三国谷三四郎
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三国谷 三四郎(みくにや さんしろう、1879年(明治12年)4月8日[1] - 1947年(昭和22年)12月24日[2])は、日本の教育者。
経歴
[編集]青森県出身。青森県師範学校を経て、東京高等師範学校本科地歴部を卒業[3]。静岡県師範学校教諭、韓国官立漢城師範学校教授[4]、京城高等普通学校教諭、平壌高等普通学校教諭[5]、朝鮮総督府編修官などを務めた[3]。帰国後、京都帝国大学文学部哲学科に入り、1923年(大正12年)に卒業した[6]。その後、奈良県師範学校校長、地方視学官・兵庫県学務課長を歴任し、1932年(昭和7年)に京都府師範学校校長に就任した[1]。1938年(昭和13年)に東京府青山師範学校校長に転じ[7]、1943年(昭和18年)に退官した[8]。その後は京都府立女子専門学校校長を務めた[9]。
著書
[編集]- 『師魂を磨く』(清水書房、1944年)
脚注
[編集]- ^ a b 大衆人事録 1937.
- ^ 山本 1984.
- ^ a b 日本教育家録 1926, p. 20.
- ^ 「静岡県師範学校教諭三国谷三四郎韓国政府ノ聘用ニ応シ俸給ヲ受クルノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A04010201000
- ^ 「平壌高等普通学校教諭三国谷三四郎叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11112755900
- ^ 日本官界名鑑 1936.
- ^ 大衆人事録 1943.
- ^ 人事興信録 1943.
- ^ 『昭和18年7月1日現在 職員録』内閣印刷局、1943年、p.259。
参考文献
[編集]- 教育週報社編『日本教育家録』教育週報社、1926年。
- 日本官界情報社編『日本官界名鑑 昭和十二年版』日本官界情報社、1936年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版』帝国秘密探偵社、1937年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。
- 山本晴雄「三国谷三四郎 : 師範昇格運動の先達」唐沢富太郎編著『図説 教育人物事典 : 日本教育史のなかの教育者群像』 中巻、ぎょうせい、1984年。
公職 | ||
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先代 長谷川乙彦 |
東京府青山師範学校長 1938年 - 1943年 |
次代 藤本万治 東京第一師範学校長 |
先代 川面松衛 |
京都府師範学校長 1932年 - 1938年 |
次代 立川伊三郎 |
先代 川面松衛 所長事務取扱 |
京都府実業補習学校教員養成所長 1932年 - 1938年 |
次代 立川伊三郎 |
先代 古川正澄 |
奈良県師範学校長 1924年 - 1928年 |
次代 渡辺周太郎 |