大宮

下山口新田(しもやまぐちしんでん)は、埼玉県さいたま市緑区大字郵便番号は336-0925[2]。北部は芝川第一調節池の建設が進んでいる。

地理

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さいたま市緑区東部の沖積平野(見沼低地)に位置する。地区の東側で川口市大字行衛や同大字差間、南側で川口市大字東内野や同大字木曽呂、西側で大字大間木や大字大牧、北側で大字大崎や大字間宮と隣接する。また、西側では大字蓮見新田ともわずかに隣接し、北西側では対角線上に大字見沼も位置している。全域が市街化調整区域である[4]。北部は見沼の干拓によってできた新田であり、昔から八丁堤より南部に集住していた。現在も地区内では八丁堤付近に住居がある。見沼代用水東縁芝川に囲まれた南北に長い区域を有しており、かつて見沼であった付近には治水のための芝川第一調節池が建設され、西側の池となる。

地名の由来

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1728年享保年間)に行われた見沼の干拓は、殆どが村請けで持添新田開発として実施されたが、上山口新田と下山口新田のエリアは町人請けとし、江戸の商人鯉屋藤左衛門が開発した[5][6]。鯉屋の姓が山口であったことから、北部にある方を上山口新田、南部にある方を下山口新田と名付けた。

歴史

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もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡三沼(見沼)領のうちの下山口新田であった。村高は『天保郷帳』では168余であった[5]。村の規模は東西3余、南北8町余で、化政期の戸数は16軒であった[5]。南端の八丁堤には赤山街道が通っていた。

世帯数と人口

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2017年(平成29年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字 世帯数 人口
下山口新田 139世帯 336人

小・中学校の学区

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市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[10]

番地 小学校 中学校
全域 さいたま市立大牧小学校 さいたま市立尾間木中学校

交通

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鉄道

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  • 地区内を武蔵野線が通るが、鉄道駅は無い。武蔵野線東浦和駅がおよそ700メートル西にある。

道路

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史跡

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調節地建設が進む北部の字四本竹には四本竹遺跡があった[4]。1991年(平成3年)の発掘調査で竹が群集して立てられた状態で発見され、古銭も発見された。氷川女体神社で行われる御船祭の渡御水域の祭祀場跡である。見沼の干拓によって儀式の執行が不可能になり、祭祀は廃止された[5]

施設

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脚注

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  1. ^ a b さいたま市の人口・世帯(時系列結果)”. さいたま市 (2017年9月5日). 2017年9月20日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2017年10月4日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』465頁。
  5. ^ 『わがまち浦和』92頁。
  6. ^ 「旧高旧領取調帳データベース」の検索結果も参照。
  7. ^ 『わがまち浦和』 巻末付録(頁番号なし)。
  8. ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 1420頁。
  9. ^ さいたま市立小・中学校通学区域一覧”. さいたま市 (2017年8月23日). 2017年9月20日閲覧。

参考文献

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  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日。ISBN 4040011104 
  • 浦和市総務部市史編さん室『わがまち浦和―地域別案内』浦和市、1982年11月30日。全国書誌番号:83024476NCID BN10203371 
  • 旧高旧領取調帳データベース

関連項目

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外部リンク

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