コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:日光脇往還

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

改名提案っていうか

[編集]

とりあえず正規の改名提案ではなくご意見募集。

この項目、「千人同心街道」かなんかに改名すべきじゃないかと思う。日光街道の脇往還てのは各地にあったわけで、この街道が日光脇往還を代表するものであるわけじゃない。「日光脇往還のひとつ」が「日光脇往還」という項目を名乗っているのって、なんかすわりが悪いように感じるわけです。--Nekosuki600 2010年4月29日 (木) 11:26 (UTC)[返信]

◆ここに割り込んでおきますが、さきほど正規の改名提案といたしました。--Nekosuki600 2010年5月9日 (日) 15:02 (UTC)[返信]

改名に賛成です。「日光脇往還」については曖昧回避にすべきだと思います。Kamakura 2010年5月5日 (水) 22:10 (UTC)[返信]
Kamakuraさんどうもです。ご参加ありがとうございます。
にちゃんねる方面で「例示出せよ」とか言われていたので、ついでなので並べておきます。まあ、どこまで入れるかとかいう話も出てきそうですが。
  • 千人同心街道 - 本項目。改名対象。
  • 日光東往還 - 既存項目。
  • 大胡道・根利道 - 未存在項目。例幣使街道柴宿~大胡~神梅~足尾(?)~日光、らしい。
他にも「日光道」「日光街道」と呼ばれることがある道はけっこうあるんだけど、無駄に数を増やしてもなあ。とりあえず、入れる必要があるかどうか疑問な有名どころでは日光例幣使街道壬生道(日光西街道)、ほかに金精峠を越えて沼田側から日光にアプローチする道や、会津西街道を会津方面から見た場合の呼び方、あたりが思い浮かびます。--Nekosuki600 2010年5月6日 (木) 10:56 (UTC)[返信]
返事が遅れがちで申し訳ありません。日光御成街道も歴史的に重要なルートなので掲載すべきだと思います。なおご指摘の日光例幣使街道などの件ですが、「日光街道の脇往還」と定義するのであればいれる必要はありませんが、「日光に向かう脇往還」と定義するのであれば入れる必要が出てくると思います。とりあえず以下のような文面で曖昧回避化してみてはどうでしょうか?街道の例示は最低限の記載でよいかと思います。Kamakura 2010年5月9日 (日) 10:13 (UTC)[返信]

曖昧回避記事の案

[編集]

日光脇往還は

  1. 千人同心街道の別名
  2. 日光街道の脇往還。日光東往還・日光御成街道などがある
  3. 日光へ向かう脇往還。日光例幣使街道などがある

Kamakura 2010年5月9日 (日) 10:13 (UTC)[返信]

同意します。整理ありがとうございます。--Nekosuki600 2010年5月9日 (日) 15:04 (UTC)[返信]

反対意見はないという認識でいいのかな

[編集]

最初の問題提起から1ヶ月が経過、正式な改名提案としてからも二十日が経過しましたが、おれとKamakuraさんだけしか書いてないんですよねえ。しかしコメント依頼とかをするほどの規模のネタなのかという疑問もないわけではなく。とりあえずホーミングがてらノートに書いておくのですが、近日中に移動を行い、曖昧回避の整理とかもしておきたいと思います。無駄に長引かせても、忘れてしまうだけのような気がしますもので。--Nekosuki600 2010年5月29日 (土) 17:57 (UTC)[返信]

報告・改名しました

[編集]

移動しました。リンクのボット依頼もしておきました。ボットでのリンク変更をすべきではないもの(いまのところ日光往還のみ)はボット避けもしておきましたが、見落としがありましたらフォローよろしくお願いします。--Nekosuki600 2010年5月30日 (日) 16:22 (UTC)[返信]

ボット依頼のリアクションが悪いのでそれは取り下げ、バイオボットを稼動して全リンクの修正を終了しました。たいして問題はないと思いますが、チェックしていただける方がおいでになれば、よろしくお願いします。とりあえずこの一連は、これで終了あとはせいぜい微調整ということでよろしいかと存じます。--Nekosuki600 2010年6月2日 (水) 16:46 (UTC)[返信]

日光脇往還の取り扱いについて

[編集]

提案  現在、日光脇往還は、曖昧さ回避となっていますが、これを元に戻し、日光脇往還としての独立記事にすること提案します。その理由は以下の通りです。

  1. 出典に基づいた議論が行われていないため。
  2. 日光脇往還の名称は、街道(脇往還)名として、資料から確認できるため。例として、吹上町史編さん会(1980)「吹上町史」、有限会社平凡社地方資料センター(1993)「埼玉県の地名」などがある。
  3. 千人同心街道の資料が管見では確認できず(ブログ資料には見られるが、街道関係の文献資料からなかなか確認できない。)、あくまで、日光脇往還の別称として説明に終始しているため。

日光例幣使街道、日光東街道、壬生通りが「日光脇往還」とする記述(出典による説明)がなく、日光脇往還=(日光例幣使街道、日光東街道、壬生通り)とする根拠が薄い点に問題があります。 したがって、日光脇往還を独立記事に戻す。そして、出典で確認できれば、千人同心街道を日光脇往還の統合とすることを提案します。 --湖紫陽会話2017年2月7日 (火) 17:14 (UTC)[返信]

ご提案ありがとうございます。ご提案の内容でちょっとわからないところがあるのですが、文献史料から確認できる「日光脇往還」はどのルートを走る街道を指すのでしょうか?ご指摘いただいた文献がこちらで確認できないため、ご教示いただけると助かります。
ただ、ご提案の趣旨については基本的に賛成できます。「日光脇往還」という名称が一般的な名称として使われている街道があれば、そちらをメイン項目として単独記事化することは妥当な対応と考えます。ただし、「日光街道」の「脇往還」の情報を求める人もいるかと思われますので、出典追加の上で曖昧回避ページは必要と考えます。(出典について、たとえば日光例幣使街道・日光御成街道についてはデジタル大辞泉の脇街道 (≒脇往還)の項目に記述がみられます)
私の案としては、現在曖昧回避となっている日光脇往還の記事を日光脇往還 (曖昧さ回避)に移動の上、跡地を単独項目化という対応がよいかと考えますが、いかがでしょうか?Kamakura会話2017年2月18日 (土) 11:20 (UTC)[返信]


返信  Kamakuraさんへ。
  1.  日光脇往還の経路について
  2.  「日光街道」の「脇往還」の情報について

:の2点ですね。お答えします。

  • 1点目 日光脇往還の経路について
  • 「吹上町史」によると、詳細な説明があります。
  • 日光脇往還の経路は、鴻巣の追分まで、中山道と街道を同じくし、ここで分岐し袋村(埼玉県吹上町)、行田・上新郷・利根川を川俣の渡しで越え、館林・佐野・栃木・今市と経て日光街道に合流する街道とされています。
  • 日光裏街道、(別称:日光火の番街道、八王子千人同心街道(名称の由来は割愛))の経路、八王子・坂戸・吹上・行田で日光脇往還に合流し、佐野・栃木・鹿沼・今市にて日光街道に合流し日光へと通じるとあります。
  • 「有限会社平凡社地方資料センター(1993)「日光脇往還」『埼玉県の地名』65頁、」による説明では以下の通りです。
  • 「日光脇往還」と「日光裏街道」を一緒にし、「日光脇往還」と説明しています。日光脇往還の経路は、武蔵多摩郡八王子から入間日本木村・扇町屋村(現入間市)、同坂戸村、比企郡松山町(現東松山市)、埼玉郡行田町(忍城下)上野館林を経て下野佐野町で日光例幣使街道と結合とあります。
  • 2点目 「日光街道」の「脇往還」の情報について
  • 日光街道の脇街道ですが、日光街道の脇往還として説明するのであれば問題ないでしょうが、日光脇往還との用語をもって説明できるかと言えば問題があります。
  • 個人的には、次のように考えています。まず、日光街道の脇往還は、壬生通り、例幣使街道、日光御成道があげられますが、これらの脇街道が、「日光脇往還」と呼ばれているかと言えば、管見では確認したことがありません。
  • また、壬生通り、例幣使街道、日光御成道は日光街道(日光道中)の脇街道ではありますが、「日光脇往還」ではありません。日光道中(街道)の脇街道、水戸街道、佐倉街道も含まれます。日光脇往還(曖昧さ回避)の記事を立項するのであれば、日光脇往還の用語によって、つまり、日光道中(街道)の脇街道(壬生通り、例幣使街道、日光御成道、水戸街道、佐倉街道など)を「日光脇往還」と説明している具体的な文献の明記が必要です。この問題が解決されない限り、日光脇往還 (曖昧さ回避)は正確な情報の提供ではなく、不明確な(一つ間違えれば)無駄な情報の提供になりかねないため、反対です。--湖紫陽会話2017年2月18日 (土) 13:13 (UTC)[返信]
返信ありがとうございます。日光脇往還の経路については了解しました。また2点目の「日光街道の脇往還として説明するのであれば問題ないでしょうが、日光脇往還との用語をもって説明できるかと言えば問題があります。」の部分で湖紫陽さんの指摘も理解いたしました。「日光脇往還」=「日光街道の脇往還」という認識が誤りであるということですね。(過去の議論では記事名に関する検討は特に行われていませんでした・・・)
ご指摘を踏まえたうえで「日光脇往還」の単独記事化に賛意と、現在の記事の日光脇往還 (曖昧さ回避)への移動提案の撤回を表します。ただし、「日光街道の脇往還」に関する情報は記載が必要と考えますので、現在の日光脇往還の記事を日光脇往還 (曖昧さ回避)ではなく、日光街道の脇往還など、別の適切な記事名での移動を再度提案しますKamakura会話2017年2月18日 (土) 15:29 (UTC)[返信]

返信  インデントを戻します。 返信ありがとうございます。ところで、日光街道の脇往還について、無理に反対というつもりはないのですが(ただし、脇往還ではなく、脇街道の方が良いと思う)、私には別の考えがあります。

1[[Template:日光街道]]にて脇街道の項目を作り脇街道を加筆することが良いのではと思います。一例に[[Template:中山道]]、[[Template:東海道]]を上げさせていただきます。以前、私は東海道、中山道に「脇街道」の項目を作り、主要街道から分岐する脇街道を加筆しました。日光街道、奥州街道、甲州街道については、まだ十分な調査が進んでいないため、加筆作業は始まっていないため、テンプレートに脇街道の項目ができていない状況でした。

現状の日光街道のテンプレート

脇街道の項目のある東海道及び中山道のテンプレート

壬生通り

2 もし日光街道の脇街道をつくるとするのであれば、記事名は日光への街道とすることを提案します。 日光脇往還の記事にある街道は日光へ通じる街道および脇街道が並んでいますが、実際の日光街道の脇街道である壬生通り、水戸街道、佐倉街道が抜けている現状をみると、当初、本記事は日光社参に使用された主要街道や、日光へ通じる街道・脇街道を意図し作成・編集されたものと推測しています。

となると、宇都宮市教育委員会(昭和60年)『宇都宮の古道』にある「近世の道」などでこれに相当する街道・脇街道を確認することができます。日光街道の脇往還となると説明しづらいですが、日光への街道として説明がしやすくなり、会津西街道(未調査)、日光北街道(未調査)なども加えることは可能だと思います。右の図(『宇都宮の古道』の中にある図を参考に作成したものです。)に相当する街道を説明することができると思います。

ただし、記事の性格としては曖昧さ回避の記事ではなく、独立記事として記事内容を組むことが必要と考えています。

整理・調査等にかかる手間をかんがえると、私は前者のテンプレートの編集を勧め、後者の日光への街道への作成は消極的です。--湖紫陽会話2017年2月18日 (土) 19:30 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。私としては「日光街道の脇往還(街道)」に関する情報にどこかしらでアクセスできれば良いという考えなので、形式にはこだわりません。現在、メインで改定されている湖紫陽さんのご意見を尊重すべきと考えますので、テンプレートでの編集に賛同します。Kamakura会話2017年2月19日 (日) 05:57 (UTC)[返信]
返信  コメントありがとうございます。それでは、「日光街道の脇往還(脇街道)」に関する情報のアクセスのため、日光街道のテンプレートの編集(脇街道の追加)を行います。
また、日光脇往還を独立記事に戻し、千人同心街道を日光脇往還への転送とすることについては、提案日より2週間(2月21日)まで、その他の意見を待つこととします。--湖紫陽会話2017年2月20日 (月) 17:19 (UTC)[返信]

コメント  異論が出なかったことから、日光脇往還の曖昧さ回避の解除、千人同心街道から日光脇往還への移動、千人同心街道のリダイレクト化と作業を進めます。--湖紫陽会話2017年2月28日 (火) 02:53 (UTC)[返信]

GoogleMap上の旧道筋地図のリンクについて

[編集]

記事空間に貼り付けたGoogleMapの旧道筋地図について、説明をしておきます。

本件については、先行してWikipedia:井戸端/subj/やたら長くなる地理的記述についてで多少の議論が行なわれました。その際に、「Wikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクの4に抵触するのではないか」という指摘が出されており、それについてはおれも現状では抵触する可能性は否定できないと考えています。この観点からは、追って必要ならば「外部リンクの選び方」のノートページの方に問題提起を行なうことも考えています。

とりあえず現在のWikipediaで、地図情報を簡単に扱う方法がないことから、旧街道・鉄道廃線・観光目的で命名された愛称を持つ道路などの説明が極めて困難であること、あるいはわかりにくくなっていること、などの問題解決のために外部の地図サイトを使うことの利害得失あたりを判断する材料として貼り付けますが、そういうわけでそういう実験であってもけしからんっつうひとがいるなら、剥がしてもかまいません。できましたら、当該議論などにご参加いただけるとありがたく存じます。ではでは。--Nekosuki600 2010年5月14日 (金) 09:21 (UTC)[返信]

改名提案

[編集]

提案  今回、角川日本地名大辞典により確認したところ、八王子から川越-松山-吹上-忍-上新郷-川俣-館林に至る経路は、日光脇往還ではなく日光裏街道との説明があったことから、記事名を「日光脇往還」から「日光裏街道」への改名の提案をします。ところで、「日光脇往還」は、「吹上市史」によると中山道で鴻巣辺りで分岐し、吹上から日光裏街道と同じく吹上-忍-上新郷-川俣-館林に至るという経路であるという。--湖紫陽会話2017年7月29日 (土) 07:11 (UTC)[返信]

コメント 上の方の議論を踏まえてコメントをさせていただきます。埼玉県立博物館による『歴史の道調査報告書 第4集 日光脇往還』10頁の中で江戸期の資料ごとの名称が記されているのですが、もともと千人同心日光道、日光ヨリ八王子道、日光御火之番様御通り之道、日光往還、日光脇往還、日光御成道下道脇往還などさまざまな名称で呼ばれ、統一された名称はなかったとは記されているものの、裏街道という名称は特記されていませんでした。
また、『埼玉大百科事典 4 とち-ま』117頁では日光裏街道について「八王子から館林へと至る道」のことではなく「鴻巣宿から分かれて忍を通り~」と記すように、箕田の追分から忍城下へと至る、忍館林道のことを指しています。ですので、仮に「日光裏街道」で改名するにしても、もう少し調査が必要かと考えます。--Athleta会話2017年7月29日 (土) 10:31 (UTC)[返信]
 追記 『歴史の道調査報告書 第4集 日光脇往還』の件の追記になるのですが、まず、鴻巣追分(箕田)から分かれて袋村を経て行田で日光脇往還と合流する道を館林道とし、昭和11年刊の『埼玉県史』などで日光裏街道と称されている、としています。この道について、天保14年付の袋村指田家文書では「日光脇往還」としていますが、報告書の方には他の名称も列記され、その名称で当時固定化していたようにも見受けられません。--Athleta会話2017年7月29日 (土) 12:37 (UTC)[返信]
返信 (Athleta氏宛)  多数の街道名があるのは既に認識しております。しかし、本記事において宿場とされるものについては、八王子から吹上の間については現記事名では適当な記事名でないことは同意見となるはずです。また、現代の経路についても現記事名は適当な記事名と言えないでしょう。逆に八王寺から川越ー吹上ー忍ー館林ー今市への経路は、各々の地点で多数の呼称があるが、この経路を総称して相応しい記事名は何かが問題となります。その点を考えれば、現記事名ではなく「日光裏街道」あるいは「日光火の番街道」への改名が適当となるのです。--湖紫陽会話) 2017年7月29日 (土) 13:19 (UTC)修正(文意は変わらず)--湖紫陽会話2017年7月30日 (日) 11:53 (UTC)[返信]
返信 (Athletaさん宛) 調査が行われる事に問題はないでしょう。その成果をお待ちしております。--湖紫陽会話2017年7月29日 (土) 10:42 (UTC)[返信]
コメント 追記、ただ、多数の呼称が見られる経路については、吹上―忍―上新郷ー川俣ー館林に至る経路にあたるわけであり、すべてが経路において多数の呼称があてられたわけではありません(例えば、吹上―川越ー八王子の間については千人同心日光道、八王子千人同心道、日光火之番街道。中山道と鴻巣での分岐し吹上への「脇往還」については「日光脇往還」。館林から今市への経路はそれぞれ異なる道路名がある。特に3番目については、館林道、日光例幣使街道、例幣使街道、壬生道、日光西街道が重なっています)。また、相応しい記事名とは一般的に利用件数が多いものが選択されるものであるわけであり、日光ヨリ八王子道、日光御火之番様御通り之道、日光往還はその選択肢から消えるでしょうね。--湖紫陽会話2017年7月29日 (土) 10:51 (UTC)[返信]

コメント Koshiyouさんの方からさまざまなコメントを頂き、多数の街道名は認識済みとも仰られているところ、申し訳ないのですが、こちらから言い出した手前もありますので、ひとまず調査結果を報告させていただきます。ご了承ください。

八王子から行田・館林を経由し佐野で日光例幣使街道と合流する道、八王子千人同心が日の番警備のため通行したもの
  • 日光往還
    • 『角川日本地名大辞典 13 東京』557頁、『日光市史 中巻』479-481頁
  • 日光裏街道
    • 『新編埼玉県史 資料編15 近世6 交通』31頁、『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』662頁(ただし、川越・松山を経て吹上に出るとしている。八王子千人同心道も併記)、『行田市史 普及版 行田の歴史』152頁、『入間市史 民俗・文化財編』23頁
  • 日光脇往還
    • 『羽生市史 通史編』663頁(ただし、行田から館林間の説明のみ)、『鴻巣市史 通史編 2近世』165頁(八王子千人同心道、日光裏街道も併記)、『入間市史 通史編』538頁、『日本歴史地名大系 11 埼玉県の地名』65-66頁(八王子千人同心道も併記)、『歴史の道調査報告書 第4集 日光脇往還』10頁、『歴史の道調査報告書 第5集 中山道』35頁(間の宿吹上で中山道と交差するという説明のみ)、『行田市史 資料編 近世2』213頁、『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』1119頁(日光道、日光街道、八王子道も併記)、『東村山市史 通史編 上巻』819頁、『さいたま歴史街道』160頁、『埼玉・歴史の道50話』98頁、『忍の街道をゆく -中山道・館林道・日光脇往還-』44頁
  • 日光道
    • 『狭山市史 通史編2』642頁、『東松山市史 通史編 中巻』138頁(日光往還も併記)、『日高町史 民俗編』328頁(日光裏街道、日光脇往還、八王子千人同心道、日光街道も併記)、『日本の社会史 第2巻 境界領域と交通』66頁(日光往還も併記)
  • 千人同心日光道
    • 『新編埼玉県史 通史編3 近世1』621頁(日光脇往還も併記)
  • 八王子千人同心道
    • 『埼玉大百科事典 とち-ま』117頁、『歴史の道調査報告書 第2集 日光御成道』17頁(日光裏街道も併記)
  • 日光火之番街道
    • 『吹上町史』321-322頁(八王子千人同心道、日光裏街道も併記)
  • 日光街道
    • 『福生市史 上巻』480頁(八王子千人同心が東照宮警固のため往来という説明のみ、大山道、道者道も併記)
  • 八王子日光道
    • 『新編埼玉県史 別冊1 民俗1』585頁(二本木から忍間の説明のみ、日光裏街道、八王子千人同心道も併記)
  • 日光日の番に関する通行の紹介のみで、特定の呼称なし
    • 『行田市史 下巻』406-407頁、『坂戸市史 通史編2』74頁、『八王子市史 下巻』668-669頁
鴻巣まで中山道と街道を同じくし、鴻巣(箕田)追分で分岐して行田に入り日光に至る道
  • 日光裏街道
    • 『行田市史 下巻』406-407頁、『上州近世史の諸問題』369頁
  • 日光脇往還
    • 『吹上町史』321頁、『明和村誌』515頁
  • 日光脇街道
    • 『館林市誌』757-758頁(日光脇往還も併記)
鴻巣(箕田)追分から袋村・行田を経由して館林に至る道
  • 館林道
    • 『新編 埼玉県史 通史編3 近世1』621頁、『歴史の道調査報告書 第4集 日光脇往還』14頁(日光裏街道も併記)、『行田市史 普及版 行田の歴史』153頁(中山道から入るという簡略な説明のみ)、『歴史の道調査報告書 第5集 中山道』34頁(追分から右に入るという簡略な説明のみ)、『忍の街道をゆく -中山道・館林道・日光脇往還-』42頁
  • 忍館林道
    • 『鴻巣市史 通史編2 近世』165頁
  • 日光館林道
    • 『行田市史 資料編 近世2』214頁
  • 館林通
    • 『歴史の道調査報告書 第5集 中山道』16頁
  • 日光裏街道
    • 『埼玉県史 第五巻』411頁、『埼玉大百科事典 とち-ま』117頁、『加須市史 通史編』435頁(ただし、鴻巣から川俣間の説明のみ)、『図説 埼玉の歴史』155頁、『埼玉郷土辞典』495頁
  • 日光脇往還
    • 『角川日本地名大辞典 10 群馬県』734頁、『近世館林の歴史 館林市史 通史編2』192頁(渡良瀬川を隔てた下野国と利根川を隔てた武蔵国を結ぶ道という説明のみ、館林道も併記)、『日本歴史地名大系 13 群馬県の地名』782-783頁(日光裏街道、江戸街道も併記)
忍城下から館林を経て日光に至る道
  • 日光脇往還
    • 『群馬県史 通史編5 近世2 産業・交通』666頁(八王子千人同心に関する言及、館林道も併記)
熊谷から行田・上新郷を経由して川俣に至る道
  • 日光裏街道
    • 『加須市史 通史編』435頁
大胡から神梅に至る、日光例幣使街道の脇往還
  • 日光裏街道
    • 『角川日本地名大辞典 10 群馬県』734頁、『群馬県百科事典』711頁、『群馬県史 通史編5 近世2産業・交通』667頁(大胡道も併記)、『上州の諸街道』105-106頁
赤城山北麓の根利から水沼へ至る道
  • 日光脇往還
    • 『角川日本地名大辞典 10 群馬県』734頁
  • 日光裏街道
    • 『群馬県百科事典』711頁、『群馬県史 通史編5 近世2 産業・交通』667頁(根利道も併記)
  • 日光裏往還
    • 『上州の諸街道』153頁

なお、今回は近場の図書館をまわり、県史市史を中心に調べて参りましたが、今週末にも別の図書館に出かける予定でいますので、その際に他の資料にもあたるつもりです。--Athleta会話2017年7月31日 (月) 10:13 (UTC)[返信]

コメント  今後の成果をお待ちしております。但し、本記事の内容は八王寺―川越―吹上―忍ー新郷ー川俣―館林―今市への経路についての説明となっている点が重視するものでしょう。また、上述された路線には、「松山道」や「熊谷道」という呼称も目に留まるものも出てくるはずです。--湖紫陽会話2017年7月31日 (月) 11:15 (UTC)[返信]
コメント 「坂戸道」「八王子道」「熊谷往還」などであれば記憶にはありますね。もう一度、資料を確認をしておきます。ところで、質問を返すようで失礼しますが、今回、『歴史の道調査報告書 第4集 日光脇往還』をはじめ、いくつかの資料を調べた中で、扇町屋→根岸→高萩→坂戸といったように入間川を越えて北上するルートが主であり、八王子→川越→松山のように迂回するルートというのは、『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』に記された程度だったと考えます。この川越を経るルートというのは、歴史の分野で定まったものでしょうか。それともこのルートを重視するというのは、Koshiyouさんの個人的なご意見でしょうか。ご教示いただければと考えます。--Athleta会話2017年7月31日 (月) 13:27 (UTC)[返信]
コメント  管見では、川越―松山―吹上の経路を視野に入れる必要はないと考えています。その経路を扱うのであれば、松山道として新規立項をする方が適当ではと考えているためです。あくまで、ご指摘のように「扇町屋→根岸→高萩→坂戸といったように入間川を越えて北上するルート」を視野に入れたものをどう扱うかを考えればよいのではと考えています。
追記:したがって、「館林道」も「松山道」、「熊谷道」と同様の扱いにすればよいとの考え。また、別件となる「秩父街道」あるいは「秩父往還」が経路が一定とせず、多数の経路があるがそれをどのように説明づけられているか。また、経路が重なる街道である「日光街道」と「奥州街道」の扱い、「水戸街道」と「佐倉街道」と「成田街道」の扱い、「例幣使街道」と「壬生道」と「日光街道」を一般的にどのように説明づけられ記事化されているかが一つの指針となるのでは思います。--湖紫陽会話2017年7月31日 (月) 15:05 (UTC)[返信]
コメント ルートの件および「館林道」などの扱いについて、ご教示いただきましてありがとうございました。改名提案中ということもあり、こちらの調査で多くの時間を取るという訳にもならないかもしれませんが、できる範囲内で協力をさせていただきたいと考えています。--Athleta会話2017年8月1日 (火) 03:37 (UTC)[返信]
コメント 先週末に調査したものを追加しました。このほか、近辺の図書館で所蔵されていない数冊ほどの本のリクエストを行っているのですが、これらの本の内容を確認したところで私の方の調査は一旦終わりにしたいと考えています。ただ、予約資料の準備が整うのがいつ頃になるのかは分かりませんので、大幅に遅れた場合、議論を先に進めていただいても構いません。--Athleta会話2017年8月7日 (月) 10:41 (UTC)[返信]
コメント Athleta氏による調査で多数の街道の始点と終点、街道名、出典が提示されましたが、余りにも混在しておりどの街道名が主要なものと判断すればよいのか困難な状況です。折角なので、街道名、始点―終点、出典で整理していただけないでしょうか。--湖紫陽会話2017年8月23日 (水) 20:52 (UTC)[返信]
コメント それは失礼しました。各文献で第一に掲示された街道名(「A、通称B」という記述のみ残し、「CやDとも呼ばれる」の類は全除去)、『角川~』や『日本地名~』などの文献で項目名に選ばれた街道名のみに限定し、さらに千人同心の往来した道以外も省略させたものであれば、試しに作業用ページに作ってみましたが、これでよろしければ。なお、先に述べた残りの予約資料の到着は来週になりそうですので、それを目途に調査は終了するつもりです。--Athleta会話2017年8月26日 (土) 01:33 (UTC)[返信]
コメント Athleta氏による作業用ページを確認しました。ありがとうございます。おかけで、一定の流れというかわかりやすい判断材料となったと思います。加えて、氏には資料調査の予定があるようなので、今後の成果をお待ちしております。--湖紫陽会話2017年8月26日 (土) 03:44 (UTC)[返信]
コメント 先日、『歴史の道調査報告書集成 12 関東地方の道2 群馬2』(海路書院、2008年)の内容を確認することができました。経路については途中で川越を通行するものの八王子から佐野・栃木を経て例幣使街道と合流するというもので、街道名は「日光脇往還」としています。ただし、日光へ通じる道や家康の霊柩を運ぶ際に往路として使用したなどの内容は記されてはいるものの、八王子千人同心が往来したであるとか日光日の番警備などの内容は記されてはいません。
街道名 経路 出典
日光往還 八王子→日光 『角川日本地名大辞典 13 東京』557頁
日光往還 八王子→拝島→松山→佐野→日光 『日光市史 中巻』479-481頁
日光往還 八王子→坂戸→佐野→鹿沼→日光 『八王子千人同心 通史編』214-215頁
日光往還 八王子→坂戸→佐野→鹿沼→日光 『江戸幕府八王子千人同心』70-73頁
日光裏街道 八王子→日光 『新編埼玉県史 資料編15 近世6 交通』31頁
日光裏街道 八王子→川越→日光 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』662頁
日光裏街道 行田→館林→佐野 『行田市史 普及版 行田の歴史』152頁
日光裏街道 八王子→日光 『入間市史 民俗・文化財編』23頁
日光脇往還 八王子→日光 『鴻巣市史 通史編 2近世』165頁
日光脇往還 八王子→日光 『入間市史 通史編』538頁
日光脇往還 八王子→拝島→松山→佐野で日光例幣使街道と合流→日光 『日本歴史地名大系 11 埼玉県の地名』65-66頁
日光脇往還 八王子→坂戸→佐野→鹿沼→日光 『歴史の道調査報告書 第4集 日光脇往還』11-12頁
日光脇往還 日光日の番警備のため八王子千人同心が往復という説明のみ 『行田市史 資料編 近世2』213頁
日光脇往還 八王子→扇町屋→日光 『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』1119頁
日光脇往還 八王子→坂戸→佐野→鹿沼→日光 『東村山市史 通史編 上巻』819頁
日光脇往還 八王子→拝島→松山→佐野→日光 『さいたま歴史街道』160頁
日光脇往還 八王子→日光 『埼玉・歴史の道50話』98頁
日光脇往還 八王子→日光 『忍の街道をゆく -中山道・館林道・日光脇往還-』44頁
日光脇往還 八王子→館林 『日本道路風土記』22頁
日光脇往還 八王子→川越→松山→佐野・栃木を経て例幣使街道と合流 『歴史の道調査報告書集成 12 関東地方の道2 群馬2』446-447頁
日光道 八王子→坂戸→佐野→鹿沼→日光 『狭山市史 通史編2』642-643頁
日光道 八王子→扇町屋→松山→行田→栃木で日光例幣使街道と合流 『東松山市史 通史編 中巻』138頁
日光道 八王子→扇町屋→高萩→坂戸→日光 『日高町史 民俗編』328頁
日光街道 八王子→日光 『鶴ヶ島町史 通史編』702頁
日光火之番街道 八王子→坂戸→行田→佐野→日光 『吹上町史』321-322頁
千人同心日光道 八王子→坂戸→佐野で日光例幣使街道と合流→日光 『新編埼玉県史 通史編3 近世1』621頁
日光脇往還 八王子→坂戸→佐野で日光例幣使街道と合流→日光 『新編埼玉県史 通史編3 近世1』621頁
八王子千人同心道 八王子→川越→忍→日光 『埼玉大百科事典 とち-ま』117頁
八王子千人同心道 八王子→川越→忍→日光 『歴史の道調査報告書 第2集 日光御成道』17頁
八王子日光道 二本木→忍 『新編埼玉県史 別冊1 民俗1』585頁
八王子・日光道 府中→川越仙波→松山を経て日光道に合流 『日本の社会史 第2巻 境界領域と交通』66頁
江戸街道 館林方面からの重要幹線という説明のみ 『栃木県歴史の道調査報告書 第2集 日光例幣使道・奥州道中』31頁
呼称なし 八王子→坂戸→佐野→鹿沼→日光 『行田市史 下巻』406-407頁
呼称なし 八王子→拝島→松山→佐野→日光 『八王子市史 下巻』668-669頁
以上で私の調査は終了とさせてさせていただきますが、いかがいたしましょうか。--Athleta会話2017年9月3日 (日) 01:18 (UTC)[返信]
返信 (Athleta氏宛) ご苦労様です。Athleta氏による調査成果により、少々私の考えも変わってきました。個人的に、重視している資料は、埼玉県史、角川日本地名大辞典、日本歴史地名大辞典ですが、それによると「日光裏街道」が良いと考えますが、日本歴史地名大辞典およびその他の史誌・報告書の存在を考えれば「日光脇往還」を相応しい名称といえる。ただ、日光火之番街道は資料が少なすぎたようなので、こちは外すべきですね。江戸街道についても同様と考えているところです。--湖紫陽 2017年9月3日 (日) 09:17 (UTC)[返信]

コメント インデントを戻します。今回のAthletaさんの調査成果と、管見による理解、記事の内容から考えたところ、現在は以下の通り考えています。

  • 記事名は「日光脇往還」のままにする。つまり、改名提案の取り下げとなります。調査成果より考えるところ、日光脇往還または、日光裏街道の両者があげられると思いますが、現状使用されている名称では日光脇往還が適当ではないかと考えています。他方日光裏街道については、転送ページの作成、及び日光脇往還の記事にて別称として説明をする。
  • 街道名について、その他の道路名についても転送ページの作成し、日光脇往還の記事にて説明する。
  • 日光脇往還のルートは八王子―日光のみとせず、日光脇往還とされた可能性のあるいくつかのルートを記事の中にて説明する。

このように記事の編集すればよいのではと考えています。いかがでしょうか。コメントをお待ちしております。

コメント 追記 日光脇往還の宿場町について調査していますが、具体的にここが「日光脇往還の宿場町です」と説明した文献をAthletaはご存知ですか。ご存知であれば、御教示お願いします。--湖紫陽会話2017年9月9日 (土) 06:26 (UTC)[返信]

コメント ご連絡ありがとうございます。湖紫陽さんから掲示された改名提案の取り下げおよび、1項目と2項目の編集案について、私としては異論はありません。3項目の「日光脇往還とされた可能性のあるいくつかのルートを記事の中にて説明」については、たとえば記事中では千人同心の往来した八王子―日光間を主とした上で、「その他の日光脇往還」という節を設けて、日光脇往還とされた可能性のあるルートを説明することができるかと考えています。無論、それぞれのルートを平等に節分けして説明することも可能と考えています。
また、具体的に日光脇往還の宿場町と説明した文献については、館林宿を扱った『近世館林の歴史 館林市史 通史編2』を、日光脇往還(日光裏街道・日光道などの別表記を含む)の宿場としての説明がなされているものの、はっきりと「○○宿」という名称を用いていないものであれば、行田町を扱った『行田市史 普及版 行田の歴史』、松山町(松山本郷)を扱った『東松山市史 通史編 中巻』を存じています。ご参考になればと思います。--Athleta会話2017年9月9日 (土) 13:34 (UTC)[返信]

地図の不具合を報告

[編集]

記事中からリンクされている地図について、不具合または疑問に思われる点があったので、報告します。

  • (例文)◇◇という地図で、「富士山」と書かれるところが「不治山」となっています。誤植ではないでしょうか。

以上、確認お願いします。