東ローマ帝国の皇帝一覧
東ローマ帝国皇帝の一覧
- 名前の後の“ ”内はあだ名。
- 名前の後の“ ”が付かないものは姓。
王朝による分類は後世の歴史家によるものである。
概要
[編集]正式な君主号として「東ローマ皇帝」を意味する単一の称号は存在していない。4世紀には古代ローマ帝国の「インペラートル、カエサル、フラヴィウス、アウグストゥス」等のラテン語の称号がそのまま使用された。
例えば6世紀の皇帝ユスティニアヌス1世も「アラマン人の、ゴート人の、フランク人の、ゲルマン人の、アント人の、アラン人の、ヴァンダル人の、アフリカ人のアウグストゥス」[1][2]と名乗った。7世紀のヘラクレイオス治世初期にはギリシア語の「バシレウス(諸王の王)」が用いられ、後には「アウトクラトール[注 1]、カイサル、フラヴィオス、セバストスないしはアウグストス[注 2]」等も使用されるようになった[注 3]。
一方で古代ローマ式の征服称号はヘラクレイオスを最後に用いられなくなった[3](例外としてマヌエル1世は古代風の征服称号を名乗った[4])。9世紀になるとカール大帝との称号を巡る争いの結果「ローマ人の」という修飾語が付加されるようになり[5][6][7]、以後は滅亡まで一貫して「ローマ人の皇帝」を名乗るようになった[8]。
西ローマ帝国の崩壊後は唯一のローマ皇帝としてギリシャ・イタリア・シリア・北アフリカなどの地域に専制的な君主として君臨したが、次第に東ローマ帝国は本拠地であるギリシャ地域を治めるのみの帝国と成って行った。また、文化的・人的・軍事的にもギリシアの影響が強くなり、国外からは単なる「ギリシアの皇帝」と見なされる事もあった。東ローマ帝国自体と同じく、西ヨーロッパ諸国やルーシ諸国からは「ギリシア皇帝」ともみなされた。
ローマ帝国で東西の分裂が恒久化した時代から、古代ローマ皇帝としての権威を引き継ぎ、古代ローマから続く軍隊・元老院・市民の支持によって即位するという建前を守り続けた。
表記
[編集]日本人の研究者の間では、公用語がラテン語であったフォカスまでをラテン語で、公用語をギリシア語に改めたヘラクレイオス以降はギリシア語で表記するのが一般的であり、ここでもそれに従っている。
ただし、日本では一部の名前が慣用として古代・中世のギリシア語の発音からかけ離れた音に則っている場合があり、全てがギリシア語に忠実なわけではない。
コンスタンティヌス朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|---|
コンスタンティヌス1世“大帝” CAESAR FLAVIVS CONSTANTINVS VALERIVS AVGVSTVS |
272年2月27日 ナイッスス (属州モエシア) |
324年9月19日 – 337年5月22日 | コンスタンティヌス朝の創始者で「大帝」と尊称される。マクセンティウスと協力してまずセウェルスを幽閉し、西方副帝として台頭する。その後の反乱で西方帝位を獲得、さらに東方正帝リキニウスの軍を破り、ローマ帝国全体の皇帝となる。 | 337年5月22日 自然死 | |
コンスタンティウス2世 CAESAR FLAVIVS IVLIVS CONSTANTIVS AVGVSTVS |
317年8月7日 シルミウム (属州パンノニア) |
337年5月22日 – 361年11月3日 | コンスタンティヌス1世の三男。兄弟3人で帝国を3分割し東方を担当した。ムルサの戦いで破り追い詰めたマグネンティウスが353年に自殺したため、ローマ帝国全体の皇帝となる。 | 361年11月3日 自然死 | |
ユリアヌス CAESAR FLAVIVS CLAVDIVS IVLIANVS AVGVSTVS |
332年(331年) コンスタンティノープル (属州トラキア) |
360年初頭 – 363年6月26日 | コンスタンティヌス1世の甥。従兄弟であるコンスタンティウス2世により後継者に指名される。叔父によるキリスト教の庇護を廃止したことから「背教者」と蔑称された。 | 363年6月26日 遠征中に戦傷死 | |
ヨウィアヌス CAESAR FLAVIVS IOVIANVS AVGVSTVS |
331年 シグドゥヌム (属州モエシア) |
363年6月26日 – 364年2月17日 | ユリアヌスの側近。ユリアヌスが遠征先で後継者を指名せず、跡継ぎも残さずに急死したことから、遠征軍の支持を得て皇帝となる。遠征からの帰還途中に火鉢によるガス中毒で事故死した。 | 364年2月17日 事故死(暗殺説あり) |
ウァレンティニアヌス朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|---|
ウァレンス FLAVIVS IVLIVS VALENS AVGVSTVS |
328年 キバラエ (属州パンノニア) |
364年3月28日 – 378年8月9日 | ウァレンティニアヌス1世の弟。ヨウィアヌス帝の事故死により、ウァレンティニアヌス1世が皇帝に即位し、同帝は自ら西方帝となるとともに、弟ウァレンスを共同皇帝(東方帝)とした。ハドリアノポリスの戦いでゴート人の反乱軍に敗れて戦死する。 | 378年8月9日 ゴート軍との戦いで敗死 |
テオドシウス朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|---|
テオドシウス1世“大帝” FLAVIVS THEODOSIVS AVGVSTVS |
347年1月11日 カウカ (属州ヒスパニア) |
379年1月19日 – 395年1月17日 | ローマ軍の将軍であった大テオドシウスの息子として生まれた。379年、グラティアヌスによって共同皇帝とされた。グラティアヌスの異母弟ウァレンティニアヌス2世の死後、394年9月6日におきたフリギドゥスの戦いでエウゲニウスを破り、息子ホノリウスを西方正帝とすることでローマ帝国の東西を実質的に単独支配した。 | 395年1月17日 自然死 | |
アルカディウス FLAVIVS ARCADIVS AVGVSTVS |
377年 | 395年1月17日 – 408年5月1日 | テオドシウス1世の長男。東方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく。 | 408年5月1日 自然死 | |
テオドシウス2世“カリグラフォス” (能書家) FLAVIVS THEODOSIVS IVNIOR AVGVSTVS |
401年4月10日 コンスタンティノープル (属州トラキア) |
408年5月1日 – 450年7月28日 | アルカディウスの息子。テオドシウスの大城壁など、帝国東方の防衛強化を進める。跡継ぎを持たないまま病没した。 | 450年7月28日 自然死 | |
マルキアヌス FLAVIVS MARCIANIVS AVGVSTVS |
396年 | 450年夏 – 457年1月 | テオドシウス2世の没後、ゲルマン人の将軍アスパルに支持され即位。テオドシウス2世の死後に彼の姉と結婚したためテオドシウス家の一員とみなされることもある。跡継ぎを持たないまま死亡した。 | 457年1月 自然死 |
レオ朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|---|
レオ1世“大帝” FLAVIVS VALERIVS LEO AVGVSTVS |
400年 | 457年2月7日 – 474年1月18日 | トラキア出身のベス族の軍人。マルキアヌスの死後、マギステル・ミリトゥムでゲルマン人のアスパルに支持され即位。 | 474年1月18日 病死 | |
レオ2世 FLAVIVS LEO IVNIOR AVGVSTVS |
467年? | 474年1月18日 – 474年11月17日 | ゼノンとレオ1世の娘アリアドネの子。先帝の外孫として即位。 | 474年11月17日 病死 | |
ゼノン FLAVIVS ZENO PERPETVVS AVGVSTVS |
426年 | 474年11月17日 – 491年4月9日 | レオ2世の父で後見役として共同皇帝にあったが、息子の死で単独皇帝となった。即位間もない475年にレオ1世の義弟であったバシリスクスによってコンスタンティノポリスを追われるが、翌476年にバシリスクスからコンスタンティノポリスを奪回。彼の治世にロムルス・アウグストゥルスを廃位したオドアケルから西方帝位が献上されたため、名目上ではゼノンが東西合わせた全ローマ帝国の皇帝となった。 | 491年4月9日 病死 | |
バシリスクス (対立皇帝) FLAVIVS BASILISCVS AVGVSTVS |
? | 475年1月9日 - 476年8月 | レオ1世の義弟。ゼノンを追放して即位。 | 476年/477年 処刑 | |
アナスタシウス1世 FLAVIVS ANASTASIVS AVGVSTVS |
431年 | 491年4月11日 – 518年7月9日 | 枢密院警護長。ゼノンの死で帝位継承者はいなくなったため、ゼノンの皇后アリアドネに選ばれ結婚することで、皇帝として即位。 | 518年7月9日 自然死 |
ユスティニアヌス朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年 | 在位期間 | 即位背景 | 没年 |
---|---|---|---|---|---|
ユスティヌス1世 FLAVIVS IVSTINVS AVGVSTVS |
450年2月2日 | 518年 – 527年8月1日 | 農民出身。近衛隊の将軍。アナスタシウス1世が後継者を指名せずに死亡したため、元老院の指名により皇帝に即位した。 | 527年8月1日 | |
ユスティニアヌス1世“大帝” FLAVIVS PETRVS SABBATIVS IVSTINIANVS AVGVSTVS |
483年5月11日 | 527年8月1日 – 565年11月14日(または11月13日) | ユスティヌス1世の甥。叔父の晩年に副帝となり、その死後、唯一の正帝となった。 | 565年11月14日(または13日) | |
ユスティヌス2世 FLAVIVS IVSTINVS IVNIOR AVGVSTVS |
520年 | 565年11月14日 – 578年10月5日 | ユスティニアヌス1世の甥。伯父が嗣子無くして死去したため、後を継ぐこととなった。 | 578年10月5日 | |
ティベリウス2世 FLAVIVS TIBERIVS CONSTANTINVS AVGVSTVS |
540年 | 578年10月5日 - 582年8月14日 | ユスティヌス2世の娘婿。義父がサーサーン朝に敗北したショックで精神異常になると、副皇帝となって実権を譲られ、578年にユスティヌスの死により正式に皇帝に即位。 | 582年8月14日 | |
マウリキウス FLAVIVS MAVRICIVS TIBERIVS AVGVSTVS |
539年 - | 582年8月14日 – 602年11月22日 | ティベリウス2世の娘婿。義父の死により即位することとなった。 | 602年11月27日 | |
フォカス FLAVIVS PHOCAS AVGVSTVS |
547年? | 602年11月23日 – 610年10月4日 | トラキア地方の出身。ドナウ川国境に駐屯する百人隊長。602年にドナウ北岸での越冬命令が出た時、軍はそれに反対して反乱を起こし、コンスタンティノポリスに向かって進軍した。時の皇帝マウリキウスは逃亡しようとしたが捕らえられて処刑された。その後フォカスが兵士たちによって皇帝に推戴され、即位した。 | 610年10月5日 |
ヘラクレイオス朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年 | 在位期間 | 即位背景 | 没年 |
---|---|---|---|---|---|
ヘラクレイオス FLAVIVS HERACLIVS AVGVSTVS Ηράκλειος |
575年頃 | 610年10月5日 – 641年2月11日 | アルメニア人貴族大ヘラクレイオスの息子。カルタゴ総督であった父が皇帝フォカスに対して反乱を起こした。ヘラクレイオス(息子)が610年10月、首都コンスタンティノポリスへ艦隊を率いて攻め寄せると、首都はわずか2日で開城。フォカスは処刑され、代わってヘラクレイオスが皇帝に即位した。 | 641年2月11日 | |
コンスタンティノス3世 Κωνσταντίνος Γ' Ηράκλειος |
612年5月3日 | 641年2月11日 – 641年5月24日 | ヘラクレイオスの長男で、先妻エウドキアとの子。父の死により即位。遺言により異母弟ヘラクロナスと共同統治が行われた。 | 641年5月24日 | |
ヘラクロナス Ηρακλεωνάς |
626年 | 641年2月11日 – 641年9月 | ヘラクレイオスの4人目の子供で、後妻(姪)マルティナとの子。父の死後、遺言により異母兄コンスタンティノス3世と共同皇帝として即位。即位4ヶ月ほどでコンスタンティノスが急死しヘラクロナスが単独皇帝となる。 | 641年? | |
コンスタンス2世“ポゴナトス” (髭が生えている) Κώνστας Β' Ηράκλειος |
630年11月7日 | 641年9月 – 668年9月15日 | コンスタンティノス3世の子。父の死後にヘラクロナスを擁したマルティナが権力を掌握しようとしたが、中央軍長官であったウァレンティノスを中心とするコンスタンティノス3世派と、首都市民(サーカス党派)の力によって、11歳で共同皇帝となる。さらに元老院などの画策によってヘラクロナスらは廃位・追放され、コンスタンスが単独の皇帝となった。 | 668年9月15日 | |
コンスタンティノス4世 Κωνσταντίνος Δ' ο Πωγώνατος |
650年頃 | 668年9月15日 – 685年 | コンスタンス2世の長男。654年4月に父によって共同皇帝に任じられる。668年に父が暗殺されると皇帝に即位。 | 685年7月10日? | |
ユスティニアノス2世“リノトメトス” (鼻削がれ男) Ιουστινιανός Β' ο Ρινότμητος |
668年? | 685年 – 695年 | コンスタンティノス4世の長男。父の死により即位する。 | 711年11月7日 | |
レオンティオス Λεόντιος |
? | 695年 - 698年 | イサウリア地方の出身。コンスタンティノス4世時代からテマ・アナトリコンの長官として活躍。ユスティニアノス2世によってアルメニア戦線に投入されるなどしている。しかし皇帝の不興を買って692年頃に投獄された。695年に赦免されて、テマ・ヘラスの長官に任じられるもサーカス党派の力を借りてクーデターを起こし、皇帝を捕らえて鼻を削いだ上でクリミア半島のケルソンに追放し、自ら皇帝として即位した。 | 706年2月15日? | |
ティベリオス3世 Τιβέριος Γ' ο Αψίμαρος |
? | 698年 – 705年8月 | キビュライオタイの指揮官。698年のカルタゴの戦いでカルタゴを奪われクレタ島まで撤退してきた艦隊に擁されて反乱を起こす。サーカス党派が呼応したこともあってコンスタンティノポリスを攻略しレオンティオスを廃して皇帝に即位。 | 706年2月15日? | |
ユスティニアノス2世“リノトメトス” (復位) Ιουστινιανός Β' ο Ρινότμητος |
668年? | 705年8月 – 711年 | 削がれた鼻の代わりに黄金製の付け鼻をつけ、帝位への復帰を公然と表明。ハザール汗国に逃れ、可汗の姉妹と結婚。さらに第一次ブルガリア帝国のテルヴェル王が復位を支持し、その力を背景にしてティベリオス3世を打倒して、復位。 | 711年11月7日 | |
フィリピコス・バルダネス Φιλιππικός Βαρδάνης |
? | 711年 - 713年6月2日 | ペルガモン出身のアルメニア系の人物。父のニケフォロスはパトリキオスという高い爵位をもっており、彼自身もパトリキオスだったとされている。ティベリオス3世によって一時ケファレニア島に追放されていたが、ユスティニアノス2世によって召喚された。しかし711年、ケルソンに再び追放されることとなり、この年ユスティニアノス2世が復讐のためにケルソンに派遣した艦隊に同乗した。しかしこの艦隊がケルソン市民に呼応してユスティニアノス2世に反旗を翻すと、新たな皇帝として即位させたのである。 | 714年1月20日? | |
アナスタシオス2世 Αναστάσιος Β' |
? | 713年6月3日 - 715年 | フィリピコス・バルダネスの代には書記局長官を務めていた。だがフィリピコスに対する不満が高まってきたのを見て、他の高官たちとともに陰謀を企画した。そしてフィリピコスの幽閉に成功すると、その翌日に聖ソフィア大聖堂で即位。 | 719年7月1日 | |
テオドシオス3世 Θεοδόσιος Γ' ο Αδραμμυττηνός |
? | 715年 – 717年3月25日 | アドラミュティオンの徴税役人。アナスタシオス2世に対してテマ・オプシキオンが反乱を起こすと、反乱軍に担ぎ上げられて対立皇帝とされた。反乱軍はコンスタンティノポリスに攻め寄せてその攻略に成功したため、小アジア半島に避難していたアナスタシオス2世も降伏して退位した。その結果、皇帝となった。彼が皇帝となった理由として、実はティベリオス3世の息子であったからであるとする有力な見解が提出されている。 | ? |
イサウリア朝(シリア朝)
[編集]肖像 | 名称 | 生年 | 在位期間 | 即位背景 | 没年 |
---|---|---|---|---|---|
レオーン3世“イサウロス” (イサウリア) Λέων Γ' ο Ίσαυρος |
685年頃 | 717年3月25日 - 741年7月18日 | ゲルマニケイア(現カフラマンマラシュ)の出身。アナスタシオス2世によってテマ・アナトリコンの長官に任じられる。イスラーム軍の司令官であるマスラマ(アブドゥルマリクの息子)がアナトリコンの中心都市であるアモリオンに迫っていたときに計略によってマスラマの軍を一旦後退させたあと、テマ・アルメニアコンの長官で盟友のアルタヴァスドスとともにコンスタンティノポリスに向かった。コンスタンティノポリス対岸のクリュソポリスに到達すると、コンスタンティノポリス総主教のゲルマノス1世らがテオドシオス3世を退位させ、即位。 | 741年7月18日 | |
コンスタンティノス5世“コプロニュモス” (糞) Κωνσταντίνος Ε' ο Κοπρώνυμος ή Καβαλίνος |
718年 | 741年7月18日 - 775年9月14日 | レオーン3世の子。741年、父の死により即位する。しかし即位の翌年、義理の兄弟であったアルタヴァストスに反乱を起こされて、一時皇位を追われてしまった。しかし皇帝として即位したアルタヴァストスはイコン擁護政策を採用したため、小アジアの国民の支持を得ることができず、小アジアのテマの支持を受けたコンスタンティノスは都へ進軍してアルタヴァスドスを破り、翌743年に皇帝に復位した。 | 775年9月14日 | |
レオーン4世“ハザロス” (ハザール) Λέων Δ' Χάζαρος |
750年 | 775年9月14日 - 780年9月8日 | コンスタンティノス5世とイレーネーの子。父の死により即位。 | 780年9月8日 | |
コンスタンティノス6世 Κωνσταντίνος ΣΤ' |
771年 - 797年 | 780年9月8日 - 797年 | レオーン4世とエイレーネーの子。父の死により即位。11歳という幼少であったため、母が摂政となって政治を取り仕切った。 | 797年 | |
エイレーネー“アテナイア” (アテナイ人) Ειρήνη η Αθηναία |
752年 | 797年 - 802年10月31日 | レオーン4世の皇后で、コンスタンティノス6世の母。コンスタンティノスが長ずるにつれ彼女の意に沿わなくなり、母子の仲は徐々に険悪になっていった。いったんは息子が実権を掌握したものの、ブルガリア遠征の失敗などから人望を失った。エイレーネーは軍を動かして息子を捕らえ、目をくりぬいた上で追放し、帝国史上初の女帝として即位した。 | 803年8月9日 | |
ニケフォロス1世 Νικηφόρος Α' |
760年? | 802年10月31日 - 811年7月26日 | 税務長官であったが、クーデターの中心人物として、エイレーネーを退位に追い込んで即位した。 | 811年7月26日 | |
スタウラキオス Σταυράκιος |
? | 811年7月26日 - 811年10月1日 | ニケフォロス1世の子。803年に父によって共同皇帝とされる。811年、父と共に第一次ブルガリア帝国の討伐に出陣したが、父は戦死し、自身も瀕死の重傷を負ってしまい単独皇帝として政務を執れる状態にはなかった。 | 812年1月11日 | |
ミカエル1世ランガベー Μιχαήλ Α' ο Ραγκαβέ |
? | 811年10月2日 - 813年7月11日 | ニケフォロス1世の娘婿で、スタウラキオスの義弟。瀕死の重傷を負った義兄に皇帝の座を譲られて即位することとなった。 | 844年1月11日 | |
レオーン5世“アルメニオス” (アルメニア人) Λέων Ε' ο Αρμένιος |
? | 813年7月22日 - 820年12月25日 | パトリキオスのバルダスの子。ミカエル1世がブルガリアのクルムと戦って敗れた後、彼から譲位されて即位した。 | 820年12月25日 |
アモリア朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年 | 在位期間 | 即位背景 | 没年 |
---|---|---|---|---|---|
ミカエル2世“トラブロス” (吃音者・どもる人) Μιχαήλ Β' ο Τραυλός η Ψηλλος |
770年頃? | 820年12月25日 - 829年10月2日 | アモリオンの出身。レオーン5世とは親友で近衛部隊長官に任命される。しかし次第に両者の仲は険悪になり、820年12月にミカエルは逮捕された。だが時期が丁度クリスマスであり、処刑が1日延期されたため、この機会を利用してミカエルの支持者たちがレオーン5世を暗殺し、ミカエルが即位した。 | 829年10月2日 | |
テオフィロス Θεόφιλος |
813年? | 829年10月2日 - 842年1月20日 | ミカエル2世の子。821年の時点で父によって共同皇帝とされていた。829年に父が没した後、即位。 | 842年1月20日 | |
ミカエル3世“メスィソス” (飲んだくれ・酔っ払い・酩酊帝) Μιχαήλ Γ' ο Μέθυσος |
840年1月19日または1月20日 | 842年1月20日 - 867年9月23日または9月24日 | テオフィロスの子。父が没したとき、わずか2歳であったため母テオドラと宦官のテオクティストスに実権を握られる。成人すると、かつてテオクティストスと対立して追放されていた叔父のバルダスらと協力して855年にクーデターを起こし、テオドラを修道院に追放して親政を開始した。 | 867年9月23日または9月24日 |
マケドニア朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年 | 在位期間 | 即位背景 | 没年 |
---|---|---|---|---|---|
バシレイオス1世 Βασίλειος Α' |
? | 867年 – 886年8月29日 | アルメニア系農民の子。城壁防衛長官だったテオフィリッツェスに仕えていたが、ミカエル3世の目に留まって急速な出世を遂げる。この出世により皇帝の叔父で副帝のバルダスとの衝突を引き起こしたため計略をめぐらして暗殺し、皇帝もこれを黙認した。その後、共同皇帝の地位を与えられるが皇帝と衝突し、皇帝を暗殺して単独皇帝となった。 | 886年8月29日 | |
レオーン6世“フィロソフォス” (賢帝) Λέων ΣΤ' ο Σοφός |
866年9月1日あるいは9月19日 | 886年8月29日 – 912年5月11日 | バシレイオス1世の子。870年に共同皇帝となった。母の没後、父との関係は急速に悪化し謀反の疑いをかけられて後継者の地位を剥奪されて3年あまり幽閉されていた。復権した直後に父が急死したため、その権力を継承した。 | 912年5月11日 | |
アレクサンドロス Αλέξανδρος Γ' του Βυζαντίου |
870年頃 | 912年5月11日 – 913年6月6日 | バシレイオス1世の子で、レオーン6世の弟。879年に共同皇帝となった。兄が亡くなると甥のコンスタンティノス7世がまだ幼かったため、後継者となった。 | 913年6月6日 | |
コンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス” (緋色の産室生まれ) Κωνσταντίνος Ζ' ο Πορφυρογέννητος |
905年? | 913年6月6日 – 959年11月9日 (920年 - 944年は共同皇帝) |
レオーン6世の子。叔父のアレクサンドロスが亡くなると帝位に就いた。母で摂政のゾエ・カルボノプシナがブルガリア帝国と戦って敗れ、その権威が失墜すると、帝国海軍の司令長官ロマノス・レカペノスがクーデターを起こして実権を掌握し共同皇帝に格下げられた。944年、ロマノス1世によって後継者に指名される。これに反対してロマノス1世の次男と三男とクーデターを起こすが民衆の支持を受けていたため二人を逮捕させて追放し正帝の座を回復した。 | 959年11月9日 | |
ロマノス1世レカペノス Ρωμανός Α' ο Λεκαπηνός |
870年 | 920年12月17日 – 944年12月16日 | アルメニア人農民の子。帝国海軍の司令長官(ドルンガリオス・トーン・プロイモン)。コンスタンティノス7世の母で摂政のゾエ・カルボノプシナがブルガリア帝国と戦って敗れ、その権威が失墜すると、クーデターを起こしてゾエ・カルボノプシナを追放。娘ヘレネをコンスタンティノスに嫁がせてその義父となり、9月には副皇帝、12月には共同皇帝となり、帝国の実権を掌握して正帝として即位。 | 948年6月15日 | |
ロマノス2世 Ρωμανός Β' ο Πορφυρογέννητος |
939年 | 959年11月9日 – 963年3月15日 | コンスタンティノス7世とロマノス1世レカペノスの娘ヘレネの子。父の死により後を継いで即位。 | 963年3月15日 | |
ニケフォロス2世フォカス Νικηφόρος Β' Φωκάς |
913年 | 963年3月15日 – 969年12月10日 | カッパドキアの軍事貴族であるフォカス家の生まれ。ロマノス2世の没後、2人の息子が幼かったため国の実権をめぐって宦官ヨセフ・ブリンガスと争うが首都での市街戦を制して市民の歓呼に迎えられて入城した。その後、ロマノスの皇后テオファノと結婚し正統皇室の子供達の義父という立場で皇帝として即位。 | 969年12月10日 | |
ヨハネス1世ツィミスケス Ιωάννης Α' Κουρκούας ο Τσιμισκής |
925年 | 969年12月11日 – 976年1月10日 | ニケフォロス2世フォカスの甥。ニケフォロスに冷遇されたことで不満を抱くようになり)、愛人関係にあった皇后テオファノと結託してニケフォロスを暗殺。自ら皇帝に即位した。 | 976年1月10日 | |
バシレイオス2世“ブルガロクトノス” (ブルガリア人殺し) Βασίλειος Β' ο Βουλγαροκτόνος |
958年 | 976年1月10日 – 1025年12月25日 | ロマノス2世とテオファノの長男。ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケスの下で、単なる飾り物の共同皇帝としての幼少年期を過ごした。ヨハネス1世の死により、正帝として即位。 | 1025年12月25日 | |
コンスタンティノス8世 Κωνσταντίνος Η' |
960年? | 1025年12月25日 – 1028年11月15日 | ロマノス2世とテオファノの次男。長く共同皇帝の座にあったが、兄が子供を残さずに死去したため正帝に即位。 | 1028年11月15日 | |
ロマノス3世アルギュロス Ρωμανός Γ' ο Αργυρός |
968年 | 1028年11月15日 – 1034年4月11日 | 名門文官貴族の元老院議員・首都長官。コンスタンティノス8世の次女のゾエと強引に結婚させられ後継者となる。コンスタンティノス8世の死後、皇帝に即位した。 | 1034年4月11日 | |
ゾエ Ζωή |
978年 | 1028年11月15日 – 1050年 (女帝・共同統治者) |
コンスタンティノス8世の次女。ミカエル5世の追放後、妹のテオドラと共に女帝として即位。 | 1050年6月 | |
ミカエル4世“パフラゴニオス” (パフラゴニア人) Μιχαήλ Δ' ο Παφλαγών |
1010年 | 1034年4月11日 – 1041年12月10日 | パフラゴニア地方出身の農民の子、あるいは両替商の息子。皇后ゾエの愛人となりロマノス3世が入浴中に不慮の死(一説には不仲であったゾエの刺客による暗殺)を遂げた後、ゾエはミカエルと結婚し、彼を皇帝として新たに即位させた。 | 1041年12月10日 | |
ミカエル5世“カラファテス” (繋ぎ・隙間の詰物) Μιχαήλ Ε' ο Καλαφάτης |
1015年 | 1041年12月10日 – 1042年4月 | ミカエル4世の甥(従兄弟とも言われている)。ミカエル4世が病死した後、宦官ヨハネス・オルファノトロフォス(ミカエル4世の弟)によって皇帝として擁立された。 | 1042年8月24日 | |
テオドラ Θεοδώρα |
995年 | 1042年4月 – 1042年6月 | コンスタンティノス8世の三女。ミカエル5世の追放後、姉のゾエと共に女帝として即位したが、わずか2ヵ月後に退位した。 | 1056年9月初頭 | |
コンスタンティノス9世モノマコス Κωνσταντίνος Θ' ο Μονομάχος |
1000年 | 1042年6月 - 1055年1月11日 | ロマノス3世アルギュロスの縁戚。ゾエが元老院議員であったコンスタンティノス・モノマコスと結婚し、彼を皇帝として即位させた。 | 1055年1月11日 | |
テオドラ (復位) Θεοδώρα |
995年 | 1055年1月11日 - 1056年9月初頭 | コンスタンティノス9世モノマコスが病死した後、女帝として再び即位した。 | 1056年9月初頭 | |
ミカエル6世ストラティオティコス Μιχαήλ ΣΤ' ο Στρατιωτικός |
? | 1056年 - 1057年 | テオドラの養子。テオドラに嗣子がなかったため、その遺言によって、元老院議員であったミカエルが皇帝として即位した。 | 1059年 | |
イサキオス1世コムネノス Ισαάκιος Α' Κομνηνός |
1005年? | 1057年 – 1059年 | パフラゴニアに多くの所領を持つ軍事貴族コムネノス家の出身。ミカエル6世ストラティオティコスの文治政治に対し反乱を起こし、軍を率いて首都コンスタンティノポリスに進軍し、ミカエル6世を退位させて、自らが皇帝となった。 | 1061年 |
ドゥーカス朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年 |
---|---|---|---|---|---|
コンスタンティノス10世ドゥーカス Κωνσταντίνος Ι' Δούκας |
1006年 | 1059年 - 1067年5月 | アンドロニコス・ドゥーカスの子。イサキオス1世コムネノスが病で退位した後、元老院議員であったコンスタンティノスが皇帝として即位した。 | 1067年5月 | |
エウドキア・マクレンボリティサ Ευδοκία Μακρεμβολίτισσα |
1021年 | 1067年5月 - 1068年 | コンスタンティノス10世ドゥーカスの皇后。夫が死去した後、女帝として即位した。 | 1096年 | |
ロマノス4世ディオゲネス Ρωμανός Δ' Διογένης |
? | 1068年 - 1071年 | カッパドキアの将軍。セルジューク朝の侵攻もあり民衆や貴族が強力な軍事政権の樹立を望んだため、エウドキアと結婚し、皇位を譲られて即位した。 | 1072年 | |
ミカエル7世ドゥーカス“パラピノ” (4分の1を失った) Μιχαήλ Ζ' Δούκας ο Παραπινάκης |
1050年 | 1071年 - 1078年 | コンスタンティノス10世ドゥーカスとエウドキア・マクレンボリティサの子。ロマノス4世ディオゲネスがマンズィケルトの戦いでセルジューク朝に大敗し、ロマノス自身も捕虜となってしまったため、エウドキアは夫を廃して息子のミカエルを皇帝として即位させた。 | 1090年? | |
ニケフォロス3世ボタネイアテス Νικηφόρος Γ' Βοτανειάτης |
1002年頃 | 1078年 - 1081年 | アナトリコン・テマの長官。セルジューク朝の侵攻や皇位をめぐる内紛、財政破綻などから混乱を極め、各地の有力者による内乱も頻繁に勃発していた中、ニケフォロスは小アジアで反乱を起こし、コンスタンティノポリスで起きた反乱によって退位したミカエル7世の後を継いで、皇帝として即位した。 | 1081年12月10日 |
コムネノス朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年 |
---|---|---|---|---|---|
アレクシオス1世コムネノス Αλέξιος Α' Κομνηνός |
1048年 | 1081年 - 1118年8月15日 | イサキオス1世コムネノスの甥。内部では有力貴族の反乱が起こり、外部からはセルジューク朝やノルマン人に東西から侵攻を受け、内憂外患の状態にあった中で、反乱を起こしてニケフォロス3世ボタネイアテスを退位させ、自ら皇帝となった。 | 1118年8月15日 | |
ヨハネス2世コムネノス“カロ・ヨハネス” (心美しきヨハネス) Ιωάννης Β' Κομνηνός o Καλος |
1087年9月13日 | 1118年8月15日 - 1143年4月8日 | アレクシオス1世コムネノスの子。1092年に共同皇帝となる。1118年、父の死により皇帝として即位。 | 1143年4月8日 | |
マヌエル1世コムネノス“メガス” (偉大なる) Μανουήλ Α' Κομνηνός ο Μέγας |
1118年11月28日 | 1143年4月8日 - 1180年9月24日 | ヨハネス2世コムネノスと皇后エイレーネーの四男。長兄と次兄が1142年に相次いで早世し、三兄が暗愚であるということもあって、1143年の父の死後、皇位継承者として選ばれた。 | 1180年9月24日 | |
アレクシオス2世コムネノス Αλέξιος B' Κομνηνός |
1169年9月10日 | 1180年 - 1183年 | マヌエル1世コムネノスと2番目の皇后マリアの子。父が死去したために後を継いで即位することとなったが、12歳という幼年であったため、政務は生母のマリアが摂政となって取り仕切ることとなった。 | 1183年10月 | |
アンドロニコス1世コムネノス Ανδρόνικος Α' Κομνηνός |
1123年 | 1183年 - 1185年 | マヌエル1世コムネノスの従弟。摂政マリアが夫のマヌエルと同じく親ラテン政策を採用したため、国民の間から不満が高まるようになった。この不満を背景にクーデターを起こしてマリアを殺害し、1183年にはアレクシオス2世の共同皇帝となった。そして共同皇帝となってから2ヶ月後にはアレクシオスを殺害し、正帝に即位した。 | 1185年9月12日 |
アンゲロス朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年 |
---|---|---|---|---|---|
イサキオス2世アンゲロス Ισαάκιος Β' Άγγελος |
1156年9月 | 1185年 - 1195年 | アンドロニコス・アンゲロスの子。アンドロニコス1世コムネノスの暴虐的な政治に遂に国民の怒りが爆発し、イサキオスを指導者に擁立した反乱軍によってアンドロニコスは虐殺された。そして、国民や貴族の支持を得たイサキオスが、皇帝として即位した | 1204年1月28日 | |
アレクシオス3世アンゲロス Αλέξιος Γ' Άγγελος |
1156年 | 1195年 - 1203年 | イサキオス2世アンゲロスの弟。帝国の宰相・元帥に任じられて兄の治世を補佐したが、次第に兄と対立し、1195年にはクーデターを起こして兄を幽閉して廃位し、皇帝として即位した。 | 1211年 | |
イサキオス2世アンゲロス(復位) Ισαάκιος Β' Άγγελος |
1156年9月 | 1203年 | 神聖ローマ帝国に亡命していた息子のアレクシオス4世が第4回十字軍に対して資金援助や東西教会の統一などを条件に味方に引き込み、コンスタンティノポリスに侵攻した。アレクシオス3世は皇位を追われて逃亡し、アレクシオス4世は幽閉された父を助け出して、父と共に共同皇帝として即位した。 | 1204年1月28日 | |
アレクシオス4世アンゲロス Αλέξιος Δ' Άγγελος |
1182年 | 1203年 - 1204年 | イサキオス2世アンゲロスとアンドロニコス1世コムネノスの娘エイレーネの子。幽閉されていた父を助け出して共同皇帝として即位した。 | 1204年2月8日 | |
アレクシオス5世ドゥーカス“ムルズフロス” (濃い眉毛) Αλέξιος Ε' Δούκας ο Μούρτζουφλος |
? | 1204年 | アレクシオス3世の娘エウドキアの婿。イサキオス2世とアレクシオス4世の復位にあたって第4回十字軍に協力を求めた際に出した条件が過酷な献納金であったため、国民や貴族は両帝を見捨て、1204年1月にまずニコラオス・カナボスなる青年を皇帝候補に擁立した。ムルツフロスはこうした状況を陰で操っていたのであるが、それに気付かなかったアレクシオス4世は彼を十字軍への支援要請の使者に立てる失敗を犯した。ムルツフロスは自ら帝位に登る事を決意し、同月末に即位した。 | 1204年 | |
コンスタンティノス・ラスカリス Κωνσταντίνος Λάσκαρης |
? | 1204年 | 第4回十字軍にコンスタンティノポリスを攻撃され、アレクシオス5世ドゥーカスが逃亡したあと、首都防衛に活躍していたコンスタンティノスが皇帝に選出された。しかし、コンスタンティノポリスが陥落してしまったために在位たった一晩で逃亡した。このためコンスタンティノス・ラスカリスを皇帝として扱わない場合もある。また、コンスタンティノス・ラスカリスを「コンスタンティノス11世」とし、帝国最後の皇帝を「コンスタンティノス12世」とする場合もある。 | 1211年頃? |
ラスカリス朝(ニカイア帝国・東ローマの亡命政権)
[編集]肖像 | 名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年 |
---|---|---|---|---|---|
テオドロス1世ラスカリス Θεόδωρος Α' Λάσκαρης |
1175年頃 | 1205年 - 1222年 | コンスタンティノス・ラスカリスの弟。コンスタンティノポリス陥落に際し、その直前に即位した兄らと共に首都を脱出した。付き従った一団を率いて、ビテュニアに赴いてニカイアに定住。東ローマ帝国の亡命政権としての「ニカイア帝国」を樹立し、兄から権力を譲られ皇帝に即位。他にも亡命政権は存在したが、後にニカイア帝国が首都コンスタンティノポリスを奪還したため、この帝国が東ローマ帝国の正統政権とされる。 | 1222年 | |
ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス Ιωάννης Γ' Δούκας Βατάτζης |
1193年 | 1222年 - 1254年11月3日 | 軍人。テオドロス1世ラスカリスの後継者に選ばれ、皇女イレーネー・ラスカリナと結婚。義父の死により即位。 | 1254年11月3日 | |
テオドロス2世ラスカリス Θεόδωρος Β' Λάσκαρης |
1221年 | 1254年11月3日 - 1258年8月18日 | ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスとイレーネー・ラスカリナの子。父の死により即位。 | 1258年8月18日 | |
ヨハネス4世ラスカリス Ιωάννης Δ' Λάσκαρης |
1250年 | 1258年8月18日 - 1261年12月25日 | テオドロス2世ラスカリスの子。父の死により即位。 | 1305年 |
パレオロゴス朝
[編集]肖像 | 名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年 |
---|---|---|---|---|---|
ミカエル8世パレオロゴス Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος |
1225年 | 1261年12月25日 - 1282年12月11日 | アンドロニコス・ドゥーカス・コムネノス・パレオロゴスとアレクシオス3世アンゲロスの孫娘テオドラ・アンゲリナ・パレオロギナの子。1259年からニカイア帝国の共同皇帝となり帝国を事実上乗っ取る。1261年、最後のラテン皇帝ボードゥアン2世からコンスタンティノポリスを奪回。息子アンドロニコスを共同統治者として、皇帝に即位。 | 1282年12月11日 | |
アンドロニコス2世パレオロゴス Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος ο Γέρος |
1259年3月25日 | 1282年12月11日 - 1328年5月24日 | ミカエル8世パレオロゴスの長男。父の死により即位。 | 1332年2月13日 | |
ミカエル9世パレオロゴス (共同皇帝) Μιχαήλ Θ' Παλαιολόγος |
1277年 | 1294年 - 1320年 | アンドロニコス2世パレオロゴスの子。1294年、父から後継者と目されていたため、共同皇帝に指名された。 | 1320年 | |
アンドロニコス3世パレオロゴス Ανδρόνικος Γ' Παλαιολόγος ο Νέος |
1297年3月25日 | 1328年5月24日 - 1341年6月15日 | ミカエル9世パレオロゴスと皇后マリアの子。素行の悪さから祖父アンドロニコス2世によって帝位継承権を剥奪されると反旗を翻し、7年にわたる内乱の末に祖父を退位に追い込んで皇帝に即位した。 | 1341年6月15日 | |
ヨハネス5世パレオロゴス Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος |
1332年6月18日 | 1341年6月15日 - 1376年8月12日 | アンドロニコス3世パレオロゴスの長男。父の死により即位。 | 1391年2月16日 | |
ヨハネス6世カンタクゼノス Ιωάννης Στ' Καντακουζηνός |
1295年 | 1347年2月8日 - 1354年12月4日 | ミカエル・カンタクゼノスの息子とミカエル8世パレオロゴスの姉マリア-マルサ・パレオロギナの孫娘テオドラ・パレオロギナ・カンタクゼネの子。摂政権を巡る争いで起きた内乱でオスマン帝国皇帝オルハンの支援を得て勝利し、ヨハネス5世パレオロゴスとの共同統治という形式で正帝として即位。 | 1383年6月15日 | |
マタイオス・カンタクゼノス (共同皇帝) Ματθαίος Ασάνης Καντακουζηνός |
1325年 | 1353年 - 1357年 | ヨハネス6世カンタクゼノスとミカエル8世パレオロゴスの孫娘イリニ・アサニナ・カンダクジニの長子。父によって共同皇帝・後継者に擁立された。 | 1383年6月 | |
アンドロニコス4世パレオロゴス Ανδρόνικος Δ' Παλαιολόγος |
1348年4月11日 | 1376年8月12日 - 1379年7月1日 | ヨハネス5世パレオロゴスとヨハネス6世カンタクゼノスの娘ヘレネー・カンタクゼネの長男。1373年にオスマン帝国皇帝ムラト1世の長男サヴジと手を組んだ反乱に失敗し帝位継承から外されるも、1376年にムラト1世の支持を得て起こした再度の反乱でコンスタンティノポリスに皇帝として入城し父と二人の弟を投獄して全権を掌握した。 | 1385年6月28日 | |
ヨハネス5世パレオロゴス (復位) Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος |
1332年6月18日 | 1379年7月1日 - 1390年4月14日 | ヴェネツィア共和国とムラト1世の援助を受け復位。 | 1391年2月16日 | |
ヨハネス7世パレオロゴス (対立皇帝) Ιωάννης Ζ' Παλαιολόγος |
1370年 | 1390年4月14日 - 9月17日 | アンドロニコス4世パレオロゴスと第二次ブルガリア帝国皇女キラツァ・マリアの子。オスマン帝国皇帝バヤズィト1世とジェノヴァ共和国の支援を受けて祖父を追放して皇帝に即位。 | 1408年9月22日 | |
ヨハネス5世パレオロゴス (復位) Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος |
1332年6月18日 | 1390年9月17日 - 1391年2月16日 | 次男マヌエル2世の救援とオスマン帝国の支援によって反撃に成功し、復位した。 | 1391年2月16日 | |
マヌエル2世パレオロゴス Μανουήλ Β' Παλαιολόγος |
1350年6月27日 | 1391年2月16日 - 1425年7月21日 | ヨハネス5世とヘレネー・カンタクゼネの次男。父の死により即位。 | 1425年7月21日 | |
ヨハネス8世パレオロゴス Ιωάννης Η' Παλαιολόγος |
1392年12月18日 | 1425年7月21日 - 1448年10月31日 | マヌエル2世とイェレナ・ドラガシュの長男。父の死により即位。 | 1448年10月31日 | |
コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス Κωνσταντίνος ΙΑ' Παλαιολόγος Δραγάτσης |
1405年2月8日 | 1449年1月6日 - 1453年5月29日 (最後の皇帝) |
マヌエル2世とイェレナ・ドラガシュの四男(五男)。兄の死後、弟デメトリオスとの間に後継者争いが起きたが、最終的にコンスタンティノスがモレアス専制公領の首都ミストラスで即位。オスマン帝国の侵略から東ローマ帝国を防衛しようとするが、1453年に首都コンスタンティノポリスが陥落、乱戦の中で戦死する。これをもって東ローマ帝国は滅亡する。 | 1453年5月29日 |
1453年:東ローマ帝国滅亡
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 井上・粟生沢1998、p.40。
- ^ 井上2009、p.297。
- ^ 井上2009、p.298。
- ^ 井上・粟生沢1998、p.191。
- ^ 尚樹1999、pp.403-404。
- ^ オストロゴルスキー2001、p.257。
- ^ #井上2009p20
- ^ オストロゴルスキー2001、p.280。
参考文献
[編集]- ゲオルグ・オストロゴルスキー 著、和田廣 訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年。ISBN 4770410344。
- 井上浩一、粟生澤猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年。ISBN 9784124034110。
- 井上浩一『ビザンツ文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年。ISBN 9784876988433。
- 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年。ISBN 4486014316。