三宅熊五郎
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三宅 熊五郎[1](みやけ くまごろう、1855年8月(安政2年7月)[2] - 没年不明)は、日本の商人(いろは総本店[1]、精肉商[3]、牛肉商[4])、実業家。南洋館社長[4]。製々舎窯業土地、南海土地建物各取締役[2][5]。族籍は大阪府平民[2][5]。
経歴
[編集]備中国倉敷戎町(現・岡山県倉敷市)生まれ[4]。三宅伊助の長男[2]。8歳の頃に親が亡くなる[4]。11歳まで叔父に養われる[4]。12歳の頃大阪に来て所々に奉公する[1]。19歳の頃東京に赴き、牛肉店、または西洋料理店等に入る[1]。
後に大阪に帰り松島遊郭桜筋に些かな料理店を開き「おたふく」と称し、大いに繁盛する[1]。更に九条町で牛肉店を開始する[1]。幾多の商業に失敗したため、「改めてイの一番より事業に従事しよう」との考えより屋号を「いろは」と命名する[4]。自ら生牛を西浜町へ買出しに行き、西浜町民に屠殺させる[4]。
1873年より氷店を開く[4]。24歳の頃は15、6名の雇人を使用したが、放蕩のためたちまち失敗する[4]。
29歳の頃東京に赴き、神田鎌倉河岸に於いて葬儀社を起し専ら主任となる[1]。42歳の頃再び帰阪する[1]。千代崎橋畔に地を相し、牛肉店を再興する[1]。また会社の重役である[2]。
人物
[編集]住所は大阪府東成郡天王寺村[2](現・大阪市)。三宅熊五郎について『帝国信用録 第15版 大正11年』には「職業・牛肉料理貸金」とある[6]。
家族
[編集]- 三宅家
- 妻・なつ(1870年 - ?、福井、竹波佐兵衛の四女)[2][5]
- 養子・誠一(1891年 - ?、眞柄宗三郎の二男、大阪府多額納税者、三宅総本店社長、割烹業)[7] - 住所は大阪市西区松島町[7](現・千代崎)。
- 同妻(三宅熊五郎の庶子)[7]
- 庶子男・熊太郎[2](1889年 - ?、料理商[3]、三宅商店代表取締役、三宅土地住宅代表社員[7]) - 生母は竹内たつ[5]。1923年、家督を相続する[7]。住所は兵庫県武庫郡鳴尾村西畑[7](現・西宮市)。
- 庶子男・善三(1909年 - ?) - 生母は山田コウメ[2][5]。分家する[2][5]。
- 庶子女[2]
- 孫[2]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『成功亀鑑』246 - 247頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年11月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第6版』み23頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年11月22日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士録 第23版』大阪み353頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年11月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『浪速の岡山県人』350 - 353頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月24日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事信用調査録』ミ9頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月26日閲覧。
- ^ 『帝国信用録 第15版 大正11年』大阪府下(ミ)三282頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年11月22日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第8版』ミ30 - 31、ミ33頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年11月22日閲覧。