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ノート:士族

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「分籍した場合は平民」の根拠法令

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士族に生まれた者であっても、分籍した場合は平民とされた。これは華族も同様である(士族の家の次男三男が分籍した場合は平民の戸籍となる)。」という根拠法令か何かありますか。わかったらご教示ください。
検索すると、原敬と千葉卓三郎の例があるようですが、一般的にそうなのかどうか。 --忠太 2005年11月22日 (火) 14:08 (UTC)[返信]

ゆかりの著名人

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明治初年において士族は日本人口の7%程度だったそうです。通婚を考えると、士族の子孫の人口比率は現在の日本人の1割超はあるでしょう。従って「士族ゆかりの著名人」の数も、現在の日本の著名人の1割程度となると推測されます。出自が公知の著名人だけを列挙したとしても、母数が母数だけにそれでも膨大なリストとなるでしょう。ゆかりがあるというだけで列挙していくのはどうかと思います。--Extrahitz 2008年5月4日 (日) 01:26 (UTC)[返信]

同意。今あるので、事典的な意味があるのは原敬くらいで、独立したリストにする必要はなさそうです。--男の教室 2008年9月20日 (土) 14:13 (UTC)[返信]
異論がなさそうなので削除いたします。--たなしん 2009年6月3日 (水) 14:57 (UTC)[返信]

除去された「士族ゆかりの著名人」を復帰します

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議論が過去のものなのでそのままになっていたようですが削除する理由がないので、削除された項目を戻します。--史家 2009年6月8日 (月) 12:41 (UTC)[返信]

削除する理由は上記の通りです。華族にも平民にもこうした項目はありませんよね?なぜ士族だけリストが必要なのでしょうか?特定の階級に属した著名人のリスト必要なのであれば、「平民ゆかりの著名人」は士族の10倍のリストを作ることなってしまいますよ。しかも、「ゆかり」ということで、士族制度廃止後の子孫にまでリストが及んでいます。例えば、「舘ひろし(俳優、歌手)- 旧尾張藩士族」などとありますが、彼が士族だった時期は僅かたりともありませんよね。項目を戻されるのであれば、百科事典として、なぜ士族の階級に属した人物とゆかりのある人物をリストにする必要があるのか、理由をお書きください。--たなしん 2009年6月8日 (月) 13:58 (UTC)[返信]
削除する理由は上記の通りです。」というのはどの理由ですか? 「華族」の項目にもあっても良いと思います。「平民」は士農工商の階級の「士」の上級武士を除く武士全てと「農工商」に当たる階級で、国民の大多数なので特別項目を設ける必要ないでしょう。従ってそれらの項目と比較しここで削除の理由とすることにはなりません。--史家 2009年6月8日 (月) 14:06 (UTC)[返信]
なぜ、平民階級には必要なく、華族、士族階級には必要なのでしょうか? 「平民」は士農工商の階級の「農工商」に当たる階級なのでとありますが、士農工商の意味については置いておくとして、文脈から判断すると上位階級であるから、ということですよね。支配者層であることがどうしてリストが必要な根拠になるのでしょうか? また、なぜ、ゆかりのある人物までリストにする必要があるのかもお書きください。--たなしん 2009年6月8日 (月) 14:27 (UTC)[返信]

華族ゆかりの人物・団体が既に別にありました。従って「士族ゆかりの著名人」の項目も削除しません。華族や士族は平民とは違い特別な階級です。--史家 2009年6月8日 (月) 14:31 (UTC)[返信]

士族と華族では希少性というか母数が大きく違います。Extrahitz氏も指摘しているように列挙するとキリが無く、百科事典としても相応しくないです。記載の正当性を上げられないようなので一旦削除します。--出羽卒族 2009年6月8日 (月) 15:40 (UTC)[返信]
華族が特別な階級というのには同意できますが、士族は近代以前の日本の人口統計でも100万人を超えているんですよ?何をもって特別とされているのでしょうか。武装を認められていることですか?秩禄を支給されていることですか?このような特権は廃止されますので、初期の士族が特別というのであれば、まだ理解できますが、それ以降は家柄ぐらいしかないのではないでしょうか? 果たして特別な権力を持つわけでもない、「ゆかり」を含めて数百万人以上に及ぶであろう人々に関わりあるということが、特筆に値することなのでしょうか? 単なる家柄自慢のリストにしかならないのではありませんか。どういった点が平民とは違い特別な階級なのかご説明ください。--たなしん 2009年6月8日 (月) 15:47 (UTC)[返信]

士族の中の著名人ならそれほど多くはないのではないでしょうか? 今あがっている数もそれほど多くはないと思います。百科事典として相応しくない理由はなんですか?
コンセンサスが取れていないので強制削除された項目を戻します。--史家 2009年6月8日 (月) 15:54 (UTC)[返信]

百科事典として相応しくない理由は既に書いた通りになります。特別な権力を持つわけでもない、「ゆかり」を含めて数百万人以上に及ぶであろう人々に関わりあるということが特記に値するとは思えないからです。史家氏は、士族のどういった点が平民とは違い特別な階級なのかご回答いただけますでしょうか。それと、コンセンサスが取れていないので記述を加えるといのはおかしくありませんか? コンセンサスが取れていないのであれば、記述を見合わせるというのが筋ではありませんか? --たなしん2009年6月8日 (月) 16:10 (UTC)[返信]
(コメント)このリストには新田俊純樺山資紀のように華族となった人物まで入っているのですが、華族でも元士族であれば加えるというリストなのでしょうか。そうだとすれば華族の相当数を書き込まないといけません。また、九条武子柳原白蓮にいたっては、母親の実家が士族だというだけで、本人は終生士族になりませんでした。このレベルまで加えていくととんでもない量になるでしょう。--模様砂漠2 2009年6月8日 (月) 16:22 (UTC)[返信]

「士族ゆかりの著名人」の数はさほど多くはなく、この一覧を見るとリストとして参考になり興味深いとは思いませんか? 「華族ゆかりの人物・団体」と同じく、百科事典として相応しくないと思わないし、どうしてそんなに削除に拘るのかがわからない。上記の理由では削除の対象になるとは思えないんですよね。削除する方がよいという理由が納得できれば削除してもいいとは思いますが、削除する理由がない。「ゆかり」著名人が数百万以上になるはずはありません。元士族だという家は多くないですよ、実際。まして著名人だからといって士族ゆかりなんて少数です。今あがってる程度の数です。--史家 2009年6月8日 (月) 16:27 (UTC)[返信]

再差し戻ししました。上で挙げられているように、「士族」の人を全て列記してもキリが無いし、限定できるような線引きも必要です。「士族ゆかりの著名人」といいますが、「著名人」の線引きもわからないですし。数百万とは言いませんが、このままの基準で編集されたら千人単位で列記してしまう可能性もあります。--出羽卒族 2009年6月8日 (月) 16:36 (UTC)[返信]
「著名人」の線引きってwikiに出てくる著名人ぐらいでしょう。それを見ても多くなるはずがない。何を根拠に数百万とか言ってるんですか? 多くなるから削除すると言うのは削除理由にならないと思いますが。--史家 2009年6月8日 (月) 16:41 (UTC)[返信]
質問にはご回答いただけないのでしょうか? 数百万以上というのは士族及びその子孫で母数のことです。これにゆかりのある著名人ということであれば、1万分の1であっても今後の加筆で膨大な数になりますよということです。私の説明にわかりにくい点があったことはお詫びいたします。それと、私は逆に史家氏がどうしてそんなにリストの記述に拘るのかがわかりません。しつこいようですが、士族のどういった点が平民とは違い特別な階級なのかご回答いただけますでしょうか。ご自分の意見を主張されるだけででは他者の理解を得ることはできないと思いますよ。--たなしん 2009年6月8日 (月) 16:47 (UTC)[返信]

「数が多くなる」との理由が多数出ているため、先ほどからwikiの士族にゆかりある人名を検索しました。やはり思ったとおり多くはありません。記載する数の問題では削除理由には当たりません。士族階級と平民の違いの説明はそれぞれの項目を読めば分かることです。--史家 2009年6月8日 (月) 16:53 (UTC)[返信]

横より失礼。私も「士族ゆかりの著名人」は数が多すぎて際限が無くなる可能性が高いので、何らかの基準を設けない限りは不要と思っています。なお、Wikipediaに記載されているのはほんの一握りの情報だけですので、検索結果だけで判断するのはちょっと問題があります。「本人が公表していない」、「何かの出典で触れられているが記事にはそれが書かれていない」、「本人も(士族ゆかりであることを)知らない」などのことが考えられ、今後も続けられていくであろう加筆によっては増大する可能性があることを忘れないで下さい。また、華族ゆかりの人物・団体の方は見たところ「爵位を持った人物の実子、あるいは直系の子孫」で留められていますが、ここに記載されている中には湯川秀樹のように「母方の祖父が士族」というようなやや離れたつながりの人物まで含まれてしまっています。仮に掲載する場合でも、明確な基準を設けるべきです。
それから数のことですが、華族は全部で1000家ちょっとであり、途中で途絶えた家も複数ありますので正確には言えませんが、子孫はせいぜい数万人程度、著名人と呼べるような特筆性のある人はその中の一握りでしょう(1%として数百人)。一方、士族の場合、1872年の壬申戸籍で128万人余り、また後に士族と平民に分かれることとなる卒族が約66万人います。卒族のどのくらいの数が士族に編入されたかは今はちょっと分かりませんが、大まかに計算すると士族階級の人物は明治初期の時点で約130万~190万人はいたことになります。その子孫ともなると数百万人単位になることは確実であり(場合によっては1000万人に届くかもしれません)、その中の著名人と呼べるような特筆性のある人は華族と比べ圧倒的な人数に上ることが予想されます。安易に「士族の子孫だから」とリスト化していくと、いずれ無意味に肥大化したリストになりかねません。ですので、載せるとしても例えば「士族の実子、あるいは直系の子孫」程度の基準とした上、その士族も有力な人物(幕臣は上級旗本、大名家臣は家老、その他は個別記事が作られるほど特筆性のある武士)の子孫、というような基準を設けて限定すべきです。--松茸 2009年6月8日 (月) 17:46 (UTC)[返信]

松茸さん、分かり易いご意見ありがとうございました。『「士族の実子、あるいは直系の子孫」程度の基準とした上』で、当然のことながらwikiに記載された著名人など、基準を設けるのが良さそうです。--史家 2009年6月8日 (月) 18:39 (UTC)[返信]

例えば、松田聖子の実家・蒲池家は柳川藩家老格だった寺というだけなのに、ここに加筆された履歴がありました。家老待遇だっただけで上級武士ではなく、士族であれば戸籍に「士族」と明記されていたので士族階級の分別は明確です。--史家 2009年6月8日 (月) 18:58 (UTC)[返信]
事実誤認についてだけ。松田聖子の生家の蒲池家は、江戸時代は柳川藩の家老格という武家で、戦前までは士族です。「寺」というのは、柳川藩祖の立花宗茂の正室のぎん千代の菩提寺の良清寺のことで、同寺の開山の応誉が直系の祖だったことと、還俗して武家として再興した一族から歴代住職を出したからです。福岡県立柳川古文書館あるいは柳川市内にある良清寺その他へ行けば詳しく教えてもらえます。。--アムネマチン 2009年12月22日 (火) 06:05 (UTC)[返信]
士族の実子、あるいは直系の子孫」程度の基準でも相当な数になり、「wikiに記載された著名人」というのも変動的(wikiは常に編集されていきページが増えるため)な基準で問題があると思います。該当項目の記述はそれらの限定基準を決めてから記載すべきです。--出羽卒族 2009年6月9日 (火) 02:10 (UTC)[返信]
士族階級と平民の違いの説明はそれぞれの項目を読めば分かることです。では分りかねます。私が読んだ限りではこれらに士族が平民とは違い特別な階級であるかは記載されておりませんでした。先に書きました通り、初期の士族が特別というのであれば、まだわかりますが、それ以降は戸籍上の違いぐらいですよね。史家氏は士族のどの点をもって特別な階級であるとされているのか、また、士族とゆかりがあることがなぜ特記に値することなのか、以上2点をご自身のお言葉でご説明頂きたく思います。こうした説明もなしに「削除する必要がないから」とrevertを繰り返されたのでは荒らしと見なされかねませんよ。そもそも、「コンセンサスが取れていない」事項をしつこく掲載されるお考えは理解しかねるのですが、少なくともコンセンサスが取れていないとご認識されているのでしたら、合意に向け疑問にご回答頂きますようお願い申し上げます。やや辛辣になってしまいましたが、当方も合意の形成に向け努力したいと考えております。--たなしん 2009年6月9日 (火) 04:00 (UTC)[返信]
「士族ゆかりの著名人」では、大雑把に言えば「著名人」の約7%を書き出せることになってしまいますから、掲載されるのでしたらもっと限定的な枠組みを造って掲載すべきですね。私としては掲載の意義を見出せるかも疑問のあるところですが、少なくとも。史家氏の編集では漠然としすぎています。--出羽卒族 2009年6月10日 (水) 02:25 (UTC)[返信]

「上級武士」

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武家奉公人はそもそも武士に含まれないでしょう。その武家奉公人にしても重代奉公の者は士族に編入されています。士族=上級武士というのであれば足軽・中間身分も「上級武士」に含まれるという話になります。そもそも「上級武士」という定義が存在するわけではないでしょうが、武士身分を上中下に分けるならば「上」は馬廻りクラスでしょう。--Extrahitz 2008年10月9日 (木) 19:30 (UTC)[返信]

「武家奉公人」というのはどういう人たちのことを指しますか? 士族に編入された者が僅かにいたとしても原則ではありえないことだと思います。「上級武士」というのは、指南役など藩の中でも重要な役割をした人材のことで、500石以上が上級にあたります。「足軽」は下級武士であり、また中間身分は中級武士という定義になるのではないでしょうか。また、「馬廻りクラス」というのはどういう人たちのことでしょうか? 私が知らないこともあるかもしれませんので、Extrahitzさんの知識の所在である参考文献などをお知らせ下さい。--史家 2008年10月10日 (金) 16:32 (UTC)[返信]
Extrahitzさん、士族
項目の「参考文献」をお読みになることをおすすめします。なお、ネット上でも基礎知識は得られます。 例)「武士階級・士族一考」[1]
--史家 2009年3月2日 (月) 08:38 (UTC)[返信]

士族への編入 = 士分(上士・侍、徒士) + 卒族のうち世襲であった者、青侍等と理解していますが、上級武士といえば一般的には(上士・侍)に限定されるでしょうし、まして500石以上を上級とすれぱ、小藩の重臣は士族に編入されなかったことになりますが、そのような事実はあるのでしょうか。上級、下級という区分、石高での区分は不適切ではないでしょうか?

なお、徳島藩家老の稲田家中は徳島藩の陪臣であるとして一括して卒族に編入されたそうですから、石高が高く、世襲の士分であっても陪臣の場合には士族に編入されないケースも多かったのかもしれません。陪臣身分については、研究の余地は多いと思います。 --あなぐま 2009年5月9日 (土) 11:31 (UTC)[返信]

上級下級という区分は存在し、基本的には上級武士(お目見え+騎乗、指南役など)が士族となったようです。それ以外は僅かな例外なので、僅かな例外はあくまでも例外だと思います。石高に関しては藩の大小により違いがあります。--史家 2009年6月8日 (月) 12:58 (UTC)[返信]
(コメント)史家さんがリンクされたページにも中小性(小姓)のような「下級武士」以下の徒士組が「士族の子孫」と称していると書いてあるのですが、上級武士のみが士族となったのだと書いてある書籍名をお教え願えませんか。--模様砂漠2 2009年6月9日 (火) 21:42 (UTC)[返信]

「概要」の説明について

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身分階級は華族(大名・将軍家などの知藩事)、士族(旗本、上級武士)、卒族(足軽・同心などの軽輩)に編成された。とありますが、将軍は大政奉還により奉還されていますし、知藩事の制定は華族制度と同時ですので、知藩事が華族になったわけではありません。また、上級武士とは将軍、大名、その重臣ぐらいだと思いますが、士族となるのは重臣~下級武士である徒士ですので、どちらかというと中級・下級武士が士族の中心といえるかと思います。以上の認識を前提に該当部分を編集いたしましたが、編集を戻されましたので、どの点に事実誤認があるのかご教示ください。なお、ご返答がない場合は再編集いたしますので、よろしくお願いいたします。--なしん2009年6月8日 (月) 16:17 (UTC)[返信]

将軍大名は「上級武士」ではありません。だから明治以降、華族に属したのです。士族は「上級武士」で、中級・下級武士ではありません。これらの説明は「上級武士」のところに書いてあります。たなしんさん、どこにそんなこと書いてありました?参考文献をお知らせ下さい。--史家 2009年6月8日 (月) 16:29 (UTC)[返信]

将軍、大名が武士ではないという説は驚きです。逆にそのような参考文献をご教授いただきたく思います。華族に属したのは1万石以上の所領を持っていたからで、上級云々だからではありません。大沢家のように1万石以上と虚偽報告を行って罰せられた例もあります。足軽が士族でないのは武士としての身分(士分)を持っていない「卒」の身分だったからです(なので卒族)。従って、それより上の身分、すなわち徒士などの下級武士は士族になります。基本的なことだと思っておりましたので、参考文献と言われても悩むのですが、とりあえず、武士#武士の身分士分の記述ではご納得いただけないでしょうか?--たなしん 2009年6月8日 (月) 17:39 (UTC)[返信]

  • 明治2年6月25日に知藩事あてに庶務変革の指令が出されました。そこには「一門以下平士に至るまで、すべて士族と称すべきこと」という条文があります。平士は「上級武士」ですか? ちなみに秩禄処分の前に出された金禄公債証書発給直前には、22石以下2.2石以下の現石を受け取っていたものが、262317人いました。これは金禄公債証書を受け取っていた士族全体の83.67%となります。20石や2石取りを上級武士などとは口が裂けても言えません(以上、落合弘樹『秩禄処分』(中公文庫))。
  • あと質問ですが、将軍と大名は武家扱いされていることは間違いありませんが(武家諸法度武家伝奏武家茶道)、武家は武士ではないのでしょうか。
--模様砂漠2 2009年6月8日 (月) 18:12 (UTC)[返信]
(追記)金沢一中卒業生からみた旧加賀藩士族の社会移動金沢星陵大学井上好人准教授の論文の表によりますと、士族に分類されたものには陪臣も含まれており、「下士」までは士族扱いです。(3.「上士」、「下士」、「卒」の構成比率から)--模様砂漠2 2009年6月8日 (月) 19:30 (UTC)[返信]
模様砂漠2様。出典のご提示ありがとうございます。私も色々悩んだのですが、福沢諭吉が明治10年に中津藩の内情を記したものを提示いたします旧藩情。各藩により細かい違いはありますが、これらを総合すると、1.足軽は武士ではないため士族とされなかった(ただし、後に世襲のものについては士族に編入される)。2.「上士」は騎馬、「下士」は徒歩身分であり、共に士族に編入された。3.その割合は下士が圧倒的に多かった。以上から、少なくとも士族の大部分は「下級武士」と結論付けられます。ただし、上士の扱いについて議論の余地があるかもしれません。というのは藩内においては「上級」とされていますが、大名・旗本を含む武士全体においては中級となるからです。史家氏は大名を武士とは認めておられないようですので、上士=上級となるのでしょうが、そうすると士族は上、中、下級の武士ということになってしまいます。なので、単純に「大名を除く武士」あたりが無難な表現かなと私は思います。ただ、議論が「上級武士」の項目とかなり被ってきましたので、この点については「上級武士」の結果にお任せしたいと思います。それ以外の点について何が問題なのかご教示ください。--たなしん 2009年6月11日 (木) 12:48 (UTC)[返信]
たなしんさんありがとうございます。細かいことですが「大名をのぞく武士」では正確ではありません。華族には幕府時代に大名ではなかった「維新後諸侯とされた家」が十数家ほどあります。これには大名ではなかった御三卿や大名家の付家老家が含まれます。また、諸侯本人の家族(一門ではない)も華族とされましたので、「明治維新後に諸侯扱いされた家」≠「大名」なのです。卒族もまた藩ごとに運用が異なったようですので、定義部分で詳細に書くのは困難と思われます。ですので、詳細は後述することにして定義部分では「武士のうち、華族卒族とされなかった者」が正確ということになるかと思われます。
上級下級の扱いが問題になるのは、大名より官位の点では上級の高家が士族になったという点でも正確ではありません。また陪臣でも家老#陪臣の叙爵のように大名並の官位を持つこともあります。(彼らの多くが華族に列せられるのは後のことです。)この事に限らず江戸時代の身分制度は複雑ですので、ある面では上級ととれるし下級ともとれます。(30俵取りの旗本もいたり、数万石の陪臣もいたり。)--模様砂漠2 2009年6月11日 (木) 13:58 (UTC)[返信]
模様砂漠2様。仰る通りだと思います。華族は1万石以上の所領であれば、家格に関わらずなれたようですね。卒族についても、その通りです。ただ、それでは説明が延々と続いて冗長になってしまうかなと細かな部分を無視したのですが、やはり誤解を生みそうですので、書かない方がいいのかもしれませんね。--たなしん 2009年6月11日 (木) 17:00 (UTC)[返信]

──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────── たなしんさん、模様砂漠さんありがとうございます。あなぐまです。元の記述に戻すことに賛成です。 (孫引きの数字ですが)明治6年の壬申戸籍の人口数を見ても下士や世襲の卒が士族に編入されていることが推測されます。 史家さんの定義する上級武士とその家族だけでは、人口の3%にはならないでしょう。それに卒族がその何倍にもなるはずです。

米内光政は盛岡藩の下級武士の出自ですが、確か士族だったはずです。 そもそも上級、下級という区分自体が定義が曖昧、相対的であり、線引きも不明確。 (藤沢周平さんの小説では貧乏な平士が下級武士と書かれていたりする。) 石高と身分は一致しないということでしょう。

全人口3330万 皇族28人 華族2829人 士族154万8568人(約3%) 卒34万3881人 平民3110万6514人、 僧侶21万6995人、 旧神職7万6119人、 その他5738人

また、蛇足ながら、江戸時代においても、5千石ながら諸侯・大名である喜連川家(10万石格)、米の実収はなくても1万石格の松前家などの例外があったことも付記させて下さい。 なお、稲田家中は、稲田騒動という流血の惨事を経て最終的には士族に編入され、稲田家は男爵に叙され華族となりました。 稲田家中の不満が大きかったところを見ると、卒族に一括編入した当時の徳島藩庁の措置は全国的に見ると恣意的で不適切な例だったのかもしれません。(名前を変えました)--近江屋儀八 2009年6月24日 (水) 18:43 (UTC)[返信]

提案 近江屋儀八様ありがとうございます。史家氏は論拠をお示しにならず、疑問にもご回答されないようですので、議論を放棄したとみなして、上記の項目を含み疑問が示された史家氏が主張される記述は削除する方向で合意を形成できると思うのですが、皆様いががでしょうか? --たなしん 2009年7月4日 (土) 04:25 (UTC)[返信]

賛成 --ゆかりの有名人も削除する方向で。士族の人数を追記しておけば、いかに子孫が膨大な数になるかわかると思います。--模様砂漠2 2009年7月8日 (水) 02:35 (UTC)[返信]

異議なし賛成です。少なくとも編集合戦という状態ではなく合意形成はなされたとみなしてよろしいかと思います。
--近江屋儀八 2009年7月8日 (水) 15:54 (UTC)[返信]
報告 異論が無いようですので、合意の結果を本文に反映させました。ありがとうございました。--たなしん 2009年7月13日 (月) 11:37 (UTC)[返信]

Category:日本の貴族

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ちょっと混乱がおこりそうなので、発言します。「Category:日本の貴族」を当項目に貼るのか否は、「Wikipedia:日本中心にならないように」から見た「貴族」を日本の階級構造にどのように当てはめるのかに関わる事項です。(わたくし自身は、日本の武士階級は世界的観点からは貴族として扱われるべきものと考えています)。(1) Fuji 3さんの外す編集は、Category:日本の貴族の親カテゴリ貴族の記述を素直に読んだ結果かと理解します。(2) 頭痛さんの編集は、むしろ、項目貴族に加筆した後に行うべきものかと思います。(3) たなしんさんについては、現在のところ、日本史の内部での発想からの編集であろうとしか判断できませんので、コメントは控えます。--rshiba 2010年5月15日 (土) 05:12 (UTC)[返信]

柴崎力栄様。こんにちは。このページは日本の士族について扱ったものではないでしょうか? 冒頭に「曖昧さ回避 この項目では、日本の明治以降に使われた階級呼称について説明しています。中国に於ける士族については「貴族 (中国)」をご覧ください。」とありますので、日本以外の士族については貴族で扱うべきだと思います。--たなしん 2010年5月15日 (土) 05:20 (UTC)[返信]
  • 明治初期には士族は特権を持っていたが、その後長らく称号以外の権利を剥奪されている。
  • 日本の士族は貴族院へ参加する権利を保障されておらず、少なくとも日本では華族≒貴族とはみなされても、士族⊂貴族とは歴史的にみなされていない。
  • 英国において世襲の准男爵baronetは貴族peerとされないし、逆に世襲でなくても一代貴族life peerという制度で貴族院に議席を有する権利が与えられる。
  • ドイツでは近世、騎士階級Ritterにおいて称号の世襲(Ritter von ~やvon ~など)が一般化したが、貴族とはみなされない。
以上から、少なくとも日本史、日本語の用例において士族は貴族とはみなされていませんし、西洋史においても世襲が貴族階級の定義に対応するわけではありません。
何らかの特権(称号)を有する階級、 封建領主的な騎士階級、ジェントリーをすべて貴族とみなすという一般論(比喩表現ではなく)を提唱している研究があるのなら、それを引用した上で、特例としてコメントするべきです。--Orichalcum 2010年5月15日 (土) 05:24 (UTC) / Orichalcum 2010年5月15日 (土) 05:25 (UTC) / Orichalcum 2010年5月15日 (土) 05:33 (UTC)[返信]
ここは維新以降の士族の項目でしたね。維新以前と混同していました。30年ほど前に、士族は身分だと主張した発表者がゼミで論破された場面を思い出しました。--rshiba 2010年5月15日 (土) 05:43 (UTC)[返信]
すいません。読み直してみると、私の先程の返答は柴崎力栄様の意図する疑問の的を射ていませんね。日本の武士階級は貴族といえるのか、ということですよね。
武士の幅は大名から足軽の一部に及びますので、貴族であるものもいれば、そうでないものもいる。ということになるかと思います。武士すべてを貴族とみなせば、長屋住まいで内職する人物すら貴族に含まれますので、「武士」=「貴族」とするのは無理があるのではないでしょうか? 後は基本的にOrichalcum様の仰る通りだと思います。--たなしん 2010年5月15日 (土) 05:45 (UTC)[返信]
最近の近世史の研究ではその辺が深まっているようですね。刑死する際、打ち首ではなく切腹することができるのも特権だという話もありますが、ここに出すことではないでしょう。カテゴリ編集をめぐるリバーと合戦がここでは起らなそうなことを確認してほっとしています。--rshiba 2010年5月15日 (土) 05:55 (UTC)[返信]
えーとすいません、発言するタイミングがなかなかつかめなかったのですが。
士族の扱いはちょっと判断できませんが、Category:武士に関しては柴崎さんの説明されたとおり世界的観点からCategory:貴族にふくめるべきと考えます。Wikipedia:カテゴリの方針にありますように、Wikipediaにおけるカテゴリの機能は「分類」とともに「関連性」があります。「武士」であるだけではおっしゃるとおりただちに「貴族」とはなりませんが、Category:武士の中には(世界的観点から見た)貴族と言いうる多数の武家およびその人物を含んでおり、従って「関連性の強いキーワード」としてCategory:武士Category:日本の貴族に入れておくことは妥当であるように思います。Orichalcumさんの説明されている准男爵騎士ジェントリの記事はいずれもCategory:貴族以下に位置しており(ジェントリのカテゴリのほうははずされていますが)、Category:武士についても同様の扱いをしたほうが利用者の便に叶うのではないでしょうか。--頭痛 2010年5月15日 (土) 06:05 (UTC)[返信]
準男爵の項目を見ましたが、過去に貴族のカテゴリーに入れらた形跡が見受けられません。またジェントリについては、現在ノートの方で係争中のようです。騎士については、ポーランド・リトアニア連合において一般に「騎士」と日本語に翻訳されることもあるシュラフタSzlachta(「士族」と訳されることもあるようですね。でもこの項目は日本の士族しか扱っていません)が貴族とみなされるなど、ある地域において貴族階級に所属していた事例があるので問題ありません。世界史的観点というのなら、各国によって定義の異なる「貴族」を一般用語化して定義を広げるような研究を引用し、それが学会なりで用語として受け入れられていることを示してからにして下さい。--Orichalcum 2010年5月15日 (土) 08:16 (UTC)[返信]
いずれにせよ士族を身分のカテゴリーに入れる点には依存がありません。--Orichalcum 2010年5月15日 (土) 08:13 (UTC)[返信]
準男爵についてはCategory:貴族Category:爵位準男爵という包含関係のことを言っています。--頭痛 2010年5月15日 (土) 08:27 (UTC)[返信]
「貴族は一般には爵位を有する」、「英国の準男爵は、しばしば爵位とも訳される称号である」は正しいですが、「英国の準男爵は貴族に含まれる」は正しくありません。少なくとも一般論として、英国の貴族階級peerageは男爵以上の称号を持つ者であり、その家族は含まれません。日本で貴族という用語が一般化されたのは明治維新以降であり、どちらかというと欧州におけるaristocracyに対応する訳語として中国史から導入されたものです。
なお自分は士族を直接貴族のカテゴリーの下に含むのは反対ですが、サブカテゴリーとして 貴族>騎士>士族 みたいに含むのであれば、別に問題ありません(士族を騎士に含むのは議論がありそうですが・・・例えばの話です)。--Orichalcum 2010年5月15日 (土) 08:52 (UTC)[返信]
私は「準男爵は貴族に含まれる」という主張をしているわけではありません。貴族というトピックを体系的に理解したいものにとっては、準男爵という記事がCategory:貴族以下から見つかったほうがよいという話です。--頭痛 2010年5月15日 (土) 09:00 (UTC)[返信]
提案 Category‐ノート:武士へ場所を移しませんか。--rshiba 2010年5月15日 (土) 06:08 (UTC)[返信]
ではそちらに発言を移しておきます。--頭痛 2010年5月15日 (土) 06:09 (UTC)[返信]

────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────(インデント戻す)こちらの項目士族では、Category:日本の貴族を外したままにすることでいいですね。--rshiba 2010年5月15日 (土) 06:36 (UTC)[返信]

すくなくとも明治初期には特権があるので入れておくという判断もできるのではないかと思いますが、こちらのほうはお任せします。包含数がすくなくまだ未整理なようですがCategory:日本の身分制度あたりには入れておいたほうがよいような。--頭痛 2010年5月15日 (土) 06:47 (UTC)[返信]
秩禄処分まではないわけではないですが、この辺は誤差の範囲とします。それ以降の士族には、平民と「法的に区別された特権」はない。族籍の呼称としても大正3年以降は卒業証書や履歴書に記入されなくなります。頭痛さんご指摘のCategory:日本の身分制度を貼るべきだとわたくしも思います。平民があるのだから士族も含まれるべきです。この点について、異議ある方はありませんか。--rshiba 2010年5月15日 (土) 07:11 (UTC)[返信]
私はrshiba様の意見に異論はありません。--たなしん 2010年5月15日 (土) 07:30 (UTC)[返信]
同上です。--Fuji 3 2010年5月17日 (月) 07:41 (UTC)[返信]
では、Category:日本の身分制度を貼ります。--rshiba 2010年5月17日 (月) 11:28 (UTC)[返信]

士族の人口構成

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士族の人口構成について、数字を修正する必要があると思われます。

戸籍における族籍別人口に関しては、以前壬申戸籍の項目で詳しくまとめました。別に士族の項目で改めて士族の人口や割合について触れるのは問題ないと思いますが、例えば明治30年までの族籍別人口は以下の通りです。

調査期日 皇族 華族 士族 卒族 地士 旧神官 平民(棄兒・無籍在監人を除く) 平民(棄兒・無籍在監人を含む) 樺太人員 棄兒 無籍在監人 族籍不詳 本籍人口(皇族を除く) 本籍人口(皇族を含む)
明治5年1月29日 29 2,666 1,282,167 659,074 3,316 211,846 102,477 9,621 30,837,271 30,837,271 2,358 33,110,796 33,110,825
明治6年1月1日 31 2,829 1,548,568 343,881 3,380 207,669 76,119 9,326 31,106,514 31,106,514 2,358 33,300,644 33,300,675
明治7年1月1日 32 2,891 1,883,265 7,246 198,435 8,914 7,680 31,514,841 31,514,841 2,374 33,625,646 33,625,678
明治8年1月1日 34 2,896 1,896,371 4,306 182,029 2,765 6,186 31,900,488 31,900,488 2,374 33,997,415 33,997,449
明治9年1月1日 37 2,965 1,894,784 66,430 116 1,713 32,372,359 32,372,359 34,338,367 34,338,404
明治10年1月1日 37 - - - - - - - 34,628,328 34,628,365
明治11年1月1日 36 - - - - - - - 34,898,540 34,898,576
明治12年1月1日 37 3,125 1,833,357 33,442,485 33,447,224 4,739 484,841 35,768,547 35,768,584
明治13年1月1日 37 3,073 1,838,486 33,761,655 33,765,769 4,114 321,695 35,929,023 35,929,060
明治14年1月1日 39 3,146 1,933,888 34,417,658 34,421,921 4,263 36,358,955 36,358,994
明治15年1月1日 39 3,204 1,931,824 34,760,523 34,765,051 4,528 36,700,079 36,700,118
明治16年1月1日 40 3,253 1,930,112 35,078,564 35,083,897 4,464 869 37,017,262 37,017,302
明治17年1月1日 37 3,263 1,945,638 35,497,138 35,502,826 4,588 1,100 37,451,727 37,451,764
明治18年1月1日 38 3,350 1,938,204 35,921,680 35,927,395 4,264 1,451 37,868,949 37,868,987
明治19年12月31日 - 3,419 1,948,283 36,193,423 36,199,515 4,556 1,536 38,151,217 -
明治20年12月31日 - 3,430 1,940,271 36,557,330 36,563,476 4,801 1,345 38,507,177 -
明治20年12月31日 - 3,816 1,954,669 37,105,091 37,111,206 4,890 1,225 39,069,691 -
明治21年12月31日 - 3,811 1,976,480 37,621,081 37,626,943 4,672 1,190 39,607,234 -
明治22年12月31日 - 3,825 1,993,637 38,068,993 38,074,558 4,551 1,014 40,072,020 -
明治23年12月31日 - 3,768 2,008,641 38,435,309 38,441,052 4,725 1,018 40,453,461 -
明治24年12月31日 - 3,844 2,009,396 38,699,769 38,705,437 4,631 1,037 40,718,677 -
明治25年12月31日 - 3,853 2,014,306 39,066,197 39,071,781 4,462 1,122 41,089,940 -
明治26年12月31日 - 3,905 2,024,317 39,354,444 39,360,091 4,422 1,225 41,388,313 -
明治27年12月31日 - 3,884 2,039,591 39,764,092 39,769,740 4,401 1,247 41,813,215 -
明治28年12月31日 - 4,162 2,050,144 40,210,753 40,216,314 4,242 1,319 42,270,620 -
明治29年12月31日 - 4,375 2,067,997 40,630,781 40,635,892 3,826 1,285 42,708,264 -
明治30年12月31日 - 4,523 2,089,134 41,130,741 41,135,206 3,378 1,087 43,228,863 -

上の数字は『国勢調査以前日本人口統計集成』収録の日本全国戸籍表、日本全国戸口表、日本全国郡区分人口表、日本全国人口表、日本全国民籍戸口表、日本帝国民籍戸口表、内務省年報から作成したもので、より正確だと思われます。

問題の一つとして、明治18年以前の本籍人口は皇族人員を含んだのに対し、明治19年以降は皇族が本籍人口から除かれていることです。例えば、『第31 日本帝国統計年鑑』記載の本籍人口は、明治19年以降の原則にのっとり、明治5年から遡って皇族人員を除外しています(上の表の「本籍人口(皇族を除く)」と完全に一致するはずです)。それに対し園田英弘・広田照幸・浜名篤『士族の歴史社会学的研究 武士の近代』の方の数字は、明治18年以前の数字に関して皇族人口修正前と皇族人口修正後の数字を混ぜて掲載しています。この他、数字の写し間違いに起因すると思われる数字の違いや、細かい人口の修正などが反映されておりません。明治8年、明治19年1月1日調の数字なども抜けています(明治10年と明治11年は族籍別人口の集計が残ってません)。

なお、明治31年以降に関しては、『日本帝国人口統計』 『日本帝国人口静態統計』を元に、以下のような5年毎の数字を得ていますが、これらの本籍人口は『日本帝国統計年鑑』記載の本籍人口と異なります。どちらの本籍人口の方がより修正を加えているのかは、現時点で私には判断できません。

調査期日 華族 士族 平民(棄兒・無籍在監人を含む) 本籍人口(皇族を除く)
明治31年12月31日 4,551 2,105,698 41,648,166 43,758,415
明治36年12月31日 5,055 2,168,058 44,559,025 46,732,138
明治41年12月31日 5,642 2,218,623 47,363,266 49,587,531
大正2年12月31日 5,937 2,310,269 51,045,983 53,362,189
大正7年12月31日 5,915 2,298,719 54,362,694 56,667,328

--Orichalcum会話2012年3月26日 (月) 18:52 (UTC)[返信]

修正案

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修正案です。平民の人口や動態統計は、大体総本籍人口と同じ傾向のため、除去してかまわないと思います。

族籍別人口構成(明治5~9年)[1]
調査期日 士族人口 卒族人口 総人口[2] 士族/総人口(%) 卒族/総人口(%)
明治3年頃[3] 1,094,890 830,707 30,088,335 3.64 2.76
明治5年1月29日 1,282,167 659,074 33,110,796 3.87 1.99
明治6年1月1日 1,548,568 343,881 33,300,644 4.65 1.03
明治7年1月1日 1,883,265 7,246 33,625,646 5.60 0.02
明治8年1月1日 1,896,371 4,306 33,997,415 5.58 0.01
明治9年1月1日 1,894,784 34,338,367 5.52
族籍別人口構成(明治9~大正7年)[1]
調査期日 士族人口 総人口[2] 士族人口
増加指数[4]
総人口
増加指数[4]
士族人口
割合(%)
明治9年1月1日 1,894,784 34,338,367 100.00 100.00 5.52
明治12年1月1日[5] 1,833,357 35,768,547 96.76 104.16 5.13
明治13年1月1日[5] 1,838,486 35,929,023 97.03 104.63 5.12
明治14年1月1日 1,933,888 36,358,955 102.06 105.88 5.32
明治15年1月1日 1,931,824 36,700,079 101.95 106.88 5.26
明治16年1月1日 1,930,112 37,017,262 101.86 107.80 5.21
明治17年1月1日 1,945,638 37,451,727 102.68 109.07 5.20
明治18年1月1日 1,938,204 37,868,949 102.29 110.28 5.12
明治19年1月1日 1,948,283 38,151,217 102.82 111.10 5.11
明治19年12月31日 1,940,271 38,507,177 102.40 112.14 5.04
明治20年12月31日 1,954,669 39,069,691 103.16 113.78 5.00
明治21年12月31日 1,976,480 39,607,234 104.31 115.34 4.99
明治22年12月31日 1,993,637 40,072,020 105.22 116.70 4.98
明治23年12月31日 2,008,641 40,453,461 106.01 117.81 4.97
明治24年12月31日 2,009,396 40,718,677 106.05 118.58 4.93
明治25年12月31日 2,014,306 41,089,940 106.31 119.66 4.90
明治26年12月31日 2,024,317 41,388,313 106.84 120.53 4.89
明治27年12月31日 2,039,591 41,813,215 107.64 121.77 4.88
明治28年12月31日 2,050,144 42,270,620 108.20 123.10 4.85
明治29年12月31日 2,067,997 42,708,264 109.14 124.37 4.84
明治30年12月31日 2,089,134 43,228,863 110.26 125.89 4.83
明治31年12月31日 2,105,698 43,758,415 111.13 127.43 4.81
明治36年12月31日 2,168,058 46,732,138 114.42 136.09 4.64
明治41年12月31日 2,218,623 49,587,531 117.09 144.41 4.47
大正2年12月31日 2,310,269 53,362,189 121.93 155.40 4.33
大正7年12月31日 2,298,719 56,667,328 121.32 165.03 4.06

脚注

  1. ^ a b 『国勢調査以前日本人口統計集成』収録の諸統計表による。
  2. ^ a b 皇族人員を除く本籍人口。
  3. ^ (a) 呉文聡, 「府藩県所轄並石高」, 『統計集誌』5号, pp. 9–22 (1882). (b) 呉文聡, 1882,「人員表」『統計集誌』8号, pp. 96–107 (1882). 府藩県三治制下で各府藩県から上申された数字を集計したもので、期日が統一されていない、調査漏れが多分にあるなど色々統計上の問題があるが、卒族解体直前の人口の目安として掲載する。
  4. ^ a b 明治9年1月1日付の人口を100とする。
  5. ^ a b 比較的士族の割合が高いとされる鹿児島県大隅国熊毛郡馭謨郡大島郡の三郡を中心に、続籍不詳の者が明治12年1月1日調で48万4841人、明治13年1月1日調で32万1695人いるため、実際よりも士族人口の割合が低く算出される。

--Orichalcum会話) 2012年3月26日 (月) 20:14 (UTC) Orichalcum会話2012年3月26日 (月) 20:29 (UTC)[返信]