ノート:井上馨/過去ログ1
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コメント
長すぎます... --忠太 2005年4月16日 (土) 02:32 (UTC)
- 長すぎるからという理由で記事を分割しないでください。--Goki 2005年4月22日 (金) 01:48 (UTC)
統合依頼
統合依頼に出しました。いくらなんでも井上馨 (3)はないでしょう。--Saintjust 2006年2月20日 (月) 17:30 (UTC)
- (条件付賛成)現在の内容は微に入り細に入りという印象を受けます。記述の整理(削るのではなく)を前提に賛成します。分割するにしても(3)はないでしょうね。--BitBucket 2006年2月21日 (火) 06:25 (UTC)
- (コメント)井上馨 (3)は井上馨3に移動しました。--Seibuabina 2006年2月21日 (火) 07:18 (UTC)
- (統合)統合に賛成。そして、記述の整理を希望します。--経済準学士 2006年3月9日 (木) 12:00 (UTC)
統合完了
「井上馨2」「井上馨3」の記事を全て「井上馨」で移し、「2」「3」を削除。 あとは整理だけです。Nakaoka7675 2006年3月14日 (火) 10:55 (UTC)
保存
なお志道家と離別してからは国事に奔走する為に多数の変名・別名を使っている。
春山花輔(俗論党の目を欺く目的)、
山田新助(慶応元年7月 薩長両藩の融和を謀り、また軍艦購入の為に長崎に赴いた時、薩藩士として)
今井頑八、高田春太郎(慶応元年12月 この別称は藩主の許可を受けた別名)、奈良屋文七(土方人足として別府潜伏時)、明治3年頃 二郎、
(雅号) 世外(慶応年間頃より)、三猿(明治20年前後)、浮世外太郎(明治33年 俗謡が得意でその時の戯名)
生涯
生い立ち
天保6年11月28日(新暦 1836年1月16日) 周防国湯田村(現在の山口市湯田)で萩藩士の井上光亨の次男としてに生まれる。100石取りの家柄であったが実際に は1年に40石を支給され困窮はしないまでも余裕があるという家計ではなかった。父光亨は徳山藩士
1851年(嘉永4年)(16歳) 兄の幾太郎と共に藩校の明倫館に通学。萩に古屋を借り自炊生活をする(山口から萩まで直線距離で約25Kmある)。
役所勤めの始まり
1854年(安政元年)(19歳)
藩主毛利敬親の御前警備の列に加わる。
1855年(安政2年 20歳)
1月24日 萩藩士
- (萩~江戸間の旅程は参勤で1ヶ月、急行で20日程度、最急行では15、6日位であった)
1856年(安政3年)(21歳) 2月19日藩主と共に帰国し3月18日萩に到る。
1857年(安政4年)(22歳) 9月5日藩主を警衛し10月5日江戸に到る。
1858年(安政5年)(23歳) 江戸において岩屋玄蔵に蘭学を学び、砲術修行のため江川太郎左衛門の塾に入門。剣術を齋藤弥九郎の塾に学んだ。
1860年(万延元年)(25歳) 藩主より聞多の名を賜る。
閏3月12日 井上は海外の兵法を学ぶ為にもオランダ語を学びたいと申し出て藩政府より蘭学修業を許された。 同年4月26日藩主敬親に従い帰国。
1861年(文久元年)(26歳)
9月19日 藩主敬親の公武合体案を幕府に進言するための出府に従い11月13日江戸に到着。
1862年(文久2年)(27歳)
英語学習を希望
6月6日 藩主の入京に従い中山道を経て7月2日京都に到着。7月25日藩主敬親の養嗣定広(1839-1896)の小姓役を命ぜられ8月19日より江戸在勤となる。攘夷には強力な海軍力が必要と訴え、海軍研究の為、長嶺内蔵太、大和弥八郎と共に、英語修業を命ぜられる。
外国船の購入
9月2日 長州藩は英国の汽船を購入。壬戌丸と名付けられた。井上と同僚の長嶺と主任の山田亦介の3名は購入担当を命ぜられ、横浜の伊豆倉商店(長州藩御用達の大黒屋の営む貿易会社)に必要な洋銀の購入を一任した。洋銀を一挙に購入するとドル相場が暴騰するので、伊豆倉商店に一任すれば手数料は要らないとの事であった。購入価格は英国側との交渉から12万ドルと決められた。山田主任が船長となり、井上、長嶺内蔵太、大和弥八郎、遠藤謹助、森重健蔵等は乗組士官を命ぜられた。船の引渡しを受けたものの、運転出来る者がおらず、技術に習熟するまで、外国人を必要とした。攘夷を唱えるのに外国人を雇用するのは問題であったが、妥協案として攘夷の実行までは時間があるから開戦の時期になったら解雇する事で藩政府の了解が得られた。しかし結局、幕府の海軍奉行勝安房守の塾で機関学を教授していた庄内藩士高木三郎を招き指揮運転が可能になった為、外国人を解雇し、ようやく横浜から品川沖まで回航する事が出来た。乗組士官らと山田船長との不和により険悪な事態に到った為、藩邸より周布政之助が船内に出張して調査し、船長は北条源蔵、機関担当を平川藤兵衛、来島亀之助に、事務担当を梅田虎次郎、航海担当を長嶺豊太郎とした。任を解かれた井上、長嶺、大和の3名は海軍興隆の為に英学を修業する事は従来どおりであった。
11月11日 高杉晋作、久坂玄瑞ら同志と武州金澤(金澤八景)での外国公使刺殺を図った。しかし久坂が土佐の武市半平太に話したことから、これが無謀であるとして山内容堂を通して毛利定広に伝わり実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作った。
12月12日 高杉、井上、伊藤ら御楯組の12名は品川御殿山の英国公使館焼討ちを決行。犯人は発覚しなかった。12月25日 井上は襲撃の後患を恐れ京都に向かう。
1863年(文久3年)(28歳)
1月 昨年11月の襲撃計画に関与した者は7日間の遠慮(軽い謹慎刑)に処せられた。
1月20日頃、上京していた佐久間象山を三条の池田屋に訪れて意見を聞き、海軍興隆の意思を固めその学術研究の為に洋行の希望を抱くようになった。
1月22日 佐久間象山との邂逅で情熱をかきたてられ、藩主毛利敬親父子に許可を請うたところ、敬親は「かかる事柄は(ご禁制であるから)直接に請願すべきものでない」旨を諭したのみで、別に不同意の様子は見られなかった。そこで、藩政府幹部に懇請したところ、周布政之助、林主悦、毛利登人(1821-1864斬罪)、桂小五郎等も人を海外へ派遣することは予て考慮していた所であるので井上の希望を容れる事になった。同志のうち高杉晋作は洋行に賛成したが、久坂玄瑞と品川は不同意を唱えた。
- 長州藩ではこの時期、すでに外国を見てきた藩士が2名おり※、海外を見聞したいという若者の情熱には理解があったと思える。
- ※ http://www5.ocn.ne.jp/~seigadou/sawamoto2.html
「忘れられた郷土の先輩たち」
2月2日 毛利定広の命により、脱藩していた高杉晋作を召還するため江戸に向かう。
この頃、井上は伊藤に洋行(密航)を勧めていた。
洋行
詳細は長州藩士の洋行を参照
4月18日 井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命を受ける。
4月28日 洋行の為、井上は野村と共に京都を発ち、5月6日江戸に着く。
5月7日 英国領事ガワーを訪ね洋行の志を述べ周旋を依頼する。ガワーからは船賃が700ドル(約400両)1年間の滞在費を含めると千両は必要と聞かされる。江戸到着後更に2人(遠藤・野村)増え5人分つまり五千両が必要になった。洋行に当たって藩主の手許金から一人200両(井上、伊藤、山尾の3人で600両)を支給されたが当然足りなかった。そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保していた1万両の準備金があったので、佐藤は「藩邸の代表者が保証するなら5千両を貸す」という事になり、藩邸の留守居役村田蔵六に、死を決してもその志を遂げたいと、なかば脅迫的に承諾させ、5千両を確保することが出来た。
5月12日 ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン社の船で横浜を出港し、上海に向かう。同行5名は年齢順に年長から、井上聞多(満27歳)、遠藤謹助(27歳)、山尾傭三(1837-1917 25歳)、伊藤俊輔、野村弥吉である。この5名はロンドン大学に長州五傑として顕彰碑が建てられている。井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶ事を恐れ志道家を離別。
上海到着
5月18日頃 上海に到着。ジアーディン・マジソン社の支社長に面会した。上海からは、井上と伊藤は約300トンのペガサス号で出港した。ロンドンまでの旅程は、航海術を学ぶという事で理解されていたので、水夫と同格の扱いで非常に困苦し、日本人を「ジャニー」と呼び軽蔑されていたと感じている。便所は船体から張り出した横木につかまって用をたす方式であったから、嵐の時には身体を縄で縛って危険を保護した。
- 同年5月10日は長州藩は率先して攘夷を実行した日であった。即ち、関門海峡を通過しようとしたアメリカ汽船に対して外国船砲撃の第一発を放ち、ついで、5月23日フランス商船、5月26日オランダ軍艦を砲撃した。
ロンドン到着
11月4日(旧暦9月23日) 井上ら5名はロンドンに到着。
1864年(元治元年)(29歳)
3月 密航者5名は日本発の「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」との報道に驚き、井上と伊藤は直ちに帰国を決意した。
急遽ロンドンからの帰国へ
4月中旬 井上と伊藤はロンドンを発つ。
6月10日頃 2人は横浜に到着した。
- やがて英国公使から連絡があって、他の3国も了解したから国に帰って尽力して欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡された。書簡に対する返答は到着から12日後と決まった。
帰国
6月18日 英国艦にて乗り豊後姫島まで送られる。
6月24日 山口に着き、藩の事情を聞くと、「幾百艘の軍艦が来襲しても死力を尽くして防戦する」という藩の方針が決定しているとの事であった。
6月25日 伊藤と共に藩庁に出頭し、海外の情勢を説き攘夷が無謀なこと、開国の必要性を訴える。攘夷論者を警戒して春山花輔と変名。
6月26日 藩主の下問に応じて伊藤と共にそれぞれ海外の事情を進言。しかし、藩の趨勢から方針転換は困難という。
6月27日 井上と伊藤が希望していた御前会議が開かれる。藩の重役達の前で西洋事情を話しても理解されず、西洋文明を説明しても「ホラを吹くにも程がある」と嘲笑される。攘夷論者からは命を狙われる程の意識のギャップに、井上と伊藤は隔靴掻痒の思いであった。
6月29日 藩主の立場としては、藩士の攘夷熱は抑えがたい状況に到る旨を毛利登人から伝えられる。これに対し、「藩政府員が『防長2州が焦土と化しても天勅を奉じて攘夷を遂行する』とは、その言葉は美しいようであるが1敗の結果、一同討ち死にしても藩主一人残る理由はないからその最後の決心があるか?」を藩主に伝えるよう要請した。
7月2日 藩主より英国軍艦に行き、止戦の為の交渉をするように命ぜられる。
7月5日 伊藤と共に姫島の英国艦に行き攻撃猶予を談判するも成らず。
7月21日 井上は、脱走の罪で萩の実家に幽閉中の高杉晋作を訪問。
8月4日 藩より外国艦との交渉をするように命ぜられ、8月5日井上と前田孫右衛門とで小船に乗り艦隊に向かう途中約束の時間が過ぎた為イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国の艦隊が下関を砲撃。8月7日には艦隊の兵士2千名が上陸した。
8月8日 講和使節宍戸刑馬(高杉晋作の仮称)に従い伊藤と共に講和使節として英国艦に行くが失敗。:藩では征長の軍に対しても応戦しなければならず、やむを得ず井上や高杉らに外艦の対応を指示したものである。
8月9日 外国兵による大砲の分補に立ち会う。
8月10日 井上は講和使節として毛利登人に従い外国艦に行くが談判ならず。
8月14日 講和使節宍戸刑馬に従い外国艦に行き、講和条約を締結。
英国海軍クーパー提督は長州藩の発砲に対して賠償金を要求したが、「これは朝廷・幕府の命に従った事で我が藩の私意によったものではない。4カ国公使から幕府に請求するのが筋である」として責任転嫁する事が出来た。これは高杉の機転によるものであった。
- 一方で和議に反対する攘夷論者は多く、山口に滞在する公卿(三条実美、四条隆謌、東久世通禧)らは毛利定広に対して抗議し、藩政府員は困って「あれは高杉、井上、伊藤らが藩主を篭絡してやったことで、、」などと逃げ口上もあり、井上は帰国以来命を狙われるのは当然という時期であった。
襲撃に遭い重傷を負う
9月25日 山口藩庁(政事堂)での君前会議が終って午後8時過ぎ、湯田の自宅まで(約2Km)の帰途、袖解(そでとき)橋で襲撃され、重傷を負う。聞多は手まねで介錯を頼んだ為、兄の五郎三郎が刀を振りかざしたところ母がおい被さり「五郎三郎待ってくれ、医者が居るのだからたとえ無理でも傷口を縫い合わせて経過をみたい」と阻止。血と泥で汚れて手のつけようが無かったが、たまたま緒方洪庵で学んだ美濃の国の浪士・所郁太郎が聞きつけて駆けつけていたので、焼酎で傷を洗浄し、小さい畳針で縫合した。傷6箇所で50針を縫合し終わったのは午前2時であった。
- この時の凶漢3名のうち生き残りの1名児玉愛二郎(前の名、児玉七十郎)とは明治30年5月に杉孫七郎が仲介で『児玉が凶漢であった』とあらためて紹介している。他の2名のうち中井栄治郎は萩政府の壊滅にあたって、捕えられ椋梨一派と共に処刑され、周布藤吾は井上の配下として石州口に奮戦したがその時の傷により死亡した。
1865年(慶応元年)(30歳)
1月2日 高杉晋作、奇兵隊を率いて下関新地会所(藩の出先施設)を襲う。井上は奇兵隊の山口鴻城軍総督になる。
藩論の一本化
藩政府は幕府による征長軍に備えて、遊撃隊、奇兵隊、膺懲隊、御楯隊、八幡隊、萩野隊、集義隊、南園隊、鴻城隊を配置、その統括をする人物は高杉晋作との衆議であったが、高杉はこの小康の時期に外遊したいと願い、井上らの働きかけもあって藩政府は高杉と伊藤の2名の洋行を認め、千両を下賜。表面上は「英学修業並びに事情探索の為、横浜に差し遣わす」との辞令であった。しかし、実現に到らなかった。
4月中旬 井上は楊井謙蔵と共に外国人応接掛を命ぜられる。下関開港に尽力していた井上、伊藤、高杉らを暗殺する謀議があり別府に逃げる。
4月22日 外国人応接掛を免ぜられる。
5月及び閏5月上旬 この時期、坂本龍馬(変名才谷梅太郎)、中岡慎太郎(1838-1867 変名石川清之助)が薩摩と長州を結びつける為に、大宰府で5人の公卿等に面談。その折長州藩の小田村素太郎、時田少輔に会い、彼等が下関で桂小五郎、井上、伊藤らに伝えた。更に坂本は5月1日下関に行き、桂は藩主毛利敬親の指示で山口から下関に戻り5月4日に面談。
薩摩藩の名を借りて汽船と小銃を購入
7月16日 井上と伊藤は薩摩藩の名を借りて汽船と小銃購入の為長崎に行く。17日大宰府着、18日三条ら公卿(京都を落延びた5廷臣三条実美、東久世通禧、西三条季知、四条隆謌、)に会う。21日長崎着。28日薩摩藩士小松帯刀(1835-1870)に同伴し鹿児島着。井上は薩船に乗り8月26日長崎で小銃を積込み27日三田尻に到着。
薩摩藩の名を借りて汽船と小銃を購入
7月16日 井上と伊藤は薩摩藩の名を借りて汽船と小銃購入の為長崎に行く。17日大宰府着、18日三条ら公卿(京都を落延びた5廷臣三条実美、東久世通禧、西三条季知、四条隆謌、)に会う。21日長崎着。28日薩摩藩士小松帯刀(1835-1870)に同伴し鹿児島着。井上は薩船に乗り8月26日長崎で小銃を積込み27日三田尻に到着。
薩長同盟から後
1866年(慶応2年)(31歳)
3月13日 高杉は機を見て海外に渡航したいと願い、実際は長崎で留まっていたが、上海で伊藤を待つという設定で、井上が桂に相談して藩費での渡航費を捻出する許可を得たが、高杉は幕府軍が迫るという報道を得て急遽中止にした。
4月18日 越荷御用掛となり、下関伊崎・竹崎農兵管轄を命ぜられる。
6月17日 奥阿武郡参謀に任ぜられ、戦地石見益田(石州口方面)に赴く。
7月6日 安芸亀尾川口参謀兼任を命ぜられる。
7月25日 井上は安芸明石に進軍。7月28日 折敷畑にて幕軍を破る。
9月2日 井上は広沢兵助(1834-1871暗殺)、太田市之進(1841-1871)、長松文輔らと共に嚴島の大願寺に着き、幕使勝安房と会見し、講和をさぐる。勝は「慶喜は列侯を京都に会し衆議公論の帰する所に拠って大政を更新し、海外諸国はわが国の隙を狙っているから争いを止めて、、、」と述べ結局、幕府軍の撤収にあたって追撃しないという事になった。
12月29日 英国公使ハリー・パークス(1828-1885)はキング提督に長州藩を訪問させる事とし、井上らは三田尻で迎え饗応し、翌日停泊する英国艦提督室で毛利敬親父子との会見が実現した。この時井上と遠藤謹助が通訳をした。
1867年(慶応3年)(32歳)
1月3日 井上と遠藤はキング提督の艦艇で兵庫に到着。
1月14日 京都に入り、品川弥二郎、薩摩藩の西郷大久保らと密議し、23日大阪へ。
6月29日 井上は木戸孝允と薩長同盟に安芸を加える相談をする。9月20日成立。
10月10日 井上は藩主からの密命を持って太宰府に行き、三条ら公卿に会い、時期を見て京都へ帰ることに成る旨を伝えた。
- 10月13日 薩摩藩に倒幕の密勅を下す。(在京の薩摩藩幹部は倒幕で結束していたが、国許では情況は不確定な為に密勅が出たものである)
- 10月14日 萩藩に倒幕の密勅を下す。徳川慶喜が大政奉還を上奏。
- 三藩連合軍は12月28日を期して京都に兵力を投入する事になり、11月下旬から薩摩軍の藩船が三田尻を経由して続々海路京を目指した。
1868年(慶応4年)(33歳) (9月より明治と改元)
この年、新田義貞の末裔武子と結婚。(結局、武子との間に子供は生まれていない。)
九州鎮撫官澤総督の参謀時代
1月29日 九州鎮撫総督の参謀となり、長崎へ赴任。総督は澤宣嘉。 同年参技兼外国事務掛。
- 長崎はそれまで幕府の直轄地であった。最後の奉行河津裕邦は鳥羽伏見の戦いでの幕府の敗走を聞き、後を肥後・筑前両藩に託して正月14日夜中密かに退去した。後事を任された両藩は形勢傍観の状態で姿を見せず無政府状態の長崎の治安維持の為に、長崎に出張していた土佐藩士佐々木三四郎と薩摩藩士松方助左衛門らは10余藩の有志を糾合して、地役人を説得し、会議所を設け諸藩士の合議により事務を処理した。
2月15日 長崎上陸(赴任)。16日 長崎裁判所参謀兼務となる。井上は会議所の諸藩有志の中から佐々木三四郎、野村宗七、松方助左衛門、楊井謙蔵らを登用し刷新に着手した。
- 長崎への幕府からの赴任者は外交上も市政上も経験が少ない為、地元の町年寄らが庶務を仕切っており種々の特権を持ち自治体を形成していた、幕府は収入増加の為改革を図ろうとしたが、その都度、防御策を講じられて改革が出来なかった。
- 堺事件発生。井上は、3月28日付けの木戸宛の文書で、長崎に於ける外交の実情を報告し、現政府においても外国に対して毅然とした態度で接するように望んでいる。長崎では、佐々木・野村・町田・大隈らの同僚と一致協力して極めて強硬な態度で外国と対峙しているのに、政府が弱腰では困るという事であったらしい。
2月21日 長崎管内浦上村の「キリスト教徒を改宗させるべくその指導者達を招致し懇諭。4月上旬まで尋問を継続した。改心を迫ったが彼等教徒は『天照皇太神の御恩はこの世限りであるが、キリストの恩澤は無窮である。』等と言い、頑としてその所信を変えず。」と伝えている。
- 明治4年11月岩倉特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令が各国の非難をあびた。明治5年井上は大蔵大輔の職にあったが、長崎府庁在任時に関わった事から、明治5年正月に教徒赦免の建議をし、明治6年禁制の高札を除去し、各藩に移住させられた教徒は帰村した。
- 2月25日 政府は悪貨に対処すべく福井藩士三岡八郎と小原二兵衛を参与兼会計事務局判事とし起用した。
4月11日 京都へ出張し木戸と打合せを為す。(耶蘇教問題と贋造貨幣問題を協議)
- 5月 新政府の財政窮乏に対処すべく太政官札(金札)を発行するが、流通悪く、価格は下落を続ける。
- 維新当時、二分判金が通貨単位の標準であった為、その贋造著しく、7、8割は贋金という情況であった。長崎の財政は逼迫しており、これを木戸と相談し8月には天草県・肥後一円、筑前怡土郡を直轄区域にした。
閏4月3日 大阪へ出張、副総裁三条実美の宿舎にてキリスト教徒に関し外国公使と折衝。
- 閏4月21日 官制を変更。3職8局を廃止、太政官に7官(議政・行政・神祗・会計・軍務・外国・刑法)を置き、立法・行政・司法の3権を規定した。また地方は府・藩・県とした。
- 閏4月25日 商工業を奨励するため、商法司を会計官中に設ける。
5月4日 長崎裁判所を長崎府庁と改める。澤総督は長崎府知事となり、井上は長崎府判事兼外国官判事に任命された。:判事の同僚には佐々木、松方の他、薩摩藩の町田久成、楠本正隆、野村宗七が居た
5月 井上は長崎に於ける外国官吏に対する接遇の式法を制定。
長崎府製鉄所御用掛
- 井上の厳しい改革と激しい気性に反発も多く、仕事上の困難を感じ、自ら製鉄・造船の専任を望んだと思われる。
- 長崎製鉄所では英国式元込銃を製作していたが、井上が精力的に取り組んだ仕事は日本で最初の鉄橋(銕橋)を長崎に建設した事である。
- 7月 貿易商は届け出制により鑑札を受ける事。貿易税として価格の0.5%、兵器は3%を収納すべしと決定。
- 7月17日 江戸を改め、東京と称す。
7月19日 井上は奥羽制圧の為、兵員の輸送の他、軍資金の確保と兵器の補給に忙殺された。兵員については、長崎で守備にあたっていた振遠隊318名と島原藩兵を含め第一陣の550人を英国汽船フィーロン号に乗船させ東北の戦線に送り出した。:彼等は24日秋田船川港に上陸し26日には秋田城下に入った。その後第2陣、第3陣と続き、秋田での各藩からの征討軍は3千人に及んだ。
明治へ改元
1868年(明治元年)
9月16日 娘・聞(ぶん)誕生(母は祇園の芸者倉治つね子)、磯野小右衛門の養女となったが、後に井上姓へ戻る。
- 9月 産業奨励の為、東京市民への貸付制度をつくり翌2年正月までに100万円を貸す。
- 10月15日 奥羽征討軍解散により、振遠隊は陸路にて12月12日京都到着、12月20日長崎に帰国した。戦死者13名、負傷者13名、病死4名で戦闘の多かった割には損害は少なかった。
1869年(明治2年)(34歳)
2月22日 井上と伊藤の提案により通商司が創設された。商工司は機能を発揮出来なかった為廃止。
3月3日 伊藤宛に通貨下落についての対策・意見を述べて金札と正金との交換を許すべきと主張。
3月7日 大阪にて参与副島種臣に面談し、意見十箇条の中で「機械類を輸入に頼るのは禁止して横須賀・長崎で作るべきであり、それについては横須賀の山尾庸三にすべて任せてくれれば死力を尽くす」また「金札は正金と引き換えるべき」と意見を述べている。
3月12日 岩倉具視より呼び出しがあり27日に面談。岩倉は政府財政の窮状を語り、井上は一策を建言した。その意見は直ちに取り入れられ実行を命ぜられた。それは外国からの借金のであった。500万ドルを年利8朱(つまり8%)、仲介料は1%で5万ドル、東京に居る大隈に経過報告の書簡を送っている。
5月16日 通商司の権限を定める。通商会社の設立を奨励・支援する。
- 松尾臣善の談話に「通商司の権限は大変強かった。しかし権限どおりに行われずに済んだ。即ちその権限というのは職務に付されたものではなくて、殆ど井上、伊藤、山口(範蔵?)の3人に委任されていたように思う。」と伝えられている。
8月18日 造幣頭の専任となる。
10月12日 民部大亟兼大蔵大亟に任ぜられる。
1870年(明治3年)(35歳)
11月12日 大蔵少輔となる、造幣頭兼任。
1871年(明治4年)(36歳)
- 2月13日 薩・長・土の藩兵を東京に集結させ、この軍事力を背景に施策を推し進めた。
即ち4月23日 九州鎮撫の為に西海道鎮台設置(本営は小倉、分営は博多・日田に置く)、東北には東山道鎮台(石巻、分営は福島・盛岡)を設置した
- 6月 伊藤博文米国より帰国し、1.金本位制、2.金札引換公債証書の発行、3.ナショナル・バンクの設立を建白。吉田清成(1845-1891)の主張するイギリスの制度と伊藤の報告するアメリカの制度のどちらを採用するか議論となったが、井上と渋沢栄一の判断で、結局アメリカの制度に習う事になった。
6月25日 大蔵少輔兼造幣頭を免ぜられる。:木戸は参議主任、大久保は大蔵卿になる。
6月28日 民部少輔に任ぜられる。
6月29日 制度取調専務を仰せ付けられる。
7月14日 民部大輔に任ぜられる。
7月28日 大蔵大輔に任ぜられる。(民部省廃止)
- 9月4日 収入額が不明な情況で大久保が山県有朋の所管する陸・海軍の支出を決めた事について渋沢栄一・谷鉄臣・安場保和・渡辺清・岡本健三郎ら大蔵大丞は、予算は収支をあわせ論ずるのが筋であると大久保に言った事から大久保は激怒。渋沢栄一は辞表を井上に持参したが、井上は「間も無く大久保の外遊があるから待て」と慰留している。
- 10月 産業奨励の為長崎県下の民間会社に資本金10万円を貸付。
- 10月8日 岩倉具視全権大使、木戸孝允・大久保利通を副使として欧米派遣を命ぜられる。派遣の趣旨は幕末に締結された通商条約が明治5年(1875年)7月4日を改正の期日と定めてあり、その前に改正点を調査することにあった。
12月14日 井上大蔵大輔・大隈参議・寺島外務大輔がオーストリアヴィーンでの博覧会御用掛となる。
1872年(明治5年)(37歳)
7月25日 井上は山口県令として部下の俊才・七等出仕中野梧一を指名した。全国で最初の地租改正を実施。
9月1日 第一国立銀行設立を建議。
10月3日 母婦佐子没。
11月15日 国立銀行条例を公布
1873年(明治6年)(38歳)
5月3日 井上馨辞職。財政上の意見を異にして、渋沢栄一と共に意見書を提出した。
- 6月29日 第三国立銀行認可するも、発起人内の意見対立で開業に至らず。
8月1日 第一国立銀行営業開始。
10月 第二国立銀行設立。この銀行は横浜為替会社の転業が認められたことによる。
1874年(明治7年)(39歳)
11月 小野組の破産。
- 第一国立銀行の貸出金に対して無抵当で巨額を小野組に貸していた事、小野組そのものの放漫経営もあって、井上馨は銀行の総監渋沢栄一を指導して大隈重信大蔵卿・伊藤工部卿と会談し三井組の連鎖倒産を防ぐ事に全力を傾注した。この時の三井組という私企業に対する救済が後々「三井の大番頭」と揶揄される事になったのであるが、経済規模の桁を考えると、昭和バブルの崩壊に伴う銀行への資金投入の比どころではない危機感が井上にあったと思われる。
井上は、小野組の倒産前に米の自己取引(広島支店で売り大阪支店で買う)等不審な活動を捉え、渋沢や大隈に注意を促している。そうした懸念のある時期に、預金担保制度や為替担保・証拠金などの規則が厳しく改正され(公金預かりに対する抵当増領令)12月15日との期日を指定しての適用で破綻に至った。
1875年(明治8年)(40歳)
12月26日 井上が関与していたとされる
- 新政府は旧藩の外国からの借財を漸次肩代わりして処理していたが、南部藩の外債は諸藩の中でも多額であった。南部藩と豪商村井茂兵衛との貸借を調査した役人の判断が違っていた。この為、村井は1871年に私有財産の差押さえを受け、井上の知人に払い下げられた。この件について、井上馨に反発する当時の江藤新平法務大臣の意を汲む者等に利用され世間に疑獄であると印象付けた。井上の周囲の人物は再度の重職への復帰と黒田清隆全権大使・井上馨副使として訪朝を希望し、早期決着を期待してあせっていた。
12月26日 井上が関与していたとされる
- 新政府は旧藩の外国からの借財を漸次肩代わりして処理していたが、南部藩の外債は諸藩の中でも多額であった。南部藩と豪商村井茂兵衛との貸借を調査した役人の判断が違っていた。この為、村井は1871年に私有財産の差押さえを受け、井上の知人に払い下げられた。この件について、井上馨に反発する当時の江藤新平法務大臣の意を汲む者等に利用され世間に疑獄であると印象付けた。井上の周囲の人物は再度の重職への復帰と黒田清隆全権大使・井上馨副使として訪朝を希望し、早期決着を期待してあせっていた。
12月29日(40歳) 元老院議官となる。
日朝交渉の副使として
1876年(明治9年)(41歳)
2月26日 黒田清隆全権大使・井上馨副使として朝鮮に渡り、日朝修好条規を締結。3月6日帰国。
- 「朝鮮を独立国と認めたのは、この時わが国を以って
嚆矢 とする。」として、日本では対等の積りであった。
6月25日 財政経済研究のため欧米への出張を命ぜられ、横浜よりアメリカ合衆国へ出張。7月18日 サンフランシスコ到着。
9月2日 ニューヨーク出発し、9月12日 ロンドン着。
1877年(明治10年)(42歳)
1月4日 ロンドンを発ちベルリン、ヴィーンを歴遊。
2月9日 ロンドンに帰る。
7月14日 欧州より帰国(横浜に到着)。
1878年(明治11年)(43歳)
この年、兄光遠の次男井上勝之助(1861-1929)を養子とする。
7月29日 参議兼工務卿となる。
1879年(明治12年)(44歳)
2月19日 法制局長官兼任となる。
7月4日 米国前大統領グラント来訪 6日井上が招待 8月10日天皇と会見
9月10日 外務卿兼任となる。
9月15日 藤田伝三郎らが贋札製造の疑惑によって拘引され、10月16日東京に移送される。井上馨が贋金製造に関係しているように噂されるが、12月20日何ら証拠がなく藤田は無罪放免となる。明治15年、医師兼画家工から贋札と用紙及び印刷器具が押収され冤罪が晴れたのであるが、薩長の軋轢が反政府者の利用する所となっていた。
10月4日 外賓待遇礼式取調委員長となる。
1881年(明治14年)(46歳)
5月 小野田セメント株式会社を設立。井上は明治13年1月、創立者笠井順八に政府資金の借入出願手続き等を教示し、同社は設立に到った。
1883年(明治16年)(48歳)
2月23日 アーサー米国大統領は下関賠償金の日本への返還を決裁。米国公使ビンガムより賠償金を受領。
11月28日 鹿鳴館が竣工し1200名を招待して落成の祝宴を行う。(祝宴当日は井上馨の誕生日である。)翌年、専ら外国人との融和交際の為に会員制の東京倶楽部が設けられ、鹿鳴館をクラブハウスとした。
1885年(明治18年)(50歳)
12月22日 第一次伊藤内閣にて外務大臣。
1886年(明治19年)(51歳)
5月1日 各国公使と条約改正会議(第一回)を開催。
北海道開拓事業調査の為の出張
8月4日 北海道出張を内閣より依頼され、8月5日山縣内相と横浜を薩摩丸に乗船し出港。
- 北海道開拓は思うように進展せず、このままでは明治初年以来の開拓事業が無に帰するとの危惧から、井上に従来の施策の欠陥や産業不振の理由を明らかにするように懇請されたものであった。井上は出張に先立ち、自分の巡視結果報告での提案は必ず実行する事を条件に出張を了承している。両大臣の随員は外務秘書官鮫島武之助・書記官古澤滋・内務秘書官中山寛六郎・参事官末松謙澄・農商務省雇独人フェスカ・工務局次長大山綱昌(山梨・長野知事)・技術官高峯譲吉・渡辺渡ら、実業家では益田孝・大倉喜八郎・小室信夫(政治家1839-1898)・種田誠一・馬越恭平・左右田勤作ら、それに両大臣夫人、益田夫人、書家の長三州(文部大拯・明治の学制に貢献)、落語家三遊亭円朝、新聞社からは東京日日新聞の関直彦(29歳)であった。
- 大勢抱えていった出張ではあったが、いわゆる物見遊山の出張ではなく井上馨という人物の姿がよく表されているので、長くなるが関直彦記者の談話を載せる。
- 「成る程明治政府には偉い人が沢山ありましたけれども、殊にこの経済のこととそれから民間の事情に特に注意されて、詳しく調査されたのは井上侯以上の人はなかったろうと思うのです。北海道へ御供をして行った時に、それは実に普通の役人の地方出張と違って精励を極めたものです。旅行中にも、例えば休息をして昼の食事をするにしても、或いはその地方の有志などが出迎えをすると、先ず役人の話を聞くより地方の有志の話を良く聞かれたものです。また宿泊をしますと、直ちに随員の書記官を各方面に馳せて、種々なる民間の事情を調査させたのです。それから民家の人に会って話を聞くに実に要領を得ているものですから、殆ど一ヶ月の旅行の間に、つぶさに北海道の事情というものを探りえたのです。そのやり方には私は殆ど他の役人に見る事の出来ないことであると、敬服しておりました。」また、両大臣の視察振りについては、「山縣さんはちゃんと大臣風をしておって、余儀ない人でなければお会いにならない。井上さんと来たらば、いきなり浴衣でもって地方の人間を寄せて盛んに論議する。反問をする。これはどうだ、あれはどうだ。これはこうじゃないかという具合なので、陳情に来た者があべこべにやられているのを私は見ておりました。」と述べている。
- 「成る程明治政府には偉い人が沢山ありましたけれども、殊にこの経済のこととそれから民間の事情に特に注意されて、詳しく調査されたのは井上侯以上の人はなかったろうと思うのです。北海道へ御供をして行った時に、それは実に普通の役人の地方出張と違って精励を極めたものです。旅行中にも、例えば休息をして昼の食事をするにしても、或いはその地方の有志などが出迎えをすると、先ず役人の話を聞くより地方の有志の話を良く聞かれたものです。また宿泊をしますと、直ちに随員の書記官を各方面に馳せて、種々なる民間の事情を調査させたのです。それから民家の人に会って話を聞くに実に要領を得ているものですから、殆ど一ヶ月の旅行の間に、つぶさに北海道の事情というものを探りえたのです。そのやり方には私は殆ど他の役人に見る事の出来ないことであると、敬服しておりました。」また、両大臣の視察振りについては、「山縣さんはちゃんと大臣風をしておって、余儀ない人でなければお会いにならない。井上さんと来たらば、いきなり浴衣でもって地方の人間を寄せて盛んに論議する。反問をする。これはどうだ、あれはどうだ。これはこうじゃないかという具合なので、陳情に来た者があべこべにやられているのを私は見ておりました。」と述べている。
- この視察によって、例えば、それまで海産物類が物納で、しかも質の良い物から役人に持って行かれ、荷揚げや搬出作業も役人のチェックの後でなければ認められない等の障碍が無くなり、後の発展に寄与したと言う事である。
1887年(明治20年)(52歳)
7月19日 条約改正会議の無期延期を各国公使に通告。
9月16日 井上馨外務大臣辞任。
1888年(明治21年)(53歳)
- 2月1日 大隈重信外務大臣となり、井上に引き続いて懸案の条約改正に専念する。
4月22日 新島襄( -1890)はこの日、井上馨邸にて談話中に発病。同氏に乞われて同志社の大学設置の募金運動を開始。渋沢栄一は会計の取り纏め担当。明治23年1月23日新島の死に至るまで募金活動に協力した。
7月25日 井上馨農商務大臣となる。
10月5日 井上馨の発意により野村靖・渋沢栄一らと自治政研究会を組織。鹿鳴館で開会。
1890年(明治23年)(55歳)
11月3日 帝国ホテル落成開業。鹿鳴館との密接な関連を持たせたホテルとして井上が渋沢栄一と大倉喜八郎の両氏を説いて有限会社帝国ホテル会社を設立させ建設したものである。
1892年(明治25年)(57歳)
8月2日 第二次伊藤内閣にて内務大臣。
1893年(明治26年)(58歳)
3月18日 井上馨内務大臣官邸にいわゆる「曹洞宗内紛」の調停のために曹洞宗両本山を重職を招き、調停の労をとる。
1894年(明治27年)(59歳)
12月 鹿鳴館の廃止により東京倶楽部は移転の必要に迫られた。(?)そこで、再度井上馨はこれに熱意を傾け、麹町内幸町に敷地を宮内省の所有地の麹町三年町(現在の霞ヶ関3丁目4番地)に決め、明治44年にようやく竣工している。(?)1896年に東京倶楽部は土橋脇にいったん移転してるようですが?
12月27日 新田義貞の碑を相州稲村ヶ崎に建てる。
1900年(明治33年)(65歳)
この年、伊藤博文による立憲政友会の結成に協力する。
1901年(明治34年)(66歳)
この年、第百十銀行の破綻救済。
- 第百十銀行は防長2州の旧藩士が井上馨らの勧めで政府から下賜された金禄公債をもとに第百十国立銀行として明治11年営業開始したものである。13年11月株式会社百十銀行と改称。明治25年には開墾事業に投資したが失敗し、井上が救済を取り纏めている。その後も経営危機に至り、貸付先である炭鉱の7、8割が不良債権と判断された。井上馨は救済について、山縣、杉孫七郎らと井上馨の内山田邸でたびたび会合し、室田義文(ハルピンで伊藤博文が狙撃された折の随行員)を頭取にして、井上がサポートする事になった。室田は井上の指示に従って、日本・十五、三井・第一・鴻池の諸銀行と毛利家から融資を集めた。室田の補佐役として水谷耕平をあて、財務整理をしたが到底及ばなかった。その為、三井銀行の下関支店を百十銀行へ移行する事にした。三井銀行下関支店長はたまたま井上馨の甥(兄・光遠の三男)森祐三郎(1864-1950)であった。
1902年(明治35年)(67歳)
東本願寺借財整
1904年(明治37年)(69歳)
1月29日 対露戦争が不可避の様相となり、井上馨と松方正義は財界要人を三井集会所に召集して国債発行を相談。国内での国債の発行は成功であったが、戦費予算約19億円の大半を外債に頼らざるを得ず、日銀副総裁高橋是清を外債募集の担当にした。財政上の支援が無ければ戦争継続が不可能である事は井上馨には良く分かっていた。井上馨は日本海海戦の後、止戦講和を唱えている。
6月17日 第百三十銀行の経営危機を救う。
- 日露戦争前の臨戦体制の中で急速に経済が収縮する過程で、経営が行詰り休業となり、井上馨の救済を各方面から要請され再開業になった。大蔵省の保証の許に日本銀行の貸付を受けた。この時井上に要請した者とは、大阪府知事高崎親章、商業会議所会頭土居通夫、藤田伝三郎らである。(融資について政府は野党伊藤市太郎から議会で問題にされている。)
1905年(明治38年)(70歳)
3月11日 曹洞宗内紛の終結。
1909年(明治42年)(74歳)
その死
1915年(大正4)年9月1日 (81歳)
墓所は大本山永平寺別院
東京都港区西麻布2-21-34
山口市水の上洞春寺後山
功績と人柄
業績
- 長州藩と薩摩藩は天保時代に国情に応じた改革を実行することで藩の財政を改善し、幕末には雄藩と言われる程の力を得ていった。幕府だけでなく、各藩にとっても大きく方針の揺れ動いた時代であるが、方針すら決めかねる程の難題に、頭を痛めるだけで逡巡している立場、先鋭化した立場、個人に至るまで様々な情況に立たされていたが、藩自体の富国強兵策は各藩各層に共通した目標であった。雄藩にとっては若者に世界への目を開かせる為には比較的鷹揚に金を使わせた。薩摩藩に至っては19名以上もイギリスに留学した。
- 維新後については、制度を作りながら諸施策を進めていくと言った、行政の舵取りが必要であったが、明治初期に重職に就いた者の中で理財の才能を持った者は、井上馨がその筆頭に挙げられ、財政の建て直しに大変な努力をしている。長州藩は幕府転覆の最大の功労藩で権限も集中していたから、更に理財の才能のある者達が井上の周囲に集まって来ていたと考えられる。
- 外務大臣としての従事期間は長く、その間、条約改正に献身的な努力を注いでいた、その成果は次の大隈・青木・陸奥らに至って現れて来ていると考えられる。外交はその国民の代表との長い信頼関係の構築の結果として醸成されてくるものであるから、国内での影響力と同じ尺度で評価する事は適切ではない。井上は維新政府の財政面から国家運営を見ていた為に、諸外国との戦争は極力避けたいと願っていた事が窺い知れる。
人物
林学博士中村弥六によると「世話好き。一旦見込んだ人には身分や出身地の如何に関せず常に満身の誠意を傾注して世話をやいた。」直情径行で曖昧を許さない。必要な場所に自身で出かけて行き、膝詰談判をした。意にそまぬ事があると一喝にあう。この一喝にあってそれっきり寄り付かぬ者、敵になった者もあるが元来親切から出ているので、一喝にあっても怯まず、自ら偽らず自信のある者は後に出世した者が多い。
叱咤と怒声から『雷』とあだ名されたが、渋沢栄一は井上の信頼を得て雷鳴に対する安全地帯であったから渋沢は『避雷針』と異名を付けられていた。
徳富蘇峰の評では、「彼は官業反対論者なり。彼は徹頭徹尾民間が出来る業をお役人がやる事は非能率で民間の業を圧迫妨害するのみならず、自ら屋上屋を架し、、」と井上の合理主義者としての面に触れている。
明治維新から20年間について伊藤博文と井上馨の人物評を、大隈重信が次のように言っている。
- 「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった。
- 井上は道具立ては喧しくない。また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽくない。伊藤氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた。井上は功名心には淡白で名などにはあまり頓着せず、あまり表面に現れない。井上氏は伊藤氏よりも年長であり、また柄もずっと上格で、維新前は万事兄貴株で助け合ってきたらしい。元来が友情に厚く侠気に富んだ人であるから伊藤氏にでも頼まれると、割の悪い役回りにでも甘んじて一生懸命に働いた。井上氏がしばしば世間の悪評を招いた事に中にはそういう点で犠牲になっているような事も多い。」
仕事上で特に深く交際した人は、渋沢栄一、益田孝等はじめ多数
長寿であった為、縁者である若者鮎川義介(実姉常子の孫)や鮎川義介の義弟久原房之助(1869-1965)への指導もしている。
親友としては、吉富簡一(山口矢原の庄屋の生れ・初代山口県会議長・防長新聞創立、政友会を支援した。)高杉晋作と伊藤博文については特に仕事を離れても親しく交際していた事は言うまでもない。
仕事外での交際としては、歌舞伎俳優の市川団十郎(芝金杉で河原座を営業し失敗、借財の整理に協力した)、落語家の三遊亭円朝、清元のお葉、義太夫の竹本越後太夫らが挙げられる。--->