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ノート:井上勝

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外部リンク修正

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編集者の皆さんこんにちは、

井上勝」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月25日 (月) 02:07 (UTC)[返信]

疑問点

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2点あります。

(1)船で京都に向かったという記述に違和感があります。

用船は淀川を遡上できるほど喫水が浅かったのでしょうか。それとも兵庫に入港後、陸路、京都へ上がると示す内容でしょうか。

(2)一人称の「勝」で主題を指さず(初出は 2015-09-06T07:41:04(UTC)時点におけるIP利用者による版)、「井上」で言及すべきではないでしょうか。

野村家を継ぐため養子に行きますが、渡英後に生家に復縁して井上姓を名乗るとき、弥吉から勝に名をあらためています。「勝」で言及するよりも「井上」で十分ではないでしょうか。井上の兄弟もしくは同音で漢字の異なる人は登場しません。
--Omotecho会話) 2022年6月12日 (日) 16:20 (UTC) 下線部を追加、主題を指す「勝」の初出は 56754750 番。/--Omotecho会話2022年6月12日 (日) 15:55 (UTC)[返信]


ご提案

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(1)につきまして

当該記述は誤解によるものと考えます。大村益次郎研究家の山本栄一郎氏のブログによると、船長井上勝・測量方山尾庸三を載せた癸亥丸は長州藩が購入したもので、横浜から長州藩の三田尻港まで航行する予定でした。この際、京都にいた世子毛利元徳が帰藩するために乗船するという計画があり、上阪したとあります(結局世子は別の船庚申丸に乗りましたが)。京都から来る世子を乗せるとするなら、入港したのは大阪港だと考えられます。勝と山尾は世子を乗せずに三田尻港に着き、藩から英国渡航の許可を得た上で陸路で横浜に向かったそうです。「23日に兵庫港へ到着した」との記述については、正誤を確認できませんでした。--Gaoblu会話2024年1月19日 (金) 07:20 (UTC)[返信]
当該記述を修正いたしました。「佐藤貞次郎筆記」によりますと京都に向かったのは佐藤貞次郎で、3月下旬に兵庫港で下船し兵庫で3日過ごした後、大坂雑魚河岸の長州人の定宿に宿泊したそうです。その後4月上旬に京都祇園の「一力茶屋」にて周布政之助の接待を受けてます。--Gaoblu会話2024年1月29日 (月) 08:28 (UTC)[返信]

(2)につきまして

一緒に渡英した井上馨(聞多)と混同する可能性がありますので、「勝」のほうがよいかと思います。--Gaoblu会話2023年5月2日 (火) 06:19 (UTC)[返信]


投稿文章を変えずに、構成を編集しました。--Gaoblu会話2024年1月30日 (火) 10:03 (UTC)[返信]

著作ほか資料(ご参考)

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井上名義もしくは関連資料を国会図書館ほかの書誌データベースより転記します。一部、記事ページと重複あり。内容は閲覧しておりませんので、ご参考まで。

著述
  • 井上勝(鉄道局長)『米原・敦賀間鉄道建築費年度割報告書 : 大隈・山田両参議宛』(1880年)デジタル図書、和装、明治13年4月24日。インターネット公開、早稲田大学図書館 : 古典籍総合データベース。
  • 『帝国鉄道協会会報』(帝国鉄道協会、1899年-)全国書誌番号:00015605。個人送信サービス対応、図書館送信で閲覧可能、遠隔複写可。
  • 戸水万頃(汪)「第二十四 井上勝君」『台湾みやげ』2版(明治印刷、明治38年)<特20-485>。73-77頁。国立国会図書館、マイクロデジタル図書。
    • 改版改題。戸水汪「台湾みやげ:井上勝君」『万頃文集』(九如山房、昭和3年)65-68頁。doi:10.11501/1192138
  • 村井正利『日本帝国鉄道創業談:帝国鉄道協会会員氏名録 : 明治44年11月現在』帝国鉄道協会 編(龍溪書舎、1997年)復刻版。
  • 『明治後期産業発達史資料第345巻』(竜渓書舎〈鉱工業一班篇 4〉、1997年)、<DC51-E6>。デジタル図書、全国書誌番号:97054504。閲覧は国立国会図書館内限定公開(2023年–)、デジタル化資料送信対象外(図書館・個人とも)、国会図書館に申請して遠隔複写可。
    • 『日本帝国鉄道創業談』〔井上勝 述〕村井正利
    • 井上勝 述『日本帝国鉄道創業談』帝国鉄道協会 編
    • 村井正利『帝国鉄道協会会員氏名録:明44年11月現在』。
伝記、自叙伝
  • 井上勝 述、村井正利 著『日本帝國鐵道創業談』村井正利(私家版、1907年)。NCID BA52561117。明治39年3月中旬、井上勝が口述して村井が筆記。井上勝の肖像あり。 並列タイトル『日本帝国鉄道創業談』。
  • 村井正利 編輯『子爵井上勝君小伝』(東京:井上子爵銅像建設同志会、1915年)OCLC 33648212。小冊子、非売品。井上勝の肖像あり。
    • 野田正穂 ほか 編「工学博士長谷川謹介伝、子爵井上勝君小伝、中上川彦次郎君、雙軒松本重太郎翁伝、工学博士藤岡市助君伝」『明治期鉄道史資料』(日本経済評論社、1980年-)NCID BN0213628XCRID 1130282273084068096。複製、井上勝ほかの肖像あり。
  • 「井上勝」『新三菱重工技報』第2巻第1号(通号3)(新三菱重工業株式会社、1960年2月)。1959年-1961年(東京:新三菱重工技術部刊)を合本、国立国会図書館収載、マイクロ資料。
  • 上田 広『井上勝伝』(交通日本社、1956年)NCID BA54381397
    • 附「井上勝年譜」193-199頁。肖像あり。再版(井上勝銅像を再建する会、1959年)、改定復刻(別題『鉄道事始め : 井上勝伝』井上勝伝復刻委員会、1993年)。
展覧会図録
  • 『井上勝と鉄道黎明期の人々 : 鉄道博物館第3回コレクション展』鉄道博物館学芸部 編(鉄道博物館、2010年)。

--Omotecho会話2024年1月31日 (水) 03:23 (UTC)[返信]

検索用語

用語の「井上勝……」は勝五郎(宗秩寮総裁)ほか、やはり記録の多い人物も検出します。そこで、表記揺れと肩書を指定して検索結果の精度を調整[※ 1]。それでも式部官「井上勝之助」ほかと弁別できませんでした。

職歴の順に、当時の肩書と思われるものを抜き書きします。

  • 国税系、大蔵系
    • 井上造幣頭
  • 工学系
    • 井上工部大輔
    • 井上工部技監
    • 井上鉱山頭
  • 鉄道系
    • 井上鉄道庁長官
    • 井上鉄道局長官
    • 井上鉄道局長
    • 井上鉄道頭
    • 井上銕道局長


「鉄道国有論」

国立国会図書館のデータベースより。

  • 目次」新聞集成明治編年史編纂会 編『新聞集成明治編年史』第13巻(林泉社、1940年・昭和15年)<210.6-Si461-S>。国立国会図書館デジタルコレクションDLJP|1920436}}、インターネット公開。
    • 「三・二(東朝) 鉄道国有問題閣議決定-首相、政友会及財界有力者を招待鉄道五千哩祝賀会挙行」94頁(51コマ目:0051.jp2)
    • 「鉄道国有法公布—まず17鉄道買収 69頁」
  • 『』日本科学史学会 編(第一法規出版〈日本科学技術史大系 第16巻(土木技術)〉、1970年)<402.1-N685-N>、
  • 『』国立国会図書館参考書誌部 編(国立国会図書館〈井上馨関係文書目録(憲政資料目録)第10〉、1975年)<GB5-43>。
  • 老川慶喜『鉄道』(東京堂出版〈日本史小百科 ; 近代〉、1996.9)<DK53-G42>。
  • 『実業の日本』(実業之日本社1897-2000)<Z3-511>
  • 老川慶喜『近代日本の鉄道構想』(日本経済評論社〈近代日本の社会と交通 ; 第3巻〉、2008.6)<DK81-J3>。
    • 「第2章 企業勃興期の鉄道構想 §第4節 井上勝の鉄道網構想」72頁-
    • 「第3章 鉄道敷設法の制定と鉄道構想 §第1節 井上勝『鉄道政略に関スル議』の鉄道構想」85-88頁
    • 「第4章 地域経済界と鉄道敷設構想」
    • 「第5章 『東京経済雑誌』の鉄道構想」
    • 「第6章 鉄道国有論に抗して」
    • 人物名(近現代日本政治関係人物文献目録)犬養毅(1855-1932)井上勝(1843-1910) 田口卯吉(1855-1905)
  • 「_ 特定中 ___」『中央公論』(中央公論新社、1899-)<Z23-9>
JACAR(アジア歴史資料センター)の資料、pdf画像をインターネット公開。資料(1)–(8)の収蔵施設は防衛省防衛研究所。
  • (1)井上鉄道頭 → 海軍大輔「乙第3号大日記 鉄道寮より通知 鉄道開業式雨天に付臨幸御延引の件[※ 2]」『本省公文 礼典部止』〈公文類纂 明治5年 第4巻〉、1873年(明治5年)9月8日。海軍省公文備考(10)。C09110095500。
  • (2)井上鉄道頭 → 勝海軍大輔、川村海軍少輔「乙第3号大日記 鉄道局依頼 御雇教師ホース[※ 3]へ依頼の儀に付ステーションへ出頭の件」『本省公文 黜陟部(ちゅっちょくぶ)9止』〈公文類纂 明治5年 第13巻〉、1873年(明治5年)9月8日。海軍省公文備考(10)。C09110342400。
  • (3)児島益謙(陸軍卿官房長)→ 内閣書記官(参謀本部副官茨木惟昭)、山県有朋(工部卿)「参日第128号[※ 4]」『太政官陸軍省来牘(らいとく) 参日自1号至410号』〈参謀本部大日記〉、1885年(明治18年1月-12月)、C07081165200。書簡の記録。1885年(明治17年10月22日年1月-~同18年3月31日)。C07081165200。陸軍省。
  • (4)井上鉄道局長官 → 海軍大臣秘書官(長田清蔵)、児嶋益謙(陸軍省総務局次長)「車馬 418丁[※ 5]」『公文備考 明治20年 物件第8巻』1888年(明治20年)10月4日。海軍省、公文備考(10)。C06090815700。
  • (5)井上勝(鉄道庁長官子爵)→ 樺山資紀(海軍大臣子爵)「24年7月9日 三津高浜間鉄路敷設の件[※ 6]」『参謀本部大日記』〈公文雑輯 明治24年 第13巻〉、海軍省土地営造部、1890年(明治22年5月16日-同24年7月9日)。C07081854100。
  • (6)参謀本部副官部「参地第298号第1[※ 7]」『参謀本部大日記 明治25年1月-12月』〈公文雑輯 明治24年 第13巻〉、陸軍省、1893年(明治25年)1月14日。C13110382400。
  • (7)中村(築城団長[※ 8])、井上(鉄道大隊長)、石井(建築部本部長)[※ 9]愛三(築城団長「第2編・第5章/第3節 満洲に於ける建築
  • (8)[※ 10]」『明治37-38年戦役 給養史草按 第2編』1905年(明治37年)9月21日-同年10月8日、陸軍省、C13110382400。
  • (8)山縣有朋(兵站総監侯爵)、中岡黙(陸軍省人事局長)「7月3日 兵站総監より陸軍工兵大尉滝本秀見他2名抜擢名簿抜擢漏となりたる理由電報添進達等[※ 11]」『大本営大日記 明治38年7月-8月』〈大日記 共6冊 副臨人号 第793号-1005号〉、1906年(明治38年)6月22日-同年7月13日、陸軍省、C09122150000。



  1. ^ 井上勝”. www.jacar.archives.go.jp. アジア歴史資料センター. 国立公文書館. 2024年2月1日閲覧。
  2. ^ 引用: 〔乙第七百二十三号 此天気合ニ付明九日 幸臨開業式御延引之御詮議モ有之哉ニ付未其御沙汰ハ不被 仰出候得共御都合モ有之ヘク不取敢御内々申進候也 壬申九月八日 井上鉄道頭 勝海軍大輔殿 九月八日四字半発 午後第六字到着〕
  3. ^ アルバート・ホーズは海軍省お雇い教師、イギリス軍人(Albert G. S. Hawes)。以下は引用: 〔乙第七百二十二号 御省御雇外国人ホース氏相頼度筋有之候間格別御用差支無之候ハヽ今八日十二字後成丈ケ早々新橋ステーション江罷出候様致度此段御依頼旁申進候也 壬申九月八日 井上鉄道頭 勝海軍大輔殿 川村海軍少輔殿〕
  4. ^ 引用: 参日第一二八号 送乙第一四七九号 別紙一第一一七五号之通内閣書記官ヨリ通牒@之@条此段及御通牒@也 明治十八年三月三十一日 陸軍卿官房長児島益謙 参謀本部副官茨木惟昭殿 一第一一七五号 別紙工部省伺中山銕道@築著手等井上銕道@長ヨリ意見具状之儀朱書之通御指令相成@条此旨及御通牒@也 明治十八年三月二十八日 内閣書記官 陸軍佐官御中 第百十号 中山@銕道@築著手@他之儀井上銕道@長ヨリ意見具状ニ付伺 中山道銕道@予工事之義ニ付@既ニ御決定相成迫ニ準備計画之義@ニ@処今般井上銕道局長ヨリ@崎ト同時@越@@江津ヨリ布@及ヒ@江津@修築等之儀別紙之通意見書@出@ニ付@ト査閲@処@云フ所一ニ旨@ニ中リ更
  5. ^ 引用: 〔車馬 是迄乗車切符送進致来候処其@リシ者 御役柄故何レモ心得居切符之検査等右致已 ニ不用ニ属シ候次第ニモ有之且以来乗車切符御 携帯無之共不都合之取扱無之様一層注意 可致旨其@リ御申達置候間乗車切符ハ別ニ 御入用無之事ト致ニ付本年ヨリ送付不致@此段 為念申上候也 二十年一月六日 井上鉄道局長官 西郷海軍大臣殿 案 乗馬飼養令ニ依リ飼養スル馬匹調査ノ義ニ付別 紙乃通陸軍省総務局ヨリ照会越候ニ付此段及御 通知候也 二十年九月三十日 大臣秘書官 海軍教授 長田清蔵 海軍省送達 送甲第一三五〇号 乗馬飼養令ニ依リ飼養候馬匹ハ本令第二条 ニ基キ出師準備之為メ予メ調査致置度 候間来ル十月十三日ヨリ々十五日迄ノ内〕
  6. ^ 引用: 〔二十四年七月八日 三津高浜間鉄路敷設ノ件鉄第三八〇号照会ノ趣了承右ハ当省ニ於テ与存候之御旨回答候也 明治二十四年七月九日 海軍大臣 官房第一六一三号 鉄道庁長官宛 追テ@歩図面二葉及返却候也 第三八七号 伊予銕過(ママ)会社々長小林信近ヨリ別紙図面来@ノ通延線ノ儀出願致候条貴省御意見ノ有候至急不知致度二十二年十二月訓令第四十一号ニ遵ヒ此段及御協議候也 二十四年七月四日 鉄道庁長官子爵井上勝 海軍大臣子爵樺山資紀殿 追テ@残図面ハ御回答ノ節御返却有之度此段申条候也 回答之要領此儘参考トシテ保存エルコト大治ノ而捧押アリ 銕第一八〇号ニ対スル意見 銕第一八〇号ヲ以テ井上銕道局長官ヨリノ内議ヲ案スルニ内地ヲ横断シ看鶴港ニ〕
  7. ^ 引用: 〔参謀本部 参地第二九八号第一 @十三日@社@@雑報中井上銕道庁長官ト銕道会議ノ票題来文川上中@@ハ事実相達@廉有之@ニ隼明十五日ノ紙上ニ於テ@来頂@@@相成度@也 明治二十五年十一月十四日 参謀本部 副官部 日@社 御中〕
  8. ^ 築城団長とは中村愛三のことか。[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E6%9D%91%20%E6%84%9B%E4%B8%89-1651235#goog_rewarded 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)、『コトバンク』2024-02-01閲覧。引用: 〔中村 愛三(読みナカムラ アイゾウ)は、日露戦争で第1臨時築城団長〕。
  9. ^ 1905年(明治37年)の建築部の石井本部長とは石井要か。菅野 直樹「日露戦争時の戦地陸軍建築部 〈要旨〉はじめに」によると、石井要は〔1904年2月27日時点で三等主計正(明治37年)、所属は後備陸軍の臨時建築事務所。〕『防衛研究所紀要』第20巻第2号、2018年3月、35頁。国立国会図書館デジタルライブラリー収載。
  10. ^ 引用: 〔其ノ四 鴨緑江ニ於ケル鹵獲並押収木材 第一、軍ハ鴨緑江河孟ノ戦闘ニ於テ龍巌浦及東県ニテ夥多ノ木材ヲ押収セリ其ノ中当然鹵獲スヘキモノト民有ニ属スルモノト混淆セルニ由リ之ヲ区分スル為左岸即チ韓国地域ニ在ルモノハ韓国駐箚軍ニ於テ右岸即チ清国地域ニ在ルモノハ第一軍兵站監部ニ於テ之カ調査ニ着手シタリ 鴨緑江ニ在リシ木材ハ将来満洲ニ於ケル建築用材ニ必要ナリシニ由リ明治三十七年五月四日兵站総監ハ韓国駐箚軍並第一軍兵站監部ニ向ツテ鴨緑江ノ木材ハ総テ在龍巌浦臨時建築所建築員石井主計正ニ交付スヘキ旨命令シ同時ニ野戦経理長官ハ該木材ノ保管及製材ニ関シ石井主計正ニ左ノ電報命令ヲ興ヘタリ (一)鴨緑江沿岸ニ於ケル押収木材ヲ第一軍兵站監部ヨリ交付セハ之ヲ受領シ保管スヘシ〕
  11. ^ 引用: 〔大本営陸 副臨人第七九八号第三 七月十三日 総長ヨリ陸軍大臣ヘ 左記人名当部ヨリノ抜擢席列ヘ追加相成官及移牒候也 追手抜擢予備ノ理由ハ別紙電報写ノ通平氏尚井上六旨モ抜擢決定ノ御尚紙相成候添ヘ 工兵大尉堀田正一ノ上ニ 停年四年二十日(三十七年十二月一日調)陸軍工兵大尉滝本秀見 同 二年十七日(同上)同 藤田省三 同 二年十七日(同上)同 中村正一 右三名 電報 七月九日午後五時二十間安東鉄道同六時四十日間 大島参謀長宛 井上鉄道大隊長 答滝本ハ去ル十月二十三日病気後送十一月七日附臨鉄人一〇号ニテ命課替禀申シ置キシニ付最早我職権内ニナキモノト認メシニヨル 藤田ヘ中村ハ当時尚早シト認メ十二月二十二日ノ貴電報ニ対シテハ今ハナシト答ヘ置キシモ〕