フィフィ・ザ・フリー
フィフィ・ザ・フリー Fifi The Flea | |
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出身地 | 日本 大阪府 |
ジャンル | |
活動期間 | 1967年 - 1972年 |
レーベル | |
メンバー |
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旧メンバー | 原田康彦、下賀某 、村上某 |
フィフィ・ザ・フリー(Fifi The Flea)は、かつて存在した日本のグループ・サウンズ、ロックバンドである。
メンバー
[編集]- 曽根隆(リーダー、オルガン、ボーカル 1946年-2012年) 後にいずみたくシンガーズ
- まぶちはじめ(ギター、電気フルート、ボーカル、1948年生-2020年5月6日[1][2])後に淡海悟郎とミクロコスモスII
- うつみ伸一(ボーカル、ベース、1948年 生)
- 吉田一夫 (ギター、1948年 生)後にいずみたくシンガーズ
- 鈴木のり(ドラムス、1950年 生)元エクセル・グループ、後にいずみたくシンガーズ、ベーカー・ショップ・ブギ、やぎのり&サンペイ(2008年5月から、ベーカー・ショップ・ブギと兼任)
- 旧メンバー
- 原田康彦、下賀某 、村上某(いずれもドラムス)
概要
[編集]村井邦彦アルファ・レーベル第一弾に選ばれたバンド[3]。村井邦彦が作曲家・編曲家としての才能を発揮し、シングル「栄光の朝」は「ニューミュージック」の先取りとされる。廃盤ブームからグループ・サウンズ再評価が始まった1980年代、山下達郎のラジオ番組『サウンドストリート』(NHK-FM)[4]の紹介やサバービア、ソフトロックブームから再び注目される[5]。アソシエイション、ザ・トレメローズなどをコーラス重視でカバー、卓越したコーラス、ハーモニーが再評価された(雑誌VANDA26号・1992年)。
1967年7月大阪芸術大学軽音楽部で結成[6][7]、バンド名はホリーズ(The Hollies)のアルバム『Would You Believe?』の楽曲から。当初の表記は「フイフイ・ザ・フリー」(「イ」が大文字)。地元大阪を拠点に、ラジオ関西、MBSラジオ『MBSヤングタウン』に準レギュラーで定期出演し、その評判から大阪「メキシカン」「ナンバ一番」など主だったジャズ喫茶やプール、デパート催事場などのスポット、野外の新車発表会(「オール・スズキ・フェスティバル」フロンテSS発表会)など、関西各地の地域イベントで出演演奏を重ねる。エコー・プロダクションの招聘で東京へ拠点を移し、そののちに札幌で約一年間に及ぶ滞在を挟み活動した。以下、確認出来た資料記録[要出典]から。
- 1967年
- 5月、フェスティバルホールコンテスト優勝(Y.A.C/日本楽器主催)
- 7月27日 第1回Y.A.Cロックカーニバル出演(サンケイホール)大阪(Y.A.C/日本楽器主催)(ビートルズ "愛こそはすべて" を演奏)。
- 8月 海南市夏祭り出演
- 1968年
- 1969年
- 1970年
- 4月 札幌のナイトクラブ「ジャッド (JUDO)」[11] 専属で契約、延長で約一年滞在。ナイトクラブ「ジャッド」ではフィリピン人バンド「メンズ・フューリー」と共演。同地では平行して、札幌オリンピック関連の北海道放送、ヤマハ等の主催イベント、別途のブッキングによる米軍キャンプ(千歳基地)に出演。HBCラジオ・『ジャッドで踊ろう』などに出演。
- 7月 ラジオ番組『ジャッドで踊ろう』公開録音(蘭島海岸・小樽市(1970年7月28日PM12:00~放送)[要出典]
- HBC後援で映画『ウッドストック』の地域プロモーションで演奏参加
- 11月25日 「ジミー・スミスでゴーゴー」(コスモ・ビラ札幌)共演:ジミー・スミス、たらんぼ(LMA札幌主催)[要出典]
- 12月1日 「ライトミュージックフェスティバル」(道新ホール・札幌)共演:赤い鳥、ジプシー・アイ(LMA札幌主催)
- 1971年
- 1972年3月 東宝ミュージカル『裸のカルメン』(3月7日-29日)ロック・パート伴奏(オーケストラと共演)を務め解散[13]。その後、曽根隆、吉田一夫、遅れて鈴木のりがいずみたくシンガーズへ参加した[要出典]。
ディスコグラフィー
[編集]シングル
[編集]発売日 | レーベル | 品番 | 面 | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 | 備考 |
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1969年4月25日[14] | ユニオンレコード | UH-76 | A | おやじのロック | 生方めぐみ | 松田篝 | ||
B | ひとりぼっちのバラード | 松田篝 | ||||||
1969年2月 | テイチクレコード | SN-734 | A | チェンジ・ユア・マインド | 中山啓子 | 曾根隆
補:加納光記 |
山倉たかし | |
B | 恋の神話 | 池田充男 | 山倉たかし | |||||
1969年11月10日 | アルファレコード | Z-1 | A | 栄光の朝 | 山上路夫 | 村井邦彦 | ||
B | 戦争は知らない | |||||||
1970年6月 | Z-4 | A | ワイト・イズ・ワイト | 邦詞:山上路夫 | Roland_Vincent | Michel Delpech作のカヴァー曲 | ||
B | イエスタデイ・トゥデイ | |||||||
1971年7月 | RCAレコード | JRT-1173 | A | 限りなくあたえるもの | 曽根たかし | 羽根田武邦 | ||
B | 素晴らしきGT | 彦たけし | 西山直彦 | 宮田自転車のCM曲 |
- おやじのロック/ひとりぼっちのバラード - 制作:竹本政治
- 当時のアングラ・ブーム、ビートルズ、サイケデリック時代のピンク・フロイドなどに影響された自主性の強い録音。グループ・サウンズ期に多く見られたレコード発売には企画制作のもと、演奏録音をあらかじめスタジオ・ミュージシャンが行うケースが多かった中では少ない事例の一つ[15]。リード・ボーカルを曽根隆が担当[16]、定期出演していた『MBSヤングタウン』放送のスタジオオフ時間に行われ、放送録音技術の懐元ではファズ・ギターにエンジニアが戸惑うなど、試行錯誤も伴ったとのこと(「ひとりぼっちのバラード」ストリングス・トラックスもこのスタジオで収録された)。放送局スタジオでの収録は、札幌の「シャロレーズ」など、録音環境が限られた地域事情等で数件知られている。
- アングラ、サイケ、実験的音楽を意識して、おもちゃのピアノやガラガラなどを持参して収録に臨んだ(ステージでは三味線などを使用することもあった。演奏場所のTPOレパートリーで用い、常時の使用はしていない)。
- 「フィフィザフリーがヤードバーズやピンク・フロイドにヒントを得て(当時、フィフィザフリーはサイケ・ロックをやっていた)アレンジしたものです。おまけに雅楽を取り入れたりして。」[17]、「(B面曲)間奏のギターでまぶち(ギター&フルート)がビートルズの「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」にインスパイアされたフレーズを弾いてます。」[17]、「名前は思い出せないけど京都のあるジャズ喫茶に呼ばれ、(出演者紹介)立て看板で『本格派サイケデリック・ロック・バンド、フイフイザフリー、来たる!』と紹介されて面食らったこともありました。」[17]、「(熱狂! GS『グループサウンズ図鑑』著黒沢進の記事[18]にある)『特販部門から不幸なデビュー』については関係縁者がいて、契約が特販部門を介しただけ。普通のデビューでした(笑)」(吉田の述懐・「フィフィザフリーコンプリート・シングルズCD発売記念!?」から引用)[注 1]
- 松田篝は作曲家、宝塚音楽学校などの音楽講師、またチューインガムの実父。大塚善章は親戚にあたる。この時代、松田はグループ・サウンズでオックスの福井利男、岩田裕二が在籍していたキングスに楽曲提供している。作詞者の生方めぐみは当時NHKアナウンサーの生方恵一。他の関西圏出身グループ・サウンズ系のバンド(ザ・リンド&リンダース、ファンキープリンス)と異なり、テイチク大阪支店[19]での契約から原盤制作は、東京[20]を介さないかたちで行われている。
- チェンジ・ユア・マインド/恋の神話
- キャッチコピーは「2月5日堂々発売_フイフイ・ザ・フリーの_ボサノバのリズムで_あなたに贈るオリジナル」
- 予約特典に「大阪四国団地区でレコード御予約の方先着200名様にぼくたちが1枚1枚描いたステキなイラストをプレゼント!」(原文ママ、宣伝リーフレット」から)[要出典]。
- 一枚目同様、ジャケットイラストは曽根隆が担当(ほかにバンドの移動用ワゴン車、トヨタ・ダイナK170型の書込イラストのアートワーク、バンド解散後の後年に、藤村俊二著「おとこの台所」カバーイラスト担当した)。リード・ボーカルはうつみ伸一。2010年現在「恋の神話」マスターテープ所在は行方不朋。「[17]色々なオリジナルをテイチクに聞いてもらって、シングルに決まったのがそのオリジナルの中で最もイージーなこの曲だったんで、ちょっとガッカリしたことを覚えてます」(吉田の述懐)[要出典]。
- 栄光の朝/戦争は知らない
- 裏ジャケット、スチール写真は東京港で撮影。プロモーションフィルムも同時収録された[3]。
- シングル登用経緯について、「プロダクション側の売り込み」[3]と「村井邦彦(又は周囲推薦)側から起用」もある。
- 演奏は江藤勲(ベース)、石川晶(ドラムス)らのスタジオ・ミュージシャンが担当[3][17]、「4chテープレコーダーでコーラストラックを2回ダビングして厚みを出し(中略)、村井(邦彦)によれば、アソシエイションにゴスペル的な雰囲気を持ち込んだようなコーラス・サウンドを狙ったとのこと」[3]。「『全日本歌謡選手権』は、全然覚えてないです。事前録音かナマかどうかも。(以下略)」[17]、「アテレコ(口パク)といえば、『栄光の朝』かな、楽器持たず、踊ってただけの(ダサい)TV出演もありました。当然皆不満漏らしマネージャーには『仕事を選んでくれ』って文句言いました(笑)』[17](吉田の述懐)[要出典]。
- ワイト・イズ・ワイト /イエスタデイ・トゥデイ
- 村井邦彦がパリで入手した楽譜を元にしたとされ、他フォーリーブスなどと競作となった。当初ファンクラブ会報[21]「イエスタデイ・トゥデイ」と「幸福(しあわせ)の朝」(作者不詳)で予告されていた。
- B面リード・ボーカルは鈴木のり。「ソウルが全員苦手だったフィフィザフリーにファンキーでタイトなビートで新風を吹き込んだ鈴木のりのヴォーカルです。(彼はその後札幌でベイカーショップ・ブギのドラマーとして活躍しており、現在も一目置かれる存在ですね。)ただこの曲のドラムは石川晶でベースは江藤勲だったと思う」[17](吉田の述懐)[要出典]。
- 限りなくあたえるもの/素晴らしきGT
- 「限りなくあたえるもの」作曲者「羽根田武邦」は、このシングルのプロデューサー、ロビー和田の別名。和田はカレッジ・フォークで演奏活動したのち歌謡曲やポップスのプロデュースに転じた。得意分野であるフォーク系コーラスやハーモニーから注目し自身が所属していた日本ビクターレコード傘下のRCAで起用となった。
- B面「素晴らしきGT」は、「確かドラムスはつのだひろ、ギターは成毛滋です」[17]、「スタジオに行ったらもうオケが出来ていました。それもキーの合わないしょうもないものが・・・」[17]「適当に歌い(担当したコーラスは出来も悪かったのに)一回でOKが出てしまった。」[17](吉田の述懐)[要出典]。
- なお、シングル「おやじのロック/ひとりぼっちのバラード」以外4枚のシングルはスタジオ・ミュージシャンによる演奏。
8トラック・テープ
[編集]- 「最新ポップス・リクエスト32」1971年、ケイブンシャ、32YS-2802
発売に至らなかったもの[22]
- 恋の足あと・Traces(日本語詞 山上路夫、編曲 村井邦彦)
- ステージ・レパートリーのひとつ。
- Classics IVのカヴァー、ハーフ・ブリードがのちに発売。
オリジナル曲
[編集]- あなたを想って 作詞:中山桂子、作曲:曽根隆[23]
- 春のにおいのプロローグ 詞曲:曽根隆
- 昔々のこと(作者不詳)
- 君の為なら(作者不詳)
- 風と花と夢(作者曽根隆)69年4月28日KRCでのデモテープに収録された。
- 「組曲/ロック・オペラ,風と花と夢~If-もしも(タイトル未確認)」(作者:曽根隆)
- 原曲「風と花と夢」との追加変更、差違については未確認。
プロローグ ナレーションと伴奏~朝日と小鳥とお花畑(パート1)~ナレーション~ふくろうとおじさん~ナレーション~森の動物達~ナレーション~クリスタル・ファンタジア~湖に何が起こったか~ナレーション~むかし、むかしの物語~朝日と小鳥とお花畑(パート2)~エピローグ ナレーションと伴奏
ステージ・レパートリー
[編集]ファンクラブ会報などで記載あるもの、当時のメモ、録音から。
同時代のニュー・ロックバンドと同様、ビートルズ、英米ロック・バンドのカバー、ディーン・マーティン、『誰かが誰かを愛してる』など、洋楽中心に豊富なレパートリーを持っていた。1969年の「ブルース・ブーム」ではジョン・メイオールなどを取り上げている。リード・ボーカルは主にうつみが担当、曲によって他メンバーやローディが参加した[24]。
- (1969年頃)ブラック・マジック・ウーマン、黒いひつじ、サンシャイン・オブ・ラブ、ほか
- (1970年頃)二人のシーズン、トレイシズ、エンド・オブ・ザ・ワールド、アイム・ソー・グラッド、バルプルギス、ロウダウン(シカゴ、日本語版)[25]
- (1971年頃)ネヴァー・マイ・ラブ、スーパースター(デラニー&ボニー)、ゴーイング・アウト・オブ・マイ・ヘッド、ララは愛の言葉、シー・オブ・マイ・マッドネス
オムニバス
[編集]- 『ソフトロックドライヴィン 栄光の朝アルファ編』
- アルファミュージック ALCA5089 1996年発売 選曲・解説 土龍団
- 『カルト・GS・コレクション テイチク編 VOl.1』
- TEICHIKU TECN 22178 1992年発売 監修解説 黒沢進
- 『カルト・GS・コレクション テイチク編 VOl.2』
- TEICHIKU TECN 22179 1992年発売
- 越天楽ゴーゴー~幻の名盤カルトGS/Cutie-Pop/Softrock Drivin'解放歌集
- P-VINE PCD-1531 1996年10月
- 『アングラ・カーニバル』
- TEICHIKU TECN-25694 2001年1月発売
- ソフトロックドライヴィン アルファ編[26]
- ソニー・ミュージックダイレクト MHCL-935 2006年11月 解説著 土龍団
出演
[編集]ミュージカル「裸のカルメン」(日生会館)1972年3月7日-29日 出演:那智わたる、細川俊之
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「特販部門について」
- レコード会社ではおもに法人や官庁などを相手に取引を行う部所。教育施設等の教材、学校校歌などのレコードやCDを制作する際や個人やバンドなどのインディーズを受け付ける窓口から、一般向けの販売とは異なる制作の独立から社内の宣伝や営業の部所と連携することは少ない。百貨店の外商部に近い部署でより専門的である。
- テイチクの特販部門とユニオン・レーベルのシングル盤レコード番号「UH-XX」について
各レコード会社にはおもに社専属の作詞家・作曲家が曲を提供する不文律の「協定(確執)」が存在し、ひいては分業制が確立していた(一例でシングル盤の表記「歌・演奏ローリング・ストーンズ」はこの名残り。)。日本コロムビアでは俳優・歌手扱いだった加山雄三がペンネーム弾厚作で作詞・作曲を行い、自分が歌い、演奏に参加(ザ・ランチャーズ)したことが「協定違反」として問題視された。加山が所属する映画会社東宝が仲裁に入り、電器メーカーの営業販促一環で戦後発足した新興の東芝音楽工業へ加山が移籍することで決着した(格下のレコード会社に追放。ほかにホリプロ川瀬泰雄「星勝がアレンジャーとして行ったモップス以外の初仕事は井上陽水『断絶』」[1]2015年8月19日やエミー・ジャクソンの楽曲涙の太陽をめぐる経過などが確執経緯などに詳しい。)。この分業制による「協定」に、ほか各レコード会社は警戒して、グループサウンズやシンガーソングライターを発売する際には自社レーベル名を避けて提携する海外レーベル名義か、傘下に便宜上の別レーベル部門を開設してこの「協定」を事前に回避する対策をすすめた。
テイチクの場合はグループサウンズは少数で外国曲のカバーが多く、大手の芸能事務所々属ミュージシャンに「協定」は及ばず渡辺プロダクション配下アウト・キャストはテイチク部門から発売している。
日本コロムビアではのち井上忠夫を擁したジャッキー吉川とブルー・コメッツなどを洋楽部門「CBSレーベル」で発売していたが、1968年提携解消からCBSソニーとして独立、傘下のDENONレーベル起用や日本コロムビアレーベルブランドでは、内田裕也とザ・フラワーズ、エイプリル・フールなどは外国曲カバーと社専属の作詞・作曲家起用の折衷策で対応した。社内の新規独立レーベル計画では村井邦彦との共同で1969年11月アルファレコードを開設、フィフィザフリー「栄光の朝」を送り出し、村井とはさらに川添象郎、ミッキー・カーチスらと「マッシュルーム・レコード」開設、他社も同様に直轄傘下やこの独立レーベルによる体制を敷き、1971年頃には「協定(確執)」はほぼ無力化している。
テイチクの特販部門は他社同様冒頭の業務と芸能事務所、観光や飲食業者が原盤などの費用を自己負担し制作するCM曲、民謡、演歌、ムード歌謡等を取りまとめこれらは無料配布にお土産店やナイトクラブなどの限定販売用が殆どだった。三波春夫らが所属するテイチクではこのうち芸能事務所が演歌などをキャンペーンの手売り販売で再販制度外売り切りで制作されていたものを一般販売カタログから併売出来るようユニオン・レーベル部門(1963年設立)にてシングル盤レコード番号規格を与えて特販部門が兼務の仲介を始めた。
テイチクでは会社に作詞・作曲家と歌手・演奏家の関係は良好だったが抗議を懸念して1967年ユニオン部門の外部から販売代行と兼用として「UH-XX」新たに設けて7月グループサウンズのテリーズの「想い出の星空」を発売、その後同部門の「US-XXX-J」などを使用して発売した。
レコード番号でレーベル部門の使い分けは日本クラウン・レコードも行ったが同社は1963年創立の新興企業で作詞家星野哲郎らが発足した経緯(「日本クラウン」の項目を参照)とカタログの多くを北島三郎といった演歌が占め、1965年5月10日発売田辺昭知とザ・スパイダースの「フリフリ」は通常のレコード番号「CW-291」で発売した。その後、単純なカタログ分け・ブランド区分として1967年からポップスのグループサウンズや泉アキなどを区別して「PW-X」用いた(PANAMレーベルの原点)。
グループサウンズの原点とされるザ・スパイダースの「フリフリ」は作詞曲をメンバーのかまやつひろしが担当、ザ・スパイダースはこれ以前に日本クラウン以外にインストロメンタル演奏作品を様々なレーベルで残している。日本ビクターレコードとは専属契約で1966年4月15日「フリ・フリ'66(著作契約の都合英語詩)」を発売、傘下のフィリップス・レコードからリリースした。日本クラウンと日本ビクターでは異なる対応となった。
出典
[編集]- ^ 「日本のデイトレーディングの父」馬渕一氏死去、スラド、2020年10月29日
- ^ 訃報、デイトレードネット、2020年10月6日
- ^ a b c d e 『ソフトロックドライヴィン 栄光の朝アルファ編』アルファミュージック ALCA5089
- ^ NHK-FM「サウンド・ストリート」グループサウンズ特集 木曜日担当・山下達郎1985年12月12日放送
- ^ 雑誌VANDA18号1992年 p49
- ^ 『カルト・GS・コレクション テイチク編 VOl.1』TEICHIKU TECN 22178
- ^ プロ・デビューした1967年7月の第1回Y.A.Cロックカーニバルを指す。サークル内バンドとしては1966年に主立った顔ぶれが集まり、プロ・デビュー時のメンバーに固定したのは1967年初春頃。
- ^ フィフィザフリー・ファン・クラブ会報 Vol.21 p.8
- ^ 1967年5月のフェスティバルホールコンテス入賞の副賞による出演。
- ^ 泉アキ、ザ・ジャガーズ、ザ・クーガーズ、ザ・ブルーインパルスなどを擁した。
- ^ 札幌市南5条西2丁目1番地村岡ビルに存在、現存せず。
- ^ 永和子log's p.27
- ^ 演劇年鑑 1973 p.274
- ^ 1969年11月発売説もある。
- ^ 『アングラ・カーニバル』TEICHIKU TECN-25694 解説
- ^ 永和子log's p.24
- ^ a b c d e f g h i j k Records-Records ホームページ「フィフィザフリーコンプリート・シングルズCD発売記念!?」吉田一夫
- ^ 黒沢(1986)、p.176
- ^ 本社は奈良市、「テイチクエンタテインメント」の項目参照
- ^ テイチクのおもな販売営業拠点は東京。
- ^ フィフィザフリー・ファン・クラブ会報 Vol.22 p.3
- ^ フィフィザフリー・ファン・クラブ会報 Vol.22 p.10
- ^ フィフィザフリー・ファン・クラブ会報 Vol.22
- ^ ジャズ喫茶で共演する機会が多かったザ・モップスがトラフィックをカヴァー演奏する際にまぶちはフルートでゲスト参加している。
- ^ リード・ボーカルは吉田。
- ^ “石川晶/ソフトロック・ドライヴィン*美しい星”. tower.jp. 2024年5月5日閲覧。
参考文献
[編集]- 黒沢進「『熱狂! GS(グループサウンズ)図鑑』:「フィフィ・ザ・フリー」」、徳間書店、1986年。
- 黒沢進ほか「日本ロック紀GS編 コンプリート:「フィフィ・ザ・フリー」の項目p.47、p.113」、シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年。 2007年9月29日刊行
- オムニバスCD『ソフトロックドライヴィン 栄光の朝アルファ編』アルファミュージック (ALCA5089 1996年発売)解説著 土龍団
- 雑誌VANDA26号1992年
- 演劇年鑑『演劇年鑑』日本演劇協会、1973 :。
- NHK-FM「サウンド・ストリート」グループサウンズ特集 木曜日担当・山下達郎 1985年12月12日放送
- OST(レコード#LP盤)「大都会 PARTII」ドクダミ・ミュージック AKAD-0078(昭和54年発売)/※CD未発売
- 永和子log's
- Records-Records ホームページ「フィフィザフリーコンプリート・シングルズCD発売記念!?」吉田一夫(現在リンク切れ)
- フィフィザフリー・ファン・クラブ会報(1969年頃)