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ノート:細川氏

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近世細川家と和泉半国守護家

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これまで、「細川興元が和泉半国守護家を継いだ」などの記述が散見されたので要出典要請してきましたが、明確な資料提示はありませんでした。

それに関し、先日熊本県立美術館で「細川歴代の文と武と美」展を見た際、非常に気になる説明があったのでご紹介します。

  • 細川元常には男子がおり、藤孝は将軍の命による押しつけ養子だったこと。
  • 元常は死去前に永源庵に家宝を寄贈しており、これが肥後細川家に譲られたのは忠利の代になってからのこと。

いずれも出典の明記はありませんでした。時間に余裕がなく筆写しなかったので多少間違いもあるかもしれませんが、近世細川家を語る上で興味深い情報と思いますので、関連情報ご存じでしたらお知らせ下さい。--MizunoH 2008年7月21日 (月) 08:46 (UTC)[返信]

ちゃんとしらべたわけではないですが、元常の子孫として、六位蔵人細川家という一族があるようです。--Kangoshiyouichi 2008年7月21日 (月) 15:10 (UTC)[返信]
仰るように、私も実子というのはこの系統かなと思ったのですが、いかにもな怪しさですよね。--MizunoH 2008年7月22日 (火) 17:59 (UTC)[返信]

系図について

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系図がこんがらがっています。閲覧者が理解しにくいと思いますので、節の一新が必要では無いかと。--カッツー会話2015年7月26日 (日) 03:31 (UTC)[返信]

関連カテゴリの改名提案

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Category‐ノート:日本の氏族#個別カテゴリ関連の提案での先行事例と同様に、Category:肥後細川氏Category:肥後細川家への改名を提案します。--エンタシス会話2021年5月26日 (水) 18:40 (UTC)[返信]

以下の提案を追加します。
--エンタシス会話2021年5月27日 (木) 01:27 (UTC)[返信]
最終的にこのようなカテゴリ構成になります。
--エンタシス会話2021年5月27日 (木) 08:31 (UTC)[返信]

改名しました。--エンタシス会話2021年6月3日 (木) 12:28 (UTC)[返信]

熊本藩主家の前身について

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@学者気取りの先頭はここで終わり!さんの2024年4月21日 (日)の版より、肥後細川氏の系図が奥州家から大原氏流に書き換わっております。

細川忠興が継承した細川家については、藤孝が継承した説のある和泉上守護家または大原氏流、そして忠興自身が継承した説のある奥州家の3つの可能性が考えられ、同時代資料より@学者気取りの先頭はここで終わり!は大原氏を採用したものと思われます。

しかしながら、解説本文中では忠興の奥州家継承についても記述されており、また『寛政重修諸家譜』や『綿考輯録』などの記述からも後世の熊本藩主家自身は奥州家の後裔を自任していたように考えられます。

系図の表記自体も混乱しており、どのように表記したものか皆様のご意見を頂戴したいです。--みやここんぶ会話2024年9月11日 (水) 12:19 (UTC)[返信]

編集者本人ではないので憶測になってしまいますが、淡路守護家(佐々木大原氏流)[* 4]については元々系図の項目に記載がなく、歴代の記載すらなかったので、そのあたり増補したかったのではないでしょうか。
永青文庫蔵の覚書にみられる忠興本人の認識や『寛政重修諸家譜』の記載からも奥州家の後継としていたという以前の系図のほうが正しいのではないか、というのはおっしゃる通りと思いますので、
案1 熊本藩主家とは別に淡路守護家(佐々木大原氏流)の系図として独立させる
  • 後々の熊本藩主家があまり奥州家の系統であることを大事にしていなさそうな点を反映できるのは良いかもしれません
  • ちゃんと細川氏なのは政誠から藤孝まで4代しかないので、正直どうなのかなと思います
案2 系図は奥州家に繋げる形に戻し、宇多源氏佐々木大原氏系の節に歴代の表示を追加
といった形で取り入れるのが良いのではないかと思われます。
以上を加味するとこういった形はいかがでしょうか:
編集案

宇多源氏佐々木大原氏系

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(中略)

淡路守護家(佐々木大原氏流)歴代
  1. 細川政誠佐々木大原氏・大原持綱の子)
  2. 細川高久
  3. 細川晴広
  4. 細川藤孝三淵晴員の子)

(中略)

系図

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(中略)

(中略)

脚注

  1. ^ 『寛政重修諸家譜[1]

脚注

  1. ^ このあたり誠久(≒治部少輔?)とで正統が微妙になってたっぽいのでそのあたりの兼ね合いの可能性もあるか
  2. ^ 政誠の記事によると、満俊の…"弟"?甥じゃなくて?
  3. ^ っていうか藤孝が和泉上守護家じゃないなら幸隆→興孝の長岡刑部家ってこっちの後継では?
  4. ^ 細川高久の史料(『不問物語』)上の表記が「細川淡路刑部少輔」らしいので、やはり基本的に淡路守護家の分家でしかなかった[* 1]、ということでこの表記にしています。すわりが悪いので親経[* 2]も入れて豆州家とか伊豆守家と呼んでしまいたい[* 3]ですが、WP:ORになってしまうのでさておき

--araigumaG会話2024年9月19日 (木) 14:12 (UTC)[返信]

ありがとうございます、個人的には編集案1に賛成です。奥州家も和泉上守護家も大原氏系も確実なことが言えない以上、あえてつなげないことは蓋然性もあると思います。--みやここんぶ会話2024年9月26日 (木) 13:24 (UTC)[返信]

肥後細川家の呼称と、定義による代の違いについて

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#熊本藩主家の前身についてに関連して藤孝後裔の細川家の各人物についての記事を浚ったところ、いくつかの記事で本文やTemplate:細川氏に入力される代の数が異なることが分かりました。誤りとみられるこれらの記述の中には、肥後細川家・熊本"藩主"(細川)家・"熊本藩細川家"といった数え方の元となる家の定義を混同したものが見受けられたため、それらについて確認を行いたいです。

藤孝後裔の細川家については、それぞれの家名について以下のように定義づけられているものと考えられます:

肥後細川家(または単に"細川家")
藤孝を初代とし忠興を2代目、3代目忠利からは熊本藩主家侯爵家が続き、護煕元首相を18代目とする
  • 一般的に細川護煕は18代目で通っているし、永青文庫もこちらの数え方をしている[1]ため、こちらが"現在の時点で"最も一般的な数え方と言えるか
熊本藩主家
肥後細川家3代・豊前小倉藩主細川家2代で熊本藩に移封になった忠利を初代とし、最後の藩主である喜廷(護久)を12代とする
  • 以降は護久を初代とする侯爵家に続くが、"藩主家"なのでカウントが途切れるのは当然といえば当然。
"熊本藩細川家"
肥後細川家4代・熊本藩主2代光尚3代目としていることから、忠興を初代としているものと推測される。
  • 定義・出典・用例が見当たらない謎の概念。
  • そもそもこの表記はWikipedia内でも3代光尚から9代斉茲まで、斉護を飛ばして11代斉護、12代韶邦の記事にしか見当たらず、表示の基準が不明。
    初代のはずの忠興の記事にすら記載・説明がないのでどういうことを基準に数え始めているのかも見当がつかないが、「江戸時代に藩主をやっている細川家」という考え方は、江戸期の藩主の自己意識としてはあり得るかもしれない。
  • Category:肥後細川家は説明文に和泉上守護家の子孫とあるにも関わらず、なぜか幽斎や幸隆の記事を含めていないため、こちらの立場に立っているのかもしれない。

以上のことを踏まえた上で、おそらく数字を数え間違えていると思われる記事は以下です:

  • 細川韶邦
    Template:細川氏に設定されている値が「肥後細川家11代」となっている。
    熊本藩主家としての代と混同したものと思われる。
  • 細川護立#生い立ち
    父護久を「細川家第15代当主」をしているが、近代以降で単に"細川家"と言った場合は侯爵家か肥後細川家を指すものと思われるため、"熊本藩細川家"としての代と混同したものと思われる
  • (細川忠興)
    Template:細川氏に「奥州家10代」とあるが、どういった根拠か不明。
    養父輝経の記事に輝経自身が「11代当主」とあるのでそちらとも矛盾している。

上記のうち、韶邦と忠興については単に間違いであるとして修正してしまってよいと思われるのですが、護久を15代とする見解は「当時"細川家"というと忠興を初代とする"熊本藩細川家"のことであった」という可能性が捨てきれないため、修正に踏み切るには少し抵抗があります。"熊本藩細川家"の用例や定義について、なにか心当たりがある方がいらっしゃいましたらご協力願います。

出典

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--araigumaG会話2024年9月20日 (金) 11:06 (UTC)[返信]

カテゴリに関する記載を追記しました。
また、Template:細川氏の記述は奥州家と肥後細川家と侯爵家を一つにまとめており代の数字と噛み合わない上煩雑なので、#熊本藩主家の前身についてで整理した系図等に合わせて「奥州家」「肥後細川家(熊本藩細川家・侯爵家)」に分けるなどの編集を行っても良いのではないかと思われます。
--araigumaG会話2024年9月20日 (金) 11:39 (UTC)[返信]
  • コメント Templateについていえば、奥州家に肥後細川家を接続したり、和泉上守護家にそのまま長岡刑部家を接続したりするのは適切とは思われないので、中世細川家と近世細川家を分けるようにしていただきたいと思います。--taisai429会話2024年9月20日 (金) 11:58 (UTC)[返信]
    返信 テンプレートの修正方針としては、このような形でしょうか:
    • 和泉上守護家は晴貞までとし、興孝以降を長岡刑部家として分割
      • 丸括弧と疑問符付きで藤孝・幸隆を末尾に加える?
    • 奥州家は忠興までで一旦切り、肥後細川家を藤孝 - 忠興から始める形にする
    …記事本文編集案といいこれといい、藤孝の和泉上守護家の可能性をバッサリ切り捨てる形に切り替える流れになっていて少し心配になってきました。こうなるといっそのことカテゴリについても
    ということまでやってしまったほうが一貫性があるのではないでしょうか…?--araigumaG会話2024年9月20日 (金) 14:28 (UTC)[返信]
    「丹後細川家」表記の用例は少数ながら無いわけではない[2]ようなのですが、見たところ肥後細川家と大差ないように思われる[3]ため、やはりCategory:丹後細川家は細川藤孝個人のカテゴリにするか上記の編集を加えるか(あるいは「長岡家」か?)するのが良いように思われます
    出典
    • 宮本, 圭造、高橋, 悠介、江口, 文恵、表, きよし、石井, 倫子、山中, 玲子、中司, 由起子、伊海, 孝充 ほか「研究展望(平成23年)」『能楽研究 : 能楽研究所紀要』第39巻、法政大学能楽研究所、2015年3月31日、59-91頁、hdl:https://hdl.handle.net/10114/11256ISSN 03899616 --araigumaG会話2024年9月21日 (土) 04:17 (UTC)[返信]
    こちらも編集の方針としては賛成です。京兆家を中心とする室町時代以前の細川氏と、熊本藩主家を中心とするそれ以後だと性質も大きく変わりますし--みやここんぶ会話2024年9月26日 (木) 13:26 (UTC)[返信]

脚注

  1. ^ 永青文庫 2009.
  2. ^ 法政大学 (2015)など
  3. ^ 法政大学 (2015)では宇土藩に繋がるものとして話をしている