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フィービ・スノウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィービ・スノウ
出生名 フィービ・アン・ローブ
生誕
死没
ジャンル
職業 シンガーソングライター
担当楽器
活動期間 1972年 - 2010年
レーベル
共同作業者 シスターズ・オブ・グローリー英語版

フィービ・スノウPhoebe Snow、出生名 : フィービ・アン・ローブ〈Phoebe Ann Laub[1][4]1950年7月17日 - 2011年4月26日)は、アメリカ歌手作曲家ギタリストであり、1975年のヒット作「ポエトリー・マン」と「ハーポのブルース」、そしてポール・サイモンの「哀しみにさようなら」での客演で知られている。彼女の歌声は、うなるようなブルース調の低音から4オクターブ以上の音域を持っていると、ニューヨーク・タイムズは表現している[5]。スノウは1980年代から1990年代にかけて、ゼネラル・フーズ・インターナショナル・コーヒーサロン・セレクティヴス英語版ストーファーズ英語版などの数多くのアメリカ製品のコマーシャル・ジングルを歌っている。スノウはオーストラリアで1970年後半から1980年代前半にかけて5枚のトップ100アルバムで成功している[6]

生い立ち

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フィービ・アン・ローブ[4]は1950年にニューヨークで生まれ[1]デルタ・ブルースブロードウェーのショーミュージック、デキシーランド・ジャズクラシック音楽フォーク音楽が四六時中流れる家庭に育った。 害虫駆除業者だった父親のメリル・ローブはアメリカの映画と演劇に関する博覧強記的知識を持っており、さらに骨董品の熱心なコレクター・修復家でもあった。彼女の母リリ・ローブは、マーサ・グレアム舞踏団で演じたこともあるダンス教師だった[7]。スノウはユダヤ人だった[8][9]

ニュージャージー州ティーネックで成長し、1968年にティーネック高校を卒業した[10]

その後、イリノイ州マウントキャロルのシマー・カレッジに進んだが卒業はしなかった[11]。学生時代、スノウは賞品のマーティン000-18アコースティックギターを携えてグリニッジ・ヴィレッジのクラブを渡り歩き、アマチュア・ナイトにギターを弾いて歌った。スノウの芸名はデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道の宣伝で使われた架空のキャラクター英語版に由来する。絵画および後の写真をい印刷した画像では、若い女性の「フィービ・スノウ」が鉄道の客車の清潔さを強調すべく白いドレスを身に纏っている(当時のラッカワナの機関車は歴青炭よりも煤煙の発生が少ない無煙炭を使用していた)[4]

キャリア

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デビューと「詩人」の大ヒット

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1972年ビターエンド英語版クラブでシェルター・レコードレオン・ラッセルと共同で所有するプロモーション担当重役デニー・コーデルに見出されたスノウは、契約後に初めてのレコーディングをチャーチ・スタジオで行なった。[要出典]1974年にアルバム『サンフランシスコ・ベイ・ブルース (Phoebe Snow)』をリリースした。ゲストにザ・パースエイジョンズズート・シムズテディ・ウィルソンデビッド・ブロムバーグデイブ・メイソンを迎えたこのアルバムは、アメリカ国内で100万枚以上を売り上げ、当時最も評価されたレコードと言われた。[要出典]

フィービ・スノウとジャクソン・ブラウンが出演した1975年のコンサートの印刷媒体用広告

『サンフランシスコ・ベイ・ブルース』はビルボードアルバムチャート・トップ5アルバムにランクインしたのに加え、シングル「ポエトリー・マン (Poetry Man)」がビルボードホット100のトップ5シングルにランクインした。このアルバムでスノウは、グラミー賞最優秀新人賞英語版にノミネートされた[12]。1975年のヒットシングル「哀しみにさようなら (Gone at Last)」でも共演したポール・サイモンや、ジャクソン・ブラウンとのツアーに同行して前座を務めたスノウは、雑誌『ローリング・ストーン』の表紙にも登場した。同年の人気番組『サタデー・ナイト・ライブ』への出演では、ソロおよびポール・サイモン、リンダ・ロンシュタットとのデュエットを披露した。1975年の出演時、スノウは娘のヴァレリーを妊娠7ヶ月だった。ポール・サイモンのヒット曲「恋人と別れる50の方法」には、ヴァレリー・シンプソンパティ・オースティンとともにバッキング・ボーカルとして参加した。この曲と「哀しみにさようなら」はともに、サイモンの1975年グラミー賞受賞アルバム『時の流れに』に収録されている。

「ポエトリー・マン」以後

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シェルター・レコードとの契約のこじれからコロムビア・レコードに移籍したスノウは、1976年フィル・ラモーンのプロデュースによるセカンド・アルバム『夜の調べ』をリリースした。よりジャジーで内省的なこの作品は1976年7月9日にRIAAゴールドディスク認定を受けた[13]。よりロック指向のサウンドを目指した『雪模様』がデビット・ルービンソンが1976年後半にリリースされた。1977年には再びラモーンによるアルバム『薔薇の香り』を発表したが、1978年のアルバム『詞華集』ではバリー・ベケットがプロデュースした。その後、コロムビアを離れたが、このころ重い障害を持つ娘の育児の負担により、音楽活動に力が入らなくなっていったと、のちにスノウは述懐している。[要出典]1979年、スノウは注目株のギタリストであるアーレン・ロス英語版をリードギタリスト兼音楽監督に採用してアメリカとカナダで広範囲のツアーを行った。ポール・マッカートニーの「エヴリナイト」の1979年1月のカバーは全英シングルチャートで37位に到達した[14]1981年、スノウはミラージュ・レコードと契約し、ビリー・ジョエルのバンドメンバーとレコーディングした、トップ50ヒットとなった"Games"収録のアルバム『ロック・アウェイ』をリリースした。[要出典]

1983年のローリングストーン・レコードガイドでは、「同世代の歌手の中でも天性の素晴らしい声を持ち、スタイルとしても技術的にもどんな歌でも歌えるのだが、未だ答えの出ていない問題は、これほどの才能をどの方向に向かわせればいいのか、ということである」と、この時点でのスノウのキャリアが総括されている。

1980年代のスノウは長くレコーディングから遠ざかり、自身も重い病気を患いながら、しばしばAT&Tゼネラル・フーズ・インターナショナル・コーヒーサロン・セレクティヴス英語版ストーファーズ英語版その他のCMジングルを、病気の娘の養育費用と生活のために歌うっていた[15]。スノウの歌声は米国綿花法人英語版の広告と、同法人の1990年代のThe Fabric of Our Livesキャンペーンにも登場した。1980年代を通して、自身の命に関わる疾病と戦ってもいた[15]。スノウはテレビドラマ『9時から5時まで』の第1シーズンの主題歌を録音した(第2シーズン以降はドリー・パートンのボーカルが使用された)。スノウはNBCA Different World の第1シーズン(1987年-1988年)でも主題歌を歌った。

1988年、デイヴ・メイスン英語版とデュエットした "Dreams I Dream" が米国のアダルト・コンテンポラリー・チャートで11位に達した。1989年になってスノウはアルバム『サムシング・リアル英語版』で復帰し、さらに数曲のアダルト・コンテンポラリー・チャートにランクインするヒット曲を生んだ。スノウはまた、1980年にデトロイトのWDIV-TVの "Go 4 It!" キャンペーンの作曲も行った。Reading Rainbow 第10話 The Gift of the Sacred Dog でスティーヴ・ホアリックが作曲した "Ancient Places, Sacred Lands" を歌った。このエピソードはポール・ゴーブル英語版による同名の本をもとにしてしており、俳優のマイケル・アンサラがナレーションを担当した。撮影は1983年にモンタナ州クロウ・エージェンシー英語版で行われた。

スノウは1989年にニューヨーク市のエイヴリー・フィッシャー・ホールのステージで、数ヶ月から発信される5時間のテレビ生中継の『Our Common Future』の一員として出演した[16]

1990年には、エレクトラ40周年記念アルバム『ルバイヤート』収録曲として、デラニー&ボニーの「Get ourselves together」を、アース・ウインド&ファイアーのギタリスト、ディック・スミスを従えてカバーした。1992年にはドナルド・フェイゲンの「ニューヨークロック&ソウルレビュー」ツアーに同行し、同バンドのニューヨーク・ビーコンシアターで録音されたライブ・アルバムにも登場した。

この時期、彼女自身の作品のレコーディングは行われていなかったが、フィービはソロ・アーティストとしてのツアーを、アメリカ、イギリスドイツ、初の来日となった日本で行なっている。[要出典]1990年代を通して、スノウはハワード・スターンのラジオ番組に数度に渡って出演した。特別番組やバースデイ番組では生演奏を披露した。1997年、『ロザンヌ』の最終回のエンディングで主題歌の「ア・カペラ」を歌った[17]

1995年にニューヨーク市のリンカーン・センターでの The Wizard of Oz in Concert: Dreams Come True に参加し、代表的なメドレイ「もしも知恵が:ハートが:勇気があったらな」を歌った。さらに、このコンサートにはジュエルジョエル・グレイロジャー・ダルトリージャクソン・ブラウンなどが出演していた。このコンサートのアルバムはライノ・レコードからCD(R2 72405)としてリリースされた。

スノウはPBSの番組 Sessions at West 54th でスノウの「ポエトリー・マン」の独自のバージョンを即興のデュエットで録音したポップグループのザップ・ママに参加した。ハワイのガールグループであるナレオ英語版も「ポエトリー・マン」のカバーバージョンを1999年にアダルト・コンテンポラリー・チャートでヒットさせた。

1998年、ニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニから文化功労賞を授与された。また、ドン・カーシュナー・ロックアワードニューヨーク・ミュージック・アワード、複数のプレイボーイ・ミュージック・ポール賞やクリオ賞などを受賞している。1999年にはキャンプ・デービットアメリカ大統領ビル・クリントンヒラリー夫妻およびクリントン内閣の閣僚らを前にパフォーマンスを披露している。

2003年に新曲10曲を納めた14年ぶりとなるオリジナル・アルバム『Natural Wonder』をイーグル・レコードからリリースした。スノウは2008年のハワード・スターンの結婚式で演奏し、さらに映画 Noah's Arc: Jumping the Broom に自分役で特別出演した。スノウの楽曲数曲が同作のサウンドトラックで使用された。2008年発売ののライブ・アルバム Live にはスノウ自身の数多くのヒット曲とともに「心のかけら英語版」のカバーが収録されていた。

私生活と死

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障害を持つ娘の出産と養育

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1975年から1978年(「ポエトリー・マン」のヒットと同時期)、スノウはフォークシンガーのフィル・カーンズ(後にゲイであることをカミングアウト)と結婚していた[18]。1975年12月に娘ヴァレリー・ローズを授かったが、この子は生まれながら深刻な障害を患っていた[8][9]。スノウは娘を施設に預けないことを決意し、彼女が2007年3月18日に31歳で亡くなるまで自宅で看病を続けた。この娘の養育が事実上、スノウを音楽業界での輝かしいキャリアから遠ざけることとなった[19]。スノウはボイスレッスンを続け、非公式にオペラを学んでいた[19]

スノウはニュージャージー州バーゲン郡に居住し、後年は仏教に帰依していた[9]

死去

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2010年1月19日にスノウは脳出血を起こして昏睡状態に陥り、血液凝固肺炎心不全などの合併症を併発した。2011年4月26日ニュージャージー州エディソンで、60歳で死去した[20]

日本での出来事

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2011年7月不祥事閣僚を辞任した松本龍が、会見で「Never Letting Go」(松本は「ネヴァー・レット・ミー・ゴー」と誤って引用)を引き合いに出したことで、フィービ・スノウの名が改めて広く日本国内で知られることになった。

ディスコグラフィ

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アルバム

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アルバム チャート最高位 認定英語版 レーベル
US
[21]
US R&B
[22]
US Jazz
[23]
AUS
[6]
1974 サンフランシスコ・ベイ・ブルースPhoebe Snow 4 22 48 Shelter Records
1976 夜の調べSecond Childhood 13 33 71 コロムビア
雪模様It Looks Like Snow 29 64
1977 薔薇の香りNever Letting Go 73 36
1978 詞華集Against the Grain 100
1981 『ロック・アウェイ』Rock Away 51 ミラージュ
1989 『サムシング・リアル』Something Real 75
1991 The New York Rock and Soul Revue: Live at the Beacon
1995 Good News in Hard Times (with the Sisters of Glory)
1998 I Can't Complain
2003 Natural Wonder Eagle Records
2008 Live 17 Verve Records
"—" denotes a recording that did not chart or was not released in that territory.

コンピレーション

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  • The Best of Phoebe Snow(1981年)
  • P.S.(1995年)
  • The Very Best of Phoebe Snow(2001年)
  • Playlist: The Very Best of Phoebe Snow(2012年)

シングル

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チャート最高位
US Adult
[25][26]
US R&B
[25]
US Pop
[25][27][28]
UK
[25]
AUS
[29][30]
CAN
[31][32][33]
NZL
[34]
1974 「グッド・タイムズ」"Good Times (Let the Good Times Roll)"
「ポエトリー・マン」"Poetry Man" 1 5 60 4 28
「ハーポのブルース」"Harpo's Blues" 20
1975 「哀しみにさようなら」"Gone at Last" ポール・サイモンと共演) 9 23 95 29
1976 「乾いた愛」"Two-Fisted Love"
「オール・オーヴァー」"All Over"
"Shakey Ground" 70 6
1977 「ティーチ・ミー・トゥナイト」"Teach Me Tonight"
「ネヴァー・レッティング・ゴー」"Never Letting Go"
「ラヴ・メイクス・ア・ウーマン」"Love Makes a Woman" 87
1978 「イン・マイ・ライフ」"In My Life"
(イギリス、オーストラリアおよびニュージーランドでのみ発売)
エヴリ・ナイト」"Every Night" 37 22 6
1981 "Games" 46 95
"Mercy, Mercy, Mercy" 52
"Baby Please"
1988 "Dreams I Dream" デイヴ・メイスン英語版と共演) 11
1989 "If I Can Just Get Through the Night" 13 85 63
"Something Real" 29
"—" :その地域では発売されたがチャートインしなかったか、発売されなかったことを示す。

共演

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複数のアーティストによるコンピレーション

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脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e Thursby, Keith (April 27, 2011). “Phoebe Snow dies at 60; singer of 1974 hit 'Poetry Man'”. Los Angeles Times. http://www.latimes.com/news/obituaries/la-me-phoebe-snow-20110427,0,5216521.story April 27, 2011閲覧。 
  2. ^ Schudel, Matt (April 27, 2011). “Phoebe Snow, powerful singer of 1970s hit 'Poetry Man,' dies at 60”. The Washington Post. https://www.washingtonpost.com/local/obituaries/phoebe-snow-powerful-singer-of-1970s-hit-poetry-man-dies-at-60/2011/04/27/AFxN5x1E_story.html April 27, 2011閲覧。 
  3. ^ a b c d e Ankeny, Jason. Phoebe Snow | Biography & History - オールミュージック. 2021年6月13日閲覧。
  4. ^ a b c Kadden, Jack (2005年4月10日). “On a Train Back To a Golden Age”. The New York Times. https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C00E4DF173EF933A25757C0A9639C8B63 2021年6月13日閲覧. "The other two are tavern-lounge cars built in 1949 for the Delaware, Lackawanna & Western Railroad's premiere train, the Phoebe Snow, which ran from Hoboken, N.J., to Buffalo. The name came from a character—dressed all in white—in an advertising campaign dating to the early 1900s, touting a train that ran on clean-burning anthracite coal. (The singer Phoebe Snow, born Phoebe Laub, took her stage name from the train.)" 
  5. ^ Abdella, Fred T. (July 2, 1989). “Singing Her Way Back to the Top”. The New York Times. https://www.nytimes.com/1989/07/02/nyregion/new-jersey-q-a-phoebe-snow-singing-her-way-back-to-the-top.html April 27, 2011閲覧. "It was the summer of 1974 and the voice was everywhere — a contralto grounded in a bluesy growl and capable of sweeping over four octaves on the slightest provocation into a gospel-charged upper range." 
  6. ^ a b Kent, David (1993). Australian Chart Book 1970–1992 (illustrated ed.). St Ives, N.S.W.: Australian Chart Book. p. 280. ISBN 0-646-11917-6 
  7. ^ Shewey, Don. “The Blues of Phoebe Snow”. DonShewey.com. Don Shewey. January 9, 2020閲覧。
  8. ^ a b Holden, Stephen (October 21, 1983). “Things Are Looking Up Again for Phoebe Snow”. The New York Times. https://www.nytimes.com/1983/10/21/arts/things-are-looking-up-again-for-phoebe-snow.html August 23, 2008閲覧。 
  9. ^ a b c North, Steve (May 3, 2011). “Remembering my friend, Phoebe Snow” (obituary). Jewish Morning Journal. https://jewishjournal.com/culture/lifestyle/obituaries/91739/ 
  10. ^ Nash, Margo (June 22, 2003). “Still Singing, Still a Fan of Trains”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2003/06/22/nyregion/still-singing-still-a-fan-of-trains.html February 13, 2020閲覧. "Her first record, Phoebe Snow (Shelter 1974), with the single "Poetry Man", went gold, and Snow, who had been discovered performing in a Greenwich Village coffeehouse, shortly after graduating from Teaneck High School, found herself a sudden success." 
  11. ^ “Named for a Train, Phoebe Snow Is on the Right Track”. People. http://www.people.com/people/archive/article/0,,20066289,00.html September 9, 2010閲覧。. 
  12. ^ “Phoebe Snow, 'Poetry Man' Singer, Dies”. Billboard. (April 26, 2011). https://www.billboard.com/music/music-news/phoebe-snow-poetry-man-singer-dies-471865/ 
  13. ^ Recording Industry Association of America”. RIAA. April 25, 2012閲覧。
  14. ^ Roberts, David (2006). British Hit Singles & Albums (19th ed.). London: Guinness World Records Limited. p. 511. ISBN 1-904994-10-5 
  15. ^ a b “Music: Throwing in the Crying Towel”. Time. (May 1, 1989). オリジナルのJune 4, 2011時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110604065934/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,957579-2,00.html. 
  16. ^ Pareles, Jon (June 5, 1989). “Review/Television; The Pop World Wrestles With 'Our Common Future'”. The New York Times. https://www.nytimes.com/1989/06/05/arts/review-television-the-pop-world-wrestles-with-our-common-future.html 
  17. ^ Roseanne: Episode 221 & 222 – Into That Good Night (part one and two)”. Tvseriesfinale.com. May 16, 2013閲覧。
  18. ^ O'Donnell, Lisa (September 1, 2011). “Ex-husband of Phoebe Snow leads a musical life out of the closet in Winston-Salem”. Winston-Salem Journal. http://www.journalnow.com/news/local/article_fd3a1b91-d7c5-5b2b-8dbd-ca716db4b176.html June 23, 2014閲覧。 
  19. ^ a b Friedman, Roger (March 22, 2007). “Saying goodbye to Valerie”. Fox News Channel. http://www.foxnews.com/story/0,2933,260381,00.html August 23, 2008閲覧。 
  20. ^ Holden, Stephen (April 26, 2011). “Phoebe Snow, Bluesy Singer-Songwriter, Dies at 60”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2011/04/27/arts/music/phoebe-snow-bluesy-singer-songwriter-dies-at-58.html April 26, 2011閲覧. "Phoebe Snow, whose signature hit, 'Poetry Man', established her as a leading light of the singer-songwriter movement and whose swooping vocal acrobatics transcended musical genres, died on Tuesday in Edison, N.J. She was 60.
    Her death, at a hospital in Edison, was caused by complications of a stroke she suffered in January 2010, her manager, Sue Cameron, said. Some sources give Ms. Snow's age as 58, though New Jersey voter records say she was born on July 17, 1950."
     
  21. ^ Phoebe Snow - Chart History: Billboard 200”. Billboard. 27 December 2021閲覧。
  22. ^ Phoebe Snow - Chart History: Top R&B/Hip-Hop Albums”. Billboard. 27 December 2021閲覧。
  23. ^ Phoebe Snow - Chart History: Jazz Albums”. Billboard. 27 December 2021閲覧。
  24. ^ a b Gold and Platinum Awards”. RIAA. January 3, 2019閲覧。
  25. ^ a b c d Phoebe Snow Songs • Top Songs / Chart Singles Discography • Music VF, US & UK hits charts”. Music VF. October 11, 2021閲覧。
  26. ^ Hyatt, Wesley (June 1999). The Billboard Book of #1 Adult Contemporary Hits. en:Billboard Publications. ISBN 978-0823076932 
  27. ^ Whitburn, Joel (October 5, 2010). The Billboard Book of Top 40 Hits. Billboard Publications. ISBN 978-0823085545 
  28. ^ Whitburn, Joel (2013). Joel Whitburn's Top Pop Singles, 14th Edition: 1955-2012. Record Research. p. 782 
  29. ^ Every AMR Top 100 Single in 1975”. Top100singles.net. October 11, 2021閲覧。
  30. ^ Every ARIA Top 100 Single in 1989”. Top100singles.net. October 11, 2021閲覧。
  31. ^ RPM Vol 23 #8 (19 April 1975) "RPM Top Singles" p.32
  32. ^ RPM Vol 24 #6 (4 October 1975) "RPM Top Singles" p.41
  33. ^ RPM Vol 50 #7 (17 June 1989) "RPM100 Singles" p.6
  34. ^ The Official New Zealand Music Chart”. Nztop40.co.nz. October 11, 2021閲覧。

外部リンク

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