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ヴラディミル・ユーゴヴィッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴラディミル・ユーゴヴィッチ
名前
愛称 ユガ(Југа, Juga)、ヴラデ(Vlade)[1]
ラテン文字 Vladimir Jugović
キリル文字 Владимир Југовић
基本情報
国籍 セルビアの旗 セルビア
生年月日 (1969-08-30) 1969年8月30日(55歳)
出身地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 トルステニク
身長 179cm
体重 76kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1989-1992 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 レッドスター・ベオグラード 62 (11)
1990 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ラド(Loan) 16 (7)
1992-1995 イタリアの旗 サンプドリア 81 (18)
1995-1997 イタリアの旗 ユヴェントス 56 (8)
1997-1998 イタリアの旗 ラツィオ 27 (2)
1998-1999 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 17 (3)
1999-2001 イタリアの旗 インテル 38 (3)
2001-2003 モナコの旗 モナコ 19 (0)
2003-2004 オーストリアの旗 アドミラ・ヴァッカー・メードリング 25 (3)
2004-2005 ドイツの旗 アーレン 19 (2)
代表歴
1991-1992 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 4 (1)
1994-2002 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア 37 (2)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヴラディミル・ユーゴヴィッチセルビア語: Владимир Југовић, ラテン文字転写: Vladimir Jugović1969年8月30日 - )は、セルビア(旧ユーゴスラビア)の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー

優れた戦術眼と高い技術を武器に活躍した[1]。中盤のポジションはサイド、センターと、どこでもこなすユーティリティープレーヤー。マルチェロ・リッピスヴェン・ゴラン・エリクソンといった監督に高く評価され、重宝された選手である。

経歴

[編集]

12歳の時、地元の小さなクラブでサッカーを始め、半年後にはレッドスター・ベオグラードの下部組織に入団した[1]。1986年、親善試合ではあったが、トップチームでのデビューを飾った[1]。兵役に従事した後、チームに戻り、1989年に正式にトップデビューを果たした[1]。出場機会は多くなく、1990年には短期ながら、ラドへレンタル移籍した[1]。同年のうちにチームに戻り、1990-91シーズンのUEFAチャンピオンズカップ制覇に貢献[1]。1991年8月8日の対チェコスロバキア戦で代表デビューを果たし[2]、同年のトヨタカップコロコロ戦では2得点を挙げ、世界王者のタイトルとMVPを獲得した[3][4]。1992年にはUEFA EURO '92を戦う代表チームのメンバーに選出されていたが、内戦への制裁により、チームは大会から締め出され、出場が出来なかった。

1992-93シーズンにセリエAサンプドリアへ移籍。セリエAの開幕戦のラツィオ戦で直接FKからゴールを決めるセリエAデビュー[5]、同試合から3試合連続ゴールを決めるなど、すぐにレギュラーに定着、リーグ戦ではシーズン9ゴールを挙げた[1][5]。1993-94シーズンにはコッパ・イタリアでの優勝に貢献するなど、チームの中心選手として活躍を見せた。1994-95シーズン、レッドスター時代のチームメートシニシャ・ミハイロヴィッチと再びチームメートになったが、シーズン途中にルート・フリットがチームに複帰し、外国人枠の影響、そして怪我で離脱するなど、出場機会を減らした[1]

高く評価していたマルチェロ・リッピが獲得を希望し、1995-96シーズンにはユヴェントスへ移籍を果たし[6]、その年のチャンピオンズ・カップ準決勝、ナント戦の1stレグでゴールを決め勝利に貢献[1][7]、決勝のアヤックス戦ではPK戦で最後のキッカーとしてPKを成功させて、ユベントスは優勝を果たした[8] 、また同年のトヨタカップでは先発出場し、リーベルプレートを破り2度目の優勝[4]、1996-97シーズンのセリエA優勝のタイトル獲得するなど、ユーベで重要な役割を果たし[9]、リッピは活躍を高く評価していたが[10]、フロント陣によりラツィオに売却された。

サンプドリア時代の監督スヴェン・ゴラン・エリクソンが獲得を望み[1][11] 、1997-98年ラツィオに移籍、コッパ・イタリア決勝、ACミラン戦の2ndレグでゴールを決め優勝に貢献[1][7]。しかしチームは、クリスチャン・ヴィエリを獲得する資金を捻出するため、1998-99シーズン、アリゴ・サッキ監督のアトレティコ・マドリードに売られた[1]。しかし、足首の負傷で満足のいくシーズンを過ごせなかった[10]1998年フランスW杯ではユーゴスラビア代表として出場し、4試合にフル出場[12]、チームのベスト16に貢献。

1999-2000シーズン、リッピ監督から誘われ[10]インテルで2シーズンプレー、怪我に苦しみ常時出場が出来なかった[9]。2000年のユーロ直前に代表復帰し、ユーロ2000では4試合全てに出場した[12]。2001-02シーズン、ユベントス時代のチームメートであったディディエ・デシャンが率いるASモナコでプレーし、リーグカップ優勝に貢献した。2002年2月13日のメキシコ戦で代表最後の出場を果たした[12]。その後FCアドミラ・ヴァッカー・メードリングを経て、ブンデスリーガ2部のクラブチーム・LRアーレンで35歳で現役引退した[1]。引退後は、スポーツエージェントやスカウトなどをしている[1]

タイトル

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レッドスター・ベオグラード
UCサンプドリア
ユヴェントスFC
SSラツィオ
ASモナコ

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Vladimir Jugovic, l'elegante centrocampista che diede la Champions League alla Juventus”. GOAL (2022年8月30日). 2023年8月6日閲覧。
  2. ^ Jugović Vladimir” (セルビア語). reprezentacija.rs. 2024年1月16日閲覧。
  3. ^ FIFA CLUB WORLD CUP の歴史”. NTV. 2020年6月6日閲覧。
  4. ^ a b トヨタカップで2度の優勝を飾ったユーゴビッチ -Goal
  5. ^ a b Jugovic all goals”. transfermarket. 10 March 2021閲覧。
  6. ^ Calciatori ‒ La raccolta completa Panini 1961-2012. Vol. 12 (1995-1996). Modena. Panini. 2012. p. 10.
  7. ^ a b Che fine ha fatto? Jugovic, dal rigore che valse la Champions al Raiola serbo -Calciomercato
  8. ^ [1] Romeo Agresti. Goal.com: Jugovic: I entered into Juventus legend with Champions League winner (英語). June 2, 2017. Retrieved May 27, 2018.
  9. ^ a b JUGOVIC, Vladimir-Treccani
  10. ^ a b c 週刊サッカーダイジェスト 1999年10月13日 pno.488 p.152-155
  11. ^ Vladimir Jugovic, o coadjuvante que ganhou quase tudo na Itália-Calciop
  12. ^ a b c Jugovic National team”. transfermarket. 10 March 2021閲覧。

外部リンク

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