キラツァ・マリア
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マリア・キラツァ/キラツァ・マリア Μαρία Κυράτζα / Кераца-Мария | |
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東ローマ皇后 | |
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在位 | 1376年 - 1379年 |
出生 |
1348年 |
死去 |
1390年 |
配偶者 | 東ローマ皇帝アンドロニコス4世パレオロゴス |
子女 | ヨハネス7世パレオロゴス |
家名 | シシュマン家 |
父親 | ブルガリア皇帝イヴァン・アレクサンダル |
母親 | テオドラ |
キラツァ・マリア(ブルガリア語:Кераца-Мария, 英語名:Keratsa of Bulgaria, 1348年 - 1390年)は、東ローマ帝国皇帝アンドロニコス4世パレオロゴスの皇后。
生涯
[編集]第二次ブルガリア帝国の皇帝イヴァン・アレクサンダルと、2人目の皇后テオドラ(ヴェネツィアの銀行家の娘。改宗ユダヤ人)の娘。
1355年にアンドロニコスと婚約する。この婚約は政略結婚としての側面もあり、婚姻証書には『東ローマ帝国とブルガリアのキリスト教徒にとって幸福なことであり、異教徒にとって災いとなるであろう』と記されている。しかし、夫であるアンドロニコスとその父、ヨハネス5世パレオロゴスは終始対立を続け、この対立はアンドロニコスが没するまで解消されなかった。実際に1376年8月12日にヨハネスを廃位、投獄したが、1379年7月1日に共同皇帝として復位を許した。
2人の間には1男2女が生まれた。一人息子はのちの皇帝ヨハネス7世パレオロゴスである。
1385年に夫が没すると、余生を尼僧マティッサとして修道院で過ごした。