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ヴィサーカー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヴィサーカー(サンスクリット語|Skt:Visākhā-Migāra-mātā、ヴィサーカー・ミガーラ・マーター、音写:毘舎佉・獼(彌)佉羅など、意訳:毘舎佉鹿母など)は、釈迦仏の優婆夷(うばい、在家女性信徒)の1人。鹿子母(ろくしも)とも呼ばれる。鹿子母講堂を仏教僧団に寄進して建立した。

彼女の伝記は、文献や経典に散見される。

  • 倶舎光記8では、「毘舎佉」とは、星の名前で、彼女が生まれた日にこの(2月の)星に当ったのを以ってその名があるという。
  • テーラガータ(長老尼の偈)417によると、Migajāla(ミガジャーラ)比丘の母という。
  • 南伝マノラタプラーニ620によると、Dhanañjaya(ダナンジャヤ)長者の娘にして、父により500の車を整えて他行し得るは Cundii と Samanā と彼女のみと伝える。
  • 南伝ダンマパダによると、アンガ国の Bhaddiya(バッデイヤ)市の Mendaka(メンダカ)長者の子なる Dhanañjaya 長者の子であると伝える。祖母は Candapadumā(カンダパドゥマー)といい、母を Sumanā-Devī(スマナー・デーヴィー)という。彼女が7歳の時、釈迦仏がこの市に来たり給うた。500人の侍女に擁せられ500の車に乗り詣でて、仏の教えを聞き預流果を得たという。また父に従って Sāketa(サーケータ)に移り住んだ。五美(毛・唇・歯・色・青春)を具えていたという。舎衛城(シュラバスティー)の Migāra(ミガーラ)の子、福増(Punnavaddhana、プンナヴァッダナ)に嫁いだ。その晴着は9億銭の価値があったという。工賃のみで10万銭の価値があったという。嫁がんとして実家を去るに望んで、父親は十誡を与えた。また8人の居士を従わせ、その過ちがある時に改めさせるように命じた。彼女は過去世において迦葉仏(過去七仏の一仏)が出世した時、Kiki王の第7女という(なお、王の子女は一女から順にケーマーウッパラヴァンナーパターチャーラーバッター・クンダラケーサーキサーゴータミータンマデインナーヴィサーカーである)。結婚した時、舅である Migāra が500の裸形外道(ジャイナ教徒)を請い、彼女を拝せしめようとしたが、彼女はこれを斥け、後にその舅を仏門に導いたという。このことから Migāra-mātā(ミガーラ・マーター、マーターは母親の意)と呼ばれるようになったという。また仏の許しで8つの許可を得て10男10女を産んだ。孫は400人もいたという。五象の力あり、100歳まで生きて、しかも常に若さを持ちながらも16歳のようだったという。
  • 五分律11では、毘舎佉の婿を鹿子という。鹿子は彼女を母のように敬ったという。そのことから人々は毘舎佉鹿子母と名づけたという。

講堂の寄進

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ある日、彼女は九倶胝(倶胝は一説に億とするので、9億か?)の価値のある晴衣をつけて祇園精舎に至った。仏前に至る前に晴衣を脱いで下婢に持たしたが、還る時に下婢がこれを忘れた。阿難がこれを階段の一隅に掛けておいた。後にヴィサーカーがこれを知ったが、上座の手に触れたるものを取る能わずとして、その価値に相当するものを奉献せんと願い、仏の御言に依って精舎建立を決意し、目連を監督として九倶胝を費やし9ヶ月で完成した。上下2階に各々500の室があり、また講堂があり、そのために鹿子母講堂と呼ばれるようになった。建築および安居を願う事などにより、総額二十七倶胝(27億?)を費やしたという。ヴィサーカーはこれが成就すると、歓喜の偈を謳い講堂を巡ったという。

関連項目

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