ノート:義経=ジンギスカン説/過去ログ1
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2007.12.16-2008.2.1の議論
外部リンクの[Electronic Journal: 源義経=成吉思汗論]と源義経の219.13.127.44さんの編集をもとに、上杉謙信女性説などの項目を参照しつつ加筆しました。『成吉思汗ハ源義經也』『成吉思汗は源義経にあらず』など関連資料はまだ実見していないままの編集ですので、記事に問題を見つけられた場合などありましたら、検証・再編集をお願いします。Haydar 2007年12月16日 (日) 18:15 (UTC)
作っていただき、ありがとうございます。ただ、検索するときに、ジンギス・カンと検索する人は今は少ないようにおもいます。 チンギス・カン、チンギス・ハーンが一般的だとおもいます。全部の字でも検索できるようにすべきだとおもいます。復活のシャア2007年12月17日(月)
どうも。『義経伝説を作った男』土井全二郎著 ・で小谷部全一郎は軍の通訳官として赴任しています。旅行ではありません。
『満州・シベリアに旧日本軍の通訳官として赴任する。チンギス・ハーン=義経の痕跡を調べるべく満州・シベリアを精力的に取材する。1920年帰国。軍功により勲六等旭日章を授与している。』--復活のシャア 2008年1月4日 (金) 11:43 (UTC)
『元朝秘史』によるとチンギス・ハーンはウイグル語を理解せず、漢字の読み書きのみできたそうです。 モンゴルにはウイグル語を話してはいましたが、漢字の読み書きがモンゴル高原に生まれて出来るでしょうか。甚だおかしきことであります。--復活のシャア 2008年1月6日 (日) 13:46 (UTC)
この記事は問題だとおもいます。「昔の家系図は書き換えることも多く確実に断言は出来ないともいわれるが、中央ユーラシアの遊牧民は個々の遊牧集団の指導者層の家系に関してはうるさく、祖先からの遊牧貴族に属することを保障する家系伝承と、子飼いの牧民集団を持たない者が、徒手空拳で政治的指導者に納まることはきわめて困難であることが知られている。」
遊牧民をウィキペディアでみると、「遊牧民の集団では同盟の締結、指導者家系の婚姻による成員及び家畜群の持参金的分割合流、あるいは政治・軍事的理由での他集団の配下への統合など言語や祖先系譜を異にする他集団との融合が頻繁に生じる。また、指導者家系における新世代の独立などによる集団の分裂も日常的である。そのため、歴史的に祖先、言語、文化を共有するとされる近現代的民族観と、遊牧民における集団の統合意識、同族意識にはきわめて異質なものがある。」と論じており、また
中央ユーラシアの遊牧騎馬民共通の文化的特徴として、数々の点が指摘されている。
1. 徹底した実力主義 * 指導者は絶対であり能力のある者が話し合いで選出される * 農耕民に比べて女性の地位が高い * 能力があれば異民族でも受け入れて厚遇する * 略奪婚
と書いてあります。したがって、「子飼いの牧民集団を持たない者が、徒手空拳で政治的指導者に納まることはきわめて困難であることが知られている。」という記事は妥当ではありませんし、出展元も明示されていないので、独自研究か何かと思われますのでここの文にはふさわしくないとおもいます。 --復活のシャア 2008年1月6日 (日) 17:07 (UTC)
巻き戻しの提案
一旦、2007年12月17日 (月) 04:28のR28Botの版にまで巻き戻すことを提案します。私がかなり荒っぽい修正をしましたが、綺麗にまとまっていたHaydarさんの版の方が明らかに優れていると思います。正直申し上げて、復活のシャアさんは基礎的な知識がかけていると思いますので、復活のシャアさんが編集された版は相応しくないと思います。らりた 2008年2月1日 (金) 12:52 (UTC)
何であるにせよいきなり削除なさるのは余りに失礼だとおもいます。前のものは余りに支離滅裂でサイトになっていません。基本的な知識は匈奴らの知識はありませんが、他の分野はあるつもりです。まずノートに議論をされてからなさるのが本当じゃないでしょうか。--復活のシャア 2008年2月1日 (金) 13:16 (UTC)
まずお聞きしたいのですが、「この説自体が現在の歴史学でまともに取り上げられることは無い」ということすら否定されるのでしょうか?らりた 2008年2月1日 (金) 13:29 (UTC)
- あと、上で「指導者は絶対であり能力のある者が話し合いで選出される」というウィキペディアの記事を論拠?にしていらっしゃいますが、これは例えばチンギス死後においてチャガタイやトルイらと話し合ってオゴデイが大ハーンになったというように氏族内で誰を上にするかを話し合うということであって、部族外の人間をいきなり頂上にするなんてことをいっているわけではありませんよ。らりた 2008年2月1日 (金) 13:32 (UTC)
徹底した実力主義
* 指導者は絶対であり能力のある者が話し合いで選出される * 農耕民に比べて女性の地位が高い * 能力があれば異民族でも受け入れて厚遇する * 略奪婚
チンギス以後とは区切っておりません。遊牧民の文化的特長といっています。上の文をちゃんと読んでください。貴方の出典は何ですか・時間と金をかけ、作成したものを簡単に削除されるのは心外です。何なら全部削除しますか?「この説自体が現在の歴史学でまともに取り上げられることは無い」これは私がかいたとおり、杉山正明氏らが全半生が不明であるということをかいており、この説だとは明言しないまでも疑問点はあげています。そういうことを軸に新たに作成したのであって、文献にあるものを書いてある以上貴方に削除する権利はありません。
- チンギス死後の話は単に例として挙げただけですが。それこそ突厥であれ何であれ、部族外の人間がいきなり族長になった例などありますか?あれば教えてください。あくまで「氏族内で誰を長にするかを話し合うのであって、氏族外の人間を長にするなどはまずありえません」
- 「杉山正明氏らが全半生が不明であるということをかいており」と言いますが、杉山氏は単に前半生が不明であると書いているだけでしょう?それを義経説に結びつけるのはあなたの独自の研究です。「そういうことを軸に新たに作成し」てはいけません。独自の研究は排除されなければいけません。あなたがどんな労力を払おうと関係ありません。らりた 2008年2月1日 (金) 14:11 (UTC)
氏族以外でも戦争に勝ってしまえば長になります。例は知りません。義経がそうなんじゃないですか?ひらがなを用いてモンゴル文字をつくってますから。そもそも貴方は中立な立場に立ってないじゃないですか。あきらかに否定することしか頭にない。出典:『大モンゴルの世界』杉山正明『義経はジンギスカンになった』丘英夫。江戸時代から『大日本史』などに記述があり、800年にわたってこういう説があるのだから問題にならないことのほうがおかしい。「そういうことを軸に新たに作成し」これはこのサイトのテーマ内容と言う意味でかきました。。それすら書けないのはおかしいことです。何のために「源義経」から分離したのかわかりません。独自研究はいっさいありません。系図の内容はおかしいとおもいます。匈奴の時代は文字が存在してないはずですが、誰が記述したのですか?当時の中国の文献もないはずですが。チンギスハーン以前は文字を持たないのに、しかも10代前しか系図がわかっていず、それで中国の文献にあれば裏がとれたとできますが、どうしてこれが正しいといいきれるのですか?系図の内容は元朝秘史と違いますね。独自研究じゃないですか?私のチンギス統原理の内容は間違っておりませんがなぜ消すのですか?小谷部全一郎の欄は必要ないでしょう。全部けしてください。否定的欄だけかかないでください。私は全部肯定はしてません。「この説自体が現在の歴史学でまともに取り上げられることは無い」これは否定的意見の欄にかけばいいじゃないですか。--復活のシャア 2008年2月1日 (金) 15:15 (UTC)独自研究は削除します。--復活のシャア 2008年2月2日 (土) 11:06 (UTC)
小谷部全一郎はこの説の大きな存在でありますが、現在ではいろいろな人が主張しており、この説の説明に適してないとおもいます。--復活のシャア 2008年2月1日 (金) 16:19 (UTC)
- 本気で言っていますか?
- >氏族以外でも戦争に勝ってしまえば長になります。例は知りません。
- 例を挙げられないのにどうしてそんなに自信を持って言えるのでしょうか。
- >匈奴の時代は文字が存在してないはずですが、誰が記述したのですか?当時の中国の文献もないはずですが。
- 『史記』って知ってますか?
- >チンギスハーン以前は文字を持たないのに
- >系図の内容は元朝秘史と違いますね。
- とてもではないが、あなたはモンゴルに付いて語る上で基礎的知識が全く欠如していると結論せざるを得ません。私も偉そうなことを言えるほど知識はありませんが、あなたよりは遥かにましであると確信できます。はっきり言いまして、あなたがモンゴル関連の記事を編集するにはもう少し勉強が必要です。それこそ杉山先生の著書などを何冊か読み漁ってから編集を行ってください。らりた 2008年2月2日 (土) 12:04 (UTC)
コメント依頼から来ました。どう読んでも、復活のシャアさんの書き方は冷静さを欠いているし、中立的視点を欠いているように見えます。--210.151.230.249 2008年2月4日 (月) 15:43 (UTC)
コメント依頼から。復活のシャアさんに対して書くことが多すぎてちょっと困るのですが、箇条書きにさせていただくと。
- ・小谷部全一郎の『軍功』は軍の通訳官としての功績であって(この時代、通訳とは同時に交渉でもあります。口語表現の違いが交渉成立するか不成立になるかの瀬戸際で、『交渉を成功させた』功績は軍功として認められます)義経=チンギス説の報告によるものではありません。
- ・遊牧民の文化的特長として、貴種、もしくは特定の血族(例えばシャーマンの一族などですね)に対する敬意と言うものもあり、実力あるものは受け入れますが、実力だけでも長にはなれません。チンギスの死後、チンギスの一族以外で優秀であった家臣などにチンギスの後を継ぐ様に言われた人物がいないのもこれと同じです。
- ・笹竜胆の源氏と義経の源氏(清和源氏本家)では家紋が違う事はご存知ですか? 義経の清和源氏の方が家柄的には上ですし、本当に義経であれば日本(鎌倉幕府)から文句が言われないモンゴル平原でわざわざ下位の家紋を使う根拠も必要性もないでしょう。
- ・義経生存説は室町期まではどの文献にも現れていません。最初に文献に登場するのは江戸期『本朝通鑑』続編からであり、それだって「蝦夷に逃亡して生きていた」と俗伝に又曰く、との前置きつきで書かれているのが初見です。もちろんこの時点ではモンゴルに渡ったなんて書いてありません。
- ・その後に書かれた『大日本史』は優れた著作ですが「このように言われている」と言う“編纂”であって、『大日本史』に書かれている=事実 ではありません。完成したのは明治39年で、当時の大陸進出と言う社会情勢の後押しがなかったと断定も出来ません。
- ・『九旒の白旗』の九旒を九郎判官と結び付けているのがこの説の根拠の一つですが、九旒と言うのは「九本」と言う意味で、まともに辞書を見ればこんな読み方は普通しません。
- ・そもそもチンギスが義経であるならはっきりそう自分で書き記せばいいことであり、わざわざ他人に文字を(しかも漢字以外の文字を)作らせたりする根拠がありません。カナ四文字入っていたと根拠にする人も多いですが、意味が違うのに形が似てるだけであり、確率論の上で偶然の範疇に収まります。なお、丘英夫氏の専攻は音韻学であり、歴史文献(それも古典史料)を読むと言う点に関しては専門家ではありません。本人は「歴史作家」と自称されており、「歴史家」とは名乗っていません。
- ・杉山氏に関してはらりたさんが既に述べられておられるとおり、「前半生が謎」としているだけです。また杉山氏はテムジンがモンゴル族の出身であるとは書いてあります。ちゃんと読まれましたか?
- ・義経は小柄でしたが(現存する鎧など)、チンギスは体躯も優れていたと史書に明記されています。またチンギスには個人的な武勇もある一方、義経が非力であった事も知られています。wikiの源義経も軽くでいいので目を通してください。
- ・義経の首が5月22日報告、6月13日に鎌倉に届けられているのは頼朝の指示によるもので、理由も吾妻鏡には書いてあり、別に何もおかしくありません。
- ・衣川事件から一年後(文治6年、改元しているので建久元年)に義経が攻めて来ると言う情報が流れたなんて記述は吾妻鏡にはありません。その噂が流れたのは衣川事件と同じ文治5年であり、翌年の建久元年に詳細が明らかになった大河兼任の乱の記述に『或いは伊予守義経と号し』と、大河兼任と言う人物が義経の名を騙っていたとする記述もきちんと書かれています。
- ・小谷部氏はチンギスの兄弟姉妹に関しては完全にスルーしていますが、『元史』にはチンギスの兄弟姉妹にもちゃんと言及があります。義経がチンギスだったら「兄」や「弟妹」が何でモンゴルにいるのでしょう。
- ・*義経=ジンギスカン伝説を追うに義経チンギス説がどのように変貌して行ったのかが簡潔にまとめてあります。ご覧ください。
以上。全体を通して復活のシャアさんにはもう少し勉強していただきたく思います。復活のシャアさんが編集する前の記事に戻されるべきでしょう。--202.223.85.87 2008年2月7日 (木) 03:15 (UTC)、修正並びに追記時間--218.110.21.41 2008年2月7日 (木) 09:55 (UTC)--202.223.124.47 2008年2月8日 (金) 15:26 (UTC)
履歴をみてもらいたいのですが、他の部分が消されています。かなり誤解を生む内容になっています。
- ・>小谷部全一郎の『軍功』は軍の通訳官としての功績であって義経=チンギス説の報告によるものではありません。<義経=ジンギスカン説の報告とは一言も言ってません。おっしゃるように交渉のほか、英語が出来ましたから外国との通訳もされたのでしょう。「軍功」は前に旅行をしたと間違えて誰かが書いていたのでそう書いただけです。
- ・遊牧民の文化的特長として・・・他民族が長になれないと言う説のことじゃないですか?少し内容が違いますが。テムジンがナイマンや金族など自分の族よりも強いところを併合しております。テムジンが二位に甘んじたということはありません。
- ・笹竜胆の・・・これも貴方の認識不足だとおもいます。大体家格がどうのこうのというのが、暗に日本人の関与を認めています(笑)あとから源氏らしきものたちがどんどんついていっているので、その者たちかもしれません。テムジンは白旗と白の旒で表現しています。いうまでもなく白旗は「源氏の棟梁」の証明です。
- ・義経生存説は室町期までは・・・これもよく読んでください。『本朝通鑑』で蝦夷で記載があるとしただけで、大陸へ渡ったとする文献は『可足文書』や『新撰陸奥国史』らです。
- ・『九旒の白旗』の・・・私は見たことがないのですが、日本の馬印の吹流しのようなものでしょうか?九にこだわったから九本にしたんじゃないですか?それをどうといわれても・・・
- ・その後に書かれた『大日本史』は・・・これは初耳ですね。軍部が捏造し、偽造したというのですか?証拠はなんですか?検証が出来ないものは載せられません。
- ・そもそもチンギスが・・・モンゴルに文字が無いのでわざわざ作らせたのでしょう。この時点で自分が義経であると何でかかなきゃならないのですか?歴史家でなければ語ってはいけないのですか?歴史はあなた方だけのものではない。小谷部氏もいってますが。貴方は音韻学の権威でもないはずだ。
- ・衣川事件から一年後・・・論理が破綻しています。義経の首が届いているのです。これで義経の件は終わりのはずです。義経の軍がくるわけはありません。事実上首が偽物であったと露呈しています。
- ・義経の首が5月22日報告・・・早馬で七日の距離で頼朝が遅れるよう指示したにせよ、こんなに時間がかかるわけはありません。「わけ」とは頼朝の母の供養のことですか?吾妻鏡でははっきり書いてないはずですが。
- ・小谷部氏はチンギスの兄弟姉妹・・・父も母も記述がありますが、詳しいのは元朝秘史だけです。義経にも兄弟がいました。妹も誰だったかいたはずです。私の想像ですが、昔話をモンゴルのものたちに話しているうちそうなったのではないでしょうか。
系譜情報はインチキでたらめだらけ。はやく消すべきだ。外国のモンゴル史の研究者に笑われる。系譜が判明しただなんて。 ◎編集する前は私がかいてるものです。出来る限り中立にたって編集してますし、批判なら批判の欄にかけばいいでしょう。批判ばかりでも中立にたっていない。・*義経=ジンギスカン伝説を追うは恣意的すぎます。江戸期の偽書にせよ、この面ばかりを広げすぎる。 貴方に質問します。 モンゴル高原の中央部で生まれたジンギスカンは1190年から1202年まではユーラシア大陸の東端において、満州女直や高麗軍と戦争した記録が残されている。なぜ、そんなところまで行って戦争しなければならないのだろうか。この答えをいってください。一般の人がわかるように。出来ないのなら貴方にどうこういう権利はない。--以上の署名のないコメントは、蒼き龍一(会話・投稿記録)さんが 2008年2月9日 (土) 17:09(UTC) に投稿したものです(Heavyhandによる付記)。
- 横から失礼します。コメント依頼からきた者です。蒼き龍一さん、ノートでは署名をされるべきかと。それはともかくとして、この分野にたいした知識がないせいか、仰られている内容とここでの論争の関係がよく分からない部分があります。チンギス・ハーンがユーラシアの東端まで行って戦争した理由を問われている点です。仮に「チンギス・ハーンが実は日本人だったから日本を目指したのだ」という考えの元にされた質問であれば、東だけでなく、西は現在のアフガニスタンやイラン東部、南はインダス川まで行って戦争していますので(チンギス・ハーンより)、成り立ちにくい考えではないかと思います。どちらかといえば自分達の領土を広げたかっただけなのではないでしょうか。もしそれ以外の、ここでされている論争とかかわる理由があればそれをお教え頂きたいです。あと、以下はちょっとした疑問なのですが
- 「・衣川事件から一年後…」という部分の、首が届いた後に義経襲来の噂があったから首が偽者に違いないというのも論理が破綻しているのではないでしょうか。頼朝らが首が本物であることを確認していても、別に民衆が皆それを確認するわけではないですし、全ての民衆が義経の顔を知っているわけではありません。義経を名乗る何者かが現れれば、一般民衆の間で「実は死んではいない」という噂が立つことはありえる話です。「事実上首が偽者であったと露呈」したと断言するのはこれだけでは不可能ではないでしょうか。
- チンギスハーンの兄弟姉妹についての部分ですが、チンギス・ハーンは長男だとチンギス・ハーンには記載されています。対して義経は弟が一人、兄が八人の九男です。思い出話が基になったにしては違いすぎると思うのですが。
- 最後に、「外国のモンゴル史の研究者に笑われる。系譜が判明しただなんて。」と仰られるのであれば、その海外の学者の論文なりを示した上で、この記事とチンギス・ハーンへの加筆修正をされればよいのではないかと愚考いたします。--Heavyhand 2008年2月9日 (土) 20:26 (UTC)
- Haydarです。まだ『成吉思汗ハ源義經也』や『成吉思汗は源義経にあらず』のコピーを一部しか入手出来おらず編集などは控えておりましたが、コメント依頼が出ていましたので、一応こちらの編集に参加していたこともありモンゴル帝国とチンギス・カンに関することで少し述べたいと思います。
- まず、復活のシャアさんのコメントについてですが、
- >『元朝秘史』によるとチンギス・ハーンはウイグル語を理解せず、漢字の読み書きのみできたそうです。
- とのことですが、『元朝秘史』の最古のテキストである洪武刊12巻本(1920〜30年代に印影版が四部叢刊に載録)などを見てもそのような記述は一切見られません。恐らく有名な『元史』巻百二十四「塔塔統阿」伝の記述のことと誤解しておられるようです。ナイマンに仕えていたウイグル人書記タタトゥンガがチンギスに帰順した時の有名な逸話で、ナイマン王家の金印や穀物、金銭関係等を管理していたタタトゥンガから印章と文字の効用を聞き、チンギスも印章を作成し、ウイグル文字に精通していたためこのタタトゥンガに命じてモンゴル王族たち(太子諸王)にウイグル文字を習わせてモンゴル語(国言)を筆記させるようにした、というものです。
- >「(前略)是後凡有制旨、始用印章、仍命掌之。帝曰、「汝深知本國文字乎?」塔塔統阿悉以所蘊對、稱旨、遂命教太子諸王以畏兀字書國言。」
- 飽くまでもこれは「ウイグル文字でモンゴル語を書かせるようにした」というエピソードであって新たに文字を作り出した話しではありません。また、モンゴル帝国時代に現在我々がモンゴル文字と呼ばれているものは、ウイグル文字をモンゴル語の表記に使用していたもので、「ウイグル文字」(『元史』などでは畏兀字、畏兀児字)としか呼ばれていていませんでした。(ウイグル語の表記と比べて、ウイグル文字によるモンゴル語の表記にはある種の癖がいくつかありましたが)13〜14世紀に「モンゴル文字」と呼ばれていたのはクビライによって制定された「パスパ文字」の方で、『元史』八思巴伝や釈老伝に書かれているようにパスパ文字は「蒙古字」や「蒙古新字」と呼ばれていました。詳しい情報については、『元史』などは台湾の中央研究院が公開している漢籍電子文獻で検索出来ますし、関係論文や書籍、例えば文字については平凡社『言語学大辞典 別巻 世界文字辞典』の「ウイグル文字」「パスパ文字」「蒙古文字」などの各項目を適宜参照願います。
- >系譜情報はインチキでたらめだらけ。はやく消すべきだ。外国のモンゴル史の研究者に笑われる。系譜が判明しただなんて。
- 義経=ジンギスカン説#現存資料に見られるチンギス・カンの系譜情報に書かれていることは、全て『集史』『元史』『元朝秘史』『聖武親征録』『シュアビ・パンジュガーナ(五族譜)』『ムイッズル=アンサーブ(高貴系譜)』(『南村輟耕録』も含めて良いかも知れませんが)などの現存資料の情報を整理したもので、チンギスの曾祖父カブル・カン以降チンギスまでの親族関係について、これらの資料間で特に矛盾した情報は自分が見た限りでもありませんでした。『集史』『五族譜』『高貴系譜』などのペルシア語資料ですので校訂本も日本では所定の大学図書館や東洋文庫などの研究機関に行かないと読めない状況ですが(『五族譜』『高貴系譜』は刊行すらされていないため研究機関や研究者個人が所有するマイクロフィルムやそのコピーなどを直接見ねばなりませんが)、『元史』は中国書籍の専門店やネットで検索出来ますし、『元朝秘史』に関しては日本でも各種刊行されていますので確認は容易に可能です。チンギス・カンについての親族情報について特に資料の記述に疑義が提示されたという話も聞かれません。この節の最後の一文の「中央ユーラシア史の研究者からは否定的に受け止められている」云々は私の編集ではありませんが、これらの内容は一次資料の情報を整理した物で、Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料の規定に抵触しないレベルであると認識しています。もし、この節が記事全体から見て特に必要無いという議論でしたら分かりますが、情報自体が「インチキでたらめだらけ」というこの一文は心外です。
- 「判明した」ではなくて「判明している」もしくは少なくとも14世紀の段階でモンゴル帝国内部でこのように「認識されていた」であって、何を根拠に「インチキでたらめだらけ」と仰るのか些か困惑致します。『集史』と『元史』などの漢籍との内容の照合や研究はヨーロッパでは19世紀のC.M.D'OhssonやL.M.Berezin、E.Qautremere、20世紀でもロシアのV.V.Bartol'dやポール・ペリオ、J.A.Boyleなどが、中国でもこの時期は洪鈞、柯劭忞、屠寄、王国維など有名ですが、今日までの先行研究を見る限り、『元朝秘史』などのカブル・カンからチンギスまで系譜情報について全くの虚偽である、という報告は聞かれません。「外国のモンゴル史の研究者に笑われる」と仰いますが、20世紀になって日本でもアルタイ学が移入され現在までテュルク学やモンゴル学、アルタイ学などの分野は世界的に見ても非常に高いレベルに達しており、(勿論、ペルシア語資料や漢籍等を用いたモンゴル帝国史や中央ユーラシア史でも研究水準は高いですが)「モンゴル時代」という概念が日本の本田実信博士が提唱してほぼ世界的に定着した(とは杉山正明先生の言ですが)という現状からもむしろこの分野では日本の研究動向が世界の研究をリードしているとさえ言われています(これも杉山先生が書籍や講演会で都度都度仰っているようですが)。系譜情報を含む諸資料間のこれらの情報を最初に整理・研究をしたのは中国やヨーロッパなどの「外国のモンゴル史の研究者」や言語学者たちに他なりません。日本の現行のモンゴルに関する研究もこれら先行研究を土台にして現地でのフィールドワークや資料精査をもとに進められています。私の記事編集もこれらの研究成果を(手持ちの論文や招来資料のコピーを確認するなどして)なぞりこそすれ逸脱するものではありません。蒼き龍一さんに伺いますが、「インチキ」や「でたらめ」と仰いますが、この義経=ジンギスカン説#現存資料に見られるチンギス・カンの系譜情報の節のどこに「インチキ」や「でたらめ」含まれて居るのか是非ご説明願いたいと思います。あるいはキヤト氏族におけるチンギス・カンの系譜情報についてのこれらの資料の記述に虚偽等の問題があるという研究なり論文などがありましたら、その論文の評価も含めてお教え願います。 --Haydar 2008年2月9日 (土) 22:09 (UTC) --自己のコメントを一部補足。 --Haydar 2008年2月9日 (土) 23:02 (UTC) --重ねて自己のコメントを一部補足。--Haydar 2008年2月10日 (日) 00:07 (UTC)
- とりあえず・・・「私の想像ですが、昔話をモンゴルのものたちに話しているうちそうなったのではないでしょうか。」チンギスの弟たちには当然子孫がおり、その家は後々まで残っています。ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンの三人の家は東方三王家と呼ばれてクビライの政権確立の際に大きな助力をしています。昔話から子孫は生まれません。らりた 2008年2月9日 (土) 22:43 (UTC)
- ノートの分量が長大気味ですので、らりたさんがコメント依頼を出されて以降の部分について節を分けた方が良いのではないかと思われますが、いかがでしょうか? --Haydar 2008年2月9日 (土) 23:02 (UTC) 修正。大変失礼致しました(汗 --Haydar 2008年2月10日 (日) 00:07 (UTC)
- 「九旒の白旗」についてですが、ノート:源義経#義経=ジンギス・カン説に関する議論で述べた通り、「九脚のトゥク」(纛 tuq,tuγ)のことであり、「トゥク(纛)」とは諸橋徹治著『大漢和辞典』の説明でもあるとおりヤクやウマ等の長毛を房にして旗竿の先端に掲げた旗指物、「はたぼこ」のことです。主要漢文資料や『集史』『元朝秘史』などの諸資料間での記述のされ方など、源義経のノートを参照下さい。
- また、一応、その形状については『集史』パリ本の挿絵に一部ですが描かれています。『集史』パリ本1206年のチンギス・カン即位式の場面(ビブリオテーク・ナショナルの運営する写本閲覧サイト『[マンドレーク]』掲載の『集史』パリ本 Supplément persan 1113 の fol. 44v より。画面右側の白い房が垂れた竿が6本見えるが、挿絵上部のペルシア語による文章四行目後半部分から、これらが「九脚の白いトゥク」の一部であることが分かる)杉山正明先生の著書などで頻繁に見られる物ですし、『モンゴル帝国と大元ウルス』でも最初の口絵1に記載され口絵の解説でもこの九脚の「纛」について説明されていますので、適宜ご確認下さい。--Haydar 2008年2月10日 (日) 00:07 (UTC)
- >Heavyhandさん、Haydarさん、らりたさん、それぞれコメントありがとうございます。私も浅学な身なのであちこち間違いがありました。申し訳ありません。今後ともご指導いただければ幸いです。
- >蒼き龍一さんへ。私もさほど詳しくありませんので今調べなおしている所ですが、この点だけはさすがに無視できないので先に書かせていただきます。『可足文書』や『新撰陸奥国史』(正しくは『新撰陸奥国“誌”』ですね。間違ったところからコピペするのはよくないですよ)を出されておられますが、そもそも延宝年間(1673~81年)成立の『可足文書』と明治元年(1868年)発行の『新撰陸奥国誌』を同じ列に並べるのもどうかと思いますが、『可足文書』の該当部分を抜き出してみましょうか。
- 九郎判官身代には一家の内杉目太郎行信致候。行信が首鎌倉殿に見参に入供。(略)判官海上より周り伊豆箱根に至り鎌倉を襲候。(略)後金国へ渡侯。
- 「義経が海路伊豆に回り込んで鎌倉を襲撃した」と真面目に書いてあるものを議論のベースにしているのでは今後がものすごく不安になるのですが。本当にこういった文章を基準にするのでしょうか?
- それと、浅学の身にチンギスが笹竜胆を使っていたと言う原典をお教えいただければ幸いです。小谷部氏は現物を見たわけではないですし、そこまで断定できる以上小谷部氏以外の根拠をご存知だと思われるので。--210.132.172.11 2008年2月10日 (日) 07:02 (UTC)
- (報告)蒼き龍一さんはブロック中の復活のシャアさんのソックパペットとしてブロックされました。メーリングリストでも申し立てがありましたが、この方はHaydarさんのご呈示になった現存資料における系譜情報を、「系譜が明らかになった」というように誤解されているようです。資料における系譜と実際の系譜は同じではありませんが、実際の系譜を史料からしか現状実証しえない以上、現存史料における系譜情報に矛盾する史料を提示しなければ、この系譜情報を修正できません(もっともそのようなものがあれば、論文が書けるでしょうが)。もともとHaydarさんは現存史料から提示できる系譜情報であると断っていらっしゃって、それが「事実」であるとはおっしゃっていません。持論を展開される以前に、他の執筆者の文章をきちんとよく読む訓練をされる必要があるように思われます。誤解をしたうえでその誤解にもとづき他の利用者を激しく攻撃するのはいかがなものかと思われます。現状実施中の1週間ブロック明けに、以上のような点を改められることがなければ、本事典における編集資格について公論がなされるべきやに思います。--Kotoito 2008年2月10日 (日) 19:26 (UTC)
- とりあえず捏造といわれては敵わないので出典提示。「匈奴の中核氏族は屠各種であり、その中心が攣鞮氏であった。その攣鞮氏の中でも冒頓の家系の出身者は単于の地位を独占し、特別家族としての地位を確立していった。中核氏族内の中心的な氏族の首長が、大人としてその社会の構成員の尊崇を受けたことは、独り匈奴のみならず広く北アジア諸族に見られる現象である。」(『匈奴』(1996年、東方書店、ISBN 4497965066)
- ひとまず復活のシャアさんのブロックが解ける今週の日曜日までは様子見ですか。復活のシャアさんに於きましてはとにかく人のことを捏造だとか笑われるだとか非難する前にまず勉強が必要と思います。らりた 2008年2月12日 (火) 14:24 (UTC)
- (報告)蒼き龍一さんはブロック中の復活のシャアさんのソックパペットとしてブロックされました。メーリングリストでも申し立てがありましたが、この方はHaydarさんのご呈示になった現存資料における系譜情報を、「系譜が明らかになった」というように誤解されているようです。資料における系譜と実際の系譜は同じではありませんが、実際の系譜を史料からしか現状実証しえない以上、現存史料における系譜情報に矛盾する史料を提示しなければ、この系譜情報を修正できません(もっともそのようなものがあれば、論文が書けるでしょうが)。もともとHaydarさんは現存史料から提示できる系譜情報であると断っていらっしゃって、それが「事実」であるとはおっしゃっていません。持論を展開される以前に、他の執筆者の文章をきちんとよく読む訓練をされる必要があるように思われます。誤解をしたうえでその誤解にもとづき他の利用者を激しく攻撃するのはいかがなものかと思われます。現状実施中の1週間ブロック明けに、以上のような点を改められることがなければ、本事典における編集資格について公論がなされるべきやに思います。--Kotoito 2008年2月10日 (日) 19:26 (UTC)
巻き戻しの提案2
はじめまして。 私見ですが、ジンギスカンの系譜情報は少々無理があるかと。
- ジンギスカンの系譜はボルテチノを祖としますが、伝説上の架空の存在です。それもほとんどが「口伝」による”伝承”であり、これは第一次資料ではありません。口伝は権威ある文献資料ではありません。カブルカンにしても集史にはどこでなにをやったか書いてありませんし、まして生年、没年もわかりません。元朝秘史についても若干の説明があるだけで、同姓同名の人物であるかもしれません。
- 系譜は「流れ」ではありません。最低生年、没年がはっきりわからないと決定つけることはできません。
- 匈奴の子孫がモンゴルであるという根拠はなんでしょうか。その証拠をしめしてください。
チンギス・ハンの生い立ちなどについては、元朝秘史以外には資料はありません。モンゴル人は文字をもともと持たなかったので口述記録のみでした。正しい記録というよりも、どれが正しいのか裏づけを取れないのが実情ですし、系図については光の子でも、狼と羊の子でもないことは明らかですが、どこからが伝説でどこからが記録か曖昧なグレーゾーンがあり、それを貴方が勝手に判明したと断言は出来ません。もし、これがぜったいと自信があるのなら、系譜の人物の生年・没年の特定をしてください。--ドランクドラゴン 2008年2月15日 (金) 20:05 (UTC)
- まず勝手ながらドランクドラゴンさんの文章に使われていた○数字を修正させていただきました。
- そしてですが。はっきり言います。ドランクドラゴンさんは復活のシャアさんですよね。明日にはブロックが解けるのにどうして我慢が出来ないのですか。明日になれば堂々と意見表明が出来るのにどうしてそういうことをするのですか。あなたには一歩立ち止まって自分のやっていることを省みるということを是非覚えてください。それが自分の利益になるかどうかを考えてください。
- で。非常な勘違いをなされているようなのでそれに対して。
- まず口伝に関してですが。私は「仮に仮に文字が無かったとしても」と文字がなかったとしても伝える手段はいくらでもあるということをいっただけでチンギスの系譜が口伝で伝えられたと言っているわけではないですよ。「仮に仮に文字が無かったとしても」の前に書いた「当時のモンゴルはウイグル文字を使っていました」という文章を読みましたか?
- 「匈奴の子孫がモンゴル」なんて言っていません。高貴な血統に対する尊崇が北アジアの遊牧民族に一般的に見られる例として挙げたものです。
- 誤解というか誤謬ですが、「判明したと断言」なんて誰もしていません。歴史学に於いて「完全な歴史的事実であると断定」(あるいは「ではないと断定」)は誰にも不可能です。人間は一秒前に、目の前で起きたことでも他人にそれを完全に正確に伝えることは不可能な生き物ですから。
- ですので「義経=ジンギスカン説」を「完全に否定」することは誰にも不可能です。同じ理屈から「義経=火星人説」であろうと「ジンギスカン=地底人説」であろうと「完全に否定」は不可能です。
- ですが。諸史料を取捨選択し、「これは事実であろう」「これは事実ではなかろう」と判定していくのが歴史学です。その意味で諸史料の一致するチンギスの家系情報に付いて「これといって事実ではないと疑う理由が無い」ので「これは事実であろう」と推定されるわけです。逆に「義経=ジンギスカン説」はそういった推測が「絶対に成り立たないというわけではない」が「これを事実であるとする理由は無い」ので歴史学からは否定ないし無視されているのです。
- そして最も大きな誤謬ですが。ウィキペディアはあなたの主張を載せるページではなく、人類共通の知識を載せるページです。ですから仮に「義経=ジンギスカン説」が歴史的事実であったとしても現代において学界・一般で「義経=ジンギスカン説」が『与太話の一種』として扱われているならば、ウィキペディアにおいても『与太話の一種』として扱わなければならないのです。底をご理解ください。らりた 2008年2月16日 (土) 14:23 (UTC)
誰かが反対のコメントをいれてますね。私の文体じゃない。勘違いがどうのこうのというが、それはあなた方ではないのか??
- 当時のモンゴルは口伝がすべてであり、ウイグルの言葉は使っていても文字は使っていませんでしたよ。チンギス以前のモンゴルの歴史でウイグル文字の文献が何か存在するのでしょうか。
- 高貴な血統に対する尊崇が・・・このたとえとして3世紀に存在し、消滅した匈奴の話は余りにも愚直というほかなく騎馬民族が血統を重視することの意味になっていない。堺屋太一氏によれば遊牧民族は移動する文化社会だから、血縁を重視し「モンゴル族ボルジギン部キヤト氏のイェスガイ家のテムジン」という日本でいう”住所”に属するというふうになる。とかいていますが、こういう言い方なら理解できます。子飼いの牧民集団を持たない・・・この文章は『騎馬民族国家』ではついに発見できませんでしたね。血統を重視するというなら、(貴方はこれも知りませんでしたね)妻ボルテがメルキトに奪われて妊娠していましたが、この子供ジュチをテムジンは殺そうとしませんでした。血統を重視するというなら、赤子のうちに殺害するはずです。遊牧民という文化のなかに、騎馬民族国家があり、指導者系の族が存在するのです。指導者系の家族でも遊牧民にかわりはありません。
- 『義経=ジンギスカン説』は江戸中期からいわれていることであり、これの真偽はともかく、存在するということは事実なのです。昨日今日の説じゃありません。この存在は人類共通の知識です。この説があると言うことに対して、それはどのような内容なのか、と読者に説明するこことは読者にたいする「責任」であり、「義務」でもあります。一方的な主張でもないし、この説は本当であるともいってません。否定するのは勝手ですが、不確かな方法で否定はだめでしょう。
- 『可足文書』の内容はこうです。「衣川の合戦のあと、義経の一行が津軽にきたが、十三湊の壇臨寺にいてもらい、頼朝の兵がきて「義経がいるだろう、出せ」といってきたが、知らぬと通し、義経は再び高舘に戻り兵を挙げ、由利広常も判官の旗をあげ蜂起した。計略をもって、海路三浦半島から伊豆箱根にいる頼朝を襲うことにしたが、津軽半島を出たところで遭難し、義経一行は蝦夷の地にたどりつきそれ以来帰ってこなかった。その後はオカムイ(神威岬か?)から船出して中国大陸の金へ向かった。----と大体こんな内容です。頼朝急襲はしてません。
- 『小シーボルト蝦夷見聞記』(東洋文庫1996年 原田信男、ハラルド・スパンシチ、ヨーゼフクライナー)によれば新井白石のような学者でさえ、『読史余論』(岩波文庫1936年)義経の死について『吾妻鏡』を信用すべきとしながら、いくつかの疑問点を指摘して入夷説の他、入韃靼説を付記し、『蝦夷志』でも主張しているとしています。これが長崎出島商官長のティッチング(Isaac Titsningh:1745~1812)が翻訳し、それが、マルテ・ブリューン(Conrad Malte-Brun:1775~1826)編の『地理および歴史に関する探検旅行記録集』(Annales des voyages,de la geographine et de I'historie.第二四巻、1814年、パリ刊)のなかにある該当部分をシーボルトはフランス語版で読んでいました。この説を前提知識としてもっていました。『和年契』から藤原泰衡が義経暗殺に失敗し、義経が死んだ噂をたて、義経の死が事実であると『吾妻鏡』に記録させたと推測されていると記し、将軍の宮廷に持ってきた首がやがて義経の首では無いのではないのかと疑われるようになったとかいています。「義経」と「弁慶」が実際に蝦夷に滞在したことを暗示させる証拠が一致し、アイヌ民族の伝承にも自然なものとして残っており、アイヌにオキクルミと呼ばれ、崇拝に近い尊敬の念と、心からの感謝をもって記憶にとどめているとしています。さらに義経はアイヌに船の建造や農耕と弓術を教えたとし、彼に因む城郭の古い遺跡もみせてもらったとかいています。この内容は『大日本史』の内容とも一致しています。ですから大陸へ行ったとする説は江戸時代にも存在し、大日本史の内容も外国人の人間であるシーボルトは軍部には何の関係もありませんから軍による捏造も否定されますね。
- さらにこの中で『中国の旅行記』(ピエール・ベルジュロンPierre Bergeron:?~1637が記した原題『十二、十三、十四、十五世紀のアジア旅行記』1247年「宝治元」~1252年「建長五」からの抜粋と思われる ローマ教皇インセント四世とフランス国王ルイ九世の派遣された使節である修道士の旅行記)から引用し、中国の朝廷に定着していた風俗習慣は日本国のそれを非常に思い起こさせるもので、蒙古帝国建国されて初めてそうした風俗習慣が用いられるようになった、という。たとえば城壁の外装は”幕”といい、紋章を用い、朝廷や祝宴では白色が用いられること、白い天幕に「シラ」という名称をつけること。さらにはその頃に日本独特の長い弓と矢も用いれられるようになったという。中国で一般的に用いれられていた短い弓や矢とは明らかに違っていた。中国人に非常に恐れられたため、「長い弓の盗賊」と呼ばれるようになったとか。これに対し中国の通史はこれと違うように書いているといい、どちらが正しいか後世の歴史家によるが、(シーボルト自身の)推理によれば義経が日本からきたことを隠滅するためにそうしたたのではないか、と記しています。
--復活のシャア 2008年2月17日 (日) 12:31 (UTC)
- つまるところ、吾妻鏡とか大日本史とかに加えて「私自身の推理」ということですか。現代歴史学にもとづく戦後の著作は?査読済みの論文でお教えいただけますか。--S kitahashi(Plé)2008年2月17日 (日) 13:00 (UTC)
- Haydarです。どこから手をつけて良い物か困惑すること甚だしいですが・・・
- > さらにこの中で『中国の旅行記』(ピエール・ベルジュロンPierre Bergeron:?~1637が記した原題『十二、十三、十四、十五世紀のアジア旅行記』1247年「宝治元」~1252年「建長五」からの抜粋と思われる ローマ教皇インセント四世とフランス国王ルイ九世の派遣された使節である修道士の旅行記)から引用し、
- いささか文章が破綻されているので何を仰りたいのか今ひとつ理解出来ませんでしたが、「ピエール・ベルジュロン」というどこかで聞き覚えのある著者名と、「1247年」と「ローマ教皇インセント四世」、「1252年」と「フランス国王ルイ九世」でもしやと思い検索しましたら、本の原題と思われるものを見付けました。↓
- Pierre Bergeron , Voyages faits principalement en Asie dans les XII, XIII, XIV, et XV siecles, par Benjamin de Tudele, Jean du Plan-Carpin, N. Ascelin, Guillaume de Rubruquis, Marc Paul Venitien, Haiton, Jean de Mandeville, et Ambroise Contarini : accompagne's de l'histoire des Sarasins et des Tatares, et pre'ce'dez d'une introduction concernant les voyages et les nouvelles de'couvertes des principaux voyageurs
- 一読して分かります通り、フランスのピエール・ベルジュロンが編集した「12,13,14,及び15世紀の」プラノ・カルピニのジョヴァンニ修道士、ルブルクのギヨーム修道士、マルコ・ポーロ、小アルメニア王国の王族ハイトンの旅行記(『東方史の華』。邦訳あり)、ジャン・デ=マンデヴィルの旅行記など、いずれも日本語訳がされています。特に、「1247年」と「ローマ教皇インセント四世」はローマ教皇インノケンティウス4世によってモンゴル帝国へ派遣されたプラノ・カルピニのジョヴァンニ修道士のモンゴル帝国の風俗や軍事制度などの報告書のことで、1247年夏のグユクの即位式に臨席しその様子を記録した非常に貴重な資料です。(当然元はラテン語) 「1252年」と「フランス国王ルイ九世」はフランス国王ルイ9世が同じく派遣したルブルクのギヨーム修道士の旅行記で、ジョチ・ウルスのサルタク、バトゥ、そしてカラコルムのモンゴル皇帝モンケの宮廷を訪れ、それぞれの宮廷で見聞きしたことを記録しています。(フランス国王の正式な使節ではないと言いまくったため各所で非常に邪険な扱いを受けたそうですが) これらふたりの旅行記は故 護雅夫先生が40年程前に翻訳されて『中央アジア・蒙古旅行記』に載録されています。(ラテン語原文からの訳は能力的に無理なので、仏訳や独訳などからの重訳だと序文で断わっておられますが)
- これを言うのは何度目か知りませんが、自説を展開されるにしても、文献を引用される場合はそれがどう言った物かちゃんと調べてから発言して下さい。杜撰な引用のされ方は一々こちらがその資料について補足説明せねばならないので、せめて書誌情報やその著者の情報だけでもしっかり調べてからご意見を書かれることを強くお願い致す次第です。Wikipediaで項目が建てられているような人物の事蹟に関わる内容なのに、それについて完全に書き落とすのは、Wikipediaでの検索も出来ないのかと、不勉強の誹りを免れないものとよくよくご理解下さい。(これは自分も戒めていることではありますが)
- >中国の朝廷に定着していた風俗習慣は
- グユク、モンケが宮廷をおいたカラコルムは、項目でも説明されている通り、「モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ400km、アルハンガイ県のオルホン河畔」にあり、「中国の朝廷」ではありません。
- > 1. 当時のモンゴルは口伝がすべてであり、ウイグルの言葉は使っていても文字は使っていませんでしたよ。
- 1221年-1224年にかけて、華北在の道教の一派、全真教の指導者丘処機が中央アジア遠征中サマルカンドに滞在していたチンギス・カンのもとへ赴いた時の記録、『長春真人西遊記』にはチンギス・カンと丘処機が面談した時、チンギスが丘処機の言行を太師の耶律阿海がモンゴル語に訳して上奏しチンギスが大変喜んだ(「師有所説即令太師阿海以蒙古語譯奏、頗愜聖懐」岩村忍 訳「長春真人西遊記」(『世界ノンフィクション全集 19』筑摩書房,1961年, p357)という話や、チンギスに帝王の威徳をもってモンゴル人に不孝などの旧弊を改めさせるよう勧め、チンギスはこの意見も喜んで「左右の侍者に命じて右をウイグル文字で記録せしめた」(「上悦曰『神仙是言、正合朕心』。敕左右記以回紇字」同岩村忍訳,p359)という風に載っていますし、書記官房筆頭(チェレビだったことが載る)のチンカイが通訳をしたりして饗応した話も載っていますが、チンギスはじめモンゴルの王族が「ウイグルの言葉は使っていても文字は使ってい」ないという話は聞いたことがありません。
- (古典)モンゴル語の「シラ」(失中剌 šira)は『元朝秘史』の傍訳に「黄」とあるとおり、「黄色」のことです。例えば、『元朝秘史』でアラン・コアが日月の精を感じて妊娠した逸話の件りでは(洪武刊十二巻本 巻一 第21段)、(太字はHaydarによる)
- ┌夜┐┌毎┐┌明┐┌黄┐┌人┐
- 「雪にルE不small>中里 超堅失中剌古温」
- (sönit büri čeügen šira gü'ün)「夜毎に光る黄色い人が…」とあり、アラン・コアのもとから「黄色い犬」となって出て行く場面でも、
- ┌黄┐ ┌狗┐ ┌般┐
- 失中剌那孩茂圖」
- (šira noqai metü)「黄色い犬のように…」とあります。
- 古典モンゴル語で「白」は「チャガン/チャカン」であり、例の『元朝秘史』(洪武刊十二巻本 巻八 第202段)のチンギス・カン即位場面で「「九旒の白旗」」云々でも、
- ┌ 九 脚 有的┐┌ 白 旌纛┐┌ 立了 ┐
- 「也孫闊勒秀 察中合安 秀黒 擺亦兀魯阿ルE」(yisün költü čaqa'an tuq bayyi'ul=u=at)「九つの脚ある白い纛(とく)をうち立てて…(村上正二 訳)」
- とあります。当然ながら「白」と「黄」では(日本語でも)意味が違います。(『華夷譯語』の文例は面倒なので今は保留します)
- > その頃に日本独特の長い弓と矢も用いれられるようになったという。
- 誰の言説に基づいて仰っておられるか、これも典拠情報の提示をお願いします。他にも『集史』に「カブル・カンの事蹟が書かれていない」という誤謬(と好意的に受け取るべきか怪しいですが)について一言せねばなりませんが、それらもまた後日に。 --Haydar 2008年2月18日 (月) 15:59 (UTC) --Haydar 2008年2月18日 (月) 16:50 (UTC)
何を感情的になっているのかわかりませんが・・・ 典拠はかいてありますよ。『小シーボルト蝦夷見聞記』(東洋文庫1996年 原田信男、ハラルド・スパンシチ、ヨーゼフクライナー)、です。この場合の中国の宮廷とはもちろん元のことでしょう。それぐらい推してください。子供じゃないんですから。外国人がかいたものをそのまま訳したようなので、それをどうこう私にいわれてもこまります。異議を唱えるなら東洋文庫へどうぞ。 訳した人物をウィキペディアで調べろといわれても、日本のウィキペディアは数が少なくて無い名前が多いです。 モンゴルのジンギスカンが即位し、ナイマンのタタテゥンガが初めて文字を使わせております。ジンギスカン以前は口伝が中心で文字は使ってないはずですが。何か書物が存在しますか?思慮がいささか破綻しておられますが、ジンギスカン以後はウイグル語を習わせたので書物がありますよ。狼と雌鹿の頃からジンギスカンまでにウイグル語で書かれた書物が存在するのですか?口伝のはずですけども。
貴方こそよく読んでください。(原文はラテン語ですよね。)朝廷や祝宴では白色が用いられること、白い天幕に「シラ」という名称をつけること。
白は白です。ホワイト。黄色ではありません。「シラ」はモンゴル語で黄色と言うのか知りませんが、原文では白と明言しております。白いものを黄色に無理やり変えるのはおかしくありませんか?
それとアランコアの話ではありますが、それは黄色っぽい白のことをいうのではありませんか?黄色い犬は私は見たことが無いのですが。あえて言えばクリーム色に近いような。
> その頃に日本独特の長い弓と矢も用いれられるようになったという。誰の言説に基づいて仰っておられるか、これも典拠情報の提示をお願いします。
シーボルトでしょう。その『中国の旅行記』を私もみていないのでわかりませんが、 長い弓というのは中国でもモンゴル高原でもなかったものです。常識です。 『小シーボルト・・・』の注に書いてあるものをそのまま少し噛み砕いて書いたもので、それに文句をいうのでしたら、東洋文庫に言ってください。そこまで私は責任もてません。--復活のシャア 2008年2月19日 (火) 04:05 (UTC)
- >系譜情報はインチキでたらめだらけ。はやく消すべきだ。外国のモンゴル史の研究者に笑われる。系譜が判明しただなんて。
- と甚だ不穏当な発言をされましたが、これに対して、
- 義経=ジンギスカン説#現存資料に見られるチンギス・カンの系譜情報の節のどこに「インチキ」や「でたらめ」含まれて居るのか是非ご説明願いたいと思います。あるいはキヤト氏族におけるチンギス・カンの系譜情報についてのこれらの資料の記述に虚偽等の問題があるという研究なり論文などがありましたら、その論文の評価も含めてお教え願います。
- と論拠の提示を要請致しましたが、これについては何かしらご回答頂けるのでしょうか?
- あと、誤解される方もおられるかも知れないので念のためにに書いて置きますが、『集史』「カブル・ハン紀」( داستان قبل خان Dāstān-e Qablul Khān)には、本紀序文にカブル・カンがチンギス・カンの三世の父祖 جّد سوم jadd-e sovom (つまり曾祖父)であり、彼から多くの諸部族が枝分かれ、彼の子孫たち farzandān va nav ādegān のことを「キヤト」 قيات qiyāt と呼ぶ、という説明があります。本紀第1部でカブル・カンの息子たち6人のリストに続いて(次男 pesar-e dovom-e ū のバルタン・バアトル Bartān Bahādur の項で「チンギス・ハンの祖父 جّد jadd であった」という説明あり)、第2部ではカブル・カンの治世での事績が語られています。それによれば、カブル・カンは諸部族を統合して強大になり、友好を求めて金朝(支配民族である「女直」ではなく地域名としての「契丹、ヒターイー ختاى Khitāī」が使われている)を訪れ皇帝(原文では「アルタン・ハン」 آلتان خان Āltān Khān )から歓待を受けますが、酒宴で皇帝に無礼を働いてしまい、カブル・カンは陳謝したため、またカブル・カンの勢力は非常に強大化していたこともあって表向きは寛恕されます。しかし、皇帝や廷臣たちは裏でこれを大変に恨み、後日カブル・カンは金朝から派遣された使節一行に捕縛される事態に陥ります。使節団一行はカブル・カンのアンダでサルジウタイの家屋(遊牧民にとっての「家」 خانه khāne なのでつまりはゲルの類)に逗留しますが、サルジウタイは機転を利かせて隙を見てカブルを早馬に乗せて全速力で逃がし、カブル・カンは辛くも逃れきった、という話があります。
- そういうわけで、カブル・カンの生没年云々や実際こういう出来事があったかは置くとして、ドランクドラゴンさんが「カブルカンにしても集史にはどこでなにをやったか書いてありませんし、」と書かれた内容は間違いになります。 --Haydar 2008年2月19日 (火) 14:57 (UTC)
アポロ計画陰謀論などを参考にサイトの充実化を提案
>いんちきでたらめだらけ。と言う発言はあやまります。そのときはかなりの文を削除されて平常心ではなかったものですから。 そのカブルカンの裏付け資料は?他の資料と合いますか?具体的な日付は?同一人物でない可能性はありませんか?いつ生まれい死んだか、特定の出来ないものは信用できません。歴史学の基本です。 歴史学の一派ですが、宮本武蔵は実在の人物でないと言う説があります。佐々木小次郎はまったくその存在が正体不明です。ですからバガボンドでは聾唖者になっています。風林火山の山本勘助でさえ、二十数年前は実物の人物かどうか特定されませんでした。弁慶もそうです。 シーボルトが明治時代確認したときに、元朝秘史も集史もジンギスカンの上に系図が存在しないというものがありました。これが本当だとすると、現在のジンギスカンの先祖の系図は人為的にあとから創作されたか、歴史学者らで伝承を基本に捏造したのではないかという推論がなりたちます。これは現在確認中ですが、いずれにせよ、小説「蒼き狼」の誕生秘話もそのあとの欧州のジンギスカンの学問もこの義経=ジンギスカン説が下地にありますし、この説はアポロ計画陰謀論などを参考にボリュウムのある、サイトに仕上げすることを提案します。何しろ、歴史ある説なんですから。--復活のシャア 2008年2月20日 (水) 09:47 (UTC)
- なんというかもう……この方には根本的に話が通じないと思います。--58.98.158.55 2008年2月21日 (木) 03:26 (UTC)
- もはや多くは全く期待しておりませんが、「インチキでたらめ」と仰ったことに私が憤慨した根本について全く理解しておられないことに、またしても絶望的な気分にさせられますが・・・ ようやく記事の構成について議論がでましたが、しかし「サイト」とは?
- 単に「バカ」とか「アホ」とか言われてそれに腹を立てたとか、そう言う次元の問題では無いと言うことを、理解されておられないのではないでしょうか? 現在遡れる可能な限りの資料的に古い情報を基にして書かれてあることを殆どそのままに書いた記事を、「インチキでたらめ」と片付けてしまわれたことが、どれだけ根本的に問題なのか、全く理解しておられないように見受けられます。感情的云々以前の問題なのです。
- > シーボルトが明治時代確認したときに、元朝秘史も集史もジンギスカンの上に系図が存在しないというものがありました。
- この問題自体、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが「源義経はジンギス・カンだ」と主張したという例証を(シーボルトの著作や書簡集なりの情報を)提示せぬまま仰ってますが、この情報自体が怪しいということは無いのですか? 「源義経はジンギス・カンだ」ではなくて、ある書簡でシーボルトは「日本では『源義経はジンギス・カンだ』と主張して人がいるらしい」としか言っていない内容だとかでは言うことは無いのですか? その話はシーボルト関係の資料に本当に出てくるのでしょうか?
- そもそも、清朝ではモンゴル研究が盛んで、『元朝秘史』洪武12巻本が19世紀半ばに発見される80年も前に清朝で満州語訳がされたモンゴル語の歴史書『蒙古源流』(原著は1662年完成)でもイェスゲイや祖父のバルタン・バアトルとともに、チンギスの曾祖父としてカブル・カンの名前も出て来ます。シーボルトの生まれる30年は前の話しで、シーボルトに関係なく、中国側で18世紀にはカブル・カンなどがチンギスの祖先として認識されていました。「元朝秘史も集史もジンギスカンの上に系図が存在しないというものがありました。」という話は正直申し上げて信用出来るか怪しい言わざるを得ず、実際そういう出来事が有ったとしても、シーボルトが見た資料そのものに信憑性が有るとは思えません。シーボルトがペルシア語写本を読めたという話など聞いたことがありませんが・・
- もっとも、『集史』で系図まで書かれているものはイスタンブール本などの古い写本のいくつかで、大抵の写本はチンギス・カン家の親族情報については本紀冒頭の宗室リストだけで済ませるものが多いですが。あと、洪武12巻本などの『元朝秘史』原典でも「だれそれの息子は、だれとだれとだれと○○で、○○の息子が何がしで…」という書き方をしているので、「系図」は載っていませんよ。そもそも19世紀半ばまで『元朝秘史』は『永楽大典』収録の15巻本しか知られておらず、中国国外に広く知られるようになった19世紀も終わりくらいだそうですが。
- > そのあとの欧州のジンギスカンの学問もこの義経=ジンギスカン説が下地にありますし、
- そのような事実はありません。近代の欧州でのモンゴル帝国研究は、18世紀初頭にフランスのプチ・ドラクロアが、『集史』やミールホーンドなどのペルシア語の歴史書からの研究に基づいて書いた Histoire du Grand Gengizcan が嚆矢だといわれているそうですが、何度か名前の出ている、コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン Abraham Constantin Muradgea d'Ohsson の場合、フランス王立図書館(現ビブリオテーク・ナショナル)所蔵のラシードゥッディーンの『集史』や『高貴系譜』、ジュワイニーの『世界征服者史』、ナサウィーの『ジャラールッディーン伝』、ミールホーンドなどのペルシア語資料、イブン・アル=アスィールの『完史』やヌワイリーなどのアラビア語資料、さらに母語であるアルメニア語年代記、中国の漢文史料については先行のゴービルやド・マイヤの中国史研究などを元にして著した Histoire des Mongols, dequis Tchinguiz-Khan jusqu'a Timour bey ou Tamerlan が4巻本として刊行されたのは1824年であり、この頃日本へ最初の滞在を始めたばかりのシーボルトとは何ら関係有りません。
- > 元朝秘史も集史もジンギスカンの上に系図が存在しないというものがありました。
- 『集史』の写本については冒頭部分が欠けたものありますが、ドーソンが利用したフランス国立図書館蔵の『集史』写本にはカブル・カンは出て来ますし、カブル・カンについてはドーソンも言及していますよ? (『集史』パリ本の「カブル・ハン紀」第二部冒頭とカブル・カンとその家族の肖像)
- > 現在のジンギスカンの先祖の系図は人為的にあとから創作されたか、歴史学者らで伝承を基本に捏造したのではないかという推論がなりたちます。
- 不穏当極まる発言は置くとして、根拠としてシーボルトの話のを例にするのは、非常に薄弱な論拠であると言わざるを得ませんが、その「歴史学者」について復活のシャアが具体的にどういう人を指すのでしょうか。勿論、「ジンギスカンの先祖の系図は人為的にあとから創作された」という部分は当然あり得ますが(また意味を履き違えられそうですが)、実際の親族関係は置くとして、モンゴル帝国時代の資料を見る限り「カブル・カン→バルタン・バアトル→イェスゲイ・バアトル→テムジン(チンギス・カン)」という認識が当時はされていた、ということについては是認されるのでしょうか?(この事の方が記事編集の上でも遥かに重要なのですが)
- > そのカブルカンの裏付け資料は?他の資料と合いますか?具体的な日付は?同一人物でない可能性はありませんか?いつ生まれい死んだか、特定の出来ないものは信用できません。歴史学の基本です。
- またしても私が申し上げたことが全くご理解出来ていないようで絶望的な気分です。(汗 実際の親族間系は別にして、モンゴル帝国関係の資料で全て親族間系を表した系譜資料(系図や親族関係についての叙述)での記述情報に一致が見られる、と再三説明申し上げたことを全く読んでおられないもしくは内容を理解しておられないのですね。
- > 歴史学の基本です。
- 古代史や中世史についての事情に全く暗い方だと言うことは、良く分かりました。
- > 歴史学の一派ですが、宮本武蔵は実在の人物でないと言う説があります。佐々木小次郎はまったくその存在が正体不明です。ですからバガボンドでは聾唖者になっています。風林火山の山本勘助でさえ、二十数年前は実物の人物かどうか特定されませんでした。
- > 小説「蒼き狼」の誕生秘話もそのあとの欧州のジンギスカンの学問も
- とりあえず申しておきますが、
- 1)ある書物に書かれていることを「何々の書物にはそのとおりに書かれてある」という事を(確認するなりして)認めることと、
- 2)「そんなものは書かれていないぞ」と否認すること。
- 3)「そうは書かれているけど、実際にそうなのかは疑わしい」
- という事とでは、三者はそれぞれ根本的に異なるのですよ?
- 私や他の方々が資料について問題にしてきたのは、1)の方であり、復活のシャアさんは2)と3)の区別が出来ておられないとしか思えません。Wikipedia:検証可能性など記事編集のために必要な項目をよくお読み下さい。
- 議論の体をなすことすらままならず、コメントする都度にいい加減気分が萎えること甚だしいですが、今までのノートでの議論の推移から個人的な総評として、ご提案そのものの検討は別にしても、果たして過去の資料と、現代の小説や漫画などの創作作品との区別が出来ておられない、同列に扱おうという方に、執筆にあたってWikipedia:中立的な観点やWikipedia:検証可能性について求められるWipipediaにおいて記事編集をしても良いものかどうか、甚だしく疑問に思います。--Haydar 2008年2月21日 (木) 10:14 (UTC)
- >シーボルトが明治時代確認したときに、元朝秘史も集史もジンギスカンの上に系図が存在しないというものがありました。これが本当だとすると現在のジンギスカンの先祖の系図は人為的にあとから創作されたか、歴史学者らで伝承を基本に捏造したのではないかという推論がなりたちます。
- そんな訳が無いでしょう。『集史』や『元朝秘史』は明治の時点で世界中に散らばっており、その中の文章を一斉に改変するなんてことが可能だと思いますか?誰が?いつ?どうやって?なんのために?仮にそんなことをやってのけたとして、それを部外者に知られずに秘密裏に行うなんて絶対に不可能です。普通に考えれば、シーボルトが見た本がたまたまその部分が抜けていた・あるいはシーボルトの勘違い・そして最もありそうなことですが、そもそもシーボルトはそんなこと言ってない。
- 念の為、再度繰り返しますが、チンギスの系譜情報に疑念の余地が無いなどと言っているわけではありません。復活のシャアさんがそれに疑問を呈するのはご自由ですが、それをウィキペディアに持ち込まないでください。ご自分でサイトを立ち上げてそこでやる分には誰も文句を言いませんので。どうしてもウィキペディアに書きたいならば、学術誌などで発表し、その説が学界でそれなりの地歩を占めるようになってからにしてください。
- はっきり言いまして、58.98.158.55さんのおっしゃるとおり、話が全く通じないようなのでもうあなたとの議論は打ち切らせていただきます。らりた 2008年2月21日 (木) 12:23 (UTC)
感想
「義経=ジンギスカン説」というのは、「異説」なんでしょうか、それとも、「伝説」なんでしょうか。少なくとも「定説」じゃないことは確かであり、百歩譲っても「仮説」なんだとしたら、それにふさわしい叙述の仕方があると思います。わたし自身は系図を抜きにしても、この2人が同一人物とは到底思えません。共通しているのは軍事の天才だということだけで、戦い方も、政治家としての能力も、経済的なセンスも、人間的な性格も、たぶん女性の趣味も、まったく違う別個の人格です。まあ、それでもロマンとしてはおもしろいし、日本人を魅きつける何かがある。だからこそ、伝説として強い生命力をもっているわけですよね。そのあたりを詳細に書けばいいんじゃないかと思います。つまりは、もともと東北地方を中心に「義経北行伝説」というのがあって、小谷部さんの時代は「満蒙こそ日本の生命線」という考え方が強くあったから、それが結びついたわけです。太平洋戦争では「大東亜共栄圏」とか「白人帝国主義からの解放」ということが戦時プロパガンダとしてあったわけですけれど、それと、この説は非常に親和性が高くて結びつきやすい。黄色人種で白人と互角以上にやりあえるのは、ジンギスカンと日本人くらいのものだというくらいの矜恃というか、プライドを感じさせるわけです。満蒙開拓とか移民というのは、食えなくなって日本を脱出するんじゃなくて、ジンギスカンのやったことの継承だというふうに考えれば、張り合いも感じるし、そこに意味も見いだせる。しかも、それが国策と結びつくわけです。冷静に考えてみれば、(実際はどうか別にして)ジンギスカンは残虐無道という風評がヨーロッパ人にはあるから、義経とジンギスカンを結びつけることが国際政治のうえで有益だとは言えないわけですが。わたしが申し上げたいのは、この記事は、歴史学的に書かれるべきではなく、むしろ、民俗学的あるいは心理学的に書かれるべきじゃないか、ということです。--Greenland4 2008年2月21日 (木) 18:09 (UTC)
巻き戻し反対の意見
>カブル・カン→バルタン・バアトル→イェスゲイ・バアトル→テムジン
これだけでテムジンの先祖を決められないでしょう。
生まれた年もわからない、死んだ年もわからない。本当に存在したかどうかもわからない。肝心なジンギスカンに関しても生年だけでも最大10年以上のひらきがある。こういうものを信用するわけにはいきません。あなた方はご存じないかもしれないが、一般にはあまり系譜を信用しているひとはいない。あなた方が正しいと吹き込んでいるだけだ。本来であれば系譜の生年、没年、誰と結婚し、何をやったか。これが全部わからなければいけない。その可能性がある。そう推定される。が正しい表現であるとおもいます。ジンギスカンの他の方法を使用してください。
私は根本的に系譜を信用してませんから。Haydar 氏は歴史学者ですか?
物には裏づけの資料というものが必要なはずです。それが一切使用されていない。本当に実在したかどうか定かではないものを、いかにも実在したかのようなやりかたは反対であると重ねて言わせていただく。 それでも通じないのであればご勝手にどうぞというしかありません。—以上の署名の無いコメントは、復活のシャア(会話・履歴)さん(2008年2月23日 (土) 23:21)によるものです。Greenland4 2008年2月25日 (月) 11:31 (UTC)
ジンギスカンの墳墓から義経だった証拠が、そのうち見つかるとおもいます。92年に日本とモンゴルの合同調査隊がそれを調査する予定でしたが、住民の反対によって中止されています。--復活のシャア 2008年2月24日 (日) 21:36 (UTC)
- (コメント)「本当に存在したかどうかもわからない」人の墓から何が出たって「証拠」にはならないでしょう? 違いますか。--Greenland4 2008年2月24日 (日) 04:05 (UTC)
ジンギスカンは存在が確定しています。
重ねて申し上げます。モンゴル史、世界史に詳しい知人、友人に尋ねたところ、当時は口伝によるものが多く、どれが正しいかは確定が出来ないとはっきりいわれました。
Haydar 氏が歴史学者なのかどうかもわからないのに、どうこう言われる筋合いはありません。 --復活のシャア 2008年2月24日 (日) 21:36 (UTC)
- (質問です)「Haydar 氏が歴史学者なのかどうか」ということにこだわりをお持ちのようですが、歴史学者だとしたらどうだというのでしょうか。よろしければ御説明ください。また、「モンゴル史、世界史に詳しい知人、友人」には歴史学者がいらっしゃるんでしょうか。それから、「本当に存在したかどうかもわからない」とおっしゃったのは、ジンギスカンのことでないとすれば、誰のことでしょうか。--Greenland4 2008年2月25日 (月) 11:31 (UTC)
歴史学者で、(普通のサラリーマンでマニアックな知識があり、よく投稿をされている方がいらっしゃる)権威のある方とわかれば、それだけ信憑性が出るのですが、情報を集める限り、そうではないのです。出来るなら御氏名と大学名などを教えていただきたい。--復活のシャア 2008年2月25日 (月) 12:01 (UTC)
他の人に某サイトで質問をしているのですが、残念ながらHaydar氏のようなことを申される方はいらっしゃいません。
http://www.coldsiberia.org/ancestry.htm
『ここに記されているように、チンギス・ハーン以前の歴史は基本的にlegendaryで、元朝秘史、集史に伝えられる以外の、それを裏付ける史料も、否定する史料も、今のところ出ていません。遊牧民族で、チンギス・ハーン以前には伝承があるのみで、歴史も歴史的記録もありません。』
『ロシア、北欧、アメリカあたりで研究が進んでいるようですが、元朝秘史や集史は、まず基本史料として扱われているようでね。』 実のところ、集史は20数年前に国立図書館で読んだきりですが、たしかカブルカンの記述は無かったように記憶しています。私の記憶違いかもしれませんが。この答えを書いた人は系図が一致しているとは書いていないので、おそらく違うと思います。ですから判明しているなどとはとても言えないですし。時間がないのでヤフー翻訳で一気読みですが、そのような説明はないですねえ。私の印象ですが、おそらくモンゴル史にも派閥があるのではないですか?贔屓目に見れば、の話ですが。
http://countrystudies.us/mongolia/4.htm
http://countrystudies.us/mongolia/
http://www.mongolianculture.com/mhistory.html#1 --復活のシャア 2008年2月25日 (月) 12:07 (UTC)
この伝説を歴史学上の話題とすることの可否
わたしは以前申し上げたように、この記事を歴史学上の話題とすることには反対なのです。だから、どちらかと言えば、差し戻しにも反対なんですが、復活のシャアさんは、どうあっても歴史学の話題にしたい御様子ですね。わたしは、この記事を読む人は何を期待し、何を知りたいかというと、この伝説を言い出したのは誰か(言っておきますが、北行伝説とジンギスカン=義経伝説とはちがいますよ)、この伝説はいつから始まったのか、なぜ、まとまな歴史学者からは酷評されながらも大衆は好んで小谷部全一郎の本を買い、ベストセラーにまでなったのか、戦後、どのようなかたちで、この伝説がカムバックしたのか、そういうことを知りたいのではないかと思います。いわば、平将門の首が京都から関東まで飛んで江戸に将門の首塚があるのと同じで、合理主義的な考えで首がそんなに遠くまで飛ぶはずがないじゃないかという議論は野暮だし、伝説が生まれた背景を説明していない点で、この際、無意味だと思うのです。そもそも、この伝説はモンゴル人のなかにはまったく存在していないわけです。復活のシャアさんがここで歴史学的に立証する必要はないのだし、系譜その他歴史学的な成果を「信用できない」と強弁するよりは、「前提にしない」という立場でお書きになればいいんじゃないかと思うのです。上の方で復活のシャアさんが掲げられた『義経伝説を作った男』という本は実際に読んでいませんが、そこでは、この話が「小谷部全一郎によってつくられた伝説」であることが本のタイトルからして既に明白に示されているわけで、素直にそのセンで書けばいいのではないかと思うのです。そしてまた、系譜や前半生については、一般にチンギスハンはイェスゲイ・バートルの息子だが、9歳のときに父を失い、たいへんな苦労をしたということは子供むきの本や入門書などにも書かれていることです。一般には、そう考えられているんだけれども実は義経であるというのが伝説の伝説たるゆえんなんでしょう。冒頭から、そう書き直すべきではないかと考えます。いかがでしょうか。--Greenland4 2008年2月25日 (月) 13:20 (UTC)
- 仰る事はよく分かりますし、出来る事ならそうしたいのですが、残念ながら他の方が許しません。私はこういう説がありますよ、そしてこういう反論がありますよという事が書きたかったのですが、(実際アポロ計画陰謀論がそうなのですが)与太郎の話は与太郎でしかありません。他の人はもう「貴方の言は聞かない」と決めているので私のひとりの抵抗としては今の方法しかありません。というよりあきらめています。余談ですが、この話は彼が大きくしたのは事実ですが、江戸中期から存在しシーボルトが大々的に「日本」の中で発表しています。大変歴史があるのです。ですから他の方で書いていただける方が沢山いらっしゃると思うのですが中々現れません。反対ならば反対の欄に署名してください。--復活のシャア 2008年2月25日 (月) 14:36 (UTC)
お返事、ありがとうございます。他の人のせいにばかりするのはいかがなものかと思いますが、与太話として切って済ますなら、そもそもこの記事の必要性はないのであり、削除した方がスッキリすると思います。まともな歴史家からは相手にされていないというのは事実としても、それで話は終わらないのであり、にもかかわらず、根強い支持者がいるのは何故かという疑問に答えなくてはいけないわけです。復活のシャアさんも「貴方の言は聞かない」と言われたら、それにただ反発するのではなく、話を聞かせる努力をしなくてはならないのではないでしょうか。また、Haydarさんが文献に詳しいことはお認めのようですから、もう少し協力しあうことを考えてはいかがでしょう。江戸時代中期から、この伝説があるのだとしたら、それが、誰のどの本にどのように書かれているか、伝説と鎖国政策あるいは幕府の文教政策とのかかわり、そういうことを書かなくてはいけないでしょう。シーボルトの「日本」にこの伝説がどう記されているか、その情報も圧倒的に不足しています。原典にあたっての加筆が必要と考えます。--Greenland4 2008年2月25日 (月) 22:42 (UTC)
(追記)この記事の名称も、「義経=ジンギスカン説」ではなく、「成吉思汗=源義経伝説」が適切だと思います。歴史学的な成果は、源義経、チンギス・ハーンに記せばいいのです。--Greenland4 2008年2月25日 (月) 13:26 (UTC)
- 今日も面白い意見が来ました。
信憑性があるかと問われれば100%確実ですとは答えられません。ただチンギス・ハンがモンゴル文字を作らせるまで家系は口伝で語り継がれてきました。語り部は正確に伝承し、歪曲することは死を意味するので、割と正確に伝わったのではないでしょうか?勿論、権力者の命で都合よく変えられたり、賛美で誇張したりはあったでしょうが。自分の聞き取り調査では、チベットではチンギスの先祖に釈迦一族がいたり(ダライラマを支援した見返の権威付け)、中央アジアではムハンマドの家柄に繋がったりしていることになってますから。
- 一見この方は信憑性があるような事を仰ってますが、やはり、口伝を信用してません。何でチンギスの祖先が釈迦やねん。何でムハンマドに繋がってんねん。いかに口伝がいい加減なことがわかります。でもこの方はチベットなどに聞き取り調査にいったんだ。すごい。
- 昨日の方がまたデータをくれまして、
日本のモンゴル史研究の第一人者の吉田さんが、「日本で言えば『古事記』にあたる」というように、伝承として扱うに尽きると思います。言い換えると「身元」を検証できるような他の史料は皆無ということです。なるほど。伝承ですよね。
- Readで検索すると『集史』で宇野氏という人物がヒットしますが、まさかHaydar氏が宇野さんてことは・・・
--復活のシャア 2008年2月26日 (火) 13:53 (UTC)
- わたしは「話を聞かせる努力をした方がいいんじゃないか」と申し上げたつもりであり、「話を聞かせない努力をした方がいい」とは申し上げなかったはずですが。わたしの言い方がまずかったのでしょうか。--Greenland4 2008年2月27日 (水) 12:35 (UTC)
歴史学としては無意味だけど、文化人類学的には面白い。 その路線でこの伝説がまことしやかに未だ語り継がれていることは確かなわけで 桃太郎みたいなもんだという事がわかればそれでいいんではないかと。 そして、現状そういうもんだというのが分かる記事なんで、このままで問題ないと思いますが どの記述が問題で巻き戻すべきなんすか? --Violencist 2008年2月26日 (火) 21:14 (UTC)
- 2007年12月17日 (月) 04:28のR28Botの版までもどすそうです。履歴を見るとわかります。投稿ありがとう。--復活のシャア 2008年2月27日 (水) 12:09 (UTC)
この伝説が長い歴史をもっているというのは、復活のシャアさんがおっしゃる通りで、最初は「義経が死んではいない」という伝説だったわけです。チンギス・ハーンとは関係なかった。それが、江戸時代ころには「義経が死んではおらず、実は蝦夷島に渡った」という北行伝説にリメイクされたわけですね。これらは、西廻り航路の発達やアイヌ・ロシアなどとの接触による北方への関心の高まりと強い関連があるわけです。実は、江戸時代の対外的な知的関心の高さは、それまでとくらべてむしろ高いくらいで、漢学や蘭学の興隆などというより、もっと庶民に根ざしたものであったようです。そうして、これらを経て大正年代の「成吉思汗=源義経伝説」になったということですね。そういうふうに3段階で変遷しているわけです。ここでは、そうした伝説の歴史を記すべきではないでしょうか。もちろん、それには大正デモクラシーなどにみえる大衆の政治参加、文化の大衆化、日清・日露を経ての大陸内陸部への関心の深まりと無縁ではありません。それから、復活のシャアさんは、「そしてこういう反論がありますよという事が書きたかった」とおっしゃるのであれば、このノートに記された「反論」を、記事に反映させるべきではないかと思います。ノートのなかだけにとどめておくのは、もったいないと思います。--Greenland4 2008年2月27日 (水) 12:35 (UTC)
- おおむねGreenland4さんのご意見に賛同です。いちおうの確認はしておきたいのですが、「歴史学上の話題とすること」というのは「歴史学説のひとつ」として「義経=ジンギスカン説」を取り扱うということで、 歴史学の対象としての「義経=ジンギスカン説」の当否を論じられている訳ではないですよね。伝承史や文学史、史学史、民俗史的な観点あるいはもしかしたらとも思うのですが、一種のナショナリズム史のなかでもとりあつかいうるかもしれませんから、歴史学の対象となることとはおもいます。この種のものでは以前、おなじモンゴル期ネタで、かつはるかに学説に接近したものですが、暗殺教団という記事を書きました。スタンスとしては同種のものとして整理してゆくことができるように思います。巻き戻すにせよしないにせよ、現状の記事は整理が必要です。特に概要部が、「説の主張すること」と「事典が解説するところのこと」がごっちゃになっていて、どこからどこまでがカギカッコつきで読むべき部分なのかわからないということがあります。また経緯節も時代が前後していて、あげくに昭和・平成節の余韻を残すような記述で、これでは期待が持てる学説のようにすら読めてしまうかもしれません。本記事を構成すべき要素をアウトライン化し、構成を再検討することが必要ではないでしょうか。
- それから復活のシャアさんへ苦言を。HaydarさんやGreenland4さんなどのお書きになった文章をきちんとお読みになり、かつ議論をひとつひとつ解決させていってください。つぎに本を出すときは書誌にあるていど言及してください。たとえば20数年前に「国立図書館」で「集史」をお読みになって云々とおっしゃっていますが、その国立図書館というのはどこでしょう?トプカプ?ビブリオテクナショナル?どちらでもなければ具体的な名前を。また校訂本でしょうか、写本でしょうか。写本ならどの写本ですか。と、いちいちこういうことをその辺の刊本でもやっていたらきりがありませんから、お願いします。さらにHaydarさんもらりたさんもほかの方も誰も伝説としての本記事主題について記述することに反対などしていません。「仰る事はよく分かりますし、出来る事ならそうしたいのですが、残念ながら他の方が許しません。私はこういう説がありますよ、そしてこういう反論がありますよという事が書きたかった」ような議論がおこなわれているでしょうか。また吉田さんと古事記云々をあげられていますが、古事記が日本の古代史において史料として用いられていないとでもおもっていらっしゃるのでしょうか。それから聞き取りなどしなくてもサイイドやシャリーフが「イスラーム世界」に広く分布していることはよく知られていることですし、サイイド・シャリーフ論は歴史学研究においても重要なテーマです。口承なりを史料として扱うのは非常な注意が必要で、このあたりは史料論の根幹にもかかわるというか、史料というのは信頼できるかできないか、そしてできないなら用いない、できるなら全面的に用いるといった性格のものではありません。黒か白かではないのです。史料間のつきあわせと、その各史料の信頼性によって、比較的確度の高い歴史学的見解を導き出すことが歴史学の営みです。
- さて、そもそもノートがこれだけ長くなっているわけですが、うえに書いたとおり、伝説としての本記事が掲載されることについての議論というのは実はまったく争いのない点でして、ひたすら系譜についての扱いを復活のシャアさんが批判されているだけです。とすると、このことはチンギス・カンについての歴史学上の問題点をあつかっているわけですから、本記事ではなく当該記事のノートでなされるべきかと考えますし、当然これは研究史的にまともに位置づけられる議論たる必要があるように思います。--Kotoito 2008年2月27日 (水) 14:32 (UTC)
ありがとうございます。すべてはKotoitoさんのおっしゃったとおりです。まあ、話をわかりやすくするためにあえてそのように書きました。「歴史学としては無意味」どころか、歴史のおもしろさというよりむしろ怖ろしさを強烈に感じさせるテーマだと考えます。個人的には、この説が大正時代に出てきたというのが、興味深いと思います。内に立憲主義、外に帝国主義という二面性が、この時代は強いんですね。西洋を追いかけよう、合理主義・客観主義でいこう、という明治の基調とはやはり、同じナショナリズムでも質がかわってきている。しかも、関東大震災の大惨事の翌年なのです。伝説というのは、それを必要とする誰かがいるから成り立つものなんでしょうね。--Greenland4 2008年2月27日 (水) 15:35 (UTC)
物語を誰が何故欲するかという観点はすごい、確かにこの説の歴史は大変に面白いと思います。
一点気になりますが、シャア氏のディベートの姿勢が問題だから、政治的に彼の記事を消すでは全く話になりません。ここは態度に対して懲罰を科すところでも何でもないわけで。
記述に問題があるのでしたら、客観的にその記述についてわかりうる証拠を挙げて、その上で修正をするのが正解ではないかと。
攻撃は人格に対してではなく、論に対して行うべし。
逆に攻撃された側も、自分が攻撃されたわけではなく、論が磨かれたと思うべきです。
ディベートの基本です。感情的になったらもう議論ではないでしょう。
--Violencist 2008年2月28日 (木) 02:48 (UTC)
- 私も似たような感想をもちました。実際のところ、巻き戻したところで、それほど変わらないと思いました。少なくとも巻き戻されたとしても「荒唐無稽」云々の記述は不要ですし、情報量としてさほど変わらないのなら、巻き戻しは懲罰の意味しか持ち得ません。それが何の効果をもたらすかといえば、およそ不毛なものではないかと愚考いたします。とはいえ、投票した以上は、投票の結果にしたがうべきなのは当然であり、票を投じておいて(しかも、そのことを他者に要求しておいて)、その投票の無効性を主張するような姿勢は許されまいとは考えますが。わたしが思ったのは、個人的に「荒唐無稽」と思っても、記事にそう書いてはいけないのではないかということです。もちろん、シャア氏も大日本史を「公文書」と書いてみたり、不適切な資料操作が多いのですが、だからといって同じことを自分がやっていいとは思いません。判断するのは読者なのであり、双方とも、もっと読者を信じた方がいいんじゃないかと思いました。いずれにせよ、「荒唐無稽」だとか「かなり信じられている」のような「形容詞」は極力排除なさった方がよろしいんじゃないでしょうか。まあ、巻き戻されることになるんでしょうが、何かの役に立つかもしれませんので、少し自分なりの節構成にもとづいて、自分なりに加筆修正をおこないたいと思います。--Greenland4 2008年2月29日 (金) 16:32 (UTC)
巻き戻しに賛成票を投じた者の一人として、私の見解を述べておきます。私が巻き戻しに賛成したのは、敢えて誤解を恐れずに言えば、少なくとも投票当時の版はいびつな肥大化をしていたように感じたからです。私の考えすぎであるかもしれませんが、「義経=ジンギスカン説」を史実として認めさせようとする意図を感じる状態であったようにさえ思いました。現版ではかなり改善されてはいますが、それでも「小谷部全一郎による「成吉思汗=義経」説の提唱」以下のくだりに列挙されている「証拠」など、もっと整理が必要ではないかと思います(というかあんなに列挙する必要はないと思います)。一旦巻き戻した上で、ノートやこれまでの編集の成果も加えつつも再構成したほうがよりよいものになるのではないか、そう感じたから賛成したのです。このまま編集を続けた結果、よい内容になるのであれば、別に巻き戻しにはこだわりません。
ところで、これは別の話ですが、この記事名「義経=ジンギスカン説」は「義経生存説」「義経北行伝説」などに変更して、「義経=ジンギスカン説」は小谷部説以降だけを分離したほうがいいんじゃないでしょうか?より古くからの歴史がある説なのは「義経生存説」「義経北行伝説」であって、「義経=ジンギスカン説」ではないですし。--てぃーえす 2008年2月29日 (金) 17:23 (UTC)
- 「史実として認めさせよう」という態度と「史実として認めさせまい」という態度は方向性は逆であっても、態度としてはまったく同じなのではないでしょうか。相手を決して責められないのではないかと考えます。「考えすぎであるかもしれませんが」という懸念があるなら、少なくとも、「史実として認めさせようと考えていますか」と質問することはできたのではないかと思います。百科事典をつくるという共通の目標があるのならば、もう少し、言葉の力というものを信じるべきなのではなかったのかと思いますし、言葉の力を信じていれば、そう安易に「投票」という行為に及ばずにすんだのではないかと思います。そもそも、言葉の力を信じなければ百科事典の編集なんてできないんじゃないでしょうか。列挙されている「証拠」については、情報量が増えたのはよいことだと思います。それを読んで、「こんなに証拠があるなら、これは伝説ではなく本当のことかもしれないな」と思う人がいるかもしれないし、「いくら語呂合わせみたいなものを重ねたって、史実にはならない。小谷部、必死だな」と思う人もいるでしょう。「こんなにあるのか」と単純にそのことに興味をもって、より多く知りたい、深く調べたいと思う人もいるでしょう。別に、どう思ってもいいわけです。読み手の判断材料が増えることは歓迎するべきことであり、判断する主体は読者なのです。それが「中立性」ということじゃないかと思いますが、いかがなものでしょうか。それから、
- >記事名「義経=ジンギスカン説」は「義経生存説」「義経北行伝説」などに変更して、「義経=ジンギスカン説」は小谷部説以降だけを分離したほうがいいんじゃないでしょうか? より古くからの歴史がある説なのは「義経生存説」「義経北行伝説」であって、「義経=ジンギスカン説」ではない…
- という御意見ですが、確かに、これは一理ある御意見と拝察いたしますが、この場合は一連のものとして扱った方が「義経=ジンギスカン説」の輪郭(アウトライン)や民俗学的位置づけがつかみやすいのではないかと思います。書き手側の判断に応じたものでなく、読者にとって判断がつきやすい方を採用した方がいいんじゃないでしょうか。要するに、この伝説は古くからあった伝説に乗っかったわけです。乗っからなければ、これほど人口に膾炙することはなかったんじゃないかと思います。義経北行伝説という記事が必要だと思うのならば、北海道・東北の伝説地を調べあげて充実させたような記事をまた新たにつくればいいのではないか、分離する必要はないのではないか、と個人的には思います。伝説というのは、新たな時代状況や新たな知見と結びついて、飛躍し、発展する。この記事の場合は、その部分こそがおもしろいし、また、おそろしさも感じる部分ではないかと思います。くり返しますが、われわれ自身が判断する必要はまったくなくて、判断材料を提供するという立場に徹して、淡々と伝説そのものを紹介した方が、記事の充実につながるんじゃないかと思います。いかがでしょうか。--Greenland4 2008年2月29日 (金) 23:01 (UTC)
- しばらく議論に参加していなくてすいませんでした。言いだしっぺの私からいくつか言明しておくことがあります。
- 私は「伝説としての義経=ジンギスカン説」が記述されることに関しては何ら反対はしていません。
- まず復活のシャアさんの手が入った最終版である2008年1月30日 (水) 05:54の版をご覧ください。この版では杉山正明氏があたかも義経=チンギス説に賛同しているかのように書かれ(ご本人が聞いたら怒りますよ、きっと)、ウィキペディアの遊牧民の記事を典拠として挙げ(更にその内容を誤読している)、また「『元朝秘史』は明の初期に書かれ」などといった明らかな間違い(おそらく『元史』と混同したんでしょうが)が多数含まれているなど、あまりにも問題がありすぎる内容でした。
- そこで私は目に余る部分をばっさり削除しました。それが2008年2月1日 (金) 22:27の版です。
- この編集は自分で言うのもなんですが、かなり乱暴なものでした。しかし復活のシャアさんが書いた文章は明らかな誤謬とミスリードが多くあり、それを放置するよりはまだましかと考えて実行しました。
- 私自身はこの説自体には知識が無いため、それ以外に変な所が無いかを抽出できませんでした。また荒っぽい編集のため文章の流れが寸断されている部分もありました。ですので一旦、Haydarさんの書いた文章まで戻したほうがそういった「どこに地雷があるのか解らない」という状態で編集を進めるよりもすっきりして良いと思ったので巻き戻しの提案をしました。現在はGreenland4さんが文献に基づいて加筆してくださっているので、巻き戻しをする必然性は薄れました。ありがとうございます。
- 投票ということに関しては、はっきり言って復活のシャアさんには話が通じないとあきらめたからこそ行ったものです。出来るならばこのようなことはしたくはありません。
- 「荒唐無稽」ということに関して。この「義経=ジンギスカン説」があたかも「歴史学に於いて期待の持てる説」であるかのように書くことは百科事典として明確に問題のあることと思います。「『義経=ジンギスカン説』が現代の歴史学で取り上げられることは無い」という「情報」(主観ではなく情報です)は百科事典として読者には必ず渡さねばならない「情報」であると思います。でなければ読者を大きくミスリードする可能性があります。
- 以上に述べたことを再要約しますと「伝説はあくまで伝説として記述し、歴史学に於いては問題とされることはないということを明記する。そのことによって、伝説と歴史学上の論争とを明確に区別すべし」ということです。らりた 2008年3月1日 (土) 13:30 (UTC)
巻き戻しとは関係ありませんが
続本朝痛鑑
本文中に『続本朝痛鑑』(林羅山)なる文献への言及が2か所ありますけど、『続本朝通鑑』ですよね?ためしにGoogleで『続本朝痛鑑』を検索してもこのページしか出て来ませんでしたし。ちなみに、『続本朝通鑑』でも約81件(重複を除くと約53件)でしたが、いくつかは義経北行説についてのページでした。 私は日本の歴史文献はよく知りませんから、『続本朝通鑑』の検索結果も数が少ない状況ではどちらが正しいのか自信を持って判断できませんし、本項目は巻き戻しの議論・投票をしているところなので、すぐには直さず指摘にとどめますが、ちょっと気になったので、ご参考まで。--水上楼閣(会話) 2008年2月27日 (水) 01:22 (UTC)微修正--水上楼閣(会話) 2008年2月27日 (水) 01:28 (UTC)
ありがとう。すぐ直しました。皆興味がないのか直さないんですね。--復活のシャア 2008年2月27日 (水) 12:10 (UTC)
まったく関係ありませんが
本当にまったく関係なくて申し訳ないのですが、ここにはモンゴル史に詳しい方々がお集まりなので、よろしければのお願いです。わたしの執筆した世界の一体化#近代世界システムの胎動ですが、もしよろしければ、お読みくださり、重大な遺漏などありましたらぜひ、加筆していただきたいのです。厚かましいお願いを場違いなところに申し訳ありませんが、何とぞよろしくお願い致します。--Greenland4 2008年3月8日 (土) 01:37 (UTC)
巻き戻しの提案3
Haydarさんを初めとして、このノートでの議論に参加してくださった皆さんには本当にありがとうございます。残念ながら復活のシャアさんには全く通じなかったようでして、あまり良いこととは思いませんが、復活のシャアさんを無視して投票で決定することを提案します。
当初の提案どおり、2007年12月17日 (月) 04:28のR28Botの版にまで巻き戻すことに対する成否に付いて投票をお願いいたします。なお、この投票に付いてはIPおよび2008年2月21日 (木) 12:23 (UTC) の時点で未登録のアカウントの投票は無効とさせて頂きます。理由は言わずもがなでしょうが、ソックパペット対策です。
この投票自体に付いて反対という方も意見をお願いいたします。ただし説得力のある意見をお願いします。また上と同じく、IPおよび2008年2月21日 (木) 12:23 (UTC) の時点で未登録のアカウントの意見も無効とさせていただきます。
以上、唐突ながら投票を始めさせていただきます。あまり早急に決めるのも難なので3週間ほどを目安としましょう。
この説に共感し巻き戻しに反対したいという人がいても、今からアカウントが取れないし、IPアドレスのみもだめでしょう。こういうのは無理すぎるでしょう。平等じゃない。この投票は無効です。--復活のシャア 2008年2月27日 (水) 12:02 (UTC)
- 失礼かもしれませんが、ここ理解していますか?「理由は言わずもがなでしょうが、ソックパペット対策です。」
- 誰かがやる、と決め付けるわけではないですが、取ったばかりのアカウントやIPでの投稿を許せば、少数の者が多くの票を投じることが出来ます。それこそ平等じゃない。
- 先に書き込みが停止されている方の複アカウント(ソックパペット)と疑われたアカウントがありましたが、その手の悪知恵が働く方もいますので、その対策としてはらりた氏が提案したような方法を取るしかないんですよ。IPはいくらでも変わりうるし、アカウントも作ろうと思えばいくらでも作れる。1人1票という平等を維持するためには、既存のアカウント以外は排除するしかないのです。そこはご理解いただきたい。--てぃーえす 2008年2月27日 (水) 13:30 (UTC)
- 投票した以上は、「この投票は無効」という主張はなさるべきではないと考えます。それにまた、わたしの場合は別に巻き戻しに反対なのは「この説に共感し」ているからではないのです。巻き戻しが賛成多数なら従うべきです。巻き戻しされたくないと心底思うのであれば、今から書き直して、伝説の変遷と背景を万人に説明するような内容にしていけばいいだけの話です。3週間もあれば充分でしょう。このノートで、みなさんが示してくださった知識も活用なさったらいかがでしょうか。--Greenland4 2008年2月27日 (水) 14:07 (UTC)
- 巻き戻しを提案しておいてなんですが、その後Greenland4さんによる加筆が行われ、これを全部巻き戻ししてしまうのはあまりに問題があるかと思いますので、とりあえず現状維持でいきたいと思います。らりた 2008年3月16日 (日) 12:10 (UTC)
- 約束ですから巻き戻してください。--復活のシャア 2008年4月9日 (水) 12:41 (UTC)
- 私は復活のシャアさんが手を入れた「酷い状態」を何とかしたくて巻き戻しの提案をした訳です。Greenland4さんが修正してくださってまともな記事になったので巻き戻しする必然性がなくなったので、とりあえず現状維持にしました。約束だからとか「勝負にまけた」とかウィキペディアという存在を根本から勘違いなさっているとしか思えません。記事はあなたの私物では(無論私の私物でも誰の私物でも)無いのですよ。らりた 2008年4月9日 (水) 12:50 (UTC)
- 勝負に負けたというのはGreenland4さんから連絡があったということですね。貴方も少し間違えておりますよ。ノートでの議論もなされずに大胆な削除をされたのですから。これはルール違反でしょう。ブロックされてもいいくらいのことですよ。これも聞いたでしょうからいいますけれど、私が立てた項目「シーボルトの義経=ジンギスカン説と統合しようとする動きがあります。これには大反対です。まずサーバーの負荷の問題がひとつ。貴方の手の入ったところにおきたくないのが二つ。例の系譜問題です。これには賛成できません。一応巻き戻しをしないということは、Greenland4さんの記述がはいったにせよ、私の意見も否定されなかったということなのではないですか?私は『義経北行説』と別個にしたい。 --以上の署名のないコメントは、復活のシャア(会話・投稿記録)さんが 2008年4月9日 (水) 13:39 (UTC) に投稿したものです(Haydarによる付記)。
- 途中から議論を抜ける形になってすみません(汗 編集されてから大分間が空いてしまいましたが、Greenland4さんが整理されて可読性が大幅に改善されたように自分も思いますので、発議者であるらりたさんの現状維持案に賛成します。(小谷部『成吉思汗ハ源義經也』に対する反応の部分で『成吉思汗は源義経にあらず』が「小谷部説を批難した」という程度の紹介しかされていないので、この論文集についてもう少し具体的な内容をいくつか付記する必要がありそうですね)--Haydar 2008年4月9日 (水) 15:00 (UTC) 一部修正。たびたびすみません(汗 --Haydar 2008年4月11日 (金) 14:16 (UTC)
- >貴方の手の入ったところにおきたくない
- これはないんじゃないでしょうか。他の方も言っていますが、ウィキペディアには、「自分と自分に都合のいい者だけが手を入れられるページ」などは存在しません。たとえどんなに気に入らない相手、遺恨のある相手であれ、編集を止めることはできませんよ。まして、反対者の手垢が付いていないページが欲しいという理由で新項目を立てるなどというのは言語道断です。反対意見はその記事をよりよいものにする糧だと思うべきで、勝ち負けではないのです。らりた氏や私が前に巻き戻しに賛成しながら今は現状維持を唱えるのは、この件は勝ち負けではなくこの記事を良いものにしようとするための議論であり投票であったからです。今の復活のシャア氏のような考え方ではウィキペディアでは必ず破綻しますよ。
- 氏のこのようなウィキペディアに対する誤解が是正されない限り、復活のシャア氏には「ウィキペディア編集から足を洗ってご自分のHPやブログで思う存分好きな事を書いた方がいいですよ」としか言えません。投稿ブロックになったようですが、ブロック期間中にその点を理解されることを願います。--てぃーえす 2008年4月10日 (木) 23:05 (UTC)
投票所
巻き戻しに賛成
- らりた 2008年2月21日 (木) 12:23 (UTC)
- てぃーえす 2008年2月21日 (木) 14:09 (UTC)
- 小者 2008年2月21日 (木) 15:19 (UTC)
- Haydar 2008年2月21日 (木) 15:47 (UTC)
- Heavyhand 2008年2月22日 (金) 18:02 (UTC)
- おーた 2008年2月23日 (土) 08:25 (UTC)
- Aboshi 2008年2月24日 (日) 03:52 (UTC)
- shimoxx 2008年2月26日 (火) 08:46 (UTC)
- 六拾壱式 2008年3月13日 (木) 16:01 (UTC)
巻き戻しに反対
- --復活のシャア 2008年2月22日 (金) 00:28 (UTC)
- Greenland4 2008年2月25日 (月) 23:53 (UTC)
- --Violencist 2008年2月26日 (火) 20:52 (UTC)
- --Espaqque 2008年5月1日 (木) 05:38 (UTC)
「科学的に否定されている」という表現はおかしすぎる。DNAなどの科学的証拠があるのか。 「世界一般的には」などの表現が望ましい。世界史的にも、中国などの文献にも記載がない。--以上の署名のないコメントは、59.147.62.54 (会話/Whois)さんが 2010-03-08 01:03 (UTC) に投稿したものです。
何だ、まだうろついてんのか。学習しなよ--58.1.117.18 2010年4月24日 (土) 17:09 (UTC)
中立的な観点と出典明記のテンプレートの付加について
今年の二月の末くらいから、219.182.78.50さんによって連続的に編集がされていますが、記事内容は「義経=ジンギスカン説」の説明というよりも、ここのノートでも3年程前に議論になった復活のシャアさんの意見をそっくりそのまま本文記事化するような雰囲気に作り替えられつつあるように感じます。特に自分がこれは早急に是正すべきだと思ったものとしては、以下の3、4点を挙げます。
まず第1点としては、義経=ジンギスカン説#シーボルトと末松謙澄でシーボルトがあたかも「源義経=チンギス・カン」を唱えていたような書き方をしており、註でいくつか説明らしきものは有るようですが、実際にシーボルトがそのような言説をいつどこで述べていたのか、肝心のシーボルト自身の著述からの引用を一切行っていません。(例えば『シーボルトの日本報告』(東洋文庫、2009年)などシーボルトの日本関連の著作などが挙げられていない)
第2点として、また、義経=ジンギスカン説#モンゴル史研究からみた成吉思汗伝説の部分でも「従来のモンゴル史研究ではチンギス・ハーンを義経の後半生であるという見解は勿論存在していない。」とあるにも関わらず「ただし、長崎出島から江戸時代にヨーロッパへ一部伝わっている。」として日本での「義経=ジンギスカン説」が江戸時代にヨーロパへ伝播したという説明をしていますが、これは日欧の知的情報の伝播という重要な問題があるので、研究史的な指摘があっても良さそうなものですが、註では、
- 長崎出島商官長のティッチング(Isaac Titsningh:1745~1812)が『読史余論』、『蝦夷志』を翻訳し、それが、マルテ・ブリューン(Conrad Malte-Brun:1775~1826)編の『地理および歴史に関する探検旅行記録集』(Annales des voyages,de la geographine et de I'historie.第二四巻、1814年、パリ刊)
と文献引用らしきことはしていますが、実際に「義経=ジンギスカン説」が日本からヨーロッパに伝播したのか、その文献の当該部分の引用も無ければ、それについての研究論文などの情報も載せていません。これは独自研究の疑いが高く、この部分自体の信憑性についても疑いを抱かざるを得ません。
第3点として、義経=ジンギスカン説#肉体的特徴その他の部分で「モンゴル政府公認のチンギス・カンの肖像画は小柄な人間の姿が描かれており」と書かれておりまして、その註として「チンギス・ハーン大モンゴル”蒼き狼”の覇業(学研)P47」と出典がされています。自分も同書を持っていまして、これは『チンギス・ハーン大モンゴル”蒼き狼”の覇業』(歴史群像シリーズ特別編集、学研マーケティング 、2007年02月)に寄稿された岡田英弘氏の「"モンゴル民族"を創ったチンギス・ハーン」(同書42-47ページ)のことのようです。その47ページに確かに駐日モンゴル国大使館蔵として「チンギス・ハーンの肖像」の白黒写真が掲載されています。しかしながら、これだけでは「頭身がやや低めの肖像」である事は分かってもチンギス・ハーンが「小柄」かどうかはいささか判断出来ません。また、岡田英弘氏の寄稿文本文でも5ページ中4ページを漢籍でのモンゴル族の初出にはじまり匈奴からトルコ民族の興亡に費やしており、最後の5ページ目にようやく「チンギス・ハーン」による1206年までのモンゴル統一を説明していますが、チンギス・ハーンが小柄であったような説明はされていません。これは編集者の個人的な判断を一般化しようとするもので中立的とは言い難いものです。
もう一点だけ。岡田氏の寄稿文の写真のことにつづけて「「集史」の絵も同様に小柄に描かれていて真実のほどはよくわかっていない。」と書かれています。「「集史」の絵も同様に小柄に描かれていて」と述べた説を、どこかのブログでその部分の「集史」の白黒写真つきで、自分も見た事があります。しかし、これはその白黒写真の元の資料であるフランス国立図書館がネットに公開しているいわゆる『集史』パリ本のカラー画像(Supplément persan 1113, fol. 65)を見ますと、登場人物たちは描かれている位置が上下しているだけで、登場人物はほぼ同じ背丈で描かれていることが分かります。(絵そのものはサイトに掲載してある画像内の『集史』のペルシア語本文とロウシャン校訂本などとを見比べると、1214年4月に金朝皇帝宣宗との講和によってチンギス・カンのもとに衛紹王の皇女・岐国公主が嫁いで来たものだと分かります。ただし、そのブログでは右から2番目の杖か鎚矛を持った人物をチンギスカンと看做していますが、『集史』パリ本のチンギス・カンは基本的に金の冠をかぶっているため、個人的にはこの人物がチンギスかは疑わしく思います。)『集史』ではチンギス・カンについて特に背丈が低かったなどといった事は寡聞なことで、自分が確認した範囲では一切書かれていないため、「「集史」の絵も同様に小柄に描かれていて」という部分は記事本文として良いか怪しくそもそもが完全に事実誤認と言わざるを得ません。
今後の提案としては、ひとまずはこれらの点の是正に有りますが、場合によっては、219.182.78.50さんの 2011年2月28日 (月) 06:59 から編集を全て差し戻す必要が出て来るかも知れません。大変なことかとは存じますが、他の編集者の皆さんにも記事本文の査読やご意見を伺いたいと思います。--Haydar 2011年4月3日 (日) 19:00 (UTC) 一部修正。読みにくかったので問題と感じられた記事本文部分を太字化。 --Haydar 2011年4月3日 (日) 20:13 (UTC)
- 自分が見たと思われる上記の Supplément persan 1113, fol. 65 の画像をチンギス・カンの背丈と関連づけているブログを見付けました。
- Electronic Journal 2005年08月12日 テムジン2回の即位の真相(EJ1654号)
- http://electronic-journal.seesaa.net/article/5817093.html
- どうやら岩村忍『元朝秘史 チンギス=ハン実録』(中公新書 18; 1963年)からの転載のようで、ブログの管理人の方は「成吉思汗が降伏させた敵将と謁見している絵」と判断されているようですが、上で書いたようにこの絵は金朝皇帝衛紹王の皇女であった岐国公主がチンギス・カン陣営に嫁いで来た場面を描いたもので、左端の馬上の金の冠を頂いた人物がその岐国公主です。(掲載の画像では省かれていますが、このフォリオのペルシア語本文の前後読むと画像の主題が岐国公主 كونجو خاتون Kūnjū Khātūn 降嫁の話だとわかります) 自分は岩村忍『元朝秘史 チンギス=ハン実録』の内容をまだ確認出来ていませんので、近いうちに岩村忍先生が実際に同書でこの画像を「成吉思汗が降伏させた敵将と謁見している絵」と説明しているか、あるいはチンギス・カンの身長について画像と合わせて述べているかなどを調べておきたいと思います。--Haydar 2011年4月3日 (日) 20:03 (UTC)
- 219.182.78.50さんが 2011年4月4日 (月) 08:47 の編集にて義経=ジンギスカン説#現存資料に見られるチンギス・カンの系譜情報に要出典タグを貼られました。しかし、記事内容で重大な部分と思われる義経=ジンギスカン説#シーボルトと末松謙澄での文章についてタグを用いての検証要請には十分に処置されておりません。記事内容はシーボルト自身の著作からの検証を要するものであるにも関わらず、ただ、脚注に「ムー2009年8月号 総力特集=義経ジンギスカンの復活と天皇の国師」と付加するのみでした。現代の雑誌『ムー』は飽くまで現代の著作物であり、シーボルト自身の著作でもその日本語訳されたものでもありませんので、この脚注は失当であると言わざるを得ません。219.182.78.50さんがタグを貼られた部分について、義経=ジンギスカン説#モンゴル史研究からみた成吉思汗伝説は本項目の「義経=ジンギスカン説」の比較材料としての役割しかないため、(チンギス・カンの項目を見れば済むレベルの問題でもあるため)過剰な脚注は必要ないと個人的には思うのですが、ひとまず脚注を加筆しました。219.182.78.50さんには、文献の引用方法をもう少し一般的で適正な形で行われる事を望みます。 --Haydar 2011年4月4日 (月) 22:01 (UTC) 敬称をつけ落としていたので付加。--Haydar 2011年4月5日 (火) 14:13 (UTC)
通りすがりの者ですがね。元朝秘史とモンゴル秘史は同じものですよ。同じことが書いてあって当然ですよ。これを諸資料とする?家系については三代くらいまでは一致する事が多いですが、それ以前はわかりません。モンゴル史は口伝と文字文化がなかったので「よくわからない」とするのが、常識ですが。 集史の絵ですがね。チンギスカンのとなりにいる女性がどうしても私には大きくおもえますね。「女性が無茶苦茶でかいんだ」、とすればそうかもしれませんが。とするとチンギス・カンが大きかったとするのは無理があると思います。——以上の署名の無いコメントは、115.179.119.174(ノート/Whois)さんが 2011年4月7日 (木) 02:34 (UTC) に投稿したものです(Haydar 2011年4月7日 (木) 18:55 (UTC)による付記)。
- Haydarです。115.179.119.174さん、コメントありがとうございます。さて、
- >元朝秘史とモンゴル秘史は同じものですよ。同じことが書いてあって当然ですよ。
- >これを諸資料とする?家系については三代くらいまでは一致する事が多いですが、
- とのことですが、115.179.119.174さんが何を問題とされているのか、失礼ながら全くわかりません。自分が本文の註に引用した村上正二訳註『モンゴル秘史』(東洋文庫版)は『元朝秘史』のいくつかある日本語訳のひとつであって、別に、史料である『元朝秘史』と村上正二訳註『モンゴル秘史』が全然別の資料であるとして説明した訳ではありません。史料である『元朝秘史』の日本語訳本は、最初に那珂通世(訳注)『成吉思汗實録』があり、戦中期に小林高四郎訳『蒙古の秘史』があり、東洋文庫版の村上正二訳註『モンゴル秘史』全3巻があり、小澤重男『元朝秘史全釈(上中下)』と『元朝秘史全釈続攷(上中下)』の計6冊があり、これをうけた岩波文庫版の同じく小澤重男訳『元朝秘史』全2巻があります。
- 仰るように「同じことが書いてあって当然」であって、なんら問題とすべきところはありません。何を問題とされているのか皆目分からず困惑いたしております。
- 「チンギス・カン自身の家系は諸資料ではっきりとした記載があり」というところで言う諸資料というのは、その後にある文章で書いてある、史料である『元朝秘史』のことであり『集史』のことであり『五族譜』のことであり、また『集史』の影響で著されたイルハン朝末期の『バナーカティー史(Tārīkh-i Banākatī)』や同じくハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史(Tārīkh-i Guzīda)』であるとか、『五族譜』を受けて成立した『高貴系譜』であるとか、あるいはまた近代になってクビライ裔のサガン・セチェンによる『蒙古源流』などの16,17世紀以降のモンゴル語年代記などのことを指して「諸資料」と言ったものです。これに大元朝最末期くらいに成立したチベット語年代記の『フゥラン・テプテル』などを加えても良いかも知れません。
- >モンゴル史は口伝と文字文化がなかったので「よくわからない」とするのが、常識ですが。
- これは重大な思い違いをされています。
- 13世紀に入ってから、モンゴル帝国の内外でチンギス・カンやその祖先たちの事績についての記録は多く書かれました。その代表が『集史』であり『元史』であり『聖武親征録』であり『元朝秘史』などです。勿論、そこに書かれている事が全て事実そのままだったかは厳密には今となってはわかりませんし、『聖武親征録』の編纂時期は不明であり、『元史』や現存の『元朝秘史』12巻本は明朝になってから編纂されたものですが、モンゴル帝国時代に編纂された『集史』と全般的に言って多くのエピソードを共有しています。その点については、村上正二、本田実信、杉山正明その他多くのモンゴル帝国史関係の研究をされている方々が多くを述べていますので、そちらをよくよく参照して頂きたいと思います。
- 本項目の義経=ジンギスカン説#モンゴル史研究におけるチンギス・カン像以下の文章で述べられていることは、「チンギス・カンの出自などは実際はどうであったか」ではなく、「チンギス・カンの出自などについて書かれてる、モンゴル帝国時代の13、14世紀以降に編纂された史料では、実際には何と書かれているか」を問題としています。その点についても、過去のこのノートの上の会話での復活のシャアさんという方のとのやり取りのなかで、私自身も幾度か述べておりますし、らりたさんであるとか、Kotoitoさんであるとか、Greenland4さんや、その他の方々もよくよくご説明されている通りですので、その件につきましてはそちらをお読みください。
- >チンギスカンのとなりにいる女性がどうしても私には大きくおもえますね。
- >「女性が無茶苦茶でかいんだ」、とすればそうかもしれませんが。
- >とするとチンギス・カンが大きかったとするのは無理があると思います。
- とのことですが、115.179.119.174さんは、上の画像のどの人物をチンギスカンであると仰っているのでしょうか? この場面の登場人物のうち、女性であるとはっきり分かるのは左端の馬上の人物のみです。残念ながら、このいわゆる『集史』パリ本(Supplément persan 1113)についての図像学的な研究はほとんどされていないので、それぞれの挿絵の登場人物が誰であるのかは厳密な考察はされていません。ただ、ペルシア語本文と挿絵がある部分を対照して、この挿絵はこういう場面であろう、という推測がされているだけです。例えば、は、1206年のチンギス・カンの即位を描いたものとして有名ですが、何故「1206年のチンギス・カンの即位」を描いたものだと分かるのかというと、コモンズのこの画像はフォリオの上下を切っていますが、挿絵のすぐ上部に書かれたペルシア語文に、「トラの年、すなわちヒジュラ暦602年ラジャブ月(1206年1-2月)初春。チンギス・カンは命じて、9脚の白い纛を建てさせ、大クリルタイを開催した。このクリルタイにおいて、彼は「チンギス・カン」という称号を贈られ、祝福をもって玉座に即いた。」云々と書かれており、実際に、(本数は9本には足らないものの)白い纛が数脚あり、玉座に座る君主とその群臣と思われる人々が描かれています。本文と挿絵の内容が一致すれば、余程のことが無い限りそれを疑う必要はないので、この挿絵も「1206年のチンギス・カンの即位」と考えられています。これについても杉山正明先生も『モンゴル帝国と大元ウルス』などで触れていますので、wikipediaとしてはこの見解を踏襲して問題ないと思われます。
- しかし、上記の「岐国公主」の挿絵は、本文では、كونجو خاتون Kūnjū Khātūn すなわち「岐国公主」とそれを護衛してやって来たオンギン・チンサン Ūnk Kīnk Chīnk-Sānk つまり『元朝秘史』にも出て来る王京丞相すなわち右丞相・完顔福興がチンギス・カンのもとへ贈り、それらのことに「チンギス・カンは満足した」とは書かれていますが、チンギス・カン自身が帳幕の外に出向いて、岐国公主と完顔福興ら一行を歓待したかどうかまでは書かれていません。なので、フランス国立図書館のサイトでのこの挿絵の説明で、「Djengiz Khân et les envoyés chinois(ジンギス・ハーンと中国の使節)」とありますが、モンゴル側であろう画面右側2人の人物も含め、この挿絵にチンギスカンが描かれてるかどうかは厳密には不明である、としなければなりません。金朝側の使節であろう真ん中の3人のうち、いずれかが「オンギン・チンサン=(完顔福興)」である可能性は高いですが。また、そもそもモンゴル帝国ではモンゴル皇帝に外国からの使節が謁見したり、あるいは臣下が贈り物をもって謁見する場合は、皇帝は玉座について所定儀式をともなったものだったことが分かっています。(これらのモンゴル帝国の君主や皇帝に謁見することを、当時モンゴル語で aγulja- と呼んでいたようです) 例えば、プラノ・カルピニやルブルックがバトゥや皇帝グユクや同じく皇帝モンケに謁見した際には、まず玉座のある帳殿まで案内されて、玉座に座したバトゥやグユク、モンケのもとに連れて来られています。講和によって嫁がされたタタル部族のイェスルン.イェスゲン姉妹も妃としての場所を与えられて着座していますが、やはりこれは良く読めばチンギス・カンが玉座に即いてそれぞれに指示を出していることを前提に書かれてあることが分かります。また、バグダードが陥落した際に最後のアッバース朝カリフ・ムスタアスィムがフレグに謁見した時を描いた絵が同じ『集史』パリ本(Supplément persan 1113, fol. 186)にはありますが、ここでもやはりフレグは玉座に座ってカリフの謁見を受けています。ひるがえって岐国公主と完顔福興の一行は講和によって送られた使者であるため、やはりチンギス・カンへの謁見をもって迎え入れられたものだと予想出来ます。こういう訳で、自分が上記の挿絵にチンギス・ カンが描かれているか検討を要する問題だと考えるのです。
- >「女性が無茶苦茶でかいんだ」、とすればそうかもしれませんが。
- >とするとチンギス・カンが大きかったとするのは無理があると思います。
- 「女性が無茶苦茶でかいんだ」の部分も何を仰っているのか良くわかりません。
- プリントアウトとしてそれぞれの人物の頭身を計っても、そんなに違いがあるようには見えませんでした。一応ですが、一番右端の人物を女性と見るのは誤りです。この人物はひげがありませんが帯剣していますので、恐らくケシクの人物のうちの誰かでしょう。女性ではないでしょう。「女性が無茶苦茶でかいんだ」とのことですが、挿絵の登場人物で左端の騎乗している岐国公主人と思われる人物以外に、高めに描かれているような人物はいません。その公主にしても鐙からの高さを考えると、他の人物たちと取り立てて大きい頭身で描かれている訳ではありません。また、上記のブログでチンギス・カンと看做されている右から2番目の人物も、良く見れば水色の靴を履いていて、それを含めれば他の人物たちとさほど背丈が違わないで描かれていることがわかります。
- >とするとチンギス・カンが大きかったとするのは無理があると思います。
- これもいささか良く理解出来ません。「チンギス・カンは体躯の大きい人物だった」と述べているのは、南宋の孟珙撰『蒙韃備録』立國条の記述であり、もうひとつがジューズジャーニーの『ナースィル史話』の記述です。『集史』や『元朝秘史』とはまた別の資料での話です。勿論、この岐国公主降嫁の挿絵での話でもありません。本文の註で書かれている内容をよくよく読んで確認して頂きたいと思います。また、そもそ記事本文では「チンギス・カンが体躯の大きい人物であった」と規定事実のように書かれている訳ではありません。飽くまで、「『チンギス・カンは体躯の大きい人物だった』と書かれてある(13世紀の)資料が存在する」と述べているに過ぎません。この辺の根本的なスタンスの違いもよくよくご了解されるようお願いいたします。
- また、「常識」と仰ることについてですが、まず、その案件についてこうこう言われていることが「常識」である、と述べる場合、代表的な誰それの人物の言葉を引き、そのような内容のことが広く受容されていることを述べるのが学問的な筋道だろうと思います。例えば、歴史学の対象分野において、過去に「これこれ」の事例が当該の分野で常識とされていた場合、それに言及されている諸々の文献を集めて、受容の明確な痕跡をたどることから研究ははじめるものです。また、どういた種類の人々にとって「常識」とされて受容されていたのか、という点も重要な視点です。(こういった「受容史」の研究については日本やヨーロッパの中世史・文化史で近年厚い研究蓄積がありますから、そちらを適当に当たられるのも良いでしょう) 115.179.119.174さんの仰る「モンゴル史」の「常識」というのは、ここ20年程の現在のモンゴル帝国関係の歴史学や文献学の動向を見ました限りでは、失礼ながら自分には甚だあやふやで内実の有無が定かならない漠然としたもののように感じられ、なにがどう「常識」なのか、まるで掴み取れません。特に具体的な例示もなくにただ「常識」云々と安易に使われるのは、なるべく避けられた方が宜しいかと思います。--Haydar 2011年4月7日 (木) 18:55 (UTC)
攣鞮氏やアシナ氏などは4世紀、5世紀の氏であり、チンギス・ハンの属する部族とは違うと思われます。ツングース系なのかテュルク系なのかも解らず、13世紀のチンギス・ハンの時代に持ってくるのは、中立に立っていないと言わざるを得ません。騎馬民族というのは君主推戴制度、血脈重要制度と両方ありますので、これも中立ではありませんでしょう。文献に記述があるから書けば良いのだというものではないでしょう。
代表的な人物?杉山氏と岡田氏です。系譜の研究が進んでいるのは確かですが、判明された、とか、はっきりと記述があるなどとは、認められていません。完全に合致しませんからね。これも中立に立っていませんね。学問的な筋道とおっしゃるが、失礼ですが貴方はモンゴル史の学者であられるのか? 君主推戴制度などをお知りにならない所を見ると、失礼だがアマチュアでらっしゃるでしょう。あまり学術的などとは口になされない方が良いと思います。--以上の署名のないコメントは、115.179.119.174(会話)さんが 2011年5月7日 (土) 03:07 (UTC) に投稿したものです(Haydar 2011年5月8日 (日) 15:10 (UTC)による付記)。
- 匈奴の攣鞮氏と突厥の阿史那氏はモンゴル帝国のチンギス・カン家とは直接的には関係はありません。しかし、これらの遊牧政権の文化的・氏族的紐帯の志向などは多く共通性が見られることは、アルタイ学や北アジア、中央アジア関係の歴史研究では言われて久しいものです。例えば上記の護雅夫先生や山田信夫先生などのテュルク学・アルタイ学などを専攻されていた研究者の方たちの著作や論文などで折々に言われてきたものです。「義経=ジンギスカン説#モンゴル史研究におけるチンギス・カン像」という項目は、タイトルの通り飽くまで現代の研究動向での「モンゴル史研究におけるチンギス・カン像」に過ぎず、「義経=ジンギスカン説」とはまた別個のものです。「義経=ジンギスカン説」とは別に「チンギス・カン」というものが歴史研究ではどのように扱われており、それらの研究で扱われている13,14世紀の資料ではどのように書かれているのかを、本文の参考程度に書いているに過ぎません。
- チンギス・カン家の婚姻制度の研究については志茂碩敏先生や最近では宇野伸浩先生などが研究を重ねておられますが、現在の義経=ジンギスカン説#モンゴル史研究におけるチンギス・カン像」はそれらの研究とは基本的に矛盾しないレベルで書かれております。「杉山氏と岡田氏」云々とのことですが、杉山正明先生も、『集史』などに書かれているチンギス・カンの伝記情報について、『元史』の太祖本紀、各列伝、『蒙韃備録』などとの共通部分について認めながら、その説話的な要素の強さから事実とフィクションの線引きは難しいため、確実なことがどうだったかは言えない、というような趣旨だったと思います。ただし、杉山正明先生もやや傍系とは言え、チンギス・カン(テムジン)がモンゴル部族のキヤト氏族の出身であり、カブル・カンの息子のバルタン・バアトルの息子のイェスゲイ・バアトルの長男である、ということについては疑問視しておらず、チンギス・カン(テムジン)が「カブル・カンの息子のバルタン・バアトルの息子のイェスゲイ・バアトルの息子」というモンゴル部族の名門の出身であることを前提として文章を書いておられます。「岡田(英弘先生のことかと思いますが)氏」も特にそのチンギス・カンのキヤト氏の血族的な出自の点は疑問視しているとも聞かれません。
- >系譜の研究が進んでいるのは確かですが、判明された、とか、はっきりと記述があるなどとは、認められていません。
- とのことですが、重ねて誤読しておられます。一昨年くらいに議論があったとおり、これは「13,14世紀に書かれた資料に実際に書かれてあること」が問題にして書いているのであって、チンギス・カンが本当は誰の血縁であったかどうか、などといったことを述べているのではありません。基本的に「13,14世紀に書かれた資料に実際に書かれてあること」に反しないレベルでこの記事を書きました。「系譜の研究が進んでいるのは確かですが」と仰っていますが、まさに「系譜の研究」で「判明された、とか、はっきりと記述」していることしかこの記事の部分では問題にしていません。伝承的なものと文献史学的情報とは峻別して記述すべきですので、伝承的なものとそれとは別に「チンギス・カンの文献史学的情報」の部分を担うものとして、この記事は項目全体の「添え物」としての価値から必要だろうと思われるため、敢えてこの記事があるものとご理解いただければと思います。
- >君主推戴制度、血脈重要制度
- これも真新しい言い回して戦後のアルタイ学関係の論文では見たことがありません。言わんとすることは大凡理解できますが、どなたが使われている言い方でしょう?
- >「失礼ですが貴方はモンゴル史の学者であられるのか?」「失礼だがアマチュアでらっしゃるでしょう。」
- とのことですが、私自身がモンゴル史の学者かアマチュアかは、あまり意味のない問いです。wikipediaでは典拠資料を重視した検証可能性が問題にされますので、投稿者が専門家かアマチュアかが問題ではなく、項目で扱われる情報源やその情報源の主張の主意や傾向、それらの議論のなかで指摘されている問題点などが記事にちゃんと反映されているかが問題となるはずです。
- 上記でも先年、復活のシャアさんという方が全く同じ事をなさっており、他の投稿者の方たちから注意を受けております。場合によってはWikipedia:コメント依頼#利用者の行為についてのコメントにて問題解決を提起せざるを得ないこともあり得ます。Wikipedia:個人攻撃はしない、Wikipedia:エチケットに抵触するような発言は厳に慎まれるようお願い致します。
- さて、115.179.119.174さんに今一度お願いいたしますが、wikipediaにおける発言の投稿では必ず署名(Wikipedia:署名)するのが作法となっておりますので、まずご意見を投稿される場合は必ず署名されるように重ねてお願い致します。--Haydar 2011年5月8日 (日) 15:10 (UTC)
2011年4月7日 (木) 09:32 UTCの版 http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E7%BE%A9%E7%B5%8C%3D%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%B3%E8%AA%AC&diff=prev&oldid=37079266 の記事で、- >(『シーボルトの成吉思汗即義経説とその後世への影響』1,2,3 岩崎克己)(『中外医事新報)1252~4、1938年)『日本』の自注(雄松堂書店版、第一巻、二八七頁)などの該当部分
という文献の引用がされました。現在は脚注でも書かれていませんが、これは義経=ジンギスカン説#シーボルトの主旨からすると必要不可欠な典拠情報だと思います。削除のままにせずに何らかの形で本文記事に残すべきだと思いますので、その旨提起します。--Haydar 2011年5月8日 (日) 15:25 引用されていたので取り消し。 --Haydar 2011年5月8日 (日) 18:34 (UTC)(UTC)
大幅な巻き戻しを行う場合はまず、議論をしてください。--以上の署名のないコメントは、219.182.78.50(会話/Whois)さんが 2011年6月26日 (日) 21:06 (UTC) に投稿したものです(でぃーぷぶるー2(会話)による付記)。
編集
--孫子兵法(会話) 2015年1月5日 (月) 14:39 (UTC)=== 編集 === 「義経不死伝説と「御曹子島渡」説話」が長すぎるので「御曹司島渡」を新規作成し異動しました。--孫子兵法(会話) 2014年5月26日 (月) 02:29 (UTC)
「小谷部全一郎による「成吉思汗=義経」説の提唱」が余りにも長すぎるので、項目を新規作成し、個々の負担を軽減し、読者が読みやすくしたいと思います。--孫子兵法(会話) 2014年6月6日 (金) 20:16 (UTC)
四つの立場について。この説にも、ただ、生きながらえて蝦夷に渡ったと主張するだけのひと、江戸時代の俗説のように、義経の子孫が清の基礎を作ったと云う説や、金の将軍になったという説など色々あります。従ってこれは独自研究ではなく、読者にw借りやすく読んで貰う為の手段であって、独自研究などでは断じてありません。無いと読者が混乱をします。ちゃんと会話に参加してもらいたいですね--孫子兵法(会話) 2014年7月5日 (土) 02:07 (UTC)
- いずれにしても、出典の明記が必要です。--久極(会話) 2014年7月5日 (土) 02:21 (UTC)
「北東北沿岸に残る義経伝説」の項目を現在の部分の佐々木勝三と同じところに移しました。
差し戻すには議論を行ってください。--孫子兵法(会話) 2014年8月31日 (日) 21:14 (UTC) 急な巻き戻しはテロ、荒らしです。荒らしには屈しません。--孫子兵法(会話) 2014年8月31日 (日) 21:17 (UTC)
まだ勝手に議論せず巻き戻しを行う人が居る? やるんなら署名をつけて議論をしてください。テロです。--孫子兵法(会話) 2014年11月13日 (木) 22:46 (UTC)
何度勝手に巻き戻そうと、議論無き巻き戻しは無効です。--孫子兵法(会話) 2015年1月5日 (月) 14:39 (UTC) どうして休みになるとこういうことするんですか? ちゃんと利用者の署名をつけてください。できないということは、荒らしの常習犯であるから、署名を削除されるからですよね。であるなら議論の余地なく問答無用で前に戻します。--孫子兵法(会話) 2015年1月5日 (月) 14:39 (UTC)
暫く編集保護のこの状態を維持すべきだと思います。 議論の時間を長く持つため、三か月と云わず長期の保護を願いたいです。 --孫子兵法(会話) 2015年1月11日 (日) 07:49 (UTC)
今後の編集方針についての提案
Haydarです。ここ数日編集合戦になっていたようですので、現状の問題点や今後の編集にあたって留意すべき点、記事編集の指針にすべきと思われる資料について等の事柄を雑駁ではありますがコメントしたいと思います。
数年ぶりくらいに改めて本記事を見直したのですが、自分が最後に編集にたずさわった2011年には本記事の分量は65,774バイト程でしたが、2015年1月10日現在、141,164バイトになり、4年で2.5倍近く拡充されています。これは特に昨年2014年5月に孫子兵法さんが編集に参加され、2倍近い記事の大幅な拡充をされましたが、岩崎克己や新井白石の『蝦夷志』等の関連項目も併せて執筆される等、全体的で勢力的な編集の結果、現在見られる記事の充実に至ったものと拝察します。
しかしながら、同時に自分がざっと見た限りでも見過ごせない問題も多々見られるようでして、全体的な印象としては典拠資料の文言と記事編集者本人の意見の区別がしづらい部分が多いように感じられます。さらに義経=ジンギスカン説#推戴・承認で血縁でない者も君主になるという、典拠資料である故江上波夫先生の『騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ』の主張内容と真逆の文言が節タイトルに用いられており、このような明確な錯誤は直ちに修正すべきであると考えます。昨年8月にリバートを行っていた124.27.34.78さんの編集コメントに「無出典記述 発言者不明の意見記述 執筆者の考察 混入」とありますが、残念ながら自分も同じような感想を抱いております。
自分が編集から身を引き気味だったのは、「義経=ジンギスカン説」という思潮…といって良いかどうかわかりませんが、これにかかわる様々な言説を百科事典的な記事として整理する際に基本骨子に出来るような論説がなかなか見付けられなかった事にあります。しかし、最近、たまたま一昨年(2012年)くらいに北海道大学で開催されたシンポジウムの講演紹介記事で、大阪大学の橋本順光先生が「境界を越える義経ジンギスカン伝説 --大陸雄飛論から冒険小説まで--」 http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/BorderStudies/essays/live/pdf/Borderlive13.pdf という講演をされていまして、「義経=ジンギスカン説」とそれを喧伝した末松謙澄、小谷部全一郎らと日清戦争から戦時中くらいまで日本の「大陸雄飛論」との関係を包括的に概観されている点が本記事に使えるのではないと思いました。
特に橋本順光先生は比較文学や文化人類学がご専門だそうで、19-20世紀のヨーロッパの黄禍論研究でも業績のある方だそうですが、同シンポジウムで末松謙澄や小谷部全一郎らが「義経=ジンギスカン説」関連の著述をした前後の言説や動向を概観した上で、岩崎克己編『義経入夷渡満説書誌』を紹介して「いまだこれを超えるような義経ジンギスカン伝説本はありません。」と評しておられるようです。先生も仰っているように『義経入夷渡満説書誌』は私家本であったという理由もあって所蔵している図書館も非常に少ないので、本記事の戦前までの動向について編集される際には必要となる資料になると思われます。(ちなみに自分もまだコピー等は持っていません。) また同じく岩崎克己が1938年に『中外医事新報』という雑誌に都合3回が「シーボルトの成吉思汗即義経説とその後世への影響」という短文の論説を掲載しているのですが(岩崎克己「シーボルトの成吉思汗即義経説とその後世への影響(一)、(二)、(三)」『中外医事新報』第1252-1254号、1938年)、こちらはシーボルト関連の記事で使えそうです。『中外医事新報』は戦時中まで1200号余り刊行された雑誌ですが、医学部関連の古い雑誌が置いてある大学図書館では比較的多く所蔵しているようなので『義経入夷渡満説書誌』よりもアクセスがし易いと思われます。
また、本多貢 著『なぜ義経がジンギスカンになるのか』(北海道教育社, 1986.4)が北海道における「義経北行伝説」の受容、特に観光分野での受容を扱っているとの事ですので、これも戦後の「義経=ジンギスカン説」受容史の編集に役立ちそうです。近年の著書としては森村宗冬 著『義経伝説と日本人』(平凡社新書 259、2005年2月)も紹介されていまして、橋本順光先生はの評によれば岩崎克己編『義経入夷渡満説書誌』に多く依拠しているとの事のようです。
以上から、今後の編集方針の概観としては、
- 「義経=ジンギスカン説」をめぐる諸問題の全体的な評釈を行っている橋本順光「境界を越える義経ジンギスカン伝説 --大陸雄飛論から冒険小説まで--」(北海道大学 グローバルCOEプログラム/ライブ・イン・ボーダースタディーズ No.13 特集 :「ボーダースタディーズ・セミナー2012」) http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/BorderStudies/essays/live/pdf/Borderlive13.pdf の記述を記事編集の中心にすること。
- 「義経=ジンギスカン説」の戦前までの直接的な関連資料として、末松謙澄の著書や小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』、小谷部への反証として出された論文集・国史講習会編「成吉思汗は源義経に非ず」(雄山閣、1925年)との論争史や、これらの論争の検証研究である岩崎克己編『義経入夷渡満説書誌』等を利用する。
- ただし、これらの論旨や論争史の過程は概説しつつも、本記事の編集者はこれらの言説に対する個人的な賛否を記事には載せない。
- また、論争等に使われた資料の解説や資料的な背景・性格等の説明は必要に応じて適宜行う。(例えば小谷部やシーボルトが触れる新井白石の『蝦夷志』『読史余論』の記述それ自体と、新井白石が『蝦夷志』や『読史余論』執筆後に述べた「義経北行伝説」に対する意見とは一応区別して記事にする。義経=ジンギスカン説#岡田英弘や義経=ジンギスカン説#江上波夫、義経=ジンギスカン説#チンギス・カンの系譜情報のようなものも記事の主幹に対する附則的な記事として区別し、小谷部全一郎の主張等の追従あるいは論駁的意見としては記事本文に記述しない。これらの論説を記事に挿入する場合は、飽くまで「記事本文の主意とは別に、『すでに研究蓄積が「義経=ジンギスカン説」とは別個に存在する、現代における「チンギス・カン研究」「モンゴル帝国史研究」「遊牧政権研究」の概観のための記事』である事を了解した上で掲載する)
- これらの論争で取り上げられた資料(シーボルトの『日本』や、イサーク・ティチングの訳業、新井白石の『蝦夷志』)等、一般には馴染みの薄い資料が言及される場合も、解説が必要であれば適宜補足的に説明を行う。
- 現代までの「義経=ジンギスカン説」の受容史の概観として、本多貢『なぜ義経がジンギスカンになるのか』、森村宗冬『義経伝説と日本人』等を紹介する。
- 重ねて、本記事は飽くまで「義経=ジンギスカン説」についての概観を百科事典として解説するのが主目的であって、「義経=ジンギスカン説」に対する記事編集者自身の心情を記事化するものではない事を心掛ける。
以上、雑駁ではありますが、記事の今後の方向性について個人的に感じた事をコメントしてみました。現在は記事編集には孫子兵法さんがほぼひとりでやっておられますが、本記事が第3者から見てどういう記事になっているのか、査読を要すべきではないかと感じております。編集者の皆さんからの幅広いご意見を伺えればと思います。--Haydar(会話) 2015年1月10日 (土) 17:23 (UTC)
投稿ありがとうございます。ただし、ノートのタイトルの削除・変更はおやめください。 どこからどういう議論を行ったか判らなくなります。--孫子兵法(会話) 2015年1月11日 (日) 06:42 (UTC)
- Kotoitoです。大昔に見ていらい久々なのですが、ざっくり申しあげてHaydarさん御提案の方向で全く問題がなく、かつ百科事典的(というか雰囲気としては『歴史学事典』風?)かなと思います。なお、孫子兵法さん、版番54017643(差分)を見ればわかりますが、ノートの見出しをいじられたのはHaydarさんじゃありませんよ。あなた自身です。もうすこし落ち着きながら編集された方がよろしいのではないかとおもいます。--Kotoito(会話) 2015年1月11日 (日) 09:29 (UTC)