ノート:山下良道/過去ログ7
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ページの全体に関する提案や議論
※各議論の末尾に「解決済み」などと書かれていても、異論があるときは適宜記入してください。--Leonidjp(会話) 2015年9月24日 (木) 05:07 (UTC)
議論1
(お知らせ):この部分の議論は、ページ「山下良道」の具体的な内容とは関係の薄い、「利用者個人間のやりとり」が長期間にわたって連続していますので、下記のサブページに移動しました。関心のないかたは、お読みにならなくても構いません。
--Leonidjp(会話) 2015年7月3日 (金) 06:07 (UTC)
議論2
- 提案 こうした思想・信条が絡む記事編集の衝突に関しては、以前、日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ氏の記事で衝突を起こして投稿ブロックされた「Nozawa onsen potta」(コメント依頼・投稿ブロック依頼)というユーザーの件が参考になると思います。独自ルールを持ち込まず、第三者を絡めつつ、冷静かつ慎重に議論し続けていくことが重要になるでしょう。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 11:20 (UTC)
- (視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman(会話) 2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
- (お知らせ):この議論の続きの部分は、ページ「山下良道」の具体的な内容とは関係の薄い、「利用者個人間のやりとり」が長期間にわたって連続していますので、下記のサブページに移動しました。関心のないかたは、お読みにならなくても構いません。
- --Leonidjp(会話) 2015年7月3日 (金) 06:16 (UTC)
議論3
--Leonidjp(会話) 2015年7月3日 (金) 06:23 (UTC)
- コメント
上記「サブページ3」は赤リンクになっていますが、ページ自体は存在しています。(赤リンクの理由不明)。--Leonidjp(会話) 2015年7月3日 (金) 06:31 (UTC)- コメント上記赤リンクの件、解決済み。--Leonidjp(会話) 2015年7月3日 (金) 06:48 (UTC)
ページの内容を検証するコーナー
ご注意:ページに執筆するには適切な出典が必要です
- 「一次資料と二次資料」のページにて、Wikipediaの「方針」が明らかにされています:「方針:ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます」
- (同上):「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。」。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。
- 「独自研究(original research)」とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを指すウィキペディア用語です。ここに含まれるのは、未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。
- ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。情報源を明記することと独自研究を避けることは、密接に関わり合っています。独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。
- (「Wikipedia:独自研究は載せない」から引用)
- --Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
「導入部」に関する議論
※「導入部」というのは、目次よりも上にある節のことです。
議論4
※議論内容が長大なので隠してあります(携帯・スマホでは表示されます)。内容を読むときは、右端の[表示]というリンクをクリックしてください。
- 元曹洞宗の僧侶
- 元テーラワーダ仏教僧侶
この「元」という資格表示が具体的に何を意味しているのか不明であり、山下氏が「元○○」であることを示す出典が明示されていない。執筆者は、曹洞宗またはテーラワーダ仏教における「元僧侶」という資格表示の指す意味を明確にしたうえで、山下氏がそれらの「元僧侶」に当てはまることを示す「信頼できる情報源」を挙げなければならない。当ページに対する「曹洞宗の僧」・「上座部仏教の僧」というカテゴリー設定も本件と連動させるべきだと考える。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント 『アップデートする仏教』のp.90に「もともと曹洞宗の坊さんだったけど、ある時点でそれを返上して」という一文が出て来ますので、「元曹洞宗」に関しては、これを出典にできるでしょう。後で付け加えておきます。「テーラワーダ」のほうに関しても具体的な出典がないか引き続きチェックしてみます。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 11:34 (UTC)
- >『アップデートする仏教』のp.90に(中略)「元曹洞宗」に関しては、これを出典にできるでしょう。
- コメント確認しました。賛同します。
- >「テーラワーダ」のほうに関しても具体的な出典がないか引き続きチェックしてみます。
- コメント分かりました。私も探してみます。--Leonidjp(会話) 2015年5月25日 (月) 04:43 (UTC)
- (視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman(会話) 2015年5月27日 (水) 10:27 (UTC)
- コメント直上↑の私のコメント=「分かりました。私も~」は字下げ個数が1個多いので戻しました。「5月27日 (水) 10:27」のThemtheman氏の字下げ宣言は不要です。よろしければ御自分でその一行、deleteなりしてください。
- コメント「テーラワーダ」のほうに関して、上記5/19から1ヶ月余り経ちましたが、「元」という資格表示の出典は見つかりましたか?私は見つけられませんでした。テーラワーダに関しては、「元」の出典が見つからないものとして、とりあえず、「元」という表示をページから除去したほうがよいのでは?--Leonidjp(会話) 2015年6月29日 (月) 01:18 (UTC)
- コメント ポッドキャストのアーカイブにあると思いますが、先月だかの魚川(ニー仏)って人との対談の時に、長年ミャンマーにも上座部仏教圏にも行ってないと発言してたので、もう上座部仏教(パオ)とは縁が切れて「元」であるのは確かなようですが、出典可能な記述となるとまだ見つけられてないですね。しかし「元」を削除してしまうとさすがに誤情報になってしまうでしょう。--Themtheman(会話) 2015年7月3日 (金) 19:37 (UTC)
- コメント「誤情報」という判断根拠が不明。--Leonidjp(会話) 2015年7月5日 (日) 01:44 (UTC)
- >ポッドキャストのアーカイブにあると思いますが、先月だかの魚川(ニー仏)って人との対談の時に、長年ミャンマーにも上座部仏教圏にも行ってないと発言してたので、もう上座部仏教(パオ)とは縁が切れて「元」であるのは確かなようですが
- コメント嗚呼。何を言ってるのか分からない。ミャンマーだの「上座部仏教圏」に物理的に行っていないことが、「元」という資格表示の根拠になると言いたいわけですか?それが根拠になることを示すロジックは何処に・どの資料に書いてあるのです?(今のところ、当の貴方すらも、そんなロジックが書いてある資料を知らないのでは?)
- ※当ノートページで、音声ファイルを出典なり参考資料として示す場合がもしあれば、出典たる情報が「ファイルの再生開始」から何分目に出てくるのかダイレクトに書いて下さい。「56分め」とかいうふうに。それは、書籍の場合のページ番号に相当するものなので。
- コメントテーラワーダで出家得度したという事実は在る一方、テーラワーダの「僧籍」を捨てた/失ったことを明白に示す情報は見つかっていないわけだから、「テーラワーダ仏教の僧侶」という資格は現在も継続中と見なすのが合理的ではないのですかね。「手放すか失うかするまでは継続している」という意味で。「更新手続き」の無い資格というのは、そういうものでしょう。--Leonidjp(会話) 2015年7月6日 (月) 00:40 (UTC)
- コメント文中↑、語句を追記(下線部)。--Leonidjp(会話) 2015年7月7日 (火) 00:26 (UTC)
- (ページ本文)>山下良道(やましたりょうどう、1956年-)は、東京都出身の元曹洞宗の僧侶・開教使、元テーラワーダ仏教僧侶(法名はスダンマチャーラ, Sudhammacāra)、現・鎌倉一法庵(One Dharma Forum, ワンダルマの会)住職。ワンダルマ仏教僧。
- コメントこの本文中、法名についての丸カッコ内は、(1)"Sudhammacāra"という綴り(=10文字目が横線入りの"ā")の出典が現状、見つかっていない。(2)出典とされる『青空』p.113には「法名」という用語が書かれていない。公式サイトのプロフィールページには、「スダンマチャーラ/Sudhammacara」は「比丘名」である旨、表記されている。また、加筆すべきものとして、(3)公式サイトのプロフィールページには「法名」として「一法良道」が明記されている。(4)文全体に関して、「元○○」よりも「現○○」を先に置いたほうがよい。この4点を踏まえて、この文を下記のように書き換えた。
- 山下良道(やましたりょうどう、1956年-)は、東京都出身の鎌倉一法庵(One Dharma Forum, ワンダルマの会)住職。ワンダルマ仏教僧。テーラワーダ仏教僧侶(比丘名はスダンマチャーラ, Sudhammacara)。元曹洞宗の僧侶・開教使。法名は一法良道。
- ※「テーラワーダ仏教僧侶」に付けられていた「元」という資格表示は、1ヶ月以上経っても出典が見つかっていないことを踏まえて除去。※パーリ語三語分割による翻訳は、詳述済みの諸事由により不掲載。--Leonidjp(会話) 2015年7月5日 (日) 01:27 (UTC)
- コメント直上の投稿↑(7月5日 (日) 01:27)は、当ページ内での記載場所を間違えていたので、本日、ココに移動した。--Leonidjp(会話) 2015年7月7日 (火) 00:24 (UTC)
- >テーラワーダの「僧籍」を捨てた/失ったことを明白に示す情報は見つかっていないわけだから、「テーラワーダ仏教の僧侶」という資格は現在も継続中と見なすのが合理的ではないのですかね。「手放すか失うかするまでは継続している」という意味で。「更新手続き」の無い資格というのは、そういうものでしょう。
- コメント いやいやいや笑、何を根拠にテーラワーダの僧籍は自動更新みたいなこと言ってるんですかね。他ではソースの有無に異常にこだわるのに、何でこういうところは根拠不明のガバガバな思い込みで通そうとするんですかね。理解に苦しみますね。常識的に言えば、テーラワーダの比丘というのは毎月2回の布薩で戒律厳守の確認をし合うことで僧籍(僧伽への在籍)が維持されるわけで、何年もミャンマーに寄り付かず、パオ僧院の人々と関わりも持たず、布薩にも参加してない山下氏はテーラワーダの僧籍を喪失していると考えるのが普通です。したがって、元をつけずに「テーラワーダ仏教僧侶」と書いてしまうのは、はっきり言って誤情報・虚偽情報を表示している状態だと思います。パーリ語僧名に関するくだり(長母音表現や単語の区切り方に関して)などを見てても思いますが、あなたは山下の記事に異常に執着するわりに、仏教に関してかなり無知ですよね。--Themtheman(会話) 2015年7月10日 (金) 22:56 (UTC)
- コメント (追記)上記したテーラワーダ仏教のシステムに加え、山下良道氏自身、著作のプロフィール欄のどこにも自身をテーラワーダ僧侶と書いていないことなどから、記事中では「元テーラワーダ仏教僧侶」と表記するのが妥当だと考えますし、それに対する反証が出てこない内はその表記を維持するのが妥当だと考えます。とりあえずこの表記に戻しておきます。--Themtheman(会話) 2015年7月25日 (土) 04:33 (UTC)
- >常識的に言えば、テーラワーダの比丘というのは毎月2回の布薩で戒律厳守の確認をし合うことで僧籍(僧伽への在籍)が維持されるわけで、何年もミャンマーに寄り付かず、パオ僧院の人々と関わりも持たず、布薩にも参加してない山下氏はテーラワーダの僧籍を喪失していると考えるのが普通です。
- コメントその判断のソースがどうして挙げられてないのです?そもそもの初めから。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:06 (UTC)
- >パーリ語僧名に関するくだり(長母音表現や単語の区切り方に関して)などを見てても思いますが、あなたは山下の記事に異常に執着するわりに、仏教に関してかなり無知ですよね。
- コメント嬉しそうだ。勉強家だけのことはある。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:52 (UTC)
- >山下良道氏自身、著作のプロフィール欄のどこにも自身をテーラワーダ僧侶と書いていない
- コメントそれを言うなら、「元」という資格表示も「著作のプロフィール欄のどこにも」書かれてないですけど。(プロフィール欄以外のページにも。自分の読んだ限りでは)。
- >常識的に言えば、(中略)と考えるのが普通です。
- コメントその「考え」は、現状、貴方の頭の中にしかないわけだから、事実上、無出典。
- で、出典を出せよ、と言われると、律蔵とかの文言を引用してくるのだろうけど、律蔵にしろ何にしろ、「文献に書いてあるルール」が(1)「山下氏に現に適用されているかどうか」、(2)「適用されたなら、その結果、山下氏の資格がどうなったのか」という2点は「事実がどうであるか」を調べないと明らかなことは言えない論件。事実を書いてあるソース無しに記述を作るのはNG。
- コメント上記2点(=著作に資格表示が無い、ルールの適用結果を示すソースが無い)となると、現状では、テーラワーダに関しては「元」という資格表示の根拠は無いし、「現」の根拠も無い、ということになりそうだ。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 02:16 (UTC)
- >山下良道氏自身、著作のプロフィール欄のどこにも自身をテーラワーダ僧侶と書いていない
- コメントはて・・・。『青空』プロフィール欄に「テーラワーダ比丘となり」と書いてあるけど、これはどういう扱いが妥当なのやら。『別冊』p.374には「上座部仏教の比丘となる」とある。公式HPプロフィールページにも同様の記述あり。テーラワーダにおいては「比丘」と「僧侶」が別概念ということかしら。
- 別概念でない、としたら、「自身がテーラワーダ僧侶になった」ことを示す出典は3つ有るということになる。対して、その「なった」状態を喪失したという事実を示す出典は未だに見つかってない。「喪失することがありうる」という「理論」を開陳している人が居るだけだ(=Themtheman氏)。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 02:42 (UTC)
- コメント(情報提供)菩提樹文庫のこれ、収録日時は不明だが(公式HPと照合すればおそらく2006/12/17だろうが)、「私は上座部の比丘です」と宣言されてる。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 22:41 (UTC)
- コメント えーと、生産的な議論にするために、少し話を細分化しましょうか。「テーラワーダ仏教僧侶である。」という表現には、以下の2つの意味が混在しています。
- 1.テーラワーダ仏教の僧籍保有者である
- 2.テーラワーダ仏教の思想・理論・実践の枠内で活動している僧侶である
- で、まず2に関しては、山下氏は明確にテーラワーダ仏教の思想・実践の枠から大きくはみ出した活動をしていますし、それを自ら宣言・公言しているわけですから、アウトですね。テーラワーダ仏教の僧侶とは呼べない思想・理論・実践の枠組みで活動を行っています。他方、1の僧籍に関しては、私もあなたも決定的なソースが無いと。そういうわけで、現状では
- 元テーラワーダ仏教僧侶[注:現在における僧籍の有無に関しては不明]
- と表記しておくのが、最も誠実な記述だと思いますが、どうでしょうかね。--Themtheman(会話) 2015年7月31日 (金) 21:42 (UTC)
- コメント えーと、生産的な議論にするために、少し話を細分化しましょうか。「テーラワーダ仏教僧侶である。」という表現には、以下の2つの意味が混在しています。
- >2に関しては、山下氏は明確にテーラワーダ仏教の思想・実践の枠から大きくはみ出した活動をしていますし、それを自ら宣言・公言している
- コメント「はみ出した」という判断を導くための出典は要ると思います。すぐ見つかるでしょう。出典付きなら、その判断そのものは支持します。--Leonidjp(会話) 2015年8月1日 (土) 01:31 (UTC)
- >現状では
- >元テーラワーダ仏教僧侶[注:現在における僧籍の有無に関しては不明]
- >と表記しておくのが、最も誠実な記述だと思いますが、どうでしょうかね
- コメント「僧籍の有無に関しては不明」でありながら「元」という資格表示は維持する、というわけ。紛らわしいなあ。「比丘になった」と述べている資料は複数ある一方で、「比丘でなくなった」という資料は見つからず、しかも名乗りが「スダンマチャーラ比丘」というふうに「比丘」という単語をハッキリ含んでいる、という2面において、ここに「元」を付けるほうが不適切に見えるが。
- そしてこの「元」というのは上述のような「はみ出し」を意味しているという「独自定義」の下で使われている「元」であるわけだ。つまり狭義の「元」。この「独自定義」そのものを脚注として書いておいたほうがいい。他の人が書かないなら、いずれ自分で書く。
- コメントいっそのこと、「元」にしろ「現」にしろ「テーラワーダ仏教僧侶」という表示そのものをこの「概要」節から削るという道もある。テーラワーダで出家したという経歴は「経歴」節にハッキリ書いてあるから読めば分かることだ(曹洞宗に関しても同様に扱える)。--Leonidjp(会話) 2015年8月1日 (土) 04:28 (UTC)
- >「はみ出した」という判断を導くための出典は要ると思います。
- コメント 言うまでもないですが「仏教3.0」思想こそがテーラワーダ(仏教2.0)からも大乗仏教(仏教1.0)からもはみ出す(それらの枠におさまれない)旨の主張にほかならないわけで、山下氏が思想的にも実践的にもテーラワーダ(仏教2.0)からはみ出していることを表す記述なんて、既出の出典書籍の中からいくらでも探せますわな。例えば、『別冊サンガ1』p.376の上段、「とくに一九九〇年代以降に日本に入ってきた、心を見ることを重んじるテーラワーダ仏教を「仏教2.0」と呼びます。問題は仏教2.0では般若心経を否定しているため、日本仏教が原理的に成り立たなくなってしまいます。そこで、一法庵で展開しているのが両者を統合した「仏教3.0」です。」といった記述も、その一つですね。ちなみに私は「元曹洞宗」「元テーラワーダ」といった記述は削除せず記事中に明示しておいたほうがいいと思います。曖昧にしておくと山下氏を現役の曹洞宗やテーラワーダの僧侶だと勘違いする人が出てこないとも限らないので。--Themtheman(会話) 2015年8月8日 (土) 00:17 (UTC)
- >山下氏が思想的にも実践的にもテーラワーダ(仏教2.0)からはみ出していることを表す記述なんて、既出の出典書籍の中からいくらでも探せますわな。
- コメント探した結果としての出典情報がページに付いてない(9月5日現在)。「元」という一字の意味を上述のように狭義に絞り、そのうえで「元」という表記をページに残すことを主張しているのはThemthemanであるから、この「元」の字の根拠たる出典情報を明示する責任は第一にThemthemanが負っている。「いくらでも探せますわな」と言っているThemthemanが出典を挙げないことは不思議である。なお、「僧籍の有無に関しては不明である」という事柄自体は現状においても事実であるから、脚注としてページに記入しておいた。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 06:27 (UTC)
- コメント直上↑の件について追記。この「元」表示は、Wikipedia用語で言う「導入部」に存在している。「導入部」のスタイルマニュアルに、下記のような一節がある。
- “細々とした基本的な事実は別にして、重要な情報は以降の記事本文で取り上げないなら導入部でも触れないようにします。”
- 特に、「元テーラワーダ仏教僧侶」・「元曹洞宗の僧侶」というときの「元」表示が「細々とした基本的な事実」ではなく「重要な情報」だと思う人は、導入部にこの「元」表示を置くなら記事本文でも触れなければならないということになる。このスタイルマニュアルに従うならば。導入部における「元」表示が、記事本文の何処と関係しているのか、記事の何処で説明されているのか、ということを脚注なりで示したほうがよい。Themthemanは5月に「元々どの宗派に所属していたかを書いておくことは、山下の人物像や思想を理解・把握するうえで重要です」と述べているので、やはりThemthemanはこの「元」という1字の具体的な意味をぼやけさせないように脚注その他の内容に配慮する必要があろう。スタイルマニュアルに従うならば。
- >私は「元曹洞宗」「元テーラワーダ」といった記述は削除せず記事中に明示しておいたほうがいいと思います。曖昧にしておくと山下氏を現役の曹洞宗やテーラワーダの僧侶だと勘違いする人が出てこないとも限らないので。
- コメント「元」の意味を曖昧にしておくと、「山下氏には事実として僧籍が無い」のだと早合点する人が出てこないとも限らないので。(「僧籍の有無」についての「事実」を述べた資料が未発見であることは当ノートページの議論で確認済み。この事情は曹洞宗に関しても同じである)。--Leonidjp(会話) 2015年9月6日 (日) 04:05 (UTC)
- 下線部追記↑。--Leonidjp(会話) 2015年9月6日 (日) 04:14 (UTC)
- >私は「元曹洞宗」「元テーラワーダ」といった記述は削除せず記事中に明示しておいたほうがいいと思います。曖昧にしておくと山下氏を現役の曹洞宗やテーラワーダの僧侶だと勘違いする人が出てこないとも限らないので。
- コメント導入部に「元○○」などと書いてありながら、その「元」表示の意味が記事全体において明白に説明されないのなら、そのほうがよほど記述として「曖昧」だとも言える。僧籍に関して「現○○」なり「元○○」なりという事実を示す資料が無い以上、導入部からも「現○○」・「元○○」という表示を無くし、資格に関しては山下氏の自称する【鎌倉一法庵(One Dharma Forum, ワンダルマの会)住職。ワンダルマ仏教僧】のみを導入部に置いておくほうがよほどクリアである。テーラワーダなり曹洞宗なりに所属したという「経歴」は記事本文中で読めるので、「過去における所属宗派」についての情報はそれで申し分なく提供される。
- >曖昧にしておくと山下氏を現役の曹洞宗やテーラワーダの僧侶だと勘違いする人が出てこないとも限らない
- コメント本当に「現役」だったらどうするのだろう、と思わないでもない。仏教の律蔵だの宗派の内規だの、僧院運営のルールだのを大量に引用して「現役はありえない」などと推測してみたところで、それだけで山下氏の「現役性」についての何らかの「事実」を発見したことになるわけではない。資料として発見できない「事実」は「詳細不明」でありつづけるしかなく、ウィキペディア執筆者のみによる「推測」で事実を置き換えることはできないはずである。山下氏が自身についてダイレクトに「現役だ/現役でない」と述べた資料があるとか、信頼できる二次資料の著者が論拠をもって「現役だ/現役でない」と述べた資料があるなら、それは「現役性」についての「本人による事実発表」なり「信頼できる第三者による評価」として採用可能だろう。
- >言うまでもないですが「仏教3.0」思想こそがテーラワーダ(仏教2.0)からも大乗仏教(仏教1.0)からもはみ出す(それらの枠におさまれない)旨の主張にほかならないわけで、山下氏が思想的にも実践的にもテーラワーダ(仏教2.0)からはみ出していることを表す記述なんて、既出の出典書籍の中からいくらでも探せますわな
- コメント「はみ出す」?ということは、「はみ出さないで重なっている部分」も存在するという意味になってしまうのではないのか(参照)。となれば、「重なっている部分」においての「現役性」はどうなるのか。--Leonidjp(会話) 2015年9月6日 (日) 05:14 (UTC)
- 下線部追記↑。--Leonidjp(会話) 2015年9月6日 (日) 05:33 (UTC)
- >言うまでもないですが「仏教3.0」思想こそがテーラワーダ(仏教2.0)からも大乗仏教(仏教1.0)からもはみ出す(それらの枠におさまれない)旨の主張にほかならないわけで、山下氏が思想的にも実践的にもテーラワーダ(仏教2.0)からはみ出していることを表す記述なんて、既出の出典書籍の中からいくらでも探せますわな
- コメント8月1日の書き込みを翻す結果になることを承知のうえであらためて基礎から考えてみると、「AがBからはみ出している」旨の記述が資料の中にダイレクトにあるのでないかぎり、その「はみ出している」という判断はウィキペディア執筆者の持論にすぎない。この場合なら「出典候補」は山下氏の著作(一次資料)であろうから、一次資料の記述にウィキペディア執筆者の解釈を加えて作った読解を根拠としてウィキペディアのページに作文するという執筆がもしあれば、それは例の「一次資料不解釈」というウィキペディアの編集方針に抵触する。そもそも編集方針は右のように言っている。→「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。」(出典)
- そして、「元」という文字に絡めて言えば、そもそもウィキペディア執筆者が「テーラワーダ仏教僧侶とは何か」とか「曹洞宗僧侶とは何か」という問いに対するクリアな答えを予め資料に基づいて持ったうえで「山下氏がテーラワーダ僧侶であると言えるか/曹洞宗僧侶であると言えるか」を判断しようとしても、その際の判断材料たる「山下氏のあり方」を描写した情報が「一次資料不解釈」というウィキペディアの編集方針に反して作られたものであるなら、その情報を用いて行われた判断結果もやはりウィキペディア的には「一次資料に対する解釈・評価」を含有するものとなるので、上述の編集方針に抵触するだろう。牛乳に酒を混ぜたらそれは「酒」なので、「酒を飲めない未成年」にそれを提供することはできない、というような仕儀である。--Leonidjp(会話) 2015年9月6日 (日) 06:42 (UTC)
- >僧籍に関して「現○○」なり「元○○」なりという事実を示す資料が無い
- コメント情報提供。昨日(9/6)に公開された山下氏のポッドキャストの開始60分目〜72分目に、「ミャンマーの森林僧院」をも例に挙げたうえで、「(従来からある仏教なり宗教の伝統には)文字通りには属さない」旨の発言があり、「私は曹洞宗にも属さない」、「そういうものには全部属さない」という発言があった。「(宗派なりに)所属していない」という意味において、「元テーラワーダ仏教僧侶」・「元曹洞宗僧侶」というページ本文の表現の出典としてこれを用いることは可能だろう。ページ本文の「元」表現の意味の不明瞭さを敏速に解決する必要があるので、これを出典としてページ本文に記入しておく。--Leonidjp(会話) 2015年9月7日 (月) 00:48 (UTC)
- 済この件は解決済み。--Leonidjp(会話) 2015年9月24日 (木) 02:07 (UTC)
- >(9/6)に公開された山下氏のポッドキャストの開始60分目〜72分目に、「ミャンマーの森林僧院」をも例に挙げたうえで、「(従来からある仏教なり宗教の伝統には)文字通りには属さない」旨の発言があり、「私は曹洞宗にも属さない」、「そういうものには全部属さない」という発言があった。
- コメント9月27日のポッドキャストの39〜41分目のほうが、「テラヴァーダと曹洞宗の両方に所属していない」旨がヨリ簡潔に述べられている。本文において9月6日のポッドキャストを出典として採用していた箇所は、この9月27日のポッドキャストを出典とするように書き換えておいた。--Leonidjp(会話) 2015年9月27日 (日) 23:17 (UTC)
- コメントメモ的な報告。2015年10月31日の山下氏の法話 http://www.onedhamma.com/?p=5270 にて、山下氏が「ワンダルマは宗派ではない」旨を宣言しておられる(35〜40分頃)ので、「ワンダルマ」を「宗派」としてWikipediaに記載しないようにおねがいします。(二次資料が「宗派だ」と言ったり、山下氏自身による訂正がなされたりすれば別ですが)。--Leonidjp(会話) 2015年11月5日 (木) 00:12 (UTC)
議論5
(対策の提案):本「元曹洞宗の僧侶」および「元テーラワーダ仏教僧侶」の「元」という資格表示の出典が無いという件に対しては、「元○○」という資格表示そのものを掲載しないというかたちで過去の版において対処済みであった。この過去の版の記述に戻すことで速やかな是正が可能である。カテゴリー設定についても同様。--Leonidjp(会話) 2015年5月19日 (火) 01:01 (UTC)- コメント文中のリンク間違いを修正。--Leonidjp(会話) 2015年5月20日 (水) 04:24 (UTC)
- コメント文中↑、取り消し線と下線部で文脈を補足。--Leonidjp(会話) 2015年7月7日 (火) 00:25 (UTC)
- 反対 元々どの宗派に所属していたかを書いておくことは、山下の人物像や思想を理解・把握するうえで重要ですし、本人も隠すどころか積極的に言及している事実でもあるので、この記述をわざわざ削除する必要はないと思います。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 11:34 (UTC)
- (お知らせ)↑この部分の議論は、この後も別所で続いています。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 02:16 (UTC)
- (視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman(会話) 2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
- ページ本文にはこのように「元A」、「元B」という記述がある一方、ページに対するカテゴリ設定は「現A」、「現B」を示している点が、矛盾をきたしている。この矛盾は解消すべき。--Leonidjp(会話) 2015年5月20日 (水) 04:24 (UTC)
- (視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman(会話) 2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
- コメント 「Category:曹洞宗の僧」も、「Category:上座部仏教の僧」も、「現役の所属僧侶のみ」を集めるような限定的なカテゴリではないので、別に矛盾してませんし、問題ないと思います。--Themtheman(会話) 2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
- コメント「現」に限定していなかったんですか。それは知りませんでした。--Leonidjp(会話) 2015年5月25日 (月) 04:43 (UTC)
- 済 じゃあこの部分に関しては解決済ということでいいですね。--Themtheman(会話) 2015年5月27日 (水) 10:27 (UTC)
- コメント解決済みということでいいです。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:22 (UTC)
- コメント解決済みでないかもしれない。
- >「Category:曹洞宗の僧」も、「Category:上座部仏教の僧」も、「現役の所属僧侶のみ」を集めるような限定的なカテゴリではない
- コメントあらためて見直してみると、この【「現役の所属僧侶のみ」を集めるような限定的なカテゴリではない】という判断は、これを言っているThemthemanの独断でしかないのではないか。
- 「Wikipedia:カテゴリの方針」という編集方針を書いたページには、「カテゴリ」の定義として3つのことが書かれてある(下記参照。ただし3番目はこの論件に関係しないので省略)。
- (カテゴリの定義)
- ウィキペディアのカテゴリ機能は何のためにあるものでしょうか。「分類」と「キーワード」を示すという意味があります。
- 1. カテゴリは第一義として、「分類」を示すものです。
- 「xxはYYのひとつである」と言うことができれば、「分類」を示すと言えます。項目xxはカテゴリYYに属するべきです。反例として、北朝鮮と韓国は関連がありますが、どちらかがどちらかを包含する関係ではありません。
- 2. 上記に加えて、ウィキペディアのカテゴリとしては「関連が深いキーワード」を示すことができます。
- 「分類」より「キーワード」を指向しているカテゴリも存在します。記事xxが「YY関連用語」であるという意味合いでカテゴリYYに属することが期待される場合があります。例として、学術用語とCategory:学問の関係など。この場合も、カテゴリはより上位の概念であることが求められるため、逆の関係ではあり得ません。
- コメント山下氏の場合、山下氏が「上座部仏教の僧」や「曹洞宗の僧」ではないという一次資料が2015/9/6に得られている。従って、今や、「山下良道は上座部仏教の僧のひとつである」とは言えないし、「山下良道は曹洞宗の僧のひとつである」とも言えない。従って、【項目「山下良道」はカテゴリ「上座部仏教の僧」または「曹洞宗の僧」に属するべき】だとは言えない。項目「山下良道」は「上座部仏教の僧」または「曹洞宗の僧」という「分類」を受ける(被る)項目ではないことが資料から示されているわけだから、「上座部仏教の僧」または「曹洞宗の僧」という「分類」からは外したほうがよい。(これは上記「カテゴリの第一義」に関する検討結果)。
- (次に、上記「カテゴリの第二義」に関する検討):【この場合も、カテゴリはより上位の概念であることが求められる】との要請が明記されているが、【「山下良道」の「上位の概念」が「上座部仏教の僧」や「曹洞宗の僧」である】という命題が真である(正しい)、という判断は今や出来ない。上述のように、山下氏が「上座部仏教の僧」や「曹洞宗の僧」であることを否定する旨の一次資料が見つかったからである。AがBに分類されないときに、BがAの「上位概念である」などということはない。
- ページ「山下良道」に現在付せられているカテゴリ設定たる「上座部仏教の僧」・「曹洞宗の僧」は、上記2点の検討に基づいて、除去されるのが適切。--Leonidjp(会話) 2015年9月12日 (土) 01:58 (UTC)
- >ちなみに私は「元曹洞宗」「元テーラワーダ」といった記述は削除せず記事中に明示しておいたほうがいいと思います。曖昧にしておくと山下氏を現役の曹洞宗やテーラワーダの僧侶だと勘違いする人が出てこないとも限らないので。
- コメント↑こういうふうに、「曹洞宗」や「テーラワーダ」に関する山下氏の「現役性」を曖昧にせずクリアに否定しておきたい旨の発言をしている執筆者(Themtheman)も存在している。「曹洞宗」や「テーラワーダ」に関する山下氏の「現役性」をクリアに否定したい人にとって、まさにこの「山下良道」というページが「Category:曹洞宗の僧」や「Category:上座部仏教の僧」に「所属」しているという状態は、「現役性」に関する「曖昧」な外貌を呈しているものとして修正が必要である、と言えるであろう。このカテゴリ設定が除去されない状態では、「Category:曹洞宗の僧」や「Category:上座部仏教の僧」というページには「山下良道」という名前が載り続けているわけでもあり、それは「曹洞宗」や「テーラワーダ」に関する山下氏の「現役性」の有無を曖昧にする表記として喜べないものであろう。「曹洞宗」や「テーラワーダ」に関する山下氏の「現役性」をクリアに否定しておきたい人にとっては。--Leonidjp(会話) 2015年9月12日 (土) 04:14 (UTC)
- >ページ「山下良道」に現在付せられているカテゴリ設定たる「上座部仏教の僧」・「曹洞宗の僧」は、上記2点の検討に基づいて、除去されるのが適切。
- この除去提案から7日以上経ち、その間、コメントが付かなかったので、除去を実行した。--Leonidjp(会話) 2015年9月20日 (日) 00:22 (UTC)
- 済この件は解決済み。--Leonidjp(会話) 2015年9月24日 (木) 02:08 (UTC)
議論6
- 日本の伝統仏教(中国大乗仏教)を「仏教1.0」、90年代後半から顕著に日本に入って来た南方テーラワーダ仏教(上座部仏教)を「仏教2.0」とし、
コメント出典とされる『青空』pp.14-18および『別冊1』 p.373-376には、「中国大乗仏教」なるものは載っておらず、「中国大乗仏教」なるものに関する言及もやはり無い。出典が無いなら、丸括弧の内側=「中国大乗仏教」は削除するべき。--Leonidjp(会話) 2015年6月28日 (日) 00:31 (UTC)
- コメントおしらせ:不要な重複を避けるため、内容を
こちら議論9へ移動しました。それに伴い、取り消し線を付加↑。--Leonidjp(会話) 2015年6月30日 (火) 01:05 (UTC) - リンク先を修正(取り消し線と下線部)。--Leonidjp(会話) 2015年9月24日 (木) 02:12 (UTC)
議論7
※議論内容が長大なので隠してあります(携帯・スマホでは表示されます)。内容を読むときは、右端の[表示]というリンクをクリックしてください。
- 法名はスダンマチャーラ, Sudhammacāra
脚注に「意味は、「善い」(su)、「法」(dhamma)の「行」(cāra)」として法名の意味解説が書かれているが、一語の法名をこのように三語に分割して意味解説することが適切であるのか疑わしい。『青空としてのわたし』p.113では著者が「スダンマチャーラ比丘」の意味を【「善法を行ずるもの」「善法の上を歩むもの」というような意味】と解説しており、これは上述の脚注の内容と符合しない。両者が「符合する」と述べている資料は、現状、みあたらない。固有名詞に対する、適切な出典が存在しない訳業をWikipediaで披露することは不適切だと考える。固有名詞以外に対しても同様かもしれない。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント 「「善い」(su)、「法」(dhamma)の「行」(cāra)」という説明と、「善法を行ずるもの」「善法の上を歩むもの」という説明のどこが符号しないと思うのか教えてください。私は同じに見えますが。パーリ語にうとい人にはこうして単語ごとに分解した説明が添えてあるとよりわかりやすくて親切だと思います。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 11:45 (UTC)
- (視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman(会話) 2015年5月27日 (水) 10:27 (UTC)
- >どこが符号しないと思うのか教えてください。私は同じに見えますが
- コメント翻訳後の(日本語の)字づらが、両者で全く違います。また、「翻訳後の両者は意味が同じ」ということを明白に述べている出典は挙げられていません。「翻訳後の両者の意味が同じに見える」というのは読者(貴方)個人の判断でしょうから、「同じです」という意味のことを述べている出典がないと不適切です。ですから、比丘名の意味解説にはp.113の記述が加わっているべきです。パーリ語ビギナーに対するお気遣いは感謝します。--Leonidjp(会話) 2015年5月25日 (月) 04:43 (UTC)
- (視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman(会話) 2015年5月27日 (水) 10:27 (UTC)
- コメント どこが「全然違う」と思うんですか?「「善い」(su)、「法」(dhamma)の「行」(cāra)」と「善法を行ずるもの」のどこが「全然違い」ますか?漢字の数・種類すら一致してますよ。これを「全然違う」と主張するのはさすがにあまりにも不誠実じゃないですか?--Themtheman(会話) 2015年5月27日 (水) 10:27 (UTC)
- >漢字の数・種類すら一致
- コメントそれ以外の部分は?片方は、1語目が形容詞「善い」でしょ。他方は、1語目が「善法」という名詞じゃないですか。「善い法」と「善法」がもしも同じものだとしても、続く助詞は「の」と「を」で違う(善法「を」
歩む行ずる vs 善い法「の」)。「行」と「歩むもの」「行ずるもの」は、相互に字面が違う(1文字もしか合致してない)。字面が違うというのは、こういう照らし合わせを指してます。通じてなかったのかな?--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:29 (UTC) - 文中、間違いがあったので訂正。--Leonidjp(会話) 2015年6月4日 (木) 03:59 (UTC)
- >どこが「全然違い」ますか?
- 違うってこと、本当に分からないのでしょうか?もう2文字目からして字が違うじゃないですか。2文字目以降は全部「字が違う」でしょ。見て分かるでしょう?--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:57 (UTC)
- 「行ずるもの」のほうについても言っておこう。「善い法の行」と「善法を行ずるもの」。「行」と「行ずるもの」って、字面は明らかに違う。意味の異同に関しては、出典なしに語っても駄目。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 05:17 (UTC)
- 「善法の上を歩むもの」に関しては、三語分割による訳は、「善」と「法」
の2文字以外ぜんぶ違うと「の」の3文字以外ぜんぶ違う。字面が。「の上を」という位置表現も、三語分割のほうには無い。もう、あちこち違いすぎ。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 05:17 (UTC) - 文中、間違いがあったので訂正。--Leonidjp(会話) 2015年6月4日 (木) 03:59 (UTC)
- 取り消し線が短かったので、さらに訂正。--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:46 (UTC)
- コメント 出典は『パーリ語辞典』水野弘元と明記してありますよ。わかってます?法名のパーリ語の意味をパーリ語辞典にもとづいて記述することになぜそんなに反応・反対するのか意味がわからないです。この記述があって困ることってないですよね。--Themtheman(会話) 2015年6月3日 (水) 14:30 (UTC)
- >なぜそんなに反応・反対するのか意味がわからないです。
- コメント読めてないね。貴方の出しているパーリ語和訳は、p.113の記述と符号しないからNGなのですよ、意味解説として。
- >漢字の数・種類すら一致してますよ。これを「全然違う」と主張するのはさすがにあまりにも不誠実じゃないですか
- コメント貴方が脚注に書いている和訳「善い法の行」と、p.113の記述2個(善法を行ずるもの/善法の上を歩むもの)との間で、文節単位/単語単位/字単位での前後関係(=前後で隣り合う相手)を見比べてみたらいい。「法の」という部分が字単位で一致しているにすぎず、他のすべての部分は文節単位・単語単位・字単位で全く不一致です。ですから下記のとおりに、a対1、a対2、b対3、b対4、c対5という5通りの相互比較において、各々の前後関係は100%不一致です。つまり「全然違う」という照合結果は複数あるわけです。もともと。気づきませんでしたか。
- まず、文節単位に区切る。
- (a)善い/法の/行
- (1)善法を/行ずる/もの
- (2)善法の/上を/歩む/もの
- 次に、単語単位に区切る。
- (b)善い/法/の/行
- (3)善法/を/行ずる/もの
- (4)善法/の/上/を/歩む/もの
- 次に、字単位に区切る。
- (c)善/い/法/の/行
- (5)善/法/を/行/ず/る/も/の
- (6)善/法/の/上/を/歩/む/も/の
- 文節単位/単語単位/字単位での前後関係が、なぜ大事か分かりますか。句(二語以上のまとまり)としての構造を造るものは、文節単位/単語単位/字単位での前後関係だからです。だから、句としての字面の一致度を測るときには、文節単位/単語単位/字単位での前後関係(=前後で隣り合うという関係)をバラバラにしてはいけないわけです。バラバラにしたら、もうそれは句どうしの一致度としては無意味な比較にしかならず、単に文節や単語や字の「集団」どうしがお互いに似ているとか似てないとかいう話しかできないことになる。そんな仕方で「句としての字面の一致度」を測ったつもりだとしたら、とんでもない話です。その「とんでもなさ」に気づかないとしたら、本当に危ないと思います。大丈夫ですか。(こういうことは、本当は、国語の先生が講義すべきことでしょうに)。--Leonidjp(会話) 2015年6月4日 (木) 04:06 (UTC)
- >漢字の数・種類すら一致してますよ。
- コメント「漢字の数・種類すら一致」というのは、漢字以外の字を含めて仰っているのか、そうでないのか。そこが不明瞭ですね。どっちですか?
- 「漢字の数と種類だけが一致」しているだけなら、それはアナグラム的な一致でしかないのです。「花と鳥の絵」と「花の絵と鳥」が「同じだ」とか、「医学科」と「医科学」が「同じだ」、みたいなパズル的操作はいただけません。やめましょう。上述のとおり、句としての字面の一致度を測るなら、文節/単語/字の前後関係を無視してはいけません。そしてそもそも、比較対象が「漢字だけ」に制限されているとしたらそれは何故なのか、という根本的な疑問もありますし、この点について貴方から何らの説明も無いというのが不可解です。
- 漢字以外の字も含めて字単位の一致度を測るとしても、「善い法の行」の側からだけでなくp.113の記述(下記a,b)の側からも見てみないと話になりません。これはもともと相互比較なのだから、片側だけから見ても駄目に決まっています。下記a,bは「善い法の行」5文字のうちの何文字と一致し、一致度は何%か。
- x:善い法の行
- a:善法を行ずるもの (4/8個一致)
- b:善法の上を歩むもの (4/9個一致)
- ご覧のとおり、字の一致度は50%を超えません。字単位でも最大で50%しか一致していないものを「同じに見えます」と言うのが「誠実」だったんですか?(貴方が仰ったのですよ)。ちょっと無理がありませんか。--Leonidjp(会話) 2015年6月4日 (木) 04:06 (UTC)
- >これを「全然違う」と主張するのはさすがにあまりにも不誠実じゃないですか
- コメント「全く違う=100%不一致」という照合結果は、上述のように複数あるわけですが、それはそれとして、貴方は「全然=全く」という単語にひっかかるわけですか?それなら、「全く」は取り下げます。合致している字があるのは事実ですから。つまり、「全く違う」のではなく、「違う」ということ。「違う」には納得しますか?納得するのでしたら、私が5/17に一番最初に言った、「両者は符合しない」という評価を認めることになるでしょう。それでよろしいですか?
- 対話相手の言葉遣いを詳細にとらえるのと同じくらいに出典の言葉遣いを詳細にとらえるのが大切だというのが分かる事例ですね。出典の記述も、この調子で読みましょう、ほんとに。そうすれば、この両者の字面が「符合しない」というのは5/19頃の時点で直ぐさま合点がいったでしょう。何日も費やすことはないのです。--Leonidjp(会話) 2015年6月4日 (木) 04:06 (UTC)
- 念のため追記。貴方は出典[3]に、sudhammacaraの「意味」を書いているわけです(「意味は~」という書き出しだから)。その「意味」なるものの字面は、日本語で「善い法の行」。これと同じ字面が他の資料(たとえば『青空~』)にも出ているなら、「字面が同じだから、両者は同じ意味だ」と見ることは可能。ところが同書p.113の記述は「善い法の行」と字面が違うわけ。とすると、「字面が違うなら、両者は意味が違う可能性がある」ということ。意味が違うなら、sudhammacaraの意味解説として「善い法の行」だけを載せておくのは不適切。なぜならp.113の記述もsudhammacaraの意味解説だからです。どちらがヨリ正しい解説か未だ分からないのだから、「意味は~」という書き出しで片方だけ載せておくのは不適切。だからp.113の記述も意味解説に加えるべきですよ、と既に5/25に書いておいたのです↑。また、固有名詞を三語分割して個別に和訳するのが、固有名詞の意味解説として適切なのかどうか、という点も疑問あるけど(元は1語だから)、そっちは深追いしないでおきます。--Leonidjp(会話) 2015年6月4日 (木) 05:35 (UTC)
- コメント上述の「片方だけ載せておくのは不適切」という点、p.113の記述を出典2に加筆することで処理した。これに伴い、出典2の位置を移動した。
- 『青空』には、p.113を始めとしてカタカナ綴りの「スダンマチャーラ」しか載っていないので、そのことを明示するように「出典2」の位置を移し、同書p.113に基づいた意味解説は同「出典2」の内容として記入した。--Leonidjp(会話) 2015年6月20日 (土) 05:00 (UTC)
- (以下の不要なインデントを一段戻させてもらいました。--Themtheman(会話) 2015年6月8日 (月) 14:11 (UTC))
- コメント三語分割の和訳の適切性については「深追いしない」と直上↑に書いたけど、一応その続きも書いておきますね。貴方の書いている三語分割(su・dhamma・cara)のうち、suはおそらく形容詞、dhammaとcaraは名詞ですね?とすると「su・dhamma」は形容詞・名詞の順だから「善い法」という和訳でよいのでしょうが、問題は、sudhammaとcaraの文法的な関係性です。貴方は格助詞「の」(連体格)で
目的語「行」に繋げているけど、p.113のほうは格助詞「を」(目的格)または句「の上を」(連体格+名詞+目的格)で目的語に繋がっているわけですから、sudhammaとcaraを和訳したうえで繋げる際の繋げ方には、p.113と比べると文法的な違いも見受けられるわけです。 - 要するにこれは、パーリ語文法において名詞が2個(sudhammaとcara)前後に並んだ時に前者と後者の文法的な「格」の関係がどうなるのが正解なのか、という問題に帰着するような気がするし、そういうことは貴方の挙げた和訳の出典(水野氏の辞典)にダイレクトに書いてないような気がするんですが、書いてあります?(私、その辞典を入手できないから誌面は見れてませんが、辞典には必ずしも文法解説が載ってないものだから)。その辞典に書いてないのなら、格助詞「の」で
目的語「行」に繋げるという貴方の繋げ方が無出典だということになるし、その正しい出典はおそらくパーリ語の文法書でなければならないことになるし、正しい出典の無い訳業を「意味解説」として掲げる(脚注[3]の中身)のは不正確・不適切な記述ということになりそうですが・・・。どうですか?結局、貴方の設定している格助詞「の」(連体格)がパーリ語文法上の根拠を持たないのなら、「善い法の行」という和訳の格助詞「の」(連体格)は文法的にも支持されないということになり、貴方の三語分割による和訳は助詞を失って「善い法」と「行」の2つに分解されてしまうので、それはsudhammacaraという1語の単語に対する意味解説の地位を保てないようにも見えるわけです。複数の語句を1語なり1句に纏めるためには助詞相当の「正しい接続部品」が必要になるはずだし、その「正しい接続部品」はもちろん正しく和訳される必要があるので。 - (「適切な出典が存在しない訳業を書くのは不適切」というのは5月17日 (日) 00:36に申し上げてありました)。パーリ語ビギナーに対する貴方の気遣いそのものは有り難いことなのですが、気遣いの中身が正しい出典なり根拠をもっていないと、それはそれでまずいと思うので、このとおり長々と申し上げた次第です。(私、パーリ語はズブの素人です)。--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:56 (UTC)
- 文中、取り消し線で一部修正。--Leonidjp(会話) 2015年6月8日 (月) 00:49 (UTC)
- コメント三語分割の和訳の適切性については「深追いしない」と直上↑に書いたけど、一応その続きも書いておきますね。貴方の書いている三語分割(su・dhamma・cara)のうち、suはおそらく形容詞、dhammaとcaraは名詞ですね?とすると「su・dhamma」は形容詞・名詞の順だから「善い法」という和訳でよいのでしょうが、問題は、sudhammaとcaraの文法的な関係性です。貴方は格助詞「の」(連体格)で
(インデント戻す)
コメント これも資料問題と同じく「一字一句」主張ですよね。まあ上の3つを異なるとするLeonidjp氏の主張を他の方々がどう見るかは各自の判断におまかせしますが、ここに関して言えば、そもそも「パーリ語の言葉の意味を『パーリ語辞典』水野弘元を基に書いているだけ」であって、「山下良道がそう言っている」と書いているわけではないので、Leonidjp氏のように「山下の表現と一字一句符合するかどうか」をもって不当性を主張するのはそもそもナンセンスですね。--Themtheman(会話) 2015年6月8日 (月) 14:11 (UTC)
- >これも資料問題と同じく「一字一句」主張ですよね。
- コメントこの比丘名の件はもともと、「字面の符合」を議論していたのだから、「一字一句」のモンダイであるに決まっている。今やもう、「『一字一句』主張ですよね」などと「確認的」なことを言うタイミングではない。--Leonidjp(会話) 2015年6月9日 (火) 07:11 (UTC)
- コメント(追記):とはいえ、Themtheman氏の訳業の文法上の正確性を示す出典情報が無い、という問題は、「一字一句」のモンダイとは独立に扱えるものであるということ、念のため付記しておきます。「一字一句の符合」についての検討を一切行わない場合にも、「文法上の問題」はそれとは独立に在り続けます(詳述済み:1・2・3)。--Leonidjp(会話) 2015年6月20日 (土) 04:39 (UTC)
- コメント水野氏の辞典をみた。略文法は書いてあるが、その何処を見れば格助詞「の」の根拠があるのか分からない。だから、辞典名を書くだけでは出典情報が漠然としすぎている。suもdhammaも訳語が複数あるので、Themthemanさんの書く脚注[3]のように訳語を1個だけ選び出すのが何故正しいのかも分からない。caraはcariyaまたはcaritaの変形(活用?)されたものにも見えるが、いずれにしろ訳語が1つではないので、なぜ訳語として「行」1個を抜き出しているのか分からない。変形(活用?)の結果としてcaraになっているのなら、その変形/活用の実態も分からない。--Leonidjp(会話) 2015年6月9日 (火) 06:11 (UTC)
- >「山下の表現と一字一句符合するかどうか」をもって不当性を主張するのはそもそもナンセンスですね
- コメント名前の翻訳は、翻訳される人の名誉や尊厳にかかわる案件なのに、そんなことを仰ることに驚く。何度も言うが、文法的な根拠がない格助詞設定は、訳業として真正性が確認できない。--Leonidjp(会話) 2015年6月9日 (火) 06:41 (UTC)
- >まあ上の3つを異なるとするLeonidjp氏の主張を他の方々がどう見るかは各自の判断におまかせしますが
- コメントこの異同についての貴方の判断はいかなるものですか?他人におまかせしないで貴方の判断を書いてください。--Leonidjp(会話) 2015年6月9日 (火) 06:54 (UTC)
- コメント↑私が「異同」と書いているのは「字面の異同」を意味している。「異なるか、異ならないか」を訊いているのであり、「ナンセンスであるか否か」を訊いているのではない。質問内容を取り違えぬように。すでに6日経っている。早急に回答求む。--Leonidjp(会話) 2015年6月15日 (月) 00:59 (UTC)
- コメント 私個人の判断としてはあなたのここの主張はナンセンスだって書いてるじゃないですか。「法名のパーリ語の意味を辞書に基づいて記述する」ことが一体、山下の名誉や尊厳の何を傷つけるというのですか?何を根拠にそんなこと言ってるんですか?そうまで言うからには相応の根拠があるんでしょうね?仮にあなたが独断・主観でそんなこと言ってるのなら、不毛なのでここに関する議論はやめるべきだと思います。--Themtheman(会話) 2015年6月13日 (土) 23:37 (UTC)
- >Leonidjp氏のように「山下の表現と一字一句符合するかどうか」をもって不当性を主張するのはそもそもナンセンス
- コメント貴方は、私が上述の「6月6日 (土) 04:56」に書いた大事なことが読めていないように見える。貴方の披露している翻訳「善い法の行」は、格助詞「の」の設定という文法上の処理に出典が無いため、翻訳そのものの正しさが検証できないという「不当」性をも併せ持っている。
- また加えて、「6月9日 (火) 06:11」にも私が書いたように、辞典の誌面で1語あたりの訳語が複数あるにもかかわらず、その中から特定の1個ずつ(善い/法/行)を選び出して訳語として採用しているという訳語選択にも出典が無い。従ってこの点でも「不当」性がある。
- >ここに関して言えば、そもそも「パーリ語の言葉の意味を『パーリ語辞典』水野弘元を基に書いているだけ」
- コメントとはいえ、sudhammacaraという1語の名詞に対する翻訳の手続きとしては不適切な実態が更にある。sudhammacaraという1語の名詞を「su/dhamma/cara」という具合に3つに切断するという「切れ目の入れ方=分解のしかた」(参照)が正しいと述べている出典が無いのだから、このような切れ目の入れ方が正しいのかどうか未だ検証できない。「切れ目」の位置を正しく特定する作業はやはり文法上の処理であるので、「文法的にココで切れます」とハッキリ述べている資料でなければ、「切れ目」の出典とはいえない。「辞典の誌面で、分解後の単語を見つけた」というだけでは、sudhammacaraという1語の名詞の「切れ目」の位置の出典にはならない。或る名詞を「切ってよいか否か/どこで切れるか」を決めるのは文法であるはずだからである。だから要するに、「善い法の行」という和訳(=脚注3)は、現状においては、sudhammacaraという1語の名詞に対して出典無しの「切れ目」を入れた=勝手に分解したうえで、分解後の3単語を翻訳したにすぎないから、それがsudhammacaraという1語の名詞の翻訳という地位を占めているとは言えない。「勝手に分解して訳したらこうなりました」という趣旨のものでしかなく、それ以上のものではない。とすれば、脚注3が「意味は~」という書き出しで始まることによってsudhammacaraという1語の名詞に対する意味解説という体裁を取っていることが不適切、「不当」だ。
- 上記3点をまとめると、(1)切れ目の入れ方に出典が無い。(2)複数ある訳語から特定の1個を選び出す選択の出典が無い。(3)格助詞「の」の設定に出典が無い。つまり3つの側面において出典が無い。
- 早急に、適切な出典を挙げるか、でなければ、「善い法の行」という翻訳をページから除去してほしい。比丘名というのは僧侶としての名前だから、比丘名の取り扱いを疎かにすることは、僧侶という身分/資格に対する態度としても礼を失することになるのかもしれない。早く対応したほうがいい。--Leonidjp(会話) 2015年6月14日 (日) 01:54 (UTC)
(以下の節を、視認性のため一段インデントし直します。--Themtheman(会話) 2015年6月20日 (土) 00:04 (UTC))
- コメント「人の名前」というものを、あえて「物」的に捉えた場合に、この件がどういうイメージになるか、参考までに書いておこう。ピカソの「ゲルニカ」を3つに切断し、その3つをそれぞれゴッホの絵に置き換えたうえで繋ぎあわせて「これがゲルニカです」と言い張る。そんなイメージ。「ゲルニカ」を「切断できる」とか「置き換えできる」と思うなら、それは余程まともな根拠を備えて責任をもって行わないとならない。そうでなければ、こういう例は文化財の破壊行為だとしか言いようがない。
- コメント「人の名前」は単なる単語ではなく、特定の人格との間で特別の関係をもつものだから、まともな根拠もなしに「切断」したり「置き換え=他国語に翻訳」することは、「人格に対する切断/改変」を想起させかねない。いわゆる「象徴」的な水準で、人格に対する侵害的な意味をもちかねない。本当にやめたほうがいい。(仏教に詳しい人なら、行為、結果、と聞いて思い出すtermもあろう)。名前の持ち主だけでなく、名前を付けた人(=この場合、ミャンマーのセヤドーか)に対しても失礼にあたる可能性がある。善意で訳しているから許容されるとは限らないし、Wikipedia的に言えば、文法上の根拠(=出典)が示されていない訳業を披露してはいけない。
- 繰り返し言うが、この件、現状のまま放置すべきではない。--Leonidjp(会話) 2015年6月17日 (水) 05:40 (UTC)
- 反対 Leonidjp氏はこの議論において、辞書出典が明示されている記述に対して、明確な根拠なしに「人格に対する侵害」と削除を主張しています。こうした主張を容認することは恣意的な削除行為を容認してしまうことになるので、到底受け入れられませんし、断固反対する旨をここで明言しておきます。--Themtheman(会話) 2015年6月20日 (土) 00:04 (UTC)
- >明確な根拠なしに「人格に対する侵害」と削除を主張
- コメントあなたの和訳には文法上の根拠がないという点が「根拠」だということが読めてないですか?--Leonidjp(会話) 2015年6月20日 (土) 04:37 (UTC)
- コメントもしも貴方が上述の「象徴」とか「人格」にまつわる問題性そのものを理解できないとしても、それとは独立に、「文法上の正確性を示す出典がない」という問題性は在り続けていることをお忘れなきようお願いします(詳述済み:1・2・3)。--Leonidjp(会話) 2015年6月20日 (土) 04:39 (UTC)
- >恣意的な削除行為
- コメント貴方の披露している和訳「善い法の行」は「恣意的」な翻訳。文法上の根拠が示されていないから(詳述済み:1・2・3)。そういうものは、Wikipediaに載せてはいけない。--Leonidjp(会話) 2015年6月21日 (日) 03:33 (UTC)
- コメント水野氏の辞典、二訂版によれば、su-の訳語は6つ、dhammaの訳語は4つ、cāraもおそらく2つ以上あるので、単純計算でも6*4*2=48通りくらいの訳語選択肢があることになるわけだが、そのなかから「善い/法/行」という1つずつを選び出す根拠は何?それが何処にも書かれてない。選択の根拠がThemtheman氏の独断でしかないなら、「善い/法/行」という訳語選択そのものが、まさに恣意的。どうしてそういうものをWikipdiaに載せようとする?--Leonidjp(会話) 2015年6月24日 (水) 03:13 (UTC)
- コメント"cāra"は、他の単語が変形したものじゃないのですか?水野氏の辞典の二訂版では"cāra"は見出し語として存在していません。貴方の持っている版では「見出し語として」存在していますか?
- 貴方の手元の版でも見出し語として載ってないなら、何がどのように変形されてcāraになったのか書いておかないと、"cāra"そのものについては無出典ということにならないですか?(なりますよ。載ってないのだから)。変形元の単語が何なのか把握してますか?
- ※"cāra"と一字違いの"cara"は「歩行の、密偵、間諜」という訳語なので明らかに違うだろう。--Leonidjp(会話) 2015年6月24日 (水) 03:22 (UTC)
- コメント水野氏の辞典、増補改訂版第4刷(2013年3月発行。おそらく最新の版だろう)を見る機会があった。そこには"cāra"が見出し語として存在しているが、その訳語は「行ずる、所行の」となっている。品詞は形容詞と書いてある。Themtheman氏が「脚注3」に書いている訳語「行」とは明らかに違う。
- え~、これはどうなっておるのでしょうか。Themtheman氏の訳語「行」(明らかに名詞ですね?)は、いったい何処から出てきたのですか。整合的な説明を求めます。
- Themthemanさんは、【水野氏の辞典において"cāra"の訳語が「行」である】旨を「脚注3」に書いたうえ、当ノートページでも同趣旨のことを4回発言しています(参照:1・2・3・4)。しかし、その辞典の誌面には、実際には上述のとおりに別の訳語が載っているわけです。となると、【水野氏の辞典において"cāra"の訳語が「行」である】旨の貴方の記述・発言は虚言(ウソ)だったのですか?虚言でないとしたら何なのですか。--Leonidjp(会話) 2015年6月27日 (土) 00:45 (UTC)
- コメントさて、更に別角度からの質問。上述のとおり、訳語「行」と、格助詞「の」は、水野氏の辞典にそのまま載っているわけではない(=事実上の無出典状態)ですから、和訳を披露している貴方が原語"Sudhammacāra"に対して何らかの文法的な処理をすることによってこの「の」と「行」が生まれたのではないのですか。では、いったい、どういう文法的な処理をしたのですか?その文法的な処理の中身を、その出典を挙げて説明してください。そうでないと、「の」と「行」は紛れもなく無出典ということになりますから。
- 無出典は、即ち、独自研究です。下記の「唯一の方法」を実行していませんから。
- 「独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。」(「Wikipedia:独自研究は載せない」)
- 辞典に載っていない字句を、あたかも載っているかのように書いたら(=上述の「の」と「行」がそうでしょう)、それは、辞典の著者である水野氏に対しても失礼でしょう。やめましょう、そういうのは。
- 資料たる辞典の記述を改竄したらいけないし、資料たる辞典に存在しない記述をあたかも存在するかのように書いて出典化するのは、出典情報の捏造でもある。すぐに是正して下さい。-Leonidjp(会話) 2015年6月27日 (土) 00:45 (UTC)
- コメントまあ、「今さら」感もあるが、看過せず質問。
- 「脚注3」およびページ本文冒頭では、「スダンマチャーラ」のパーリ語綴りは"Sudhammacāra"となっていて、10文字目は上部に横線入の"ā"であるわけですが、10文字目にこの"ā"を入れたかたちでの"Sudhammacāra"という綴り自体の出典は何処ですか?それも挙げられていませんね。
- 公式サイトのプロフィールページでは"Sudhammacara"という綴りだから、10文字目は"a"(普通のローマ字のa)です。また、パーリ語の綴りも当然に校正・校閲しているであろう株式会社サンガの『別冊サンガジャパン1』p.373でも比丘名の綴りは公式サイトと同じく"Sudhammacara"ですから、10文字目は普通の"a"です。
- 横線付きの"ā"を使った綴り"Sudhammacāra"の出典は何処ですか?(この比丘名そのものは水野氏の辞典に見出し語として載っていないことは確認済み)。
- 名前の綴りが間違っているとしたら、それは明らかにNGです。間違っているなら直しましょう。--Leonidjp(会話) 2015年6月28日 (日) 00:25 (UTC)
- >ここに関して言えば、そもそも「パーリ語の言葉の意味を『パーリ語辞典』水野弘元を基に書いているだけ」であって、「山下良道がそう言っている」と書いているわけではないので、Leonidjp氏のように「山下の表現と一字一句符合するかどうか」をもって不当性を主張するのはそもそもナンセンスですね
- >「法名のパーリ語の意味を辞書に基づいて記述する」ことが一体、山下の名誉や尊厳の何を傷つけるというのですか?
- コメント(長文が必要だから長文で書きますよ。短文を少しずつ見せるという仕方だと何十日もかかるから。その間、問題ソノモノは未解決のまま放置されるんです。それこそ、ページの読者や山下氏に対して有害だから)。
- コメント貴方の作った和訳「善い法の行」には文法的な疑義がありますよ、という旨、すでに6月8日に申し上げてあるのに、それには応えずに「一字一句の符合」という論点だけで応答してくるという答え方に驚く。明示的に示されている疑義にお答えにならないのはどうしてでしょうか。
- 更に遡ること6月4日にすでに申し上げたとおり、貴方の和訳「善い法の行」と『青空~』p.113の記述は、文節/単語/字単位での前後関係が一箇所しか一致していないわけだから、句どうしとしての字面はほぼ全体が不一致であるわけです(「一字一句」に関する検討が、それを明らかにした)。字面が違うなら、「善い法の行」とp.113の記述は「意味においても違う」可能性が当然ある。では、貴方の作った和訳「善い法の行」が「sudhammacaraの意味として正しい」というコトを何が保証するのです?パーリ語の文法が保証するしかないではないですか。字面の不一致と「文法問題」がそこでリンクしていること、お分かりでしょうか。しかも、貴方の和訳「善い法の行」は、山下氏が自分で発表したものではないから、「山下氏本人が言っている」という「後ろ盾」も無いわけです。字面の不一致と「後ろ盾」の不存在という2つの問題性が在るぶんだけ尚更に、あなたの和訳の「正確性の根拠=文法上の根拠」を示す必要性は増しているわけです。文法問題をスルーなさらないでください(文法問題の内容は何日も前から詳述済みです:1・2・3)。
- 文法上の根拠をもたない仕方で「他人の名前(法名)」を翻訳した結果を公表すること自体が、名前(法名)に対する一種の「損壊」的なニュアンスをもちかねないし、その名前と結びついた人格に対しても失礼にあたる。それを「名誉や尊厳にかかわる」と申し上げたわけです(他の段落でも詳述:1・2)。
- ※言うまでもないことですが、たとえ「一字一句の符合」についての検討をまったく行わない場合にも、「翻訳の文法上の根拠が示されていない」という問題性はそれとは独立に在り続けます。ご注意下さい。--Leonidjp(会話) 2015年6月20日 (土) 04:45 (UTC)
- >「法名のパーリ語の意味を辞書に基づいて記述する」ことが一体、山下の名誉や尊厳の何を傷つけるというのですか?
- コメント「辞書に基づいて」?正確に言えば、「辞書だけ」に基づいたのではないはずでしょう。貴方が書いている「法名の意味」=「善い法の行」は、「辞書だけ」に基づいたものではないはず。sudhammacaraという1語の名詞を3語に分割するという「切り方」、3語各々の訳語を複数個の中から1つに絞る「訳語選択」、格助詞「の」の設定という3点(詳述)の根拠が辞書の中の何処に書いてあるのか、という点について、貴方は「辞書」のみに基づいた説明を書くことができていないのだから、この3点のモンダイの「解決法」は辞書の中には書かれていないでしょう。では、どこに書かれているかというと、文献としてはパーリ語文法の解説書の中にしかないでしょう。しかし貴方は文法解説書を出典に挙げることはしていない。とすれば、貴方はパーリ語文法の規則に従った翻訳をすることが未だ出来ない人であるのかもしれない。事実そのとおりであるなら、そういう貴方が行なった「法名の意味解説」=「善い法の行」の、文法上の根拠は何処にあることになるのか?貴方の場合ならおそらく、貴方の心の中だけにある「自己流パーリ語翻訳術」のごときもの。事実上、根拠はそれしかあり得ないでしょう。貴方が、現実に存在する文法解説書を「自分の翻訳実践の、文法上の根拠」として挙げない以上、「貴方は文法面においては自己流に翻訳したのだ」と見なすほかないのではないですか。(反論できるなら、ぜひ反論して下さい)。つまり、貴方の訳業「善い法の行」は、文法面では「無出典」ということになります。
- 信頼できる媒体や版元で発表・出版された文法解説書(=これはいわば、パーリ語に関する「信頼できる二次資料」)の記述に則って翻訳するからこそ、翻訳が正確で適切だと言いうるわけです。その意味において、信頼性が不明の「自己流翻訳術」を用いた翻訳は信頼性が全く不明です。上述のように、「人の名前」は単なる単語ではなく、特定の人格との間で特別の関係をもつものですので、取り扱いには注意を払うべきなのです。社会的には信頼性不明の「自己流翻訳術」のごときもので「翻訳」した結果を世人に披露すること自体、「名前(この場合は法名)」に対する一種の「損壊」行為というだけでなく、人格に対する「侵害」的なニュアンスをもちかねないので、やめたほうがいいのです(とはいえ、名前と人格の関係というのは、あるセンスのない人には伝わらないことだろうとは思いますが)。
- 外科手術に喩えれば、「専門教育を受けた人がセオリーに則って行う皮膚移植手術」と、「素性不明の匿名人が行う自己流・皮膚移植手術」の違いとしてイメージしてみたらどうでしょうか。後者は患者に対する「傷害」容疑を問われかねないし、失敗すれば皮膚という「外面」を損なうことになるわけです。「名前の意味/字面」というのは、「顔の皮膚」のような「外面」でもあるでしょう。名前/法名の翻訳を自己流で処理する、というような扱い方は、たとえ善意であっても避けるべきです。
- 「善い法の行」という翻訳結果を導き出す文法上の根拠を、実際に存在する資料の中から挙げられるなら挙げてください。挙げられないなら、貴方の訳業の文法上の根拠は貴方の心の中にしかないと見なさざるを得ません(反論可能ならぜひ書いて下さい)。「文法上の根拠がない翻訳結果」はおそらく、独自研究に該当していますし(下記参照)、sudhammacaraという「一次資料としての法名(単語)」に対して「翻訳という名の解釈」を加えているという意味で、一次資料の扱い方の不適切事例にも該当しそうです(下記参照)。
- 山下氏自身の思想・実践・経歴等に関する二次資料は実質皆無であるとはいえ、パーリ語に関する日本語の二次資料は少なからずあるはずでしょう。複数の大学が印度哲学科をもつくらいの国なのだから、専門家のコミュニティもあるだろうし。翻訳を披露するならば、信頼できる二次資料に基づいた翻訳を出しましょうよ。(翻訳をしたいと思っている人は現状、貴方だけだと思うので、文法の出典探索や訳業そのものを私に任せないで下さいね)。--Leonidjp(会話) 2015年6月20日 (土) 04:45 (UTC)
- >「法名のパーリ語の意味を辞書に基づいて記述する」こと
- >パーリ語にうとい人にはこうして単語ごとに分解した説明が添えてあるとよりわかりやすくて親切だと思います。
- コメント間違った内容を「わかりやすく」伝えるのは駄目ですよ。「間違っていない」と言うためには、文法上の根拠が要るはずです。「(法名を)単語ごとに分解」というその「切り方」と、訳語選択と、格助詞設定の根拠が。そこまで裏付けをとった訳業を披露して初めて、内容の確実性を伴った「親切」というものが達成されるわけで。それがない「親切」は、受け手が温情によって受容してくれるから形式的に成立しているように見えるだけである場合があり、それは実は温情を発揮している「受け手」の側こそ「親切」なのだとも言えるものです。受け手の(温情でなく)無知によって受容されているだけ、という場合は、内容の不正確さが糺されないという意味で、弁護できないものです。当事者同士、「親切」のやりとりで気持ちが良くなるのはよいことだと思いますが、内容面では不正確性を拡散させているわけですので。「うとい人」同士の教え合いは、往々にしてそうなります。そういうことが起こらないようにするために、「信頼できる二次資料」に基づいた執筆というものが方針化されているはずなのです。ですから、「親切」を目指す時だからこそ尚のこと二次資料を使いましょう。「パーリ語に疎くない人」なら、それくらい出来て当然だと私は思います。出来ない人は「疎い人」と思われても仕方がありません。--Leonidjp(会話) 2015年6月20日 (土) 04:45 (UTC)
- コメント パーリ語辞書の文言の引用のしかたは確かに雑でした。ではその文言を辞書に忠実に「su(よき、善き)-dhamma(法)-cara(行ずる、所行の)」としたらどうでしょう?つまりね、ここまでの議論は「辞書との一致性」「山下の表現との一致性」「単語の分け方」の3つが一緒くたに議論されてしまっているので、まず「辞書との一致性」をクリアした上で、的を絞った生産的な議論をしたいわけです。そうすると、「山下の表現との一致性」に関しては、私は当初からそのことを問題にしていないし、記事の文面でもそう述べているわけではない(辞書的にパーリ語の意味を表記するとこうなると書いているだけ)ので、議論から除外されますし、残る問題はあなたが「su-dhamma-cara」という「単語の分け方」に関して異議を唱えている点だけになります。で、この点に関しては、この単語の分け方に異議があるなら、その「異なる分け方」を示してもらいたいというのが私の立場です。パーリ語的に他の分割の仕方があるのなら、私の分割の仕方は「恣意的」ということになりますが、パーリ語的に他の分割の仕方をあなたが提示できないのであれば、あなたはあり得ない可能性を持ち出して、私を論駁していることになりますし、その批判は不当かつ無効ということになります。お分かりでしょうか?--Themtheman(会話) 2015年7月10日 (金) 23:31 (UTC)
- >パーリ語的に他の分割の仕方があるのなら、私の分割の仕方は「恣意的」ということになりますが
- コメント貴方の分割の仕方が、今の時点で「恣意的」でないことを示す、パーリ語文法上の根拠を挙げて。(いつまで待たせる?)「分割後の3単語が辞書に個別に載ってる」というのは単なる「事実」であって、それだけでは「文法」を語っていることにはならない、ということに注意。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:20 (UTC)
- >パーリ語的に他の分割の仕方をあなたが提示できないのであれば、あなたはあり得ない可能性を持ち出して、私を論駁していることになりますし
- コメント「分割が可能だ」という趣旨のことを私は言っていないことに注意せよ。分割の「実行」についても同様。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:20 (UTC)
- >「分割が可能だ」という趣旨のことを私は言っていない
- コメント それではあなたは「Sudhammacara」というパーリ語法名は「分割不可能」だと主張しているということでいいですか?そうであるならば、当然その出典・根拠を示さねばなりません。それを提示して下さい。よろしくどうぞ。私は「Sudhammacara」がパーリ語法名である以上、当たり前ですがパーリ語の単語に分割できると考えますし、パーリ語辞書に則ってその意味を客観的に記述すればいいと思います。そして、繰り返し述べますが、私が辞書の記述まで提示している、そして少しでもパーリ語の知識がある人間にとってはあまりにも自明な「Su-dhamma-cara」というの単語の分け方を、あなたが恣意的だと主張するのなら、当然その根拠なり反証なりを提示しなくてはいけません。そうでなければ、ただの無根拠な言いがかりです。よろしくどうぞ。--Themtheman(会話) 2015年7月31日 (金) 21:42 (UTC)
- >それではあなたは「Sudhammacara」というパーリ語法名は「分割不可能」だと主張しているということでいいですか?
- コメント可能とも不可能とも言ってない。勘違いするな。貴方の分割には文法的根拠が示されていない。だから貴方の分割の仕方が正当なのかどうか不明。それだけ。
- >私は「Sudhammacara」がパーリ語法名である以上、当たり前ですがパーリ語の単語に分割できると考えますし
- >そして少しでもパーリ語の知識がある人間にとってはあまりにも自明な「Su-dhamma-cara」というの単語の分け方
- コメント「当たり前」・「自明」が根拠不明(=独自研究に等しい)。貴方が「少しでもパーリ語の知識がある人間」なら、この「当たり前」・「自明」の中身を説明せよ。できないなら、貴方自身がパーリ語に決して詳しくはないということ(=貴方流に言えば、「少し」も知識がない)。初心者が解説者ぶらなくていい。
- >「Su-dhamma-cara」というの単語の分け方を、あなたが恣意的だと主張するのなら、
- コメント分割した主体は貴方(だけ)であるという事実に注意せよ。もとは1語の固有名詞であり、山下氏自身も辞書も、分割の実行はしていない。「分割できる」という判断そのものは分割者の恣意であるに決まっている。その恣意が文法で支持されるならOKだが、文法で支持されないならタダの恣意。あなたの分割はどちら?お答えを「よろしくどうぞ」。
- >そして少しでもパーリ語の知識がある人間にとってはあまりにも自明な「Su-dhamma-cara」というの単語の分け方
- コメント百科事典は知識のない人も読者であるわけでね。
- >よろしくどうぞ
- コメント言葉遣いが丁寧なだけではしょうがない案件というものがある。--Leonidjp(会話) 2015年8月1日 (土) 01:31 (UTC)
- コメント下線部↑を加筆。--Leonidjp(会話) 2015年8月1日 (土) 04:28 (UTC)
- >それではあなたは「Sudhammacara」というパーリ語法名は「分割不可能」だと主張しているということでいいですか
- コメント「分割の可不可」という一般論に話がすりかわってるのも、故意か過失か知らんがクダラナイ展開だな。sudhammacaraという1語の固有名詞の、suとdhammaの間、dhammaとcaraの間がどうして分割できるのか、という具体的なことを訊いてる。いつまで待たされるのですかねえ。--Leonidjp(会話) 2015年8月1日 (土) 03:56 (UTC)
- >私は「Sudhammacara」がパーリ語法名である以上、当たり前ですがパーリ語の単語に分割できると考えますし
- >そして少しでもパーリ語の知識がある人間にとってはあまりにも自明な「Su-dhamma-cara」というの単語の分け方
- コメントあの〜、たとえ貴方が本物のパーリ語学者であったとしても、自論を裏付ける資料を挙げずに「当たり前」とか「自明」とか言っているのなら、それは独自研究そのものですよね。そんなのWikipediaでは通用しないに決まっているじゃないですか。
- >そして少しでもパーリ語の知識がある人間にとってはあまりにも自明な「Su-dhamma-cara」というの単語の分け方
- コメント貴方がそうやって「少し」と呼んでいる「少量の知識」の中に、【Sudhammacaraというパーリ語比丘名の、su/dhamma/caraという切り方での分割可能】を証し立てるロジックなり情報が含まれているというわけね?で、貴方はそれを具体的に知っているわけね?では、【Sudhammacaraというパーリ語比丘名の、su/dhamma/caraという切り方での分割可能】を証し立てるロジックなり情報って具体的に何ですか、と訊ねられたら答えることができないとおかしいではないですか(私、既に訊ねていますよ)。貴方が言うようにソレが「少量」の知識であるなら、説明の文章だって少量で済むでしょうし。
- ※【Sudhammacaraというパーリ語比丘名の、su/dhamma/caraという切り方での分割可能】を証し立てるロジックなり情報を貴方は実は知らない、というのが真相なら、それハッキリ告白してくだされば済むわけですけれどね。その場合は、貴方の例の「自明だ」とか「当たり前だ」という表現は誤認(間違い)または虚言(ウソ、ハッタリ)だった、ということになるだろうけど、虚言を疑われるような発言を堂々と披露している人にWikipediaの執筆まかせたらまずいんじゃないの、という危惧感は募りますよね、やっぱり。--Leonidjp(会話) 2015年8月5日 (水) 10:44 (UTC)
- コメント下線部を増補↑。--Leonidjp(会話) 2015年8月6日 (木) 00:40 (UTC)
- コメント「出典を示す責任は掲載を希望する側に」ありますよ、ということが「Wikipedia:検証可能性」にもハッキリ書いてあるわけでね。(これを貴方に指摘するのは今回が初めてではないはずだし、Wikipedia編集上のこんな基本的な事項ぐらいは、いいかげんに覚えて頂けないものですかね。能力的に覚えられないですか?Wikipediaの公式の編集方針に反するロジックをいつまでも取り下げないでいるなら、「第三者」の手を借りるべき時節なのかもしれない)。"sudhammacara"を「分割」した後の状態をページに記述しようとしているのは紛れもなく貴方(だけ)。--Leonidjp(会話) 2015年8月4日 (火) 02:30 (UTC)
- >「山下の表現との一致性」に関しては、私は当初からそのことを問題にしていない
- >パーリ語辞書の文言の引用のしかたは確かに雑でした。ではその文言を辞書に忠実に「su(よき、善き)-dhamma(法)-cara(行ずる、所行の)」としたらどうでしょう?
- コメント辞書に忠実に?水野氏の辞典(二訂版、1975/6/30刊)によればsuの訳語は6つ、dhammaの訳語は4つある。→su(よき、善き、良き、妙なる、易き、極めて)。dhamma(法、教法、真理、正義)。ただし最新の版では両方とも訳語が6ないし7個ずつあったと記憶している。その中から「よき、善き」および「法」という特定の訳語を採用する根拠は?また無根拠か?いいかげんにやめようぜ、そういうの。「引用のしかたが雑」。
- 【「よき、善き」および「法」という特定の訳語を採用する根拠】になりうる情報があるとしたら、それは『青空』p.113の記述なわけだ。そこには「善法を行ずるもの」・「善法の上を歩むもの」という山下氏自身による名乗りが書いてあるから、貴方の提案する訳語と似てはいる(似てるというだけ)。でも貴方は「山下の表現との一致性」を目指しているつもりではないと宣言している(上述引用文)。なら貴方にとってこのp.113は訳語選択の根拠ではない、ということか。じゃあそれ以外の何処に根拠が?--Leonidjp(会話) 2015年8月1日 (土) 01:31 (UTC)
- コメント自力で解決できないなら、「Portal:言語」でコメント依頼でも出したらいいじゃない。せっかのウィキペディアなのだから。Web上の質問サイトで訊いてみるとか。文法解説書だって皆無というわけじゃないでしょう。もしも解説者を気取るのなら、文法書の1冊くらい通読してないとおかしいんじゃないの。--Leonidjp(会話) 2015年8月1日 (土) 03:56 (UTC)
- >パーリ語辞書の文言の引用のしかたは確かに雑でした。ではその文言を辞書に忠実に「su(よき、善き)-dhamma(法)-cara(行ずる、所行の)」としたらどうでしょう?
- コメント情報提供。水野氏のパーリ語辞典、増補改訂版第4刷(2013年3月発行)の誌面をあらためて確認した。同書において、su,dhamma,cāraの品詞と訳語は下記の通り。ただしcāraはaの上部に横線入りの綴りなので、比丘名Sudhammacaraの末尾4文字(cara)とは一字違いの綴りになる。cāraとcaraがパーリ語において同一なのかどうかは、誰からも説明を受けていないので知らない。「同一だ」と言いたい人は説明を加えてほしい。
- su:(接頭辞) よき、善き、良き、妙なる、易き、極めて
- dhamma:(名詞) 法、教法、真理、正義、もの、一切法、諸法の法
- cāra:(形容詞) 行ずる、所行の
- ちなみにこの増補改訂版第4刷では、aの上部に横線の無い"cara"は見出し語としては見当たらない。とすれば"cara"というのは他の単語が変形して出来たものであるようにも思われるが、何がどんなふうに変形して"cara"が出来あがるのか、という点については詳細不明。--Leonidjp(会話) 2015年8月5日 (水) 10:15 (UTC)
- >cāraとcaraがパーリ語において同一なのかどうかは、誰からも説明を受けていないので知らない。「同一だ」と言いたい人は説明を加えてほしい。
- コメント これだもんなぁ笑。何で初歩的な知識も無いところにわざわざ首をつっこもうとするのかなぁ。このノートでの議論の最初の頃にも似たようなこと言った覚えがあるんだけど、出典となる書籍を書いている人間たちも、あまりにも初歩的なことは書いていたらきりがないからいちいち書かないわけで、あなたみたいな「初歩的な知識も無い+出典原理主義」という組み合わせの人が入ってくると、「わざわざ出典に書かれることのない初歩的な知識」領域で、「知らないし出典に書いてない(時には削除)」という態度を取られかねないし、これは非常に危険な態度だと思います。言ってることわかります?逆の立場で考えてください。あなたが詳しい分野・記事をひとつ思い浮かべてください。そこに全くそれについての知識を持ってない人間が入ってきて、初歩的な知識に関して「出典に書いてない」という主張を繰り返す。彼に関連知識の教育を一から手取り足取り施さねばならないのでしょうか?全ての記事で、全ての編集者に対してそんなことをしてたら大変なことになりますわな。そこんところをもう少し考えてもらいたいなと思いますわ。--Themtheman(会話) 2015年8月8日 (土) 00:17 (UTC)
- >全ての記事で、全ての編集者に対してそんなことをしてたら大変なことになりますわな
- コメント私は貴方に質問しているんで、貴方以外のWikipedia編集者に質問しているのではないからね。「全ての編集」なんてものを持ちだしても、貴方個人の責任が免責されるわけではない。「全ての窃盗を捜査したら大変なことになるから、うちの管内では窃盗は見逃そう」なんていう警察署員なんかアリエナイ。
- >「わざわざ出典に書かれることのない初歩的な知識」領域
- >出典となる書籍を書いている人間たちも、あまりにも初歩的なことは書いていたらきりがないからいちいち書かないわけで
- コメントその「書かれることのない」という貴方の勝手な憶測とか、「きりがないから書かない」とかいうその理由づけ自体が、貴方の無出典な自論にすぎない(=独自研究にすぎない)じゃないか。貴方自身はパーリ語学者ではない(はず)だしパーリ語解説本の著者でもない(はず)なのに、どうして無出典のまま勝手に「本物の専門家/専門書著者」の代弁をする?パーリ語初心者の(はず)の貴方が無出典のままでそんなことを代弁しているのがおかしい。貴方にそんな権限はないだろう。Wikipediaは初心者が無出典のまま専門家の代弁をするサイトではない。
- >初歩的な知識
- コメント「○○が初歩だ」なんて無出典で言うなら、それ自体が独自研究なんだが。どうして無出典のままで「AにおいてBは初歩だ」なんて言い切ってるのですかね。あなた自身は専門家ではない(はず)なのに。
- じゃあ訊こうか、「cāraとcaraがパーリ語において同一なのかどうか」という問いの答えを導くための文法知識がパーリ語文法において「初歩」だというなら、それが「初歩」である根拠を述べてみよ。貴方は答えられないだろう(、と私は予想するし、この予想は当たる)。「知らないものは知らない」と明言する節度があるのは私のほうで、その節度をみせぬ人が無出典のまま自論を述べていくと「独自研究」そのものの文章ができあがる。
- >何で初歩的な知識も無いところにわざわざ首をつっこもうとするのかなぁ。
- コメントそれを言っている貴方自身がその「初歩的な知識」の中身を一片も説明できてない、というのが現在の状況。「初歩的な知識」というレッテルだけが見えているにすぎない。だからやっぱり、貴方(Themtheman)自身もその「初歩的な知識」が無いのだろう?「何で初歩的な知識も無いところにわざわざ首をつっこもうとするのかなぁ」。知らないものは知らない、として黙っていればいいではないか。--Leonidjp(会話) 2015年8月8日 (土) 04:01 (UTC)
- コメント「○○は初歩だ」、「○○は自明だ」なんて宣言するだけで論証が済むなら、そんなラクなことはない。私も使ってみようかな、「徳川家慶が半魚人だったのは初歩的な知識であり、自明です。初歩的すぎるから歴史学の教科書に書いてません」とか。呆れられるだろうなあ(笑)。※下線部↑を増補。--Leonidjp(会話) 2015年8月8日 (土) 04:10 (UTC)
- >逆の立場で考えてください。あなたが詳しい分野・記事をひとつ思い浮かべてください。そこに全くそれについての知識を持ってない人間が入ってきて、初歩的な知識に関して「出典に書いてない」という主張を繰り返す。彼に関連知識の教育を一から手取り足取り施さねばならないのでしょうか?
- コメントあのね、そういう貴方の質問そのものに対して、私が「そんなことは初歩的な知識で解決がつくから答えない」なんて言って黙ったら、貴方は承服できます?できないでしょうねえ。「はぐらかすな」とか仰ってくるのでは?だったら、貴方だって、「初歩的な知識だから答えない」というような応対をしてはいけないはず。
- それからもう一点。「逆の立場」と仰ってるけど、では貴方自身は、パーリ語が貴方の「詳しい分野」だと自認しているというわけ?具体的な根拠は?
- まあ、こうやって、具体的なページの記述から離れた一般論へスライドしていくのも、そろそろ止めたらいかがです?貴方は【「パーリ語専門家」という想像上の立場に貴方自身を置いて、そこで「初心者への対応」に戸惑う】という架空のストーリーに入り込んでいる場合ではないよ。貴方は、当ノートページにおいては、私(Leonidjp)という生身の議論相手との間で、Sudhammacaraという実在の比丘名の取り扱いについて議論している一人のWikipedia編集者でしかなく、現実の貴方自身がパーリ語について「詳しい人」であることを示唆する情報は未だに一片も公表されていないですからね、このノートページでは。貴方が貴方自身を「パーリ語に詳しい人」という立場に置くというイマジネーションそのものが絵空事だし、そういう絵空事を前提にして「初心者への対応の是非」を語るというのは、絵空事の掛け算、「夢の中で夢を見る」みたいな、リアリティのない話。貴方の現実の立脚点は「パーリ語にはさほど詳しくもないWikipedia編集者」というものでしょう。「初心者への対応の是非」を語るなら、その立脚点から語ったらどうですか。貴方自身がパーリ語に詳しいわけではない、という立脚点。--Leonidjp(会話) 2015年8月8日 (土) 06:27 (UTC)
- >逆の立場で考えてください。あなたが詳しい分野・記事をひとつ思い浮かべてください。そこに全くそれについての知識を持ってない人間が入ってきて、初歩的な知識に関して「出典に書いてない」という主張を繰り返す。彼に関連知識の教育を一から手取り足取り施さねばならないのでしょうか?
- コメント訊かれた事柄が本当に「初歩的な知識」なら、「教師」の側はその「初歩的な知識」の中身を既に知っているはずだし、それの中身を語ることが当然できるはず。「初歩的な知識だから自分で文献を見て調べろ」と教師が生徒に言うのだったら、教師は、その生徒が読むべき文献のタイトルとページ番号くらいは予め知っていなければおかしい。要するに文献の所在をピンポイントで言えなければおかしい。教師が「その生徒の読むべき文献」のタイトルやページ番号を知らないままで「自分で調べろ」と生徒に言うなら、生徒が文献に頼って自分の疑問を解決できるという確証のないままに生徒を放り出したということになる。それは責任ある教師のすべきことではない。それでは「先人」の名には値しない。そういうのは「先人ぶった人」というのだろう。「俺も知らないから一緒に調べてみよう」と言える教師なら、そこで「学び方」の模範を生徒に見せるという仕方で「教師」であり続けることは可能だろう。
- ※「その生徒が読むべき文献のタイトルとページ番号」というのが、まさに「出典情報」。
- ※ちなみに、そもそも「教師」たるべき実質を持たぬ人が勝手に「教師としての責任」を引き受けてしまうのも危ないものだ。(自動車運転経験のない者が運転の指導者をみずから買って出る、というような)。「先人ぶった素人」という地金は、早めに露呈したほうがいいこともある。自他のために。--Leonidjp(会話) 2015年8月8日 (土) 08:11 (UTC)
- コメント うーん、cāraとcaraの区別もわからない人が、すなわちパーリ語の母音の種類も表記も全く知らない門外漢が、パーリ語の話に首突っ込んで、単語の区切り方がおかしいとか主張しちゃうのは、話にならんよね。漢字の読み書きできない人が「その漢語の区切り方おかしいですよ」って主張するようなもんですよ。めちゃくちゃだと思いません?こんなレベルじゃSu-dhamma-caraの区切りの恣意性の証明(のための別分割可能性の提示)なんて最初からできるわけもなく、あなたは最初から自分が満足に受け答えできるだけの知識もない議論を私にふっかけてきたことになります。--Themtheman(会話) 2015年8月15日 (土) 00:07 (UTC)
- コメント (追記)このまま反応が無いようでしたら、以前のように、辞書に基づく既述を復活させてもらいます。--Themtheman(会話) 2015年8月29日 (土) 01:07 (UTC)
- コメント (追記)相変わらず反応が無いので、以前のように、辞書に基づく記述を復活させてもらいます。--Themtheman(会話) 2015年9月4日 (金) 20:57 (UTC)
- >cāraとcaraの区別もわからない人が、すなわちパーリ語の母音の種類も表記も全く知らない門外漢が、パーリ語の話に首突っ込んで、単語の区切り方がおかしいとか主張しちゃうのは、話にならんよね。
- >相変わらず反応が無いので
- コメント私の質問に対するThemthemanの「反応」が、そもそも「無い」。質問の内容面で。Themthemanは、私の質問の内容には答えず、質問者の学識の程度を非難する応答に終始している。(この質問内容は、ページ「山下良道」の記述にダイレクトに関わるものである)。これはいよいよ、コメント依頼機能の出番であろうか。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 02:13 (UTC)
- >cāraとcaraの区別もわからない人が、すなわちパーリ語の母音の種類も表記も全く知らない門外漢が、パーリ語の話に首突っ込んで、単語の区切り方がおかしいとか主張しちゃうのは、話にならんよね。
- コメント質問者やコメント者が、特定の分野での「門外漢」であるなら、そのことを理由として、当該質問への回答や当該コメントへの応答を拒んでもよいとThemthemanは言っているようにも読める(参照)。しかし、そういうThemtheman自身が当該分野の「門外漢」でないことを示す情報は何一つ提供されないのである。Themthemanは自身が「門外漢」であることを隠しつつ他人を「門外漢」と詰っているのではないか、という疑いを読み手が抱くことは難しくない。おそらくウィキペディアン諸氏もそう見ることができるだろう。
- >パーリ語の母音の種類も表記も全く知らない門外漢が、パーリ語の話に首突っ込んで、単語の区切り方がおかしいとか主張しちゃうのは、話にならんよね。
- コメントまた変なことを言っている。パーリ語において「母音の種類・表記」が「単語の区切り方」とどういう関係になっているのか具体的に言えないなら、「母音の種類も表記も全く知らない人」が「単語の区切り方」に言及することの「おかしさ」なぞ分かるわけがない。では、パーリ語において「母音の種類・表記」が「単語の区切り方」とどういう関係になっているのか、ということをThemthemanが具体的に説明できるのかというと、できない、と私は予想するし、この予想は当たる。「具体的なことを訊かれると答えられず黙る」という振る舞いは当ノートページで繰り返されてきたことだから、そういう予想が成り立つ。
- 「議論相手の誰々は門外漢だ」という「他者描写」が、それを言っているThemthemanの持論の正しさを論証することを意味するわけではない、という当たり前のコトさえ踏まえられていない。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 04:26 (UTC)
- 下線部追記。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 04:59 (UTC)
- >相変わらず反応が無いので以前のように、辞書に基づく記述を復活させてもらいます。
- コメント訳語が各
42〜7個と複数あるのに、Themthemanは訳語を1〜2個ずつへと勝手に限定してしまっている。この限定には根拠が無い(=限定の出典が無い)。無出典そのものが勿論問題だが、著作の記述を勝手に削っているという点で水野氏(辞典の執筆者)に対しても礼を失する。無出典による訳語限定は看過できない。コメント依頼が相応しい案件かもしれない。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 02:13 (UTC) - 「4個」を「2個】に訂正↑。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 05:24 (UTC)
- >相変わらず反応が無いので以前のように、辞書に基づく記述を復活させてもらいます。
- コメント訳語の限定が無出典であった点は直ちに修正した(参照)。「辞書に基づく」などと称しながら、辞書の誌面に書いてあることを勝手に削るような記述を無出典のまま掲載する、というような振る舞いは容認すべきでない。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 05:54 (UTC)
- コメント水野氏が作った辞典の誌面に書いてあることを勝手に削ったら、それはもう水野氏の著作ではなくThemthemanの作文なのであって、そんなモノに水野弘元という名前を無断で貼り付けてしまうのは「名前の盗用」ではないか。写真をパクったという(疑惑の)デザイナーSになぞらえて言えばパクリの対象が逆であるが、パクリはパクリである。著作者人格権の同一性保持権の侵害にも形式的には該当しそうである。学者が研究の成果として確定して自著に載せた訳語を勝手に削減してしまうなどというのは、学問や語学を根本的に舐めた態度であって、学生のうちに一喝されておくべきもの。--Leonidjp(会話) 2015年9月8日 (火) 12:13 (UTC)
- コメント批判者が一時的にいなくなったら途端にこの為体だ。他人の著作物から好きなところだけ摘み食いして「出典は付いてございます」。こんなんで解説者面されたら堪ったものじゃない。こんな水準の人間が書いた百科事典なんぞ誰が信用できるか。--Leonidjp(会話) 2015年11月10日 (火) 07:15 (UTC)
- >うーん、cāraとcaraの区別もわからない人が、すなわちパーリ語の母音の種類も表記も全く知らない門外漢が、パーリ語の話に首突っ込んで、単語の区切り方がおかしいとか主張しちゃうのは、話にならんよね。(中略)こんなレベルじゃSu-dhamma-caraの区切りの恣意性の証明(のための別分割可能性の提示)なんて最初からできるわけもなく
- コメントまたヘンなことを言っている。資料に書いていない仕方で固有名詞を「分割」することそのものが、資料的な裏付けのない「単語の改変」であり、それは行うべきでないことである。「Sudhammacaraという固有名詞を単語単位に分割した状態」を記述した資料は何処にも見つかっていない(挙げられていない)。水野氏の辞典に書いてある各単語は単に「単語」であるにすぎず、「Sudhammacaraという固有名詞を単語単位に分割した状態」が水野氏の辞典に掲載されているなどと述べている資料は見つかっていないし、辞典もそんなことを自称していない。当ノートページなりページ本文なりで、固有名詞Sudhammacaraに分割を施した主体はThemthemanしかいない。その分割主体たるThemthemanはその「分割」の文法的正当性を未だに一片も説明しない(資料名やページすら挙げない)。となると、Themthemanの分割が「恣意でない」ことを示す論述は未だになされていないということになる。これが「分割の恣意性」の論拠である。このことは約30日前に指摘済みである。Themthemanによる分割の仕方が恣意でないこと(その分割がパーリ語文法によって支持されるということ)を資料に基づいて論述する責任は、分割後の状態をページに記述しようとしたThemthemanにあった。この責任を果たさず、批判者(私)の学識の程度を非難することを続けてきたのが、この30日間のThemthemanの書き込みである。
- さて、ちなみに、水野弘元『パーリ語文法』(山喜房佛書林、第4版)のp.148-149には、動詞語根carに接尾辞"-a"が付くことでcaraおよびcāraという単語(文字列と言うべきか)が形成される旨、書いてある。このcaraおよびcāraの意味は、同ページによれば「行者、行為」であるそうだ。品詞は一見して名詞であろうと分かるし、そもそも接尾辞"-a"は動詞語根に加えて名詞語基を作る接尾辞である旨、同書に解説が載っている。他方、水野弘元氏の『パーリ語辞典』(増補改訂版第4刷・2013年3月発行)にはcāraが形容詞として載っており、意味は「行ずる、所行の」である。従って、同じ著者の2冊の著書の中に、caraまたはcāraの意味・品詞に関して別々のことが書いてあるということである。固有名詞Sudhammacaraの最後尾4文字たる"cara"の意味・品詞は、これらのどれが正しいのであろう、という疑問を抱くことができるが、資料的裏付けなしに「コレが正しい」などと言い出す者がいたら、それは「独自研究の披露」に他ならない。資料的裏付けなしに「コレが正しい/この訳語だけが正しい」などと言えるわけがなく、その際に出来ることはせいぜい、「資料に書いてあること」を改変せずに引用することくらいである。--Leonidjp(会話) 2015年9月6日 (日) 03:00 (UTC)
- >私は「Sudhammacara」がパーリ語法名である以上、当たり前ですがパーリ語の単語に分割できると考えます
- >少しでもパーリ語の知識がある人間にとってはあまりにも自明な「Su-dhamma-cara」というの単語の分け方
- >うーん、cāraとcaraの区別もわからない人が、すなわちパーリ語の母音の種類も表記も全く知らない門外漢が、パーリ語の話に首突っ込んで、単語の区切り方がおかしいとか主張しちゃうのは、話にならんよね。
- コメント「おかしい」or「おかしくない」以前に、そもそも「"Sudhammacara"を単語単位に分割した状態」を記述した資料が見つかっていない、という根本的な問題をスルーし、「私は分割できると考えます」・「あまりにも自明」という「意見」で片付けてすませるという「独自研究の披露」。「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません」という公式の編集方針さえ踏まえられていない。同じことを繰り返し指摘されても改まらないとすれば、それは過失で「改まらない」のではなく故意に「改めない」のであろう、と見ることは可能だ。--Leonidjp(会話) 2015年9月11日 (金) 03:29 (UTC)
- >うーん、cāraとcaraの区別もわからない人が、すなわちパーリ語の母音の種類も表記も全く知らない門外漢が、パーリ語の話に首突っ込んで、単語の区切り方がおかしいとか主張しちゃうのは、話にならんよね。
- コメントもしかしてこの人は、「母音の異同」と「単語の異同」の区別がついていないのでは。--Leonidjp(会話) 2015年9月11日 (金) 03:29 (UTC)
- コメント「すなわち」なんて書いてしまっているところを見るに、やはり混同しているのだろうな。どう思いますか皆さん。--Leonidjp(会話) 2015年9月24日 (木) 01:50 (UTC)
- >cāraとcaraの区別もわからない人が、すなわちパーリ語の母音の種類も表記も全く知らない門外漢が
- コメントThemthemanによれば、cāraとcaraの区別というのは「すなわち」パーリ語の母音の種類や表記の違いだ、ということになるみたいですよ。この人は「すなわち」とハッキリ書いていますからね。で、その「すなわち」という判断の根拠は何処に・どの資料に書いてあるんですか?(それを一片も挙げないんですねこの人)。
- 「AはすなわちBです」なんて言う以上は、「すなわち」の根拠を当然知ってるはずなんですが、この人はそれをなぜ説明しないのでしょう?他人から繰り返し問われてさえ、説明しない。単なる不作為なのか、「知ってるふりをしているだけで、実は知らない」のか、怠慢か。そのへんの3択のどれかに当てはまりそうですが、こういう振る舞いは是正してもらわないと先々まずいでしょうね。Wikipediaの記事が、このテの挙証なき「勝手作文」で出来ていることがバレるたびに、Wikipediaの信用がどんどん落ちていくでしょう。信用を傷つけるのは本当に容易いことですね。--Leonidjp(会話) 2015年10月21日 (水) 06:05 (UTC)
- コメント質問されたコトに答えず、質問者を「門外漢」・「素人」・「初心者」などと呼んで非難するのみに終始する、という振る舞いを「前座しぐさ」と名づけて憶えておくといいですよ。「江戸しぐさ」とは違って、これは事実に基づいた命名です。「前座しぐさ」で独自研究の披露を押し通そうとする執筆者には厳しくあたるべきです。--Leonidjp(会話) 2015年11月12日 (木) 04:03 (UTC)
- (対策の提案):
上述のような疑義があるので、三語分割による意味解説は掲載しなくてもよい。比丘名の意味解説を付記するなら、出典として信頼できる二次資料が現れないかぎりは『青空としてのわたし』p.113における上述の記述が最もふさわしいと考える。比丘名の意味解説を付記するなら、公平を期すために、一法良道という法名の意味解説もあったほうがよいのかもしれない(が出典は存在しまい)。過去の版においては、意味解説を行わずに比丘名(とその出典)のみ記すというかたちで対処済みであった。法名は「経歴」節のみに記述していた。これは、山下氏の著書の著者紹介において一法良道という法名が掲載されていないことに対応させたもの。--Leonidjp(会話) 2015年5月19日 (火) 01:01 (UTC)- 文中のリンク間違いを修正。--Leonidjp(会話) 2015年5月20日 (水) 04:24 (UTC)
- 反対 特に問題ないので現状のままでいいと思います。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 11:45 (UTC)
- コメント上述の「提案」は、内容が、もはや「時代遅れ」になったため、取り消し線で撤回。
- その後の対応内容は
下記↓こちら参照。--Leonidjp(会話) 2015年7月5日 (日) 01:27 (UTC) - コメント文中↑、取り消し線と下線部で修正。--Leonidjp(会話) 2015年7月7日 (火) 00:22 (UTC)
- 済この件は、水野氏の辞典の記述を削減せずに脚注としてページに引用したことをもって解決済みとする。--Leonidjp(会話) 2015年9月24日 (木) 02:17 (UTC)
議論8
- 現・鎌倉一法庵(One Dharma Forum, ワンダルマの会)住職。
「住職」は庵に対する肩書であり、「Forum」や「会」に対する肩書ではないのではないか。出典とされる「一法庵 公式サイト=トップページ」には肩書に関する記述が無い。同サイトのプロフィールページ(参照)には、肩書に関しては「ワンダルマ仏教僧」および「鎌倉一法庵主」という記述しかない。『青空としてのわたし』p.230(著者紹介)にも、「Forum」や「会」に対する肩書は存在しない。また、「鎌倉一法庵(One Dharma Forum, ワンダルマの会)」という現状の記述では「庵」と「Forum」と「会」の相互関係が不明瞭なので、相互関係を明らかにできる資料を出典として記述を改めるなどすべきだと考える。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント 『アップデートする仏教』『青空としてのわたし』等のプロフィール欄には「鎌倉一法庵住職」と書かれています。これが出典に使えるでしょう。後で付け加えておきます。「Forum」「会」等の名称は公式サイトで併記されている名称であり、その旨の出典が既に提示されているので、特に問題ないでしょう。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 11:59 (UTC)
- (対策の提案):本件に対しては、「Forum」と「会」に関する言及を削除し、肩書に関しては「鎌倉一法庵住職」および「ワンダルマ仏教僧」という記述のみを記すというかたちで過去の版において対処済みであった。この過去の版の記述に戻すことで速やかな是正が可能である。--Leonidjp(会話) 2015年5月19日 (火) 01:01 (UTC)
- 文中のリンク間違いを修正。--Leonidjp(会話) 2015年5月20日 (水) 04:24 (UTC)
- 反対 上記した理由から、特に問題ないので削除に反対します。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 11:59 (UTC)
- (視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman(会話) 2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
- コメント『青空としてのわたし』p.230(著者紹介)および公式サイトのプロフィールページ(参照)に明白に記されている「ワンダルマ仏教僧」という記述が、Wikipediaのページに存在しないのは不適切ではないか。肩書を列挙したこのページ冒頭の位置に存在しないということが特に。--Leonidjp(会話) 2015年5月20日 (水) 04:24 (UTC)
- コメント その情報も加えていいんじゃないですか。その点に関して誰も反対してませんよ。後で加えておきます。--Themtheman(会話) 2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
- >後で加えておきます。
- コメント承知しました。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:18 (UTC)
- 済 この部分に関しても解決済ということでいいですね。--Themtheman(会話) 2015年5月27日 (水) 10:27 (UTC)
- コメント解決済みということでいいです。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:18 (UTC)
議論9
- 自身や日本の仏教の遍歴に沿う形で、日本の伝統仏教(中国大乗仏教)を「仏教1.0」、90年代後半から顕著に日本に入って来た南方テーラワーダ仏教(上座部仏教)を「仏教2.0」とし、それら両者の資産を活かしつつも両者の問題点を克服した現代人に役立つ現代的な仏教のあり方としての「仏教3.0」を提唱し、仏教界の改革に向けて活動している。
この種の「概要的まとめ」をページの冒頭に置くことがWikipediaで推奨されているのかもしれないが、独自研究と見なしうる記述を用いてまで「概要的まとめ」を置く必要はないだろう。「まとめ」る作業そのものは読者各人の取り組みにまかせても構わない。
- コメント あなたがその文のどこが独自研究だと考えるのか示されていないので、意味不明な文になっています。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 11:59 (UTC)
- コメント出典とされる『青空』pp.14-18および『別冊1』 p.373-376には、「中国大乗仏教」なるものは載っておらず、「中国大乗仏教」なるものに関する言及もやはり無い。出典が無いなら、丸括弧の内側=「中国大乗仏教」は削除するべき。--Leonidjp(会話) 2015年6月28日 (日) 00:31 (UTC)
- (ページ本文)>南方テーラワーダ仏教(上座部仏教)を「仏教2.0」とし
- コメント「南方」という表現は、出典たる資料の当該ページに存在しない。従って、この「南方」という2字は無出典だから、除去すべき。(出典には、「方角」だとか「発祥地名」、「伝播元の場所名」などを示す記述も無い。単に「テーラワーダ仏教」と書いてあるだけである)。--Leonidjp(会話) 2015年6月30日 (火) 01:07 (UTC)
- コメント 「南方」とかは『アップデート』のp.171とか、出典出そうと思えばだせますが、そんなにこだわってる表現でもないので、「日本の伝統仏教(大乗仏教)~テーラワーダ仏教(上座部仏教)~」で全然いいですよ。--Themtheman(会話) 2015年7月3日 (金) 20:40 (UTC)
- コメント了解。上記「中国大乗仏教」および「南方」という記述は、上述のとおり無出典なので、ページ本文から削除。--Leonidjp(会話) 2015年7月5日 (日) 01:00 (UTC)
- コメントまた、「日本の伝統仏教」という表現は、この箇所の出典とされる『青空』pp.14-18および『別冊 1』pp.373-376には存在しない。この2つの出典において「仏教1.0」という語句の意味を指示している箇所を、下記のとおり挙げる。※下線の付加は引用者による。
- (『青空』p.16):「藤田一照さんとの対談をまとめた『アップデートする仏教』(幻冬舎新書)のなかで、私たちは日本の仏教の現状を、仏教1.0、仏教2.0、仏教3.0と分けて説明しました。日本に根づいている教団仏教を仏教1.0。(中略)テーラワーダ仏教(上座部仏教)を2.0。つまりこの2つが現在の姿です。」
- (『別冊1』p.376):「日本に伝統的に伝わる今の仏教の現状を、本当は誰も良いと思っていないでしょう。言ってみれば、般若心経を意味もわからず信仰しているのが今の仏教です。それを私は「仏教1.0」と呼んでいます。」
- 上述の下線部を読めばわかるとおり、「仏教1.0」という呼称は、日本の仏教の「現状」に対する呼称である。このことをページ本文の記述に含めるべきだから、この箇所のページ本文は下記のように書き換えた。
- コメントまた、「日本の伝統仏教」という表現は、この箇所の出典とされる『青空』pp.14-18および『別冊 1』pp.373-376には存在しない。この2つの出典において「仏教1.0」という語句の意味を指示している箇所を、下記のとおり挙げる。※下線の付加は引用者による。
- (変更前):日本の伝統仏教を「仏教1.0」、90年代後半から顕著に日本に入って来たテーラワーダ仏教(上座部仏教)を「仏教2.0」とし、
- (変更後):日本に伝統的に伝わる仏教の現状を「仏教1.0」、90年代後半から顕著に日本に入って来たテーラワーダ仏教(上座部仏教)を「仏教2.0」とし、
済 ここに関しては特に異論は無いので済でいいでしょう。--Themtheman(会話) 2015年7月10日 (金) 23:45 (UTC)- コメント ごめんなさい。一旦「済」にしてしまいましたが、ちょっとどうしてもこのボンヤリした表現がしっくりこないので、「済」を一旦留保して、ちょこっと文言追加させてほしいです。以下の太字部分の追加を提案します。
- (追加提案):日本に伝統的に伝わる大乗仏教の現状を「仏教1.0」、90年代後半から顕著に日本に入って来たテーラワーダ仏教(上座部仏教、南方仏教)を「仏教2.0」とし、
- 出典は「大乗」部分は『青空』p.17に「大乗仏教」が出てきます。既出の出典(『青空』 pp.14-18)内です。「南伝仏教」は『アップデート』p.5の欄外注に記述がありますね。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 00:57 (UTC)
- コメント(追記)それではとりあえずこの表記に編集させてもらいます。--Themtheman(会話) 2015年7月25日 (土) 04:33 (UTC)
- コメント賛同します。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:11 (UTC)
- 済 じゃあ、ここは解決済みということでいいですね。--Themtheman(会話) 2015年7月31日 (金) 21:42 (UTC)
- 新たな問題点の指摘。
- >(ページ本文)それら両者の資産を活かしつつも両者の問題点を克服した現代人に役立つ現代的な仏教のあり方としての「仏教3.0」を提唱し、仏教界の改革に向けて活動している。
- コメント【「仏教3.0」が「現代人に役立つ現代的な仏教のあり方」である】という記述は、この部分の出典たる『青空』p14-18および『別冊1』p.373-376に存在しない。出典に存在しない記述を、「仏教3.0」という用語の意味規定として用いるのは不適切。従って、この「現代人に役立つ現代的な」という11文字の修飾はページ本文から除去することを提案する。--Leonidjp(会話) 2015年9月24日 (木) 01:12 (UTC)
- コメント上記2015年9月24日 (木) 01:12 (UTC)の提案から7日経ち、その間、コメントが付きませんでしたので、除去を実行しました。--Leonidjp(会話) 2015年10月1日 (木) 03:32 (UTC)
「経歴」の節に関する議論
「存命人物の伝記」の執筆時には、次のような特段の注意を払わなければなりません。「Wikipedia:存命人物の伝記」のページを読み、そこで示されている注意事項をふまえてください。
- 「存命人物の伝記」の執筆時には特段の注意を払わなければなりません。「存命人物の伝記」には一定の配慮が必要であり、また下記の基本方針を厳守しなければなりません。
- 記事は「正確な」ものでなければいけません。特に、その人物の生涯の細部については、信頼性の高い参考資料だけを用いるべきです。存命中の人物に関する否定的な情報で参考文献や出典の無い、あるいは貧弱な情報源しかないものは、項目本文およびノートから即刻除去するべきです。これらの基本方針は伝記以外の項目における、存命人物の記述にも適用されます。
- (「Wikipedia:存命人物の伝記」のページより引用)
--Leonidjp(会話) 2015年5月19日 (火) 01:01 (UTC)
- コメント ここに関しては私もあなたも基本的に『青空としてのわたし』を元に記述してるわけですから、「独自研究」と呼ぶような大きな違いは生まれないと思います。基本的に『青空』の記述をつきあわせてその表現を細かく検討していけばいいだけの話だと思いますけどね。(他の出典に依拠してる場合はそれを。)--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 12:16 (UTC)
議論10
2015年5月現在、山下氏の経歴に関する「信頼できる二次資料・三次資料」は、ほぼ存在しないと思われます。従って、同氏の経歴をWikipediaに記述しようとするときに出典として使うことのできる資料は、一次資料たる山下氏自身の著作しか存在しないと思われます(この事情は、同氏の「思想」や「実践」に関しても同様です)。
Wikipedia執筆者が、一次資料(山下氏自身の著作)に対して「分析・合成・解釈・評価」などを加えることは「独自研究」に該当します。そのような記述はWikipediaに掲載してはならないという公式な「方針」が明らかにされていますし、一次資料の不適切な扱い方として明白に制止されています。
したがいまして、Wikipediaのページ上で山下氏の経歴を記述する際に書けることは、「山下氏自身の著作の中に明白に書かれている事実を率直に呈示し、分析・合成・解釈・評価などを加えない記述」のみに制限されると考えます。
2015年5月19日現在の版(参照)は、このような制限を超えた記述(独自研究と見なしうる記述)を多数含んでいます。是正する必要があると考えます。この版の掲載者(事実上の執筆者)はThemthemanさんですので(参照)、Themthemanさんには掲載者(執筆者)としての対応を要望します。
なお、上述のような「制限」にヨリ適合的であるという点で現在の版よりも適切と思われる過去の版が既に存在しています。
なお、Themthemanさんが事実上の執筆者である現在の版(2015年5月19日現在)に含まれている、独自研究と見なしうる表現を列挙しておきます↓。
- 【自分の生き方に疑問を感じる 違う世界 再び人生に悩み 著作に触れたことをきっかけに 4月8日(釈迦降誕会)に得度 赴任 日本仏教の現状に不満を募らせていくようになる きっかけに吹っ切れ 目の当たり 仏教関係者として責任を痛感する 佇まいに感銘を受ける バックボーンの1つとなっている 軋轢 師と慕っていた ビルマ行きを考えつつ 我が道を行くことを決意 畳んで そのまま師事 比丘として出家 自他の経験から(中略)の重要性に気付く 磨く 開設 考えはいまだ整理し切れず 曹渓宗の華厳経文化に触れる チベット仏教の師である 話し合い 考えがまとまる 「一法庵」(One Dharma Forum, ワンダルマの会) 毎年 復興活動にも関与】
- 直上↑の投稿に署名が欠けていたので補足。投稿者はLeonidjpです(2015/05/19投稿)。--Leonidjp(会話) 2015年5月20日 (水) 04:24 (UTC)
- コメント 1つ1つ原文とつきあわせて検討していきましょう。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 12:16 (UTC)
- コメント「経歴」節が現状の本文になってから、そろそろ1ヶ月経ちますか。「存命人物の伝記」には特段の注意が必要ですよと上述のように言われているわけでもあるので、記述の正確性を検討する作業は、まず真っ先にこの節から始めてもよかったかもしれない。
- 私は、現状よりもこの過去の版のほうがマシですよと「6月4日 (木) 05:08」に申し上げてあります。現状のままでよいか否か、よくないとすればどのように修正することを希望なさっているか等、どなたか応答いただけますか?Themthemanさん以外のかたでも。--Leonidjp(会話) 2015年6月14日 (日) 01:36 (UTC)
- コメント 繰り返し述べますが、ここに関しては個別具体的に原文をつきあわせてより妥当な記述を模索していく以外にないので、あなたが具体的に自分の方が優れていると考える記述をピックアップしていかないと話は始まらないと思います。--Themtheman(会話) 2015年6月27日 (土) 00:03 (UTC)
- コメント私は、「経歴」節に関しては、問題のある記述は直ぐに編集するという方針をとることに今日から決めたので、その方針の下にページ本文を編集しておきました。--Leonidjp(会話) 2015年6月28日 (日) 00:25 (UTC)
- コメント 何度も書いているように、私は「加筆」には寛容ですが、「削除行為」には敏感です。あなたは経歴部分の記述のいくつかを理由を明示せぬまま削除してますね。その削除理由を求めます。えーと、「ティクナットハンが臨済宗(p.97)」「日本テーラワーダ協会機関誌の編集に携わる(p.102)」「安泰寺・曹洞宗との緊張関係、~による反発(p.103)」「韓国滞在が一ヶ月、触れたのが華厳経文化(p.171)」などがそうですね。特に明確な理由がないならそれらの記述を戻しますよ。--Themtheman(会話) 2015年7月3日 (金) 20:25 (UTC)
- >特に明確な理由がないならそれらの記述を戻しますよ
- コメント 「戻し」たあとで更に問題点を指摘されないようにご注意くださいね。
- >あなたは経歴部分の記述のいくつかを理由を明示せぬまま削除してますね
- コメントそれは貴方も「同罪」なんですよねえ。2015/5/13にね。2015/5/13の貴方の「差し戻し」操作によって、それ以前の「経歴」節の本文は「削除」されたわけだけど、その「理由」をあなたは、あれから50日以上経ってもヒトコトも「開示」なんかしてないわけでね。
- あなたも「理由開示」
にされるまで50日ぐらい待ってみたら?--Leonidjp(会話) 2015年7月5日 (日) 01:44 (UTC) - コメント文中↑、取り消し線と下線部で修正。--Leonidjp(会話) 2015年7月6日 (月) 00:40 (UTC)
- コメント 削除部分は特に削除理由がないようなので後で加筆しておきます。
- ちなみに、私があなたの記述を「差し戻し」「削除」した理由を述べてないかのようなことをあなたは書いてますが、2重の意味で端的にあなたの勘違いですね。第1に、私が差し戻しをした理由(削除部分のソース点検)を私は当初から繰り返し書いていますね。第2に、私にはあなたの記述を削除する意図は無いこと、あなたの付加情報は保全したつもりだし、もし誤って削除したのであれば復元する旨もかなり前に書いてますね。「当初から理由を書いている」し、そもそも「削除してない(誤って削除していたなら復元する)」わけです。お分かりでしょうか?--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 00:08 (UTC)
- >私が差し戻しをした理由(削除部分のソース点検)を私は当初から繰り返し書いていますね
- コメント「経歴」節の具体的な文言に関して「書いています」?何処に。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:38 (UTC)
- >私が差し戻しをした理由(削除部分のソース点検)を私は当初から繰り返し書いていますね
- コメント「削除部分のソース点検」が理由?そんなの理由にならないでしょ。(何度も申し上げましたよね?)「過去の版」を閲覧すればよいだけだから「差し戻し」操作は必要無い、と。もうお忘れになったの?あちゃ〜。大丈夫かな。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 01:00 (UTC)
- >誤って削除していたなら復元する
- コメント有言不実行は信用を失う。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:38 (UTC)
- コメント なんか全然噛み合ってないというか、何が言いたいのかよくわからないですね。というか、このやり取りいります?既にあなたも私も経歴部分に必要だと思う記述は加え終えたわけですよね?これ以上のやり取りは、この記事に関する公共性が無いし、またこのノートを汚すことにしかならないので、あなたのノートページにでも場を移したらいいと思うのですが。--Themtheman(会話) 2015年7月31日 (金) 22:04 (UTC)
- >このやり取りいります?
- コメント理由にもならない理由づけはきっちり批判されるよ、という前例を作っておくことがコミュニティの良心。どこぞのZ氏みたいな出典皆無の演説家のちゃらんぽらん執筆を黙認しないよ、とはっきり言ってやることには公共的な意味がある。皆の読む場所で。粗悪品溜め込んでもしょうがないんで。--Leonidjp(会話) 2015年8月1日 (土) 04:04 (UTC)
- コメントこの場所でハッキリ見えるように批判しておかないと、まるでココでは黙認・黙許されてるかのように見えてしまうでしょ。それはNG。
- >このノートを汚すことにしかならないので、あなたのノートページにでも場を移したらいいと思うのですが
- コメントははは。Wikipediaの公式の編集方針に反して「一次資料に対する解釈」を語ったりする記述は、「Wikipediaの記事を汚すことにしかならないので、個人のブログにでも場を移したらいいと思うのですが」とか言いたいところですね。
- 二次資料が無いと執筆できないはずの案件をむりやりに執筆しようとする人がいなければ、この山下氏のページは今もスタブ以上のコンテンツにはなっていないだろうし、それが本来の姿だと思いますよ、原則的なことを言えば。「経歴」節は例外だけど。で、過去においてそういう「むりやり」な執筆を施した2人(Zenji30、Trwdsprd)は2人とも投稿ブロックを受けちゃっているという奇妙。(なんで2人そろってなの?)--Leonidjp(会話) 2015年8月6日 (木) 06:50 (UTC)
- コメントそれはさておき、編集箇所と理由の連絡。
- 旧:「渓声禅堂」における自由な活動
- 新:「渓声禅堂」における活動
- 活動が自由だ、とは出典に書いてない。自由なのは「立場」(p.102)。
- 旧:師である内山が1998年に亡くなっていたことで、安泰寺・曹洞宗に留まることをやめる
- 新:師である内山が1998年に亡くなっていたことで、安泰寺・曹洞宗に自分を引き留めるものが何もないという判断に至る
- 「自分を引き留める」という含意を入れる(p.104)。
- 旧:当地の華厳経文化に触れて少し頭の整理がつき始める
- 新:当地の寺で華厳経の言葉を読み、少し頭の整理がつき始めた
- 「文化に触れた」とは出典に書いてない。せいぜいのところ、「(華厳経の)言葉を読んだ」としかいえない(P.171)。
- --Leonidjp(会話) 2015年8月1日 (土) 05:19 (UTC)
- コメントそれはさておき、編集箇所と理由の連絡。
- コメント さて、経歴部分に関して、書きたいことはもう書き終えましたかね?--Themtheman(会話) 2015年8月8日 (土) 00:21 (UTC)
- >さて、経歴部分に関して、書きたいことはもう書き終えましたかね?
- コメント自分はどうなのか先に仰ってみたら?--Leonidjp(会話) 2015年8月8日 (土) 04:17 (UTC)
- コメント 私はもちろん終えてますよ。ですからそちらも特に無いようならここも「済」にしてしまっていいかと聞いてるんです。--Themtheman(会話) 2015年8月14日 (金) 22:25 (UTC)
- >ここも「済」にしてしまっていいか
- コメント好きにせよ。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 02:29 (UTC)
- コメント「経歴」節の本文中、「頭の整理がつきはじめ」という箇所に関して。「整理」を要する「未整理」状態が何であるのか分からない記述であったため、何に関する「整理」であるか分かるように加筆しておいた。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 08:31 (UTC)
- コメントちなみに、「整理とは何に対する整理か」を明示しない、という仕方で文脈の不明瞭が生まれていた責任は私にはない。ページ本文に「整理がつきはじめた」旨を加筆したのはThemthemanだからである。そもそも本文で「整理」に言及しなければ、「整理」の対象を追記するなどという弥縫策は必要がない。文脈上の整合性の担保を加筆者が責任もって行わない場合、このように他人が手間暇を費やす羽目になる。自己の記述分が他人に削除されることを拒むなら、せめて自己の記述分内部で文脈上の整合性をつける作業くらいは貫徹してほしいものではある。文脈上の綻びを生む加筆を常習されるとWikipediaのコミュニティが困る。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 11:13 (UTC)
- >好きにせよ
- コメントいや、ここで「好きにさせる」というのは無責任だな。「好きにせよ」は撤回。「済」アイコンは自分で付けることとする。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 09:10 (UTC)
- 済 ページの「経歴」節の記述そのものに関する議論は「解決済み」。
- コメントちなみに、上述の質問に対するThemthemanの回答は「削除部分のソース点検」というコトのみであろうか。それが、「経歴」節に関する5月13日の「差し戻し」の正当な理由として通用するとThemthemanは主張しているのであろうか。それで「書き終えた」と言うつもりなのであろうか。その件に関してはThemthemanからの応答が無いので全く「解決済み」ではないのだが、しかしそれは現状の「経歴」節本文にダイレクトに関係している論件ではないので、此処では追求しないこととする。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 09:10 (UTC)
- コメントこの件↑、重ねて追求するならThemthemanの会話ページに書くべきだろう。会話ページで無応答を貫くことはできないであろうし。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 09:12 (UTC)
「思想」の節に関する議論
- A:一次資料たる山下氏自身の著作に依拠する (もしもWikipedia執筆者が一次資料に対して分析・合成・解釈・評価などを加えるならば、それは独自研究に該当する可能性がありますし、Wikipediaにおいて明白に制止されています。)
- B:一次資料や二次資料で未だ発表されていない内容を用いる (これは独自研究に該当するので、Wikipediaに載せないよう明白に要請されています)。
Bを執ることは、Wikipedia上では問答無用でNGです。Aを執っても、「分析・合成・解釈・評価」などを加えずに済む記述を執筆することができなければWikipedia上では問題があります。従いまして、Wikipedia上で執れる方途は次のCしかありません。
- C:一次資料たる山下氏自身の著作に依拠し、かつ、Wikipedia執筆者の分析・合成・解釈・評価などを加えないこと (これは「解説する」という行為と両立しない可能性が高い。)
Cも実際には成立しない可能性が充分にあるということになります。「信頼できる二次資料」が存在しない状況のもとで、Wikipediaのページ上において山下氏の「思想」や「活動・実践」を解説しようとすることに関して、このような根本的な困難が常に横たわっているということを念頭におく必要があると考えます。この困難さに留意している執筆者にとっては、〈信頼できる二次資料が現れないかぎりは山下氏の「思想」および「活動・実践」をWikipediaのページ上で解説しようと試みない〉という執筆態度(=不執筆)は合理的な執筆態度と言ってよいものです。どのように努力しようとも「独自研究」性をぬぐえない記述しか生まれないならば、そのような記述はWikipediaに掲載しないことが適切だと考えます。Wikipediaは独自研究を発表する場ではないし、「作文の努力に報いる」等の努力賞的な評価によって掲載の可否が判断されるべき場ではないからです。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント 厳密に言うと、『別冊サンガジャパン1』のように本人著作以外の一次資料もありますね。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
- テレビ・新聞・雑誌のインタビュー、結構いろいろありますね、一次資料。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 13:33 (UTC)
- 反対 ついでに、「信頼できる二次資料が現れないかぎりは山下氏の「思想」および「活動・実践」をWikipediaのページ上で解説しようと試みない」という無根拠な主張に断固反対します。これは特定の思想家・宗教家を狙い打ち可能にする非常に危険な発想であり、許容しようがありません。記述に異論がある者は出典と共に併記すればいいだけです。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 13:33 (UTC)
- >無根拠な主張
- コメント「合理的です」という判断に根拠はあるんですよ。「全力で努力しても独自研究にしかならない」という状況が予め見えていたら、「書かない」という選択が合理的(=理にかなっている)じゃありませんか。それを指して「合理的」と呼んでいるんです。「狭き門」を敢えて通過しようと試みないという態度には意味がありますよ、ということです。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:22 (UTC)
- (お知らせ):この議論の続きは、ページ「山下良道」の具体的な内容とは関係の薄い、「利用者個人間のやりとり」が長期間にわたって連続していますので、下記のサブページに移動しました。関心のないかたは、お読みにならなくても構いません。
- --Leonidjp(会話) 2015年7月3日 (金) 06:37 (UTC)
議論11
※議論内容が長大なので隠してあります(携帯・スマホでは表示されます)。内容を読むときは、右端の[表示]というリンクをクリックしてください。
- 山下の中心的な思想・主張は、日本の伝統仏教である中国大乗仏教(仏教1.0)にも、1990年代後半以降に日本で急速に普及し始めた南方のテーラワーダ仏教(仏教2.0)にも、それぞれ問題点があるので、それらを現代人のために改善・統合した「仏教3.0」へとアップデートする必要がある、というものである。
「中心的」という重み付けを、適切な出典なしに行ってはならないと考える。本件の執筆者(Themthemanさんであろう)は、「思想・主張」の「中心」をどのようにして確定することができたと自認しているのか。それが執筆者の「独自研究」に該当しないと言えるか。説明を乞いたい。存命人物の「思想・主張」は、時期により内容が変遷することが通例である(山下氏の場合は毎週1回120分、文字にして1万字以上の分量に相当する法話の録音が公開され、年間で数十万字分に達する)から、ある一時点においてなされた「中心/周縁」評価を改変せずに長期間に渡ってWikipediaのページ上に掲載し続けることは不適切だと考える。山下氏の「思想・主張」の全体を継続的に注視(部分的に注視するだけでは「中心・周縁」評価の精度が落ちるので不適切)し続けることに責任をもつ執筆者が存在しないかぎりは、このように一時点においてなされたにすぎぬ「中心・周縁」評価が現にページに掲載されていること自体が不適切であるので、ページから削除することが望ましいと考える。現状におけるこのような「中心・周縁」評価の執筆者(掲載者)はThemthemanさんだと思われるが、貴方はこれらの問題点についてどのように捉え対処する用意をもっているのか説明を乞う。--Leonidjp(会話) 2015年5月18日 (月) 00:34 (UTC)
- コメント 山下の著作(一次資料)である『アップデートする仏教』『青空としてのわたし』では共に中心的なトピックとして 「仏教3.0」思想が取り上げられています。山下の法話も大部分がこの話です。したがって、「仏教3.0」思想が山下の中心思想であることは疑いようがありませんし、そう表現することに何の問題もないと思います。第三者を交えて検討してみてもいいですよ。これに異論があるのなら、その異論をあなたが具体的な根拠・出典とともに提示すべきでしょう。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
- >中心的なトピックとして
- >山下の法話も大部分がこの話です。
- コメント法話の「大部分」って、どうやって算出したんですか。録音が公開されている日本語の法話は合計で680時間くらいありますが。いずれにしても、「大部分が○○です」という「解釈/評価」を執筆者が行なうことが、Wikipediaの右記のような方針に反しているでしょう?→「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。(中略)ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます。」(参照)
- 「(著書の)中心的なトピックは○○です」という判断は、公表済みの「信頼できる資料」の中でダイレクトに述べられているなら採用してもよいことですが、そうでない限りは、貴方という特定の立場から行われた「分析やまとめ、解釈」でしょう?それは、右記のように制止されている「独自研究」に該当していますでしょう?→「独自研究(original research)」とは、(中略)発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。」(参照)--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:22 (UTC)
- >これに異論があるのなら、その異論をあなたが具体的な根拠・出典とともに提示すべきでしょう。
- コメント右記のこと、読んでください。「中心的」というような重みづけ表現をページに残すのを希望しているのは私ではないです。貴方です。→「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。」(参照)--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:22 (UTC)
- コメント「中心・周縁」評価の精度を高く保つためには「山下氏の思想・主張」の全体を注視し続ける必要がありますよと上述のとおりに申し上げましたが、これについてはどうですか。一時点における「中心/周縁」評価を改変せずに長期間掲載しても大丈夫だと思っていますか?
- Themthemanさんは「大丈夫です」と答えそうだから、予め反論を書いておきます。大丈夫なわけがないです。存命人物の思想・主張には「新規追加」と「一部削除」がつきものであって、特に「新規追加」された内容は、旧い時点でなされた「全体眺望」を逸脱する可能性が常にありますから。全体像が変化すれば、「中心」の位置も変わります。貴方はもしかすると、「仏教3.0」とか「青空」といった大きな概念を「何でも入る合切袋」のように取り扱うことで、新規追加される内容も常にカバーしきれると考えているかもしれませんが、そういうことをWikipedia執筆者が独自にやってはいけないはずです。概念の意味を規定する役割は資料(資料の著者)が担うのであり、我々Wikipedia執筆者が担うことではないですから。繰り返し引用してくどいですが、下記の2点に抵触する執筆はそもそもNGであって、「概念の意味を独自に規定する」というのは、これらに抵触すると思います。
- 「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。(中略)ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます。」(参照)
- 「独自研究(original research)」とは、(中略)発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。」(参照)--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:22 (UTC)
- コメント 山下の2つある著作(一次資料)の1つである共著『アップデートする仏教』では、少なくとも全六章のうち五章・六章が「仏教3.0」の話です。本の題名も当然「仏教3.0」を念頭においたものです。また山下の2つある著作(一次資料)のもう1つであり現時点で唯一の単著かつ自伝である『青空としてのわたし』は全四章の全てが「仏教3.0」(仏教1.0、仏教2.0)の見出し語が入れられ、全編にわたってその枠組みのもとで記述されています。これに代わるものをあなたが提示できていない以上、「仏教3.0」が山下の中心思想でない、それは独自研究だと主張するのはちょっと不誠実が過ぎると思います。あなたがその主張を続けるのであれば第三者をからめてじっくり議論していくほかないでしょうね。--Themtheman(会話) 2015年6月3日 (水) 15:25 (UTC)
- >少なくとも全六章のうち五章・六章が「仏教3.0」の話です。
- >本の題名も当然「仏教3.0」を念頭においたものです。
- コメントそうやって「○○の話です」と判断するのが「一次資料に対する解釈」です。「題名は○○を念頭においたもの」という判断も同様です。章の数で2/6=1/3は半分以下です。本文ページ(15~267)のうち五章・六章は計100ページだから100/252=40%。やはり半分に満たない量です。「章」の外部のページまで含めたら100/290=35%です。
- >全四章の全てが「仏教3.0」(仏教1.0、仏教2.0)の見出し語が入れられ
- >全編にわたってその枠組みのもとで記述されています
- コメント見出し語の「存在」でなく「使われ方」が問題でありまして、「使われ方」を語りはじめたら当然、「一次資料に対する読み手の解釈」を語ることになります。「全編にわたって○○という枠組みです」という判断は「一次資料に対する解釈」です。
- 上述の3つの「判断」の出典は貴方の心の中(貴方の読解)にしかないのです。だから、公式的には無出典となるのです。この無出典という事実は、Wikipedia執筆者(貴方や私)の努力や能力では動かせません。我々は資料の著者ではないから、一次資料に対する我々の「解釈」や「評価」をWikipedia上で披露することができないためです。→「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。(中略)ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます。」(参照)--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:50 (UTC)
- コメント念のため補足しておきますけど、私が↑の段落で言っている「使われ方」というのは、資料の本文の中での「使われ方」ですからね。目次ページ内での「使われ方」ではありません。--Leonidjp(会話) 2015年6月14日 (日) 01:36 (UTC)
- >これに代わるもの
- コメント私は「中心/周縁」評価をページに書くこと自体に反対しているので、「代わるもの」を挙げる義務は私には無い(そのことは既に貴方に通知済み)のですが、それでも挙げるとすれば、たとえば、約680時間分の公開済み法話はどうなりましたか?それはもともと貴方が挙げたものなのです。貴方は「法話の大部分が○○の話です」とまで先日仰っています(5月19日 (火) 13:17)。法話は「思想・主張」に勿論該当しますし、公開済みですから、「思想・主張」の「中心」を確定する際の素材として除けてよいことにはならないでしょう。本日現在、公開済み法話は全部で約370件あります。1件1万字(=おそらく少なめの見積もり)としても370万字です。ちなみに『青空~』は1ページ約530字×230頁=約12万字ですから、法話370件(370万字)で『青空~』30冊分の文量があることが概算で予想できます。加えて、新聞・雑誌などへの寄稿分もあります。
- いずれにしろ、それらに対して「解釈」を加えたらそれは当然、「一次資料に対する解釈」に該当するし、「中心はココだ」という判断は「一次資料に対する評価」でもあるでしょう。それは右記のように制止されていることですし、第三者が加わったからといって、この制止を超えてよいことにはならないでしょう。→「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。」(参照)--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:50 (UTC)
- >現時点で唯一の単著
- コメント「唯一の何々」というふうに対象を絞っていくと、そこから漏れる一次資料との間で誤差が出ます。典型的には、上述の法話群との間で。上述の12万字というのは、【12万字+370万字】の約3%に過ぎません。(分母に他の著作物も含めたら、3%以下になるかも)。その3%が、残りの97%を正確に反映しているという解釈/評価等がダイレクトに書かれている資料は未だに誰も見つけていないはずです。
- 貴方は執筆分の例の箇所で、「山下の中心的な思想・主張は~」と書き出しているのです(参照)。「山下の」と言う以上は、山下氏の口やペンやキーボードから出てきた情報のうち公けに公開状態に置かれているものは全て「山下の思想・主張」に該当するに決まっているではないですか。「山下の中心的な思想・主張は~」という貴方の書き出しは、形式的には、それら全ての「中心」を描写していることになるのです。ところが、それを書いている貴方がその出典として自認しているのは3冊の本だけです(上述の2冊+出典[35])。つまり、貴方の書いた「山下の中心的な思想・主張は、○○というものである」というあの文は、実質が形式を裏切っているという意味で「嘘になっている」文ですよ。「形式」のほうは無制限に「山下の」と指示しているのに、「実質」は「山下氏の本3冊」に制限されているのですから。この「形式」と「実質」が字面において齟齬を示さないようにすれば、この意味での「嘘」を無くすことはできると思います。
- 私、けっこう前に気づいたのですが、「山下の中心的な思想・主張は、○○というものである」という貴方のあの記述(参照)は、実質的には、貴方がページに披露している「要約/まとめ」の「中心」を述べているにすぎないのかもしれないですね。そういう文意に書き換えるというのはいかがですか?
- また、「現時点で唯一の単著」たる『青空~』出版後すでに1年経ってます。その間に追加なり削除された「思想・主張」を、その「唯一の単著」でフォローできますか?それは無理でしょう、原理的に。その点も含めて、上述の「新規追加」と「一部削除」に対する対応問題(5月29日 (金) 04:22参照)についても応答乞います。--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:50 (UTC)
- (お知らせ):この議論の続きは、ページ「山下良道」の具体的な内容とは関係の薄い、「利用者個人間のやりとり」が長期間にわたって連続していますので、下記のサブページに移動しました。関心のないかたは、お読みにならなくても構いません。
- --Leonidjp(会話) 2015年7月3日 (金) 06:47 (UTC)
- (ページ「山下良道」の具体的な記述に基づく議論、という本来の話題に回帰することを示すために、インデント個数を戻します。この字下げ個数は改変しないように)。
- >(ページ本文):日本の伝統仏教である中国大乗仏教(仏教1.0)
- コメント「中国大乗仏教」が「日本の伝統仏教である」旨の記述は、この文の出典とされる『青空』pp.14-18および『別冊1』 p.376には存在しない。従って、上述の下線部=「である中国大乗仏教」という表現は無出典だから、削除すべき。
- これに連動して、ページ内見出しとしての「仏教1.0(中国大乗仏教)の問題点」という語句の丸カッコ内も削除すべき。--Leonidjp(会話) 2015年6月30日 (火) 01:07 (UTC)
- コメント上記の「中国大乗仏教」という記述は無出典。従って、ページ本文およびページ内見出しから削除。--Leonidjp(会話) 2015年7月5日 (日) 01:05 (UTC)
- >(ページ本文):南方のテーラワーダ仏教(仏教2.0)
- コメント上述の下線部=「南方の」という記述は、この文の出典とされる『青空』pp.14-18および『別冊1』 p.376には存在しない。従って、この「南方の」という表現は無出典だから、削除すべき。(出典には、「方角」だとか「発祥地名」、「伝播元の場所名」などを示す記述も無い。単に「テーラワーダ仏教」と書いてあるだけである)。--Leonidjp(会話) 2015年6月30日 (火) 01:07 (UTC)
- コメント上記の「南方の」および「である中国大乗仏教」という2つの語句は無出典。従って、この記述はページ本文から削除。--Leonidjp(会話) 2015年7月5日 (日) 01:05 (UTC)
- コメントまた、別の箇所で書いたとおり、「仏教1.0」という呼称は、日本の仏教の「現状」という含意を本来もっている。このことをページ本文に反映させるために、この箇所の記述を下記のように若干改めた。
- (変更前):日本の伝統仏教である中国大乗仏教(仏教1.0)
- (変更後):日本に伝統的に伝わる仏教の現状(仏教1.0)
- コメント 上の方の「概要」節の議論でも、似たような話がありましたが、その場合と同じく、ここでもほんの少しの加筆提案をします。以下の太字部分の「大乗」を追加させたいです。出典は『青空』p.17なので既出の出典内です。
- (追加提案):日本に伝統的に伝わる大乗仏教の現状(仏教1.0)
- ちなみに「南方仏教」の文言に関しては、くどくなるので、ここでは追加の必要はないと考えます。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 01:07 (UTC)
- コメント 上の方の「概要」節の議論でも、似たような話がありましたが、その場合と同じく、ここでもほんの少しの加筆提案をします。以下の太字部分の「大乗」を追加させたいです。出典は『青空』p.17なので既出の出典内です。
- コメント(追記)それではとりあえずこの表記に編集させてもらいます。--Themtheman(会話) 2015年7月25日 (土) 04:44 (UTC)
- コメント賛同します。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:22 (UTC)
- 済 じゃあここも解決済みということでいいですね。--Themtheman(会話) 2015年7月31日 (金) 22:33 (UTC)
- (ご注意):「済」というアイコン↑は、「大乗」という2文字の追加に関する「解決済み」を指しているにすぎず、それより以前から継続している論件(=「山下の中心的な思想・主張」という表現の不適切性のハナシ)は未解決。--Leonidjp(会話) 2015年8月2日 (日) 14:33 (UTC)
- コメント「山下の中心的な思想・主張は○○です」式の表現(参照)がもつ、「すぐに古くなる危険性」を予め指摘しているWikipediaのガイドラインも既に存在しているので引用しておく↓。
- Portal:最近の出来事のような定期的に再構成されるページを記述しているのでなければ、すぐに古くなる表現は使わないでください。
- 記述の際には、文章の意味や内容が時間を経ても適切に維持できるよう、記述対象ごとの時間的変化を考慮してください。その上で「最近」「現在」「近年」「現代では」「現状では」「今のところ」「今は考えられている」「近い将来」などといった語句や時期の説明が全くない記述によって、結果的に執筆時点でしか成立しない表現となることを避けてください。特に現在進行中の事象の場合は注意が必要です。それらの記述を数か月後、数年後、あるいは十数年後に読む人のことを考えてみてください。その時になっても適切なままであると言えるでしょうか。
- (引用元:「Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わない」)
- 「山下氏の思想の、内容面での変遷」というのは、あきらかに「現在進行中の事象」。(ポッドキャストも含めれば、すくなくとも毎週120分のペースで新しい内容が生まれている)。--Leonidjp(会話) 2015年8月6日 (木) 02:33 (UTC)
- コメントで、この毎週120分の法話が1回で1万字の分量をもつとすると、12週=3ヶ月で12万字となり、上述のとおり『青空としてのわたし』1冊と概ね同じ分量になる。つまり『青空としてのわたし』1冊の内容を置き換えうる分量の情報が3ヶ月ごとに生まれているということ。では、『青空としてのわたし』を出典とする記述(特に「思想・主張」の中心と周縁を描写した表現)が古くなっているかどうか、という問題を3ヶ月ごとに点検する作業に責任もっている人がいるのかというと、現状、いない。※ちなみに『アップデートする仏教』は1ページ約670字×約290ページ=約20万字なので、20週=5ヶ月ごとに同量の法話が生まれている計算になる。--Leonidjp(会話) 2015年8月6日 (木) 07:15 (UTC)
- コメント「山下の中心的な思想・主張は○○です」式の表現(参照)がもつ、「すぐに古くなる危険性」を予め指摘しているWikipediaのガイドラインも既に存在しているので引用しておく↓。
- コメント えーと、それじゃ「山下の中心的な思想・主張は」→「山下の主要な思想・主張の1つは」でどう?--Themtheman(会話) 2015年8月8日 (土) 00:41 (UTC)
- >「山下の中心的な思想・主張は」→「山下の主要な思想・主張の1つは」でどう?
- コメント現状の「Aの中心はBです」式の表現よりは遥かに良いと思いますよ。その言い換えを支持します。--Leonidjp(会話) 2015年8月11日 (火) 03:22 (UTC)
- コメント じゃあここはその文言に変えておきます。ここに関して他に何かあります?--Themtheman(会話) 2015年8月14日 (金) 22:57 (UTC)
- >ここに関して他に何かあります?
- コメント何かあったら適宜書き込むので、有る無しを訊ねなくていい。「済」アイコンを付けたい人は好きにせよ。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 02:32 (UTC)
- >好きにせよ
- コメント「好きにせよ」は撤回。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 11:37 (UTC)
- 済 この件、解決済み。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 11:37 (UTC)
議論12
- したがって、テレビドラマ(仏教)が第一話(テーラワーダ仏教、仏教2.0)で完結せず、主体(主役)を代えて第二話(大乗仏教、仏教1.0)が作れたことには必然性があったと述べている。
コメント文中、「作れた」は、「作られた」のほうが適切なのでは?受動態の「~られた」として。--Leonidjp(会話) 2015年6月29日 (月) 01:18 (UTC)
- 済 ここは単純に誤記ですね。後で訂正しときます。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 01:15 (UTC)
- コメント了解。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)
議論13(継続中)
- 瞑想時に「シンキングマインド」(thinking mind)に代わって出現する「別の本質的な主体」についての説明が欠落しているため、行き詰まる者が多いこと として指摘する。
「出現」とは、誰がどこで使った表現か。本件の出典とされる『青空としてのわたし』p.47-52,55,57には「(主体が)出現する」などとは書かれていない。「別の本質的な主体」という記述もない。「本質的な主体」とさえ書かれていない。出典が存在しない記述を、他人の発言(指摘)と称してページに掲載することは不適切だと考える。 p.47-52,55,57に現に書かれている、本件に関連のありそうな表現を列挙しておく。【主体そのものが変わらなくてはならない/別の主体/本来の私/主人公/「私」の本質についての誤解を手放す/誤解を手放してしまう/(主体を)転換する/観点の転換/私の本質】。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント 言葉遣い・表現に関しては、出典の記述とつき合わせながら、より妥当な表現を提示・模索し合っていけばいいだけの話であって、独自研究というほど大げさなものではないと思います。第三者を交えるのも手ですね。私は問題ないと思いますが、あなたが具体的にその表現のどこがしっくり来ず、またどう言い換えたらいいと思うのかを具体的な根拠・出典と共に提示してください。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
- >言葉遣い・表現に関しては、出典の記述とつき合わせながら、より妥当な表現を提示・模索し合っていけばいいだけの話であって、独自研究というほど大げさなものではない
- コメントこれが「独自研究というほど大げさなものではない」というのは、とんでもないです。たとえば、「出現する」と「変わる」は意味が違うのに、出典に無いほうの「出現する」という主張が使われていること自体、右記の「独自研究」にあてはまると思います。「出現する」というのが執筆者の「分析・まとめ・解釈」なら、その場合も勿論、独自研究に該当するでしょう。→「独自研究(original research)」とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがない(中略)事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、(中略)または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。」(参照)--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:31 (UTC)
- >言葉遣い・表現に関しては、出典の記述とつき合わせながら、より妥当な表現を提示・模索し合っていけばいいだけの話
- コメント 貴方のこういう言い方を読むと、どうも貴方は、言葉選びというのをさほどシビアに捉えてはいないように見受けられるのですけど(私の思い過ごしならすみませんが)、私はそういうのは、いただけないのです。たとえ単語1個でも違えば意味が変わるのは当たり前なのに、どうして出典に無い方の表現を敢えて使うんだろうか、と疑問に思います。しかもこの「主体」の件は、瞑想体験の内実を語る部分であるという意味において、出典のもつニュアンスを変えないようにするために最大限の注意を払って言葉を選ぶべき場所、デリケートな言葉選びが要請される局面であるはずなんですが・・・。この部分の出典においては、原理的には言語化がたいへん困難な事態を日常語で描写するために最大限の努力がなされることで或る表現が選ばれているとか、長大な記述を要しているという可能性があるわけですから、出典の著者のそういう努力の結果をWikipedia執筆者が不用意に改変しないようにしないといけないでしょう?
- 「(表現を)模索し合っていけばいいだけの話」と貴方は仰るけれど、執筆者が貴方だけである場合(私のように添削的に介入する者がいない場合)は、貴方の選んだ言葉遣いが殆どそのままページに載るわけだから、「模索し合う相手」が居ない時でも貴方一人で注意深く言葉選びをして頂きたいなと私は思います。
- 出典の中で使われている用語が、もしも専門用語(仏教用語とか哲学用語とか)だったとしたら、貴方も「貴方なりの言い換え」をしようとは試みなかったのではないでしょうか。もしそうなら、専門用語でない日常語についても、「執筆者による言い換え」をしてよいことには必ずしもならないのだ、という認識が成り立ちはしませんか。どうでしょうか。出典の中で使われている用語が日常語であったとしても、その用語がそこで実際に選ばれているということの重みが軽くなるわけではないだろう、と私は思いますが。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:31 (UTC)
- コメント「別の本質的な主体」という表現も、同様の問題があって、もともとp.47-52,55,57では「本質」と「主体」はバラバラに配置されているのに、それを貴方の(読者の)読解だけを根拠にして繋げたうえに「的」という意味付けを加えて「別の本質的な主体」という表現を創っているわけでしょう?それによって、まるで山下氏が「別の本質的な主体」というモノ/概念の存在をダイレクトに提唱しているかのような相貌ができてしまっているではないですか、Wikipediaのページ上では。
- p.47-52,55,57の中で、「私」・「主体」・「本質」という言葉がダイレクトに出てくる文を引用してみますね↓
- (1)主体そのものが変わらなくてはならない。その別の主体こそが、本来の私なのだ。(p.47)
- (2)私たちがすべきことは、シンキング・マインドを抑圧することではなく、「私」の本質についての誤解を手放すことなのです。(p.51)
- (3)ですから、「私」が雲だという誤解を手放してしまうのです。そして、瞑想する主体を、青空へと転換するのです。(p.51)
- (4)しかし日本人は、自分の本質は青空だという考えにどこかでつながっています。(p.55)
- (5)じつはこの「私の本質は青空である」ということがわかってはじめて、(中略)できるのです。(p.57)
- 「私」を「主体」と呼び替えることが(1)や(3)によって認められるとしても、(2)(4)(5)に実際にある表現はあくまでも「Xの本質」という表現であって「本質的なX」とは書かれていないですよ。また、(1)の「本来の」と「本質的な」が「同じだ」ということを出典がダイレクトに述べているわけではないでしょう?貴方は上述のように「本質的なX」という表現を使っておられるけれど。
- 「Xの本質」と「本質的なX」を「同じだ」ととらえる立場とか、「本来の」と「本質的な」が「同じだ」と捉える立場とかは、それぞれ1つの立場(1つの哲学的な立場かな)としてはありうるけども、一次資料の中で明白にダイレクトに述べられているのでないかぎりは、山下氏の立場として採用することはできないはずでしょう?だから今のところこれらは貴方の立場でしかないのであって、山下氏の記述を貴方の立場(哲学的な立場)に引き寄せて読んだ結果を記述する(しかもそれを山下氏の主張内容として記述する)というのはWikipediaでは制止されていること(発表された情報を解釈すること・まとめること)ではないですか?→「独自研究(original research)」とは、(中略)発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。」(参照)--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:31 (UTC)
- >具体的にその表現のどこがしっくり来ず、またどう言い換えたらいいと思うのかを具体的な根拠・出典と共に提示してください。
- コメント繰り返しになりますが、この種の「まとめの創作」というものを、下記のようなWikipediaの「方針」に反さずに作ること自体、とても困難で殆ど無理だと思います。「信頼できる二次資料」が無いかぎりは。(今のところ、三次資料は全く無いでしょう)。Wikipediaの「方針」に反しているという問題性は、表現の善し悪しを「言い換え」で調整することで切り抜けられることではないと思います。執筆者が一次資料の「まとめ」を実行すること自体を、これらの「方針」が制止しているからです。
- 「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。(中略)ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます。」(参照)
- 「独自研究(original research)」とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがない(中略)事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。」(参照)
- だから、信頼できる二次資料が見つからない状態で出来ることがあるとすれば、一次資料の中の様々な場所に散在している記述を改変せずに切り貼りすることくらいじゃないですか。それでも、場合によっては上述の「合成」や「解釈」に該当するかもしれないけれど。切り貼りするにしても、文言を改変しないままでは文として接続させることができないとか色々と困難があると思います。
- ちなみに、「合成」に関しては、Wikipediaによる説明がすでにありますので、参考までにリンクしておきます。→(参照・参照)。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:31 (UTC)
- コメント ずっと感じていたことですが、私はあなたの「独自研究」の「分析・合成・解釈・評価」の捉え方が過剰・極端に感じられます。あなたの言うとおりにしてしまうと、ウィキペディアは「一次資料・二次資料を一字一句変更せずに引き写すことしかできないサイト」になってしまいますよね。あなた風に言えば、一字でも違っていれば独自解釈の可能性があることになってしまうからです。私は「Wikipedia:独自研究は載せない」に書いてあるのは、そういうことではなく「用語や因果関係を創作しない」ということであって、「出典を一字一句変更してはいけない」ということではないと思います。「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」の説明にしても、別人・別媒体の出典情報を用いた独自判断や因果関係の創作・付加はダメだと書いているわけであって、「出典を一字一句変えてはいけない」と述べているわけではないですよね。
- ここのボタンの掛け違いがどうも議論がかみ合わない原因になっていると思うんだなあ。まずはここに関してじっくり議論したいとこだけど、このノートで議論するような話でもないと思うなあ。Leonidjp氏の会話ページで議論しましょうかね。--Themtheman(会話) 2015年6月3日 (水) 17:40 (UTC)
- >あなたの言うとおりにしてしまうと、ウィキペディアは「一次資料・二次資料を一字一句変更せずに引き写すことしかできないサイト」になってしまいますよね
- コメント「一字一句でも違っていたらNG」というのは、私が自分の名で現実に出している「要求」ではないのです。勘違いしないで下さいね。この件に対しては、別のところで詳しい反論・応答をしましたから、必ずそちら(参照)を読んで下さい。
- >ボタンの掛け違い
- コメント「一字一句」基準に関しては、「掛け違い」を起こしているのは私ではありません。私は、「一字一句まで合致せよ」という要求を現実に私の名で出しているのではないからです。上述のとおりに。勘違い=掛け違いにご注意下さい。書かれていないことは書かれていないのです。ノートページにおいても。--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:48 (UTC)
- >あなたの言うとおりにしてしまうと、ウィキペディアは「一次資料・二次資料を一字一句変更せずに引き写すことしかできないサイト」になってしまいますよね
- コメント「二次資料を一字一句変更するな」なんてことを、私がどこで言ったのです?言ってないですよ。(私の論述や例示にすぎないものを「これは現実に要求が出されたのだ!」と早合点なさったものだろうと思われる。私がいちいち、貴方の発言に「>」印を付けて引用文化して併記しておくのは、「貴方の発言を改変したうえで応答しているのではないですよ」ということをハッキリ示すためなのです。貴方もそうやった方がいいかもしれない。ほんとに)。
- 他方、一次資料の扱い方に関しては、下記のようにハッキリと書かれた制止があります。
- 「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。」(参照)
- 一次資料の記述に対する「変更」が、この制止の言う「分析・合成・解釈・評価」に該当するかどうかという問題は、個別の「変更」箇所に対して個別に検討しないと、確かな答えは得られないでしょうが、一般論で考えれば、「変更が有るなら、少なくとも、解釈だけは行われただろう」とは言えるでしょう。(変更無しで解釈している場合は、他人には察知されないでしょう。「昼」と書いてあるものを「夜」と読み替えて、その読み替えを他人に告白しないなら、誰にも気づかれないはずです。だから逆に言えば、「一字でも変えたら気づかれる」ということ)。--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:48 (UTC)
- >あなた風に言えば、一字でも違っていれば独自解釈の可能性があることになってしまう
- コメント「一字でも違っていれば独自解釈の可能性がある」。一般論でいえば、それは当たり前ですよ。なにも私(Leonidjp)風に言わなくたって、至極当たり前のことですよ。一般論でなく個別論で言うなら、個々の議論対象になっている語句なり文なりに言及しないままで「独自解釈」性の有無を語り合うことは無理ですよ。私は既に、個別の議論も始めていますでしょう?このノートページの各所で。個別の議論には、個別の場所でそれぞれに応答して頂ければ議論は進みます。
- 個別の議論から一般論へと移行していくと、おそらく話は纏まらないです。議論の内容がどんどん抽象化していくから、ホンモノの言語学者や哲学者の領分になるでしょう。そういう専門家どうしの議論で結論を出すことが可能なら、もう既に学会なりで一定の結論が出されて、WikipediaのHelpページ等にも「結論!独自解釈とはコレだ!」みたいにシンプルに書かれているはずです。しかしそういうシンプルな結論は現に書かれていない、ということは、一般論や抽象論で語っても結論など出ないということの傍証でしょう。古代ギリシャあたりから数えてもおそらく2000年以上、延々議論しても結論が出ていないものを、私と貴方で話して結論を出すなんて無理に決まっています。
- だから、一般論・抽象論に移行しないで、具体的な出典とWikipediaの記述とをピンポイントに議論対象として決めて語り合わないと話にならないと思います。--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:48 (UTC)
- >「Wikipedia:独自研究は載せない」に書いてあるのは、そういうことではなく「用語や因果関係を創作しない」ということであって
- コメントそういう解釈の出典はどこですか?用語・因果関係の創作がNGということ自体は私も異論ないのですけど、例えば「因果関係」という語句は「Wikipedia:独自研究は載せない」のページ内で1回だけしか出てきてないでしょう?同ページには、因果関係以外の論点が山ほど書いてあるではないですか。そこはどのように読んでおられるのですか?例えば同ページの冒頭に、右記のように書いてありますよ。→「独自研究(original research)とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがない(中略)事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです」と。貴方がページに書いたものは、他の媒体では発表されていない主張、まとめ、解釈等を含んでいます。私がこのノートページ各所で指摘しているとおり。それらって、まさに独自研究に該当していませんか?
- >まずはここに関してじっくり議論したいとこだけど、このノートで議論するような話でもないと思うなあ
- コメント私はこの件、このノートページで議論します。--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:48 (UTC)
- >「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」の説明にしても、別人・別媒体の出典情報を用いた独自判断や因果関係の創作・付加はダメだと書いているわけであって、「出典を一字一句変えてはいけない」と述べているわけではないですよね。
- コメントその「発表済みの情報」というのは、二次資料を指しているはずでしょう?だからそれは、「使える二次資料」がほぼ存在しない状況(我々の今の現状)とは直接関係ない話です。我々の手には今、一次資料しかないのですし、一次資料の扱い方は下記のように制約されているので、「一次資料の合成」というものを行う余地はもともと初めから無いはずですから。
- 「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。」(参照)
- 念のためお訊ねしておきますが、Themthemanさん自身は、御自分が御自分の執筆分の中で「一次資料の合成」を行なっているという自認をお持ちなのですか?もしそういう自認をお持ちなら、それは即、上記のような「Wikipediaの公式の編集方針」に抵触するはずです。一次資料に対しても、「合成をしてはいけません」と上記のようにハッキリ書いてありますから。
- >「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」の説明にしても、別人・別媒体の出典情報を用いた独自判断や因果関係の創作・付加はダメだと書いているわけであって
- コメント更に念のために付記しておきます。そこには「別人の~」とは書いてありません。同節の例文の中にある「出典例」の著者名が各々別人であるという事実は、単に「事実=例文の文面上の事実」であるにすぎず、「例文の文面上の事実であるだけでなく、現実の規範でもあるのだ」という意味の宣言は、同節の何処にも書かれていません。従って、同一人物を作者とする2個以上の資料(かつ各々が別媒体であるもの)を用いて行う「合成」も、やはり「合成」に該当するものとして禁じられていると解釈すべきです。
- ※「出典の無い因果関係の創作はNG」という「規範」は、同節の例文の「外側」にハッキリ書いてあります。この点が、「別人」論点とは明白に違うのです。ご注意下さい。「別人の」という制限条件は書かれていないのです。
- 「冷静・慎重」という態度を提唱しているはずの貴方が、このような早合点的読み方をなさってしまうという事例を目にしますと、誠に失礼ながら、危うさを感じざるを得ません。貴方、大丈夫ですか、本当に。--Leonidjp(会話) 2015年6月9日 (火) 06:06 (UTC)
- コメント ここもずいぶん議論が脱線してますが、私は冒頭で述べているようにこれも「文言調整」案件だと思います。具体的にこう文言を変えたらいいという提案が何かありましたらどうぞ。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 01:25 (UTC)
- >具体的にこう文言を変えたらいいという提案が何かありましたらどうぞ。
- コメントこれは大仕事だわ(笑)馬鹿には出来ない。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:47 (UTC)
- コメント ここの文言調整が、おそらく最後の議論になるのかなと個人的には思ってます。とりあえず後回しにさせてもらいましょうかね。--Themtheman(会話) 2015年7月31日 (金) 22:33 (UTC)
- >ここもずいぶん議論が脱線してますが
- コメント脱線?いやいやいや笑、「独自研究」に関する貴方の根拠不明のガバガバな思い込み(下品な比喩ですよね)を糺すことに紙数費やしてあげたというのに、それについては一片の釈明も謝礼も無しにまるで他人事みたいに「脱線」とか仰っている。笑うところですかねこれ。脱線と言うなら、Wikipediaの公式の編集方針に反した執筆は全て「脱線」。例のZenji30君なんかが恥知らずにも無出典で好き勝手なこと書きなぐっていた(参照1・参照2)のも全部「脱線」。あげくの果てに彼がソックパペットとして投稿ブロックされて漸くコンテンツが「脱線」から復帰できるのかと思いきや、また別の人が現れて「脱線」を再現したりする。「一次資料を解釈するな」という編集方針に反する執筆(私がたくさん指摘しましたよね)も「脱線」。そういう「編集方針からの脱線」を「正しい路線」へと復旧する取り組み自体が「脱線」なわけないんですけどね。--Leonidjp(会話) 2015年8月6日 (木) 01:08 (UTC)
- コメント どうも文言の提示が無いみたいなんで、こっちの記述も自分で考えますわ。--Themtheman(会話) 2015年8月8日 (土) 00:41 (UTC)
- コメント (追記)当該出典記述を参照したところ、
- 瞑想時に「シンキングマインド」(thinking mind)に代わって出現する「私の本質」としての「別の主体」についての説明が欠落しているため、行き詰まる者が多いこと として指摘する。
- といった感じになるでしょうか。--Themtheman(会話) 2015年8月29日 (土) 01:07 (UTC)
- コメント (追記)当該出典記述を参照したところ、
- コメント (追記)さっそくこれに基づいて当該・関連記述の編集をさせてもらいます。--Themtheman(会話) 2015年8月29日 (土) 01:13 (UTC)
- >当該出典記述を参照したところ、
- コメント「当該出典記述」という6文字が意味不明。どの資料の何ページの何行目が「当該」で、その「当該」をどう読んだらどういう作文が出来るのか具体的に書かなければハナシにならない。「当該」というラベルだけがあり、その指示対象が明示されないのでは、何の説明にもなっていない。ノートページは独り言を書く場所ではない。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 02:23 (UTC)
- >瞑想時に「シンキングマインド」(thinking mind)に代わって出現する「私の本質」としての「別の主体」
- コメント「出現する」というのは誰がどの資料で使った表現なのか、と5ヶ月も前に(2015年5月17日)訊ねているのだが、未だに回答が無い。皆さん、こういうの駄目ですよ。やめましょう。--Leonidjp(会話) 2015年10月12日 (月) 01:50 (UTC)
- >瞑想時に「シンキングマインド」(thinking mind)に代わって出現する「私の本質」としての「別の主体」
- コメント「ピッチャー交代」というからには「交代する奴」が「現れる」んだろうから「出現」だろう、なんぞと勝手に判断して「出現」というワードを出しているかのように見受けられるけど、こんなのを読んで「何か主体が出現するんだな」と本当に信じてしまった人のケアを誰がする羽目になるかというと、結局、本人の手に負えない部分は山下氏が引き受けざるを得なくなるでしょうね。山下氏が「主体が出現する」などと書いているという出典は未だに見つかっていないというのに。Wikipediaの記事が引き起こしかねない諸々の誤解・混乱を解きほぐす作業の何割かは、そうやって山下氏にふりかかっていく。そういう意味でも、無出典のWikipedia執筆は迷惑行為。資料が冗長で困るというなら資料の著者に文句言うなりすべき。冗長なものを無出典で勝手に切り詰めてまとめて「分かりやすくなりました」なんて言ってみたところで、それが「プロクルステスのベッド」のように改変してはいけないものを改変した結果であったなら、それは実は「分かりにくく」変化したのだから、結局それも誰かが後始末しなければならなくなる。だからつくづくと全方位的に迷惑だ。ベッドより身体が大事であるように、読み手の頭の枠組みよりも大事なことがある。(だから、不調なthinking mindは読書の邪魔でもある訳だ。誰のが不調だとは言わんが)。--Leonidjp(会話) 2015年10月21日 (水) 07:03 (UTC)
- >これは大仕事だわ
- コメント結局、この「大仕事」を他人まかせにして放り出して姿を消したわけですかこの人は。誰が後始末するの。--Leonidjp(会話) 2015年12月9日 (水) 06:42 (UTC)
議論14
- ちなみに山下によれば、テーラワーダ仏教(仏教2.0)の世界観では、般若心経の「色即是空」は認められるが、「空即是色」は絶対に認められず否定されるという。
「ちなむ」という程度の重要性しかなければ、本文でなく脚注に掲載すべきではないか。現状では、この記述が何にたいして「ちなんでいる=関連している」のか不分明だが、脚注化すれば、「関連する相手」を明らかにできる。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント 普通は文脈上わかると思うんですが、テーラワーダ仏教(仏教2.0)について書いている節なので、それに因んでいるわけですね。山下の著作・インタビュー(一次資料)にも複数回出てくる表現なので、その表現がしっくりくる人向けに付け加えておいたしだいです。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
- >テーラワーダ仏教(仏教2.0)について書いている節なので、それに因んでいる
- コメントその節の中のどの文/段落に因んでいるんですか、という意味の質問だったのです。脚注化すればピンポイントになりますから相手が。でも、この件の処遇はお任せします。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:34 (UTC)
- 済 現状でいいと思います。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 01:28 (UTC)
議論15
- 以上述べてきた大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)それぞれの欠点や行き詰まりを解消するために、山下は「仏教3.0」へのアップデートを訴えており、それによって両者は1つに統合され、垣根が取り払われることになるので、彼はこれを「ワンダルマ」とも呼んでいる。
出典とされるp.56には、このような記述は一片も存在しない。直前のページを含めたp.53-56においても、「1つに統合され」・「垣根が取り払われることになる」・「ので」・「彼はこれをワンダルマとも呼んでいる」という記述は存在しない。適切な出典が存在しない記述を独自に書き加えることは「独自研究の発表」に該当し不適切であるので、執筆者には是正を求める。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント 「一片も存在しない」というのは嘘ですね。「3.0なら、日本の大乗仏教の人も2.0の人も救われます。それを私はワンダルマと呼んでいます。」という記述がまずありますね。そして、そこに至るまでの記述を要約すると、そういう内容で問題ないと思います。これも独自研究というほど大げさなものではなく、あなたが言葉遣いがしっくりこないと思うという類の案件でしょうから、第三者をからめつつ妥当な表現を模索していくのもいいかもしれませんね。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
- >「3.0なら、日本の大乗仏教の人も2.0の人も救われます。それを私はワンダルマと呼んでいます。」という記述がまずありますね。
- コメントp.56ですね。この一文は、「ワンダルマ」と呼ばれる対象が「3.0=仏教3.0」という名詞(物事)または「救われる」という動詞(物事)だよ、と言っているだけじゃないですか?「それ」という指示代名詞の指示対象が、この2つのどちらか(または両方)だ、と言っているだけでしょう?だからp.56のこの一文には、「1つに統合され」・「垣根が取り払われることになる」・「ので」・「彼はこれをワンダルマとも呼んでいる」という含意は全然無いではないですか。この一文をどう読んでも、そういう含意は読み取れない。p.53-56にまで広げても、「統合」とか「垣根がどうこう」という記述は無いし、ましてや、「統合されるので/垣根が取り払われるので」という類の理由表示の表現もありません。
- 「AをXと呼びます=呼ぶ対象を指定」というのと「AなのでXと呼びます=呼ぶ理由を陳述」というのは、意味が全然違うでしょう?出典(p.56またはp.53-56)にハッキリ書いてあるのは前者だけでしょう?(上述のとおりに)。「甲を乙と呼ぶ理由」なんて、出典の中に明白に書いてあるのでなかったら、ページに記述してはいけないはずでしょう。だから独自研究ですよと申し上げているんです。貴方はここで「理由の創作」をしているわけです。出典の中に書かれていない事柄と、出典の中に書かれている事柄とを、「ので」という単語で勝手に繋げることによって、「理由の創作」をしているわけです。こういうことは絶対にNGだと思います。
- 「p.56に至るまでの記述を要約するとok」という貴方の2つめの論拠については下記↓で応答しました。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:34 (UTC)
- >そこに至るまでの記述を要約すると、そういう内容で問題ないと思います
- コメントその「そこに至るまで」というのはp.53-56のことですか?それともp.1~p.56の全体または一部を指しているわけですか?いずれにせよ、その「要約」が何処にあるかというと、貴方の心の中にだけあるわけでしょう?それだけをもとにして執筆するというのが、下記のようなWikipediaの「方針」に反していますでしょう?(何度も繰り返し引用してすみませんが、読み飛ばされるといけないので載せます)。だからそもそも、Wikipediaというのは、そういう「要約」の結果を書いてはいけない場所であるはずなんです。
- 「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。(中略)ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます。」(参照)
- 「独自研究(original research)」とは、(中略)発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。」(参照)--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:34 (UTC)
- >言葉遣いがしっくりこないと思うという類の案件でしょうから
- コメント「言葉遣いがしっくりこない」、つまり、個々の言葉の選び方も勿論大きな問題ですが、ただそれだけのこととして捉えるのは、違います。私が最も強く問題視していることは、出典に照らして不正確な記述がWikipediaのページに載ってゆくという構造そのものですので。
- 一次資料自身が「要約」的な記述をもたないときに、そういう一次資料だけを出典にして「まとめ」的/「要約」的な文章を執筆しようとしたら、執筆者自身による解釈・評価の類いが混じります(上述のようなWikipediaの「方針」に違反せざるを得なくなるのは、そのせいでしょう)。執筆者自身の解釈・評価が混じるせいで、一次資料の記述との食い違い(出典とされる一次資料に照らして不正確な記述)が生まれてくるのでしょう。このノートページの各所で私が指摘しているように。
- 要約的な記述をもたない一次資料を「要約する/まとめる」という行為じたいが不正確性を生む根本的な原因なので、私はこの根本的な原因の部分を断つことがベストだと思っています。つまり、信頼できる二次資料が見つかるまでは、「まとめ」的なものをWikipediaに書こうとしないということ。書くとしても、「まとめ」を受ける側たる大きなキーワードや大きな概念の説明だけに留めて、文脈の創出を図らないことがセカンドベスト(その場合も、説明文そのものは一次資料から改変せず切り貼りできればなお良い)。そういう考えです。他人に強要はしませんが。
- 根本的な原因を断たないで、一次資料のみから「まとめ」的/「要約」的な文章を執筆することを続け、そこで出来上がった要約の内部を部分的に「言い換え」していくというのは、焼け石に水みたいなものです。それは、「焼かない」という根本的な対策をネグレクトすることですから。出来上がった要約の内部の言い換えは、やらないよりはやる方が良いでしょうが、私にとってはセカンドベスト未満、サードベストくらいの選択肢だと思っています。サードベストくらいの価値はあるとしても、Wikipediaの「方針」に反するという意味ではNGなのですが。
- 不正確な記述を不正確と気づかないで信用してしまうWikipedia読者がいたら、もうその人自身が「歩く焼け石」みたいなものです。私は、Wikipediaがそういう人を作らないようにするべきだと思っています。Wikipediaを読んで「歩く焼け石」になった人に水をかける(=質問に答えたりして対応する)作業は誰がやることになると思います?Wikipedia執筆者がその作業に責任を持つことはできないでしょう?彼らが貴方や私に質問してくるとは限らないのだし、応答できる保証もない、応答する資格もおそらく無いのですから。だから最終的には、山下氏自身にその役目が回っていくと思いますね。Wikipediaが「焼け石」を作るのは、だから山下氏という他人の手間暇を奪うことになるんです。
- もともと、Wikipedia執筆者が使える資料が一次資料しかない間は、山下氏に関しては一次資料を各人ごとに直に読んで貰えれば充分じゃないですか?一次資料を「まとめる」といったって、出来上がった「まとめ」が不正確だったら、それは「適切な要約」というより「不適切な・余計な情報の付け加え」になってしまう。信頼できる二次資料が無いという構造的な問題を、Wikipedia執筆者の文献解釈能力と一次資料だけで乗り切ろうとするのは危ないですよ。私も貴方も、文献解釈者として何らの能力保証も信用も受けていない匿名人でしかないのですから。貴方が「第三者」と呼んでいる人も、Wikipedia利用者という資格で参加する以上は、基本的にはそういう無保証・無信用の状態でしょう?そういう我々でも執筆できる百科事典であるからこそ、「信頼できる資料(とりわけ二次資料)」の存在が重要なのだと私は認識しています。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:34 (UTC)
- コメント たしかにここに関しては、文言も出典の対応も雑でしたね。手直ししましょう。今日は時間的に文言を精査・推敲している余裕がないので、とりあえず使えそうな出典記述を列挙しておきたいと思います。
- 「2.0の瞑想をしていて前に進めないでいる人達にも、「青空」からという観点を入れてみたらと提案したいのです。仏教3.0は、1.0と2.0の両方の人達にアプローチしています。1.0の人も2.0の人もアップデートできるのです。1.0の人にとっては、足踏み状態から前に出ていける。」(『青空』p.55)
- 「2.0の人にとっては、2.0のままではどうしても何かが欠落してしまうのを補えます。」(『青空』p.56)
- 「3.0なら、日本の大乗仏教の人も2.0の人も救われます。それを私はワンダルマと呼んでいます。」(『青空』p.56)
- 「1.0では人の心の苦しみを癒やす技術がありませんし、2.0でも先に書いたように行き詰まる人が多い。」(『青空』p.57)
- 「それを解決できるのが、3.0です。」(『青空』p.179)
- 「仏教が今3.0にアップデートすべき最大の理由は~」(『青空』p.179)
- 「この世界に執着することも、この世界を否定したものに執着することも、両方とも間違いなのです。~その二つの考えを改めて整理してみます。一つは~もう一つは~。この二つの考え方は、仏教のセクト的に言えば、前者がテーラワーダ、後者がマハーヤーナ(大乗)の考え方です。~この二つの対立を解決するものが3.0です。」(『青空』p.180-181)
- 「ワンダルマ・メソッドとは、テーラワーダでもないし大乗でもない、それらが完全に統合された形でのワンダルマ仏教、つまり3.0の仏教の瞑想メソッドです。」(『青空』p.199)
- 「「仏教3.0」は「仏教1.0」と「仏教2.0」を排除や否定しているわけでは決してありません。「仏教3.0」自身、その二つによって構成されているのですから。仏教の全ての伝統がそこに含まれます。「仏教3.0」になって初めていままでばらばらだったものの全体像が見えてきます。」(『アップデート』p.273)
- 「「仏教3.0」ではいわばあらゆる象のパーツの情報が集められ、統合されることによって、そこから一頭の象が出現したようなものです。」(『アップデート』p.273)
- 具体的な文言の精査・推敲は来週にでも。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 02:40 (UTC)
- コメント たしかにここに関しては、文言も出典の対応も雑でしたね。手直ししましょう。今日は時間的に文言を精査・推敲している余裕がないので、とりあえず使えそうな出典記述を列挙しておきたいと思います。
- コメント (追記・翌週)えーと、上記の出典の内、『青空』pp.55-56の記述で、「大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)それぞれの欠点や行き詰まりを解消するために、山下は「仏教3.0」へのアップデートを訴えて」いる、という記事記述部分までは裏付けできると思います。さらに、『青空』pp.180-181の記述も参照すれば、「大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)それぞれの欠点や行き詰まり、あるいは両者の対立を解消するために、山下は「仏教3.0」へのアップデートを訴えて」いる、といった加筆もできるでしょう。
- また、『青空』p.199と『アップデート』p.273の記述から、仏教3.0が仏教1.0と仏教2.0の「統合」であるという表現を用いることも是認されるでしょう。さらに、『青空』p.56と『青空』p.199の記述から、山下がその3.0を「ワンダルマ」とも呼んでいるということを記述することも、是認されるでしょう。
- 以上をまとめると、以下のようになるでしょう。
- 「以上述べてきた大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)それぞれの欠点や行き詰まり、あるいは両者の対立を解消するために、山下は「仏教3.0」へのアップデートを訴えており(『青空』pp.55-56)(『青空』pp.180-181)、それによって両者は統合されるという(『青空』p.199)(『アップデート』p.273)。彼はこれを「ワンダルマ」とも呼んでいる(『青空』p.56)(『青空』p.199)。」
- これでどうでしょうか。--Themtheman(会話) 2015年7月17日 (金) 22:37 (UTC)
- コメント(追記)それではとりあえずこの表記に編集させてもらいます。--Themtheman(会話) 2015年7月25日 (土) 04:44 (UTC)
- コメント(追記)『別冊サンガ1』p.376上段の「そこで、一法庵で提案しているのが両者を統合した「仏教3.0」です。」という記述が、「統合」に関する出典の1つとして追加できると思うので、追加しておきます。--Themtheman(会話) 2015年8月8日 (土) 00:41 (UTC)
- コメント一連の出典付加と文言修正、了解しました。--Leonidjp(会話) 2015年8月11日 (火) 01:35 (UTC)
- 済 じゃあここも済ということでいいですね。--Themtheman(会話) 2015年8月14日 (金) 22:57 (UTC)
議論16
- 山下によれば、現在日本国内外で大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)の潮流がぶつかり合いながら仏教を捉え直していく潮流ができつつあり、山下らの日本における「仏教3.0」運動はその世界的潮流の最先端だという。
“「仏教3.0」運動”という名詞は、出典とされるp.178-179には存在しない。適切な出典が存在しない名詞を、他人の「実践・取り組み」の名称として独自に設定することは不適切だと考える。p.179には「今我々が日本でやっていることが、世界的潮流の最先端だと言っていいと思います」と書かれてあり、その「「今我々が日本でやっていること」が“「仏教3.0」運動”なるものを指しているということを示す出典は、現状、挙げられていない。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント あなた自身も書いているように、「仏教3.0」運動が「今我々が日本でやっていること」を指していることは、文脈からも明らかですね。おかしいと思うなら、第三者を交えてじっくり議論してもいいですよ。「仏教3.0」運動という表現がしっくりこなければ、「仏教3.0」に関する取り組み、「仏教3.0」に関する活動と言ってもいいですけど、それによって文意が変わるわけでもなく、たいした問題ではないですね。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
- >それによって文意が変わるわけでもなく、たいした問題ではないですね
- コメント「たいした問題ではない」というのは、とんでもないと思います。出典の中で明白に記述されていない名詞を独自に創ったりしたらいけないと私は思います。本人たちが「運動」と呼んでいるという出典が存在しない時に、他人が勝手にそれを「運動」と呼び且つ「本人たちの使ってる名詞」のごとく文中に配置する、というような創作・密輸入はやめたほうがいいです。ここの呼び名に関しては【「仏教3.0」に関する取り組み/「仏教3.0」に関する活動と言ってもいい】という貴方の言い換え提案を支持します。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
- 山下によれば、現在日本国内外で大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)の潮流がぶつかり合いながら仏教を捉え直していく潮流ができつつあり、山下らの日本における「仏教3.0」に関する活動は、その世界的潮流の最先端だという。
- コメント 既述の通り、この種の言い換えには特に異論はありません。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 02:45 (UTC)
- 済 済ってことでいいですね。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 03:28 (UTC)
- コメント了解。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)
議論17(継続中)
- 「ワンダルマメソッド」(青空の瞑想)と呼ばれる瞑想法
出典とされるp.199には「ワンダルマ・メソッドとは(中略)ワンダルマ仏教、つまり3.0の仏教の瞑想メソッドです」と書かれてあるにすぎず、「青空の瞑想」という名詞は現れていない。従ってp.199は「ワンダルマ・メソッド」の位置づけを述べているにすぎず、「青空の瞑想」というものには言及していない。また、現状の「甲(乙)と呼ばれる丙」という記述では、「メソッド」と「瞑想」と「瞑想法」の相互の関係が不明瞭だと考える。「メソッド」と「瞑想」と「瞑想法」の関係(同義であるとかないとか、一方が他方の原因や手段や事例であるとかないとか)を記述する際は、適切な出典がもちろん必要である。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント 公式サイトにも併記されてますし、「青空の瞑想=ワンダルマメソッド=インナーボディーワーク+慈悲の瞑想+アナパナ・サティ」で問題ないと思います。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
- >公式サイトにも併記されてますし、「青空の瞑想=ワンダルマメソッド=インナーボディーワーク+慈悲の瞑想+アナパナ・サティ」で問題ないと思います
- コメント「公式サイトにも併記」って、坐禅会のプログラムを紹介する記事の中に載っているこれ↓ですか?
- ・青空の瞑想 ワンダルマ・メソッド
- (インナー・ボディー・ワーク+慈悲の瞑想+アナパナ・サティ)
- 「青空の瞑想」と「ワンダルマ・メソッド」を結ぶ等号は、サイトのこの表記に無いですよ。貴方は上記のように等号で結んでいますけれど。サイトの表記では、丸括弧の内と外との間にも等号は無いですが、貴方は等号を付けていますね↑。等号の有る無しでは意味がぜんぜん違いますでしょう?出典に存在しない等号をなぜ付けるのですか?等号(イコール)なんていう論理記号を独自に付けて解釈した結果を採用するというのは、明らかにNGだと思います。
- >公式サイトにも併記されてますし
- コメント:「併記」というのは「複数のものが並べて書いてある」という意味ですか?並べて書いてあるからといって、イコールで結んでよいということにはならないはずですが・・・。「併記されてる」という事実を貴方がどう解釈(意味づけ)しているのか、ちょっと私、分かりません。
- 結局、公式サイトの記述↑と、『青空~』p.199の記述は明白に違っています。すると、貴方が設けている出典[52]に中身として入るべきなのは、公式サイトとp.199のどちらなのでしょう?両方入るべき?両方とも不適当?
- いずれにしても、出典[52]の中身はp.199や公式サイトだけでは足りないのではないですか?上述のとおりに。その「足りない部分」が何であるかといえば、それはおそらく、「貴方の解釈」ではないですか。貴方の解釈は貴方の心の中にだけあるので、外部の資料の中には書かれておらず、ゆえに、出典の欄に記入できない、というわけではないのでしょうか。どうですか。
- こういう例を見ると、資料に書かれていることを超えた領域にまで筆が奔り過ぎることの危うさを私は感じざるを得ません。資料に書いてないことは書いてないんだ、だからWikipediaのページにも書けないんだ、という節制を守りませんか。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
- 字下げが機能していなかった部分を修正。--Leonidjp(会話) 2015年6月4日 (木) 04:10 (UTC)
- コメント 『別冊サンガジャパン1』p.380にも、「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」と書いてあります。これでどうですか。--Themtheman(会話) 2015年6月3日 (水) 17:40 (UTC)
- コメント即答不能のため、すこし後で回答させてもらいます。--Leonidjp(会話) 2015年6月4日 (木) 05:37 (UTC)
- >『別冊サンガジャパン1』p.380にも、「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」と書いてあります。これでどうですか
- コメント「どうですか」というか、貴方の挙げているそういう出典が貴方の記述をどのように支持しているのかということを貴方がお語りにならないといけないと思うんですが・・・。
- そこを貴方が書かないから、私から書きましょうか。貴方が挙げたその「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」というp.380の記述を、ページ本文と突き合わせるとどうなるか、見てみます↓。
- (p.380):青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)
- (ページ本文A):そしてその「仏教3.0」の具体的な実践内容が、下述する「ワンダルマメソッド」(青空の瞑想)と呼ばれる瞑想法である[52]。
- 【青空の瞑想】と【インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ】が、丸括弧の外と内という関係で繋がっている点はp.380で確認できました。それで、このp.380を、上述のページ本文Aの出典とするなら、丸括弧の内と外をp.380と一致させた方が良いんじゃないですか?つまり、下記の改案1のように。
- (改案1):そしてその「仏教3.0」の具体的な実践内容が、下述する青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)と呼ばれる瞑想法である[52]。
- 更にもう一点。これは既に「5月17日 (日) 00:36」にも書いた↑ことですが、上述の改案1では「瞑想」と「瞑想法」の関係性を述べる記述が元通りに維持されているわけですね。つまり、【「瞑想法」と呼ばれるものが「青空の瞑想」や「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」である】という関係性(呼び方)が。その「関係性=呼び方」の出典は何処にあるのでしょうか?
- 特に、「青空の瞑想」を「瞑想法」と呼ぶという「呼び方」の出典が無いとすると、それはまずいのです。「瞑想は瞑想法と呼んでよいのだ」と言っている出典は挙げられていないはずですし、一般論的に言っても、「X」と「X法」というのは「後者は前者の方法である」という関係性をもつことが多いですから。「移動/移動法」とか「決断/決断法」とか色々と例は思いつくでしょう?「方法でない可能性があるもの(瞑想)」を「方法(瞑想法)」と呼んでしまっているという実態(=出典無しにそう呼んでいるという実態)があるとすると、改案1自体もその点でなお不正確だということになります。この「呼び方」の出典が無い場合、下記の改案2のような修正をすることになるでしょう。「法」の一字を取り除くわけです。
- (改案2):そしてその「仏教3.0」の具体的な実践内容が、下述する青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)と呼ばれる瞑想である[52]。
- 改案2を本文として採用するとすれば、下記のページ本文Bにある「法」の字(2個)もおそらく取り除くことになるだろうと思います。整合性をつけるために。それを実行すると改案3が生まれます↓。
- (ページ本文B):山下が自身や瞑想会の経験を元に、「仏教3.0」の瞑想法としてまとめ、提唱・実践しているのが、「ワンダルマ・メソッド」あるいは「青空の瞑想」と呼ばれる瞑想法である[52][53][4]。これは、(中略)という3行程によって構成されている[56][57][4]。
- (改案3):山下が自身や瞑想会の経験を元に、「仏教3.0」の瞑想としてまとめ、提唱・実践しているのが、「ワンダルマ・メソッド」あるいは「青空の瞑想」と呼ばれる瞑想である[52][53][4]。これは、(中略)という3行程によって構成されている[56][57][4]。
- そうしますと今度は、改案3の内部で「ワンダルマ・メソッド」が「瞑想」と呼ばれるという関係性(呼び方)が発生していますね。「メソッド」はおそらく「方法」に相当しますから、ここでは「方法」が「瞑想(=方法でない可能性があるもの)」と呼ばれるという不整合が発生しているわけです。「方法(メソッド)」が「瞑想(=方法でない可能性があるもの)」と呼ばれているという出典が存在しないとすれば、このような「呼ばれ方=呼び方」をページに記述しておくのは不正確です。これを是正するなら、例えば下記の改案4のようにならざるを得ないでしょう。
- (改案4):山下が自身や瞑想会の経験を元に、「仏教3.0」の瞑想としてまとめ、提唱・実践しているのが、「青空の瞑想」と呼ばれる瞑想である[52][53][4]。これは、(中略)という3行程によって構成されている[56][57][4]。
- そしてこの改案4が言う「3行程」が「ワンダルマ・メソッド」と名付けられている(呼ばれている)という出典(下記の出典x)が現実に存在するなら、改案4の末尾は下記のように書けるでしょう。
- (改案4-2):これは、(中略)という3行程によって構成され、「ワンダルマ・メソッド」と名付けられている[56][57][4][x]。
- ※もともと、現状の本文は【「メソッド」と「瞑想」と「瞑想法」の相互の関係が不明瞭】ですよ、その相互関係をハッキリ書いている出典が必要ですよ、という件は既に「5月17日 (日) 00:36」に私から申し上げていることです。そこが出典によって解決されていかないと、この3者の関係性を出典に照らして正確に書くことは難しいのです、おそらく。--Leonidjp(会話) 2015年6月6日 (土) 04:52 (UTC)
- コメント えーと、『別冊サンガジャパン1』p.380の、「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」からも、「青空の瞑想」は「瞑想法」を意味しているのは明らかだと思いますし、『別冊サンガジャパン1』p.377の記述や、『青空』のワンダルマ・メソッド関連の記述からして、「ワンダルマ・メソッド」と意味する内容が同じであることは明らかだと思うんですがね。何を悩んでいるのかがよくわからないですね。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 03:28 (UTC)
- >明らかだと思いますし
- >明らかだと思う
- コメント「明らか、明らか」と結論が投げ出されるばかりで、過程が示されない。これが結論投げ出し。やめよ、と言ったのに。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)
- コメント うーん、何がいいたいのかよく分からないですね。どの出典と照らし合わせても、「ワンダルマ・メソッド」も「青空の瞑想」も共に、「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」という瞑想法を指しているという解釈以外しようがないと思いますし、それに異を唱えるLeonidjp氏の出典・根拠が不明ですし、何がいいたいのかほんとよく分かりません。まず主張の出典・根拠を示してもらえます?--Themtheman(会話) 2015年7月31日 (金) 22:33 (UTC)
- >「青空の瞑想」は〜(中略)〜『別冊サンガジャパン1』p.377の記述〜(中略)〜からして、「ワンダルマ・メソッド」と意味する内容が同じであることは明らかだと思う
- コメントこのp.377では「青空の瞑想」という用語そのものは出現していないし、言及もされていない。このp.377は、「メソッド」・「方法」の構成内容を語っているだけ。ページ中頃に「ワンダルマ・メソッドは〜(中略)〜で構成されています」とあるように。このページでインタビュアーが「方法」と呼んでいる対象は「ワンダルマ・メソッド」のみであり、山下氏もその「呼ばれる対象」に「青空の瞑想」を付け加えたりはしていない。従ってこのp.377では「青空の瞑想」が「方法」であるとか「メソッド」であるとか「瞑想法」であるとかいう記述は存在しない。
- >『別冊サンガジャパン1』p.380の、「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」からも、「青空の瞑想」は「瞑想法」を意味しているのは明らかだと思いますし、
- コメントその「明らか」という判断を導く過程を貴方は1文字も書いてないわけですが、書かずにすませる気ですか。貴方が挙げてるそのp.380の1行って、「青空の瞑想」という用語と“インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナパーナ・サティ”が丸括弧で隣接しているという「事実」が読み取れるだけにすぎないじゃないですか。〈この丸括弧という記号が、ここで何を意味しているか〉という問いの答えになる記述が、そのp.380やp.377に書いてありますか?書いてないですよ。p.380にはもちろん無いし、p.377には「青空の瞑想」という用語そのものが無いから。上述のようにp.377では「方法」・「メソッド」の構成内容が語られているにすぎず、「青空の瞑想」そのものについての言及は無い。
- コメントしたがって、このp.377,380を読む限りでは、「青空の瞑想」が「方法」だとか「メソッド」だとか「瞑想法」であるとかいう旨の判断は下せない。p.377,380から確実に言えることは、「ワンダルマ・メソッド」の【構成内容】が「青空の瞑想」と丸括弧で隣接している、ということだけ。ただそれだけ。記号で書けば下記の通り。
- p.377:Mの構成内容がX ※M=メソッド、方法。X=“インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナパーナ・サティ”
- p.380:A(X) ※A=青空の瞑想。
- で、このp.380の丸括弧内のXに、p.377の記述を代入すると下記のようになる。
- A(Mの構成内容たるX) ※もちろんこの丸括弧の「意味」は上述のように未だ不明確。
- コメント※おそらく貴方は、このp.380に書いてある丸括弧を「イコール(等号)の代用」・「イコールと同義」くらいの意味として解釈しておられるのだろう。とすれば勿論、その解釈の出典を挙げてもらわないといけない。資料たるp.380には単に丸括弧という記号が書いてあるにすぎず、「これはイコールという意味です」という旨の宣言・記述は載っていない。要するに、「丸括弧の内側と外側がどういう関係にあるのか」という問いの答えは、出典から導くのでないかぎりは読者(貴方や私)の独自解釈に他ならない。それをWikipediaのページに披露したら、もちろんそれは「独自研究の披露」となる。
- >『青空』のワンダルマ・メソッド関連の記述からして、「ワンダルマ・メソッド」と意味する内容が同じであることは明らかだと思うんですがね。
- コメント「関連の記述」って何ページですか。具体的に挙げてもらわないと。こんなアバウトな指定でお茶を濁すのはイタダケナイ。
- >どの出典と照らし合わせても、「ワンダルマ・メソッド」も「青空の瞑想」も共に、「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」という瞑想法を指しているという解釈以外しようがないと思いますし
- コメント【「青空の瞑想」は「瞑想法」である】旨の判断は、現状では成り立たない。根拠は上述のとおり。--Leonidjp(会話) 2015年8月11日 (火) 02:59 (UTC)
- コメント貴方が「出典候補」っぽく挙げている『別冊』p.380下段4行目(=一六時一〇分 青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナパーナ・サティ))について、その1行が含まれる文脈を加味して読むと、次のようなことも言えなくもない。→この1行は「日曜ワンダルマ坐禅会」の「タイムスケジュール」を時間順に列挙したリストの中の1行だから、これは「青空の瞑想」という概念なり事柄の意味説明を言葉で書いたものというよりもむしろ、単に「日曜ワンダルマ坐禅会」の16時10分以降に「参加者が行う事柄」を書いたものにすぎない、と。※「タイムスケジュール」という小見出しは、p.380のそこにハッキリ付いている。※「青空の瞑想」と「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナパーナ・サティ」の2つが、同じ「16時10分」の「スケジュール内容」であっても、だからといって両者が「等しい」などと言えるわけではない。「この2つは、坐禅会においては同じ時間帯に行われることであるらしい」というくらいのことが読み取れるにすぎない。--Leonidjp(会話) 2015年8月12日 (水) 03:41 (UTC)
- コメント いやだから笑、あなたはここまで自説の根拠(出典)を全く示してないですよね?こちらは「ワンダルマ・メソッド」も「青空の瞑想」も共に、「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」を指しているという出典を、複数提示しているのにも関わらず、あなたは根拠(出典)を提示しないまま「そうじゃない可能性もある」という「独自解釈」を繰り返し強弁しているだけ。「青空の瞑想」の内容が「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」ではないという根拠(出典)を提示するところからまずは始めてください。じゃなきゃ話にならないですよ。--Themtheman(会話) 2015年8月14日 (金) 22:57 (UTC)
- >「青空の瞑想」の内容が「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」
- コメント「青空の瞑想」の「内容」! 「青空の瞑想」に“「内容」がある/「内容」は○○である”などということを誰が(どの資料が)書いているというのか。出典たる資料がないなら、読み手(Themtheman)の瞑想観を吐露したものでしかあるまい。そんなものは個人ブログに書くべきであって、Wikipediaに書き込むべきものではない、という至極当たり前の編集方針さえ踏まえられていない。
- そもそも、「青空の瞑想」に「内容がある/内容は○○である」という意見は誰の説なのだ。いったいどの資料の何処にそんなことが書いてあるというのか。※『別冊1』p.377や『青空』p.199には「青空の瞑想」という単語そのものが存在していない、という点は過去に何度も指摘済み。--Leonidjp(会話) 2015年9月11日 (金) 02:19 (UTC)
- コメント「Wikipedia:独自研究は載せない」にはこう書いてある↓
- “「独自研究(original research)」とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがない(中略)事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、(中略)または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。”
- 【「青空の瞑想」の内容が「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」】という「理論、主張、アイデア」は何処で発表されたというのか。「何処に・どういう資料があるのか」という個別具体の問いから逃げ続けるのが、常習的な独自研究家。「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません」という公式の編集方針をネグレクトし続けるのが、常習的な責任転嫁家。--Leonidjp(会話) 2015年9月11日 (金) 03:03 (UTC)
- >「ワンダルマ・メソッド」も「青空の瞑想」も共に、「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」を指している
- コメント【「青空の瞑想」が「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」を指している】などという出典は挙げられていない。上述のとおりに挙げられている資料の中では、「青空の瞑想」と「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」は丸括弧で隣接しているにすぎない。A(B)という形式で。
- >あなたは根拠(出典)を提示しないまま「そうじゃない可能性もある」という「独自解釈」を繰り返し強弁しているだけ。
- コメント上述A(B)の丸括弧が何を意味しているか、という問いの答えになる記述が資料の中に見つかっておらず、資料の中に書いてあるのは単に丸括弧という「記号」のみである、という事実こそが、くだんの「根拠」である(=Themthemanの持論を支持できない根拠である)、という明白な文脈が読めていないThemtheman氏。丸括弧という記号を「指示元と指示対象」という意味として勝手に(無出典で)解釈してしまっているらしいThemtheman氏。記号の意味が書かれていないなら「書かれていない」という地点で立ち止まればよいだけである。「書いてないものは書いてない」という節度。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 02:53 (UTC)
- >「青空の瞑想」の内容が「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」ではないという根拠出典)を提示するところからまずは始めてください
- コメント責任転嫁を始めたThemtheman氏。「AはBである」ということを示す根拠が無い限りは、「AはBであるとはいえない」という言明は正しい。AとBは別々の単語・フレーズである以上、両者を「別のもの」と見ることは当然できるからである。AとBが別々の単語・フレーズであるときに「AはBである」と見なす判断は、「根拠・推論抜きに当然できる」ものではない。「AはBである」ことを示す根拠を挙げる責任を負っているのは、「AはBである」と主張している当人であり、本件の場合、それはThemthemanである。Themthemanの挙げる根拠が根拠たりえない、という論述は既に私から済ませており、その論述の内容面に対するThemthemanからの反論は未だに無い。Themthemanは「自分は出典を複数挙げている」という「自己の行為描写」を行っているだけである。議論の内容面にタッチしないために「話にならない」=議論が成立しない事態を招いているのはThemthemanである。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 03:13 (UTC)
- >「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」の丸括弧が何を意味しているか、という問いの答えになる記述が資料の中に見つかっておらず、資料の中に書いてあるのは単に丸括弧という「記号」のみである、という事実
- コメント『別冊1』p.380や坐禅会のプログラムページにおける「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」という記述に使われている丸括弧の意味を明白に指示している出典は未だに見つかっていない。丸括弧という「記号」の意味を無出典で確定するのは、丸括弧に関する「読み手の思想・信条」を吐露することに他ならない。Themthemanという人は、【「記述」を巡る検証が、「思想・信条」によって邪魔されてしまわないように】したい旨を宣言し且つその宣言を取り下げてもいない人物であるから、自己の「思想・信条」のみを根拠とした解釈なり記述なりをWikipediaのページに書き込むことはできないはずであるし、みずからそれを自粛せねばならない立場であるはずである。『別冊』p.380の下段4行目だの坐禅会のプログラムだのを「思想・信条」を排除して読めば何が読めるか。「丸括弧が存在する」という「事実」が知れるだけである。「意味不明瞭な記号が存在する」。この意味不明瞭を始末するためには「意味不明瞭でない資料」が当然必要であり、それは今のところ見つかっていない。--Leonidjp(会話) 2015年9月11日 (金) 02:19 (UTC)
- コメントさて、情報提供。2015年12月発売の山下氏の新著『本当の自分とつながる瞑想入門』(河出書房新社)でも、やはり、ワンダルマ・メソッドのことを「瞑想法」だとは書いてない。同書p.117には、体の微細な感覚を観る瞑想、慈悲の瞑想、呼吸を観る瞑想、歩く瞑想を指して、こう書いてある→「私は、青空へ入っていくためのこれらの瞑想を、「ワンダルマ・メソッド」と名づけています」。
- だから、「ワンダルマ・メソッド」というのは「瞑想」の名前であって、「瞑想〈法〉」の名前だとは言われてないんですよ。--Leonidjp(会話) 2015年12月9日 (水) 06:35 (UTC)
議論18
ページ本文中、コメントアウトとして書き込まれている部分↓。
<!--出典調査中につきコメントアウト ===仏教と近代(「仏教3.0」と「世界3.0」)=== [[2015年]]初頭より、[[ISILによる日本人拘束事件]]などもあって[[ISIL]]の問題が日本でも顕在化してくると、こうした反動的・反人道的・反近代的な過激主義は、かつての[[オウム真理教]]とも共通したものであり、野蛮さ・残忍さ・狂信性を孕んだ前近代的宗教性を封印してきた(「死んだら終わり」という発想に象徴されるような)「唯物主義的近代」が生み出す構造的な病であると指摘している。 そして、そんな「唯物主義的近代」(世界2.0)の「生きづらさ」と、「前近代」(世界1.0)的な「野蛮さ」を同時に回避するためには、「仏教3.0」を経由した新たな世界観(世界3.0)が必要だと主張している。 それゆえに、そうした世界観を伴わない(「唯物主義的近代」(世界2.0)の世界観に留まったままの)表層的な「[[マインドフルネス]]」ブームを、意味が無いものとして批判している。-->
コメント出典情報が揃ってからページ本文に書けばよい。コメントアウト済みとはいえ、作文中の文章をページ本文に置いておく必要はない。ページから削除して此処に移した。
ちなみに、この↑コメントアウト部分は、Zenji30という利用者が2015年2月23日に記入した記述とほぼ同じである。2015/2/23以前においても、山下氏に関する二次資料は殆ど皆無だっただろうから、このISIL云々の部分の「出典候補」も一次資料しかありえまい。ISILによる拘束事件の報道開始が2014年8月だから、2014年8月〜2015年2月の山下氏の著作とポッドキャスト配信分に、とりあえずの「出典候補」があることになる。この時期、公刊された著作としては『サンガジャパンVol.19』の寄稿文しかない。いずれにしろ、一次資料に対する「分析・合成・解釈・評価」がお粗末であったならばWikipediaのページに載せるべきではない、ということは言うまでもなく、2015/2/23から半年余りにも渡って出典が1個も明示されていない(にもかかわらず何故か加筆はされている)この文章は、「叩き台」としてノートページに載ってさえいれば充分である。(しかし、出典を付けずに加筆できているというのも不思議なものだな。加筆の出典があるなら併記するだろう、普通は。)--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 07:20 (UTC)
取り消し線で2字修正↑。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 07:26 (UTC)
>加筆の出典があるなら併記するだろう、普通は。
コメントとはいえ、「加筆」をした主体はZenji30だろうから、既に投稿ブロックされたZenji30がこの加筆なり執筆の出典を今から挙げることは無理ではある。出典の在り処を書かないからこうして他人が迷惑する。「迷惑だ」とワザワザ書き込んでいる私以外に、迷惑を感じつつ黙っている読者がどのくらい居るものか考えてみよ、とZenji30の「中の人」に言いたいところだ。(独り言めくが、Zenji30の「中の人」が今もココを見ていそうだから、あえて書き残しておく)。--Leonidjp(会話) 2015年9月5日 (土) 10:42 (UTC)
議論28
(ページ本文)↓
そして山下はこの原因を、大乗仏教(仏教1.0)の前提となる、仏教が始まってから大乗仏教(仏教1.0)に至るまでの過程情報が欠落していているがゆえに、大乗仏教教義の出発点で、それがピンと来ず、実感が持てないまま、その内容を受容せざるを得ないところにあると指摘し、その状態を 「テレビドラマ(仏教)をいきなり第二話(大乗仏教、仏教1.0)から見始めた状態」 として表現する[34]。したがって、この問題はテレビドラマの第一話に相当するテーラワーダ仏教(仏教2.0)の内容を踏まえれば、解決する問題であると指摘する[35]。
コメント上記の出典[35]の中身は『青空』 pp.42-44であるが、そこには「テーラワーダ仏教(仏教2.0)の内容を踏まえれば○○は解決する」という意味の記述は無い。そこから1ページ遡ったp.41には「(問題が)今ではすっかり解決しています」という記述があるが、これも、「AをすればBが解決する」といった具合に「問題の中身」と「解決のために必要な条件」とを具体的に明示している記述なのではなく、単に総括的に「今では解決しました」と述べているにすぎない。したがって、上記のページ本文にある「テーラワーダ仏教(仏教2.0)の内容を踏まえれば○○は解決する」という意味の記述は、現状では無出典である。
その他の文言の微修正をも含めて、この段落は下記のように書き換えることを提案する。出典は『青空』 pp.41-44。
- 山下はこの原因を、仏教が始まってから大乗仏教(仏教1.0)に至るまでの過程情報が日本にいきいきと伝わらなかったためであると指摘し、その事情を「二話連続のテレビドラマ(仏教)をいきなり第二話(大乗仏教、仏教1.0)から見始めた状態」と喩えている。第一話(仏教2.0)を知らないまま第二話(仏教1.0)を見ているので、第二話としての大乗仏教(仏教1.0)の前提がピンとこず、大乗仏教の教義の出発点に実感を持てないままでその教義を受容せざるを得なくなる状況があるという。このような事情を山下は「大乗仏教の悩み」・「日本仏教の悲劇のもと」であると述べ、第一話に相当するテーラワーダ仏教(仏教2.0)の内容を踏まえる必要性を説く。
直上↑の投稿に署名を忘れたので補足。Leonidjpの2015年10月6日 (火) 05:48(UTC)の投稿でした。--Leonidjp(会話) 2015年10月6日 (火) 05:51 (UTC)
コメント上記2015年10月6日 (火) 05:51 (UTC)の提案から7日経ち、その間、コメント等がつきませんでしたので、この提案のとおりに書き換えました。--Leonidjp(会話) 2015年10月13日 (火) 06:57 (UTC)
「実践・活動」の節に関する議論
※「解説を書くことに関する根本的な困難」を指摘した上述の文章も併せて参照ください。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
議論19
- (本文中で「微細な身体」という用語に付せられた「脚注52」の内容):ヨーガやチベット密教のチャクラ理論でも用いられる概念で、物理的な身体である「粗大な身体」に対して、霊的・エネルギー的身体ことを言う。サトルボディ。
コメントこの「脚注52」の内容そのものが無出典。
また、この「脚注52」は、ページ本文中の「微細な身体」という用語に付けられた註であるので、この「脚注52」の内容は、山下氏の言うところの「微細な身体」という用語の意味説明を担っているのであろう。「脚注52」が、山下氏の言うところの「微細な身体」の意味説明として正しいということを示す出典が無い。
ヨーガやチベット密教のチャクラ理論に「微細な身体」という用語が存在するとしても、それが山下氏の言う「微細な身体」と同じ意味である旨をダイレクトに述べている出典が無ければ、山下氏の言う「微細な身体」の意味説明を上述の「脚注52」のように「ヨーガ」や「チベット密教のチャクラ理論」に基づく説明によって代用することはできない。その他の「理論」などによる代用的説明も同様に不可。
山下氏の言う「微細な身体」の意味説明を述べている出典が無いなら、本文中の「微細な身体」に付けられた意味説明としての「脚注52」そのものを削除すべき。
出典なき用語解説は独自研究。→「独自研究(original research)とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがない(中略)事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。」(参照)--Leonidjp(会話) 2015年6月28日 (日) 00:31 (UTC)
コメント文中↑、語句を増補(下線部)。--Leonidjp(会話) 2015年6月29日 (月) 01:18 (UTC)
コメント上記「脚注52」は内容が無出典。かつ、これが山下氏の言う意味での「微細な身体」の説明として適切であることを示す資料も未だ挙げられていない。従って、この「脚注52」自体をページ本文から削除。--Leonidjp(会話) 2015年7月5日 (日) 01:10 (UTC)
- 済 これはまあしょうがないね。了解。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
- コメント初めっから、しょうがなかっただけ。気づいてる人は気づいてるの。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)
議論20(継続中)
- こうした具体的で確度の高い行法と、それによって得られる覚醒感覚を経ることで、仏教1.0としての日本の各伝統宗派も共通して、3.0へとアップデートでき、確信を持って現代人の悩み・要望に応えていけるように再生していけると主張している。
出典とされるp.219-229には、「こうした具体的で確度の高い行法と、それによって得られる覚醒感覚を経ることで」という記述は存在しない。「具体的で確度の高い」という評価は、信頼できる情報源を出典としないかぎりは独自研究と見なしうる。「それによって得られる覚醒感覚を経ることで~」という記述も同様である。「甲によって得られる乙を経ることで○○できる」という表現は因果関係の存在を意味していることが明らかだから、本件の執筆者は、このような因果関係の存在が明白に述べられている資料を出典として挙げなければならない。「覚醒感覚」という素性不明の名詞の出典も勿論必要。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント ワンダルマメソッドの具体的な説明に続き、「凡人でも、メソッドを使うことによって、~内山老師の言われていた「自己ぎりの自己」とか「出会う処我が生命」ということが、全て感得できるようになるのです。~名人でなくても失敗することはありません。」等といった一連の記述を「具体的で確度の高い行法と、それによって得られる覚醒感覚~」と要約することは妥当だと思いますし、何の問題もないと思います。第三者を交えて検討してもいいですよ。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 14:08 (UTC)
- コメント ここに関してはもう少し表現をブラッシュアップできるでしょうね。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
- >ここに関してはもう少し表現をブラッシュアップできるでしょうね
- コメント執筆者として自分で担いなさい、自分で。--Leonidjp(会話) 2015年12月9日 (水) 06:45 (UTC)
議論21
- 上記の「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの[56]、言い換えれば「ワンダルマメソッド」で得た実感を持って行われる只管打坐を、山下は「只管打坐3.0」と呼ぶ[57]。
コメント※検証対象の文↑を増補。文中、[56]および[57]は出典番号(消さないように)。--Leonidjp(会話) 2015年6月28日 (日) 00:35 (UTC)
コメントこのような「言い換え」および「呼びかた=名詞の意味設定」は出典(p.217-218)に記述されていない。Wikipedia執筆者自身による「言い換え」や「名詞の意味設定」を披露するべきではない。そのような記述は独自研究に該当すると考える。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
コメント文中↑、取り消し線で一部撤回。--Leonidjp(会話) 2015年6月28日 (日) 00:35 (UTC)
- コメント どれのこと言ってるんですかね?「ワンダルマメソッド」も「只管打坐3.0」も出典に書いてありますけど?--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 14:08 (UTC)
- >(ページ本文):上記の「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの[59]、言い換えれば「ワンダルマメソッド」で得た実感を持って行われる只管打坐を、山下は「只管打坐3.0」と呼ぶ[60]。
- コメント言い換えの問題について:【「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの】 を 【「ワンダルマメソッド」で得た実感を持って行われる只管打坐】 と 【言い換え】る、という言い換えが、出典[60](p.217-218)に書かれていないです。
- 「名詞の意味設定」の問題については、指摘自体を取り下げます。指摘する価値のないことでした。失礼しました。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
- (ページ本文)>上記の「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの[56]、
- コメントこの部分の出典とされる『別冊1』p.381の記述と比較すると、このページ本文の記述は色々と違っている。下記に比較。
- (ページ本文):上記の「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの、
- (『別冊1』p.381 冒頭):「ワンダルマ・メソッドで青空に立ったのち、瞑想の気づきの対象としての呼吸やチッタ(心)も脱落させて、青空(である自分)が青空に気づいてゆく。これが究極のヴィパッサナーである『只管打坐3.0』です」
- 両者の相違点は次のとおり。
- 出典では「メソッドで青空に立ったのち~」とあるのに対し、ページ本文は「メソッドの段階」という、より不鮮明な表現である。
- 出典では、「脱落させるもの」は「瞑想の気づきの対象としての呼吸やチッタ(心)」であるが、ページ本文では、「脱落させるもの」は「気づき」だという旨が書いてある。「脱落させるもの」が違っている。--Leonidjp(会話) 2015年6月28日 (日) 00:35 (UTC)
- (変更前):上記の「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの、言い換えれば「ワンダルマメソッド」で得た実感を持って行われる只管打坐を、山下は「只管打坐3.0」と呼ぶ。
- (変更後):上記の「ワンダルマ・メソッド」で青空に立ったのち、瞑想の気づきの対象としての呼吸やチッタ(心)も脱落させて、青空(である自分)が青空に気づいてゆく。これを山下は「只管打坐3.0」と呼ぶ。
- 済 それでいいですよ。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
- コメントそれでもいいですよ。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)
議論22
- 山下が曹洞宗出身だから例として「只管打坐」を出したに過ぎず
「曹洞宗出身だから」および「出したに過ぎず」という意味の記述は出典(p.217-218)に存在しない。p.217には「私が自信を持って説明できる只管打坐を例として」とある。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント 「只管打坐」というのは曹洞宗の概念であり、「私が自信を持って説明できる只管打坐を例として」と書いていること、そしてその直前に他宗派に言及する記述が来るわけですから、この説明の仕方で何の問題もないと思います。第三者を交えて検討してもいいですよ。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 14:08 (UTC)
- >この説明の仕方で何の問題もないと思います
- コメントこれは、とんでもないです。問題大有りです。貴方がページに書いている「曹洞宗だから」という部分の「だから」というのは、「只管打坐を例として出した」の「理由」を指すわけでしょう?理由の陳述にあたる部分を創作したらいけません。貴方の解釈だけを根拠にして創作したらいけません。「理由」の陳述じたいは出典(p.217-219)に書かれていないのですから。→「独自研究(original research)」とは、(中略)発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。」(参照)
- >「只管打坐」というのは曹洞宗の概念であり
- コメント【「只管打坐」というのは曹洞宗の概念である】というのは、出典(一次資料)の中に明白にそう書いてあるのでなかったら、山下氏の主張として採用することはできないでしょう?また、二次資料・三次資料の中にそう書いているのでなければ、読者の(貴方の)読解でしかないでしょう。
- >「私が自信を持って説明できる只管打坐を例として」と書いていること
- コメント「自信を持って説明できるAを例として出した」というのと、「出身が○○宗だからAを例として出した」というのは、明白に意味が違います(前者には「だから」という類の理由表示の表現が無いという点にも注意してください)。貴方はなぜか後者を採用しているんです。出典の中に記述が無いのに。何故でしょうか?
- >そしてその直前に他宗派に言及する記述が来るわけですから
- コメント「他宗派に言及する記述」というのはp.217の「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」のことですか。念仏、題目、即身成仏は、どれも「宗派」ではないです。「宗派の意味で書いてます」という意味の記述はp.217-218に無く、p.219まで含めてようやく「著者は宗派にも言及しているんだな」と読めるわけですね。とはいえ、「曹洞宗だから」という理由の陳述には依然として出典が無いままです。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
- コメント 「資料に書かれていないことは、書かれていないんだ」という節制を守りませんか。資料の著者が書いていないという空隙、間隙を見つけても、Wikipedia執筆者はそれを埋めようとはしない、という節制を持ちませんか。あえて陳腐な言い方をすれば、「事実と意見の区別をつけましょう」ということです。或る意見が資料の中に現実に書かれているということ自体は「事実」なんです。しかし、資料の著者が書いていないという間隙、空隙を、適切な資料無しにWikipedia執筆者が埋めていくというのなら、そういう埋め方はWikipedia執筆者による意見の開陳でしかない。Wikipediaは、そういうことをする場所ではないはずなんですが。
- 貴方がWikipedia執筆者として構想した文章の文脈構造を現実化するために必要な部品(=段落や文)それぞれに適切な出典が見つからないなら、それはそもそも部品として使えないものなんです。部品に欠落があるなら、文脈構造を全体として現実に完成させることはできないでしょう。部品の不備を「執筆者の意見」で穴埋めしていくことによって、そもそもの全体的な未完成状態を弥縫する(取り繕う)、というようなことはやめましょう。こういうことになりやすいから、「一次資料しか使えない間は、文脈を構成することを目指さないほうがいいですよ」と私は提案しているのですが。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
- (ページ本文)>これは実感が無いまま行われる「只管打坐1.0」をアップデートしたものであり、山下が曹洞宗出身だから例として「只管打坐」を出したに過ぎず、「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といったように、他宗派でも応用可能だという。
- コメント上記のページ本文【山下が曹洞宗出身だから例として「只管打坐」を出したに過ぎず】は、上述のとおり無出典。従って、削除。
- また、上記のページ本文のなかの【これは実感が無いまま行われる「只管打坐1.0」をアップデートしたものであり】の部分は、その「実感」の中身が出典(下記)に照らすと不明確であるので、出典にヨリ忠実たるよう、下記のように書き換えた。
- (変更前のページ本文):これは実感が無いまま行われる「只管打坐1.0」をアップデートしたものであり
- (出典=『青空』p.217):只管打坐1.0では、「私の本質は青空である」という前提を実感できずに、建前にしてしてしまっていました。
- (変更後):山下によれば、これは「私の本質は青空である」という前提を実感できずに建前にしてしまっていた「只管打坐1.0」をアップデートしたものであり
- ※この部分の本文は、すぐ下記↓の論点に続く。--Leonidjp(会話) 2015年7月5日 (日) 01:19 (UTC)
- 済 それでいいですよ。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
- コメントそれでもいいですよ。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)
議論23
- 「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といったように、他宗派でも応用可能だという。
他の「宗派」で「応用可能」であるとの記述は出典(p.217)に存在しない。〈何をどうすることを誰が「応用」と呼んでいるのか〉という点を明瞭に説明できる出典が挙げられなければ、「応用」という記述そのものが不適切だと考える。--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
- コメント p.217の記述から、ワンダルマメソッドで「「私の本質は青空である」という前提を実感」することで曹洞宗の「只管打坐1.0」が「只管打坐3.0」になり、そうしたアップデートは「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」としても可能と書いているのだから、「他宗派への応用も可能」という表現は妥当であり問題ないと思います。そしてそれは、続くp.219の記述によっても補強されます。これも第三者を交えて詳細に検討してもいいですよ。--Themtheman(会話) 2015年5月19日 (火) 14:08 (UTC)
- >p.217の記述から、(中略)曹洞宗の「只管打坐1.0」が「只管打坐3.0」になり
- コメント【曹洞宗の「只管打坐」】なんてp.217-219に書いてないです(この本の他のページにも書いていなかったのでは?)。「曹洞宗の」という所有格の出典が無いということです。p.218-p.219にある「道元が○○した、内山老師が○○した」というのが、「曹洞宗の」という所有格の出典になるか?どうでしょう。「道元/内山の教えなら、それは即、曹洞宗のものと読み替えてよい」というふうになるかならないか・・・ということを考えること自体、「一次資料に対する解釈」に該当するでしょうね。それはするな、とWikipediaに言われていることだから、やらずにおく(触れない)というのが一番適切な態度だと思います。つまり、所有格を独自に付けたらいけないし、独自に付けたうえで解釈した結果をページに書くのもいけないんですよ、本当は。--Leonidjp(会話) 2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
- (ページ本文)>「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といったように、他宗派でも応用可能だという。
- コメントこの部分のページ本文は、上述のとおり、出典に照らして不正確。
- そもそも、「応用」という用語は出典(『青空』p.217,219)に存在しない。出典たる『青空』p.219には下記のようにある。「応用」ではなく「やってもらえたら」。
- (変更前のページ本文):「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といったように、他宗派でも応用可能だという。
- (出典=『青空』p.219):日本仏教のそれぞれの宗派の人たちに、ワンダルマ・メソッド・メソッドをやってもらえたら、それぞれの宗派の大事にしているものが本当にリアルに感じられるようになります。
- 従って、この部分のページ本文は、上記の『青空』p.219の記述を取り入れて、下記のように書き換えた。
- 日本仏教のそれぞれの宗派の人たちにワンダルマ・メソッド・メソッドをやってもらえたら、それぞれの宗派の大事にしているものが本当にリアルに感じられるようになるという。
- コメント ここに関しては、より文意を明瞭にするために、「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といった文言を活かしていきたいところ。他の議論が片付いてからじっくり文言を精査したい。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
- コメント (追記・翌週)以下のような文言ではどうでしょうかね。
- 日本仏教のそれぞれの宗派の人たちにワンダルマ・メソッド・メソッドをやってもらえたら、それぞれの宗派の大事にしているものも本当にリアルに感じられるようになり(『青空』p.219)、「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といったようにアップデートしていくことが可能だという(『青空』pp.217-218)。
- --Themtheman(会話) 2015年7月17日 (金) 23:12 (UTC)
- コメント(追記)それではとりあえずこの表記に編集させてもらいます。--Themtheman(会話) 2015年7月25日 (土) 04:46 (UTC)
- コメント了解しました。--Leonidjp(会話) 2015年8月11日 (火) 01:41 (UTC)
- 済 じゃあここも済ということでいいですね。--Themtheman(会話) 2015年8月14日 (金) 23:00 (UTC)
議論24
- 基本的な構成は以下の通り。
- 16時10分~ - ワンダルマメソッド(青空の瞑想)
コメントこの部分の出典は、『別冊サンガジャパン 1』 p.380および「一法庵公式サイト」であるらしい。(ただし、「公式サイト」のほうは、より正確に言えば、日曜ワンダルマ坐禅会のプログラムを記述した記事だろう。『別冊1』p.380およびページ自体の小見出しにもその旨が書いてあるので。
上述の「16時10分~」の内容は、出典とされる『別冊1』p.380および「公式サイト」=「日曜ワンダルマ坐禅会のプログラム」のいずれとも違う。出典とされる2つの資料の記述は下記のとおり。
- (『別冊1』p.380):16時10分~ - 青空の瞑想(インナー・ボディー・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)
- (公式サイト 日曜ワンダルマ坐禅会 差定):04:10 pm 青空の瞑想
- (インナー・ボディワーク+慈悲の瞑想+アナパナ・サティ)
『別冊1』p.380および「公式サイト」の内容は、上述のとおり長音符号「ー」と中黒「・」の有無が違っているのみだから、基本的に同じモノであると見てよかろう。
というわけで、この本文の記述を上述の出典の内容に忠実になるよう、下記のように書き換えるべき。(長音符号と中黒は『別冊1』p.380のほうを採用した)。
- 16時10分~ - 青空の瞑想(インナー・ボディー・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)
--Leonidjp(会話) 2015年6月29日 (月) 01:15 (UTC)
コメント文中↑、取り消し線で一部撤回。--Leonidjp(会話) 2015年7月1日 (水) 03:35 (UTC)
コメント上記「16時10分」の行の内容は、上記のとおり出典に忠実な記述に修正。--Leonidjp(会話) 2015年7月5日 (日) 01:12 (UTC)
- 済 それでいいですよ。--Themtheman(会話) 2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
- コメントそれでもいいですよ。--Leonidjp(会話) 2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)
議論27
「ワンダルマメソッド、青空の瞑想」の節にて
- “インナーボディーワーク --- 四大分別観(四界分別観、四界差別観)の基本部分に当たるもの”
という本文があるが、この部分の出典たる『別冊1』p.377・『青空』 pp.201-214・一法庵公式サイトには「四界分別観、四界差別観」という用語は出てこない。出典たる資料に無いこの2つの用語の除去を提案する。--Leonidjp(会話) 2015年9月20日 (日) 00:55 (UTC)
上記2015年9月20日 (日) 00:55 (UTC)の提案から7日経ち、その間、コメントが付きませんでしたので、この除去を実行しました。--Leonidjp(会話) 2015年9月27日 (日) 02:48 (UTC)
その他の節に関する議論
(記述歓迎!)--Leonidjp(会話) 2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
宗派について
議論25
知る所を記せば、この方は曹洞宗をやめ、ミャンマーに移り、その後上座部仏教もやめ、現在は単立の寺院を運営なさっているように記憶しています。 主張が正しいのであれば、出展を添えて頂きたいと思います。
- 2015年4月現在、「曹洞宗僧侶である」・「テーラワーダの比丘である」ことを肯定または否定する「信頼できる情報源」が見当たりません。従いまして、記述そのものを削りました。参照:Wikipedia:信頼できる情報源 これに伴い、カテゴリ設定も編集しました。--Leonidjp(会話) 2015年4月24日 (金) 02:29 (UTC)
- コメント あなたの削除行為に対して、差し戻しを行いました。出典が欲しいと思う記述に対しては、削除するのではなく「要出典」タグで対応してください。--Themtheman(会話) 2015年5月13日 (水) 09:15 (UTC)
- コメント 「出典が欲しいと思う記述に対しては、削除するのではなく「要出典」タグで対応してください」という貴方のこの要望は、Wikipediaのいかなる方針に適合するものですか。お答えください。--Leonidjp(会話) 2015年5月14日 (木) 05:45 (UTC)
- コメント ここでのやり取りが二重に重複しているので、以降は下の項目のみでやり取りしましょう。--Themtheman(会話) 2015年5月14日 (木) 07:48 (UTC)
- 了解しました。--Leonidjp(会話) 2015年5月15日 (金) 01:47 (UTC)
- コメント 「出典が欲しいと思う記述に対しては、削除するのではなく「要出典」タグで対応してください」という貴方のこの要望は、Wikipediaのいかなる方針に適合するものですか。お答えください。--Leonidjp(会話) 2015年5月14日 (木) 05:45 (UTC)
- コメント あなたの削除行為に対して、差し戻しを行いました。出典が欲しいと思う記述に対しては、削除するのではなく「要出典」タグで対応してください。--Themtheman(会話) 2015年5月13日 (水) 09:15 (UTC)
必ず出典を明記しましょう(すべての節に関して)
議論26
(お知らせ):この部分の議論は、ページ「山下良道」の具体的な内容とは関係の薄い、「利用者個人間のやりとり」が長期間にわたって連続していますので、下記のサブページに移動しました。関心のないかたは、お読みにならなくても構いません。